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沈黙の檻  作者: キロヒカ.オツマ―


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第14章 火の匂い

北尾家の家は、まだ、乾ききっていなかった。


床下の断熱材は水を含んだまま、

壁紙は波打ち、

畳は、わずかに、黴の匂いを放っている。


業者の見積書は、

娘の病室のサイドテーブルに、無造作に置かれていた。


修繕費――三百八十万円。


保険が下りるかどうかは、

まだ、わからない。


「……どうするの……」


娘は、天井を見つめたまま、呟いた。


婿は、ベッドの柵を、震える手で掴む。


「……ローン……まだ……二十年……」


仕事は、復帰できる見込みがない。


会社からは、

「配置転換か、退職か」

そう、遠回しに告げられていた。


家。

仕事。

体。


三つが、同時に、壊れかけていた。



その夜。


北尾家の近所で、

再び、異変が起きた。


午後十一時。


通りの向こうから、

焦げたような匂いが、流れてきた。


「……煙……?」


隣家の主婦が、窓を開け、声を上げる。


北尾家の勝手口付近から、

細い、白い煙が、立ちのぼっていた。


慌てて、通報。


消防車が到着したとき、

火は、すでに、ほとんど消えていた。


燃えたのは、

勝手口の木枠と、

ゴミ袋の山、少しだけ。


だが――


灰の中から、

ライターの残骸と、

新聞紙の切れ端が、見つかった。


明らかな、放火未遂。



女刑事は、深夜の現場で、立ち尽くしていた。


二度目。


水。

今度は、火。


しかも、家族全員が、動けない状態。


偶然では、説明できない。


「……誰が……何のために……」


彼女の視線は、

無意識のうちに、家の奥の、仏壇に向かった。


遺影は、まだ、ない。


だが、

ここには、

「生きているのに、いない人」が、いる。


施設にいる、老人。


「……あの人……」


理屈では、否定できる。


だが、

直感だけが、しつこく、彼女を追い立てる。



翌日。


桜ヶ丘苑。


朝の申し送りで、

施設長は、珍しく、硬い声で言った。


「……北尾家で……また、事件がありました……」

「……放火未遂です……」


職員たちの間に、ざわめきが走る。


「あの家……呪われてる……」

「……やっぱり、施設と関係……」


憲治は、車椅子の上で、

口を半開きにしたまま、

ぼんやりと、窓を見ていた。


空は、よく晴れている。


火の気配など、どこにもない。


(……浅かったか)


完全に燃やすつもりは、なかった。


あれは、

「予告」だ。


家が、

いつでも、消える場所だと、

教えるための。



昼過ぎ。


女刑事が、ついに、

正式な許可を取って、

憲治の面談に来た。


今度は、個室。


ドアを閉め、

テーブル越しに、向かい合う。


「……北尾さん……」


ゆっくり、カルテを置く。


「……ご自宅で、火事がありました……」


反応は、ない。


「……ご家族が……大変、困っています……」


憲治は、よだれを垂らし、

意味のない音を、喉から漏らす。


女刑事は、じっと、彼の目を見つめた。


濁っている。

焦点が合わない。


だが――


その奥の、さらに奥に、

「見ているもの」が、ある気がしてならない。


「……転倒事故のあと……一時的に……意識が、はっきりした……」


ぽつりと、そう言った瞬間。


憲治のまぶたが、

ほんの一瞬だけ、強く、閉じられた。


それだけ。


たった、それだけ。


だが――

女刑事の背筋に、冷たいものが走る。


(……今……反応した……?)


「……北尾さん……」


もう一度、名前を呼ぶ。


返事は、ない。


だが、

シーツの端を掴む、

その指先だけが、

微かに、力を帯びていた。



面談後。


女刑事は、施設長に、低い声で告げた。


「……この方……夜間……完全に、見守りされていますか……?」


施設長は、戸惑った顔で答える。


「……巡回は……二時間おきで……」

「……個室ですし……動ける状態では……」


女刑事は、頷きながら、心の中で、決めていた。


――夜を、見る。


誰にも、知らせず。


この老人が、

「本当に、何もできない存在なのか」

それを、確かめる。



その夜。


憲治は、久しぶりに、

はっきりと、目を開いた。


誰も、見ていない。


ナースステーションの灯りは、遠い。


彼は、ゆっくりと、首を動かし、

ベッドの脇の、隠した場所から、

小さな紙片を、指で引き出した。


――火、成功(予告)。

――刑事、接近。

――夜、注意。


小さく、息を吐く。


(……いい……)


疑われるのは、構わない。


だが、

「証明」されなければ、意味がない。


彼の復讐は、

殺すことではない。


壊すこと。


家。

金。

関係。

信用。


最後に、

自分が、

「正気だった」と、

誰にも、証明されないまま――


すべてを、燃え残らせる。


廊下の奥で、

誰かの足音が、止まった。


女刑事が、

静かに、影の中から、

この部屋を、見ていたことを、

彼は、まだ、知らない。


――続く。

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