第15章 夜の見張り
第15章 夜の見張り
午前一時。
桜ヶ丘苑の廊下は、昼とはまったく別の顔をしていた。
非常灯だけが、等間隔に、淡い緑色の光を落とし、
壁の影は、妙に長く伸びている。
遠くで、誰かの咳。
ナースステーションでは、夜勤の看護師が、眠気をこらえながら記録を打っている。
そして――
廊下の突き当たり、倉庫の陰。
女刑事は、折り畳み椅子に腰を下ろし、
暗闇に溶けるように、じっと、北尾憲治の個室の扉を見つめていた。
私服。
名札も、身分証も、外してある。
施設長には、
「念のための見回りです」
そう言って、鍵だけ借りた。
今夜、ここで、何も起きなければ、
自分の勘が、完全に外れたということになる。
だが――
胸の奥の違和感は、
一向に、消えなかった。
*
午前一時二十分。
廊下に、足音。
夜勤の介護士が、巡回に来て、
北尾の部屋の前で、立ち止まる。
扉を少し開け、懐中電灯を差し込む。
ベッドの上。
憲治は、いつものように、
口を半開きにして、眠っている。
呼吸も、規則正しい。
介護士は、小さくうなずき、扉を閉めて去った。
女刑事は、動かない。
さらに、十分。
二十分。
廊下は、完全に静まり返る。
*
午前二時、少し前。
そのとき。
――カタン。
ごく、小さな音。
金属が、どこかに触れたような、かすかな響き。
女刑事の指が、反射的に、太ももで止まる。
視線を、ゆっくり、扉へ。
北尾の個室の、内側。
ベッドの影が、
ほんのわずか、揺れた。
次の瞬間。
シーツの端から、
“何か”が、床に、そっと、降りた。
指。
白く、痩せた、人の指。
それが、床を探るように、動く。
女刑事の喉が、無意識に、鳴った。
(……起きてる……?)
さらに、腕。
肩。
ゆっくりと、
「寝たきり」のはずの身体が、
ベッドの縁から、起き上がっていく。
憲治は、音を立てず、座った。
背中は、少し丸いが、
首は、しっかり、立っている。
目。
完全に、開いている。
濁りも、焦点のズレもない。
まっすぐ、
自分の足元を、見ていた。
女刑事は、息を、止めた。
(……歩ける……?)
憲治は、ベッドの脇に置いた、車椅子に、手を伸ばす。
だが、乗らない。
代わりに――
床に、ゆっくり、足を下ろした。
一歩。
二歩。
わずかに、引きずるが、
確実に、立っている。
彼は、壁伝いに、部屋の隅へ行き、
カーテンの裏に、手を入れた。
――コツ。
小さな音。
何かを、外した。
戻ってきて、
それを、枕の下に、隠す。
女刑事は、歯を食いしばった。
(……やっぱり……)
完全な、演技。
しかも、
この施設全体を、
何ヶ月、何年、騙してきたのか。
*
そのとき。
廊下の向こうで、
ナースステーションのドアが、開く音。
夜勤の看護師が、トイレに向かって、歩いてくる。
憲治の身体が、一瞬で、止まった。
次の瞬間。
まるで、糸を切られた人形のように、
その場に、崩れ落ちる。
這うように、ベッドへ戻り、
シーツを引き上げ、
顔を歪め、
口を開け、
舌を垂らす。
ほんの、十秒。
看護師が、通り過ぎるころには、
完全に、
「いつもの北尾」に戻っていた。
女刑事は、椅子の背に、深く、身体を預けた。
背中が、びっしょり、濡れている。
疑いではない。
確信。
*
午前三時過ぎ。
廊下が、再び、静まったころ。
憲治は、また、ゆっくり、起き上がった。
今度は、迷いがない。
枕の下から、さきほどの物を取り出す。
小さな、精密ドライバー。
施設の非常灯のカバーを、
昼間、少しずつ、緩めておいたもの。
今夜、外して、
“落下事故”に、仕立てる予定だった。
だが――
ふと、動きを、止める。
視線が、
廊下の暗がりに、向いた。
女刑事のいる、倉庫の影。
直接、見えているはずは、ない。
それでも。
彼は、はっきりと、
「誰かが、そこにいる」と、悟った。
数秒。
動かない。
そして、ゆっくり、口の端が、上がった。
音を立てず、喉だけで、笑う。
(……見ているな……)
いい。
むしろ、好都合だ。
彼は、ドライバーを、そっと、元の場所に戻し、
何事もなかったように、
再び、ベッドに横たわった。
*
夜明け前。
女刑事は、施設を出た。
顔は、蒼白。
だが、目だけは、異様に、冴えている。
車の中で、携帯を取り出し、
上司に、短く、告げた。
「……動けます……」
「……あの老人……完全に、シロじゃありません……」
「……証拠、必ず、取ります……」
*
一方。
憲治は、天井を見つめながら、
ゆっくりと、考えていた。
(……刑事……本気だな……)
想定より、早い。
だが――
まだ、問題はない。
疑いだけでは、
人は、捕まえられない。
証拠は、
すべて、外に残す。
自分の手は、
いつも、
「何もしていない」ままだ。
彼は、心の中で、次の名を、呼んだ。
――看護師長。
組織の「首」。
ここを、落とせば、
全部、崩れる。
朝の光が、カーテンの隙間から、差し込む。
新しい一日が、
静かに、始まっていた。
だが、もう――
誰も、元の場所には、戻れない。
――続く。




