第14章 火の匂い
北尾家の家は、まだ、乾ききっていなかった。
床下の断熱材は水を含んだまま、
壁紙は波打ち、
畳は、わずかに、黴の匂いを放っている。
業者の見積書は、
娘の病室のサイドテーブルに、無造作に置かれていた。
修繕費――三百八十万円。
保険が下りるかどうかは、
まだ、わからない。
「……どうするの……」
娘は、天井を見つめたまま、呟いた。
婿は、ベッドの柵を、震える手で掴む。
「……ローン……まだ……二十年……」
仕事は、復帰できる見込みがない。
会社からは、
「配置転換か、退職か」
そう、遠回しに告げられていた。
家。
仕事。
体。
三つが、同時に、壊れかけていた。
*
その夜。
北尾家の近所で、
再び、異変が起きた。
午後十一時。
通りの向こうから、
焦げたような匂いが、流れてきた。
「……煙……?」
隣家の主婦が、窓を開け、声を上げる。
北尾家の勝手口付近から、
細い、白い煙が、立ちのぼっていた。
慌てて、通報。
消防車が到着したとき、
火は、すでに、ほとんど消えていた。
燃えたのは、
勝手口の木枠と、
ゴミ袋の山、少しだけ。
だが――
灰の中から、
ライターの残骸と、
新聞紙の切れ端が、見つかった。
明らかな、放火未遂。
*
女刑事は、深夜の現場で、立ち尽くしていた。
二度目。
水。
今度は、火。
しかも、家族全員が、動けない状態。
偶然では、説明できない。
「……誰が……何のために……」
彼女の視線は、
無意識のうちに、家の奥の、仏壇に向かった。
遺影は、まだ、ない。
だが、
ここには、
「生きているのに、いない人」が、いる。
施設にいる、老人。
「……あの人……」
理屈では、否定できる。
だが、
直感だけが、しつこく、彼女を追い立てる。
*
翌日。
桜ヶ丘苑。
朝の申し送りで、
施設長は、珍しく、硬い声で言った。
「……北尾家で……また、事件がありました……」
「……放火未遂です……」
職員たちの間に、ざわめきが走る。
「あの家……呪われてる……」
「……やっぱり、施設と関係……」
憲治は、車椅子の上で、
口を半開きにしたまま、
ぼんやりと、窓を見ていた。
空は、よく晴れている。
火の気配など、どこにもない。
(……浅かったか)
完全に燃やすつもりは、なかった。
あれは、
「予告」だ。
家が、
いつでも、消える場所だと、
教えるための。
*
昼過ぎ。
女刑事が、ついに、
正式な許可を取って、
憲治の面談に来た。
今度は、個室。
ドアを閉め、
テーブル越しに、向かい合う。
「……北尾さん……」
ゆっくり、カルテを置く。
「……ご自宅で、火事がありました……」
反応は、ない。
「……ご家族が……大変、困っています……」
憲治は、よだれを垂らし、
意味のない音を、喉から漏らす。
女刑事は、じっと、彼の目を見つめた。
濁っている。
焦点が合わない。
だが――
その奥の、さらに奥に、
「見ているもの」が、ある気がしてならない。
「……転倒事故のあと……一時的に……意識が、はっきりした……」
ぽつりと、そう言った瞬間。
憲治のまぶたが、
ほんの一瞬だけ、強く、閉じられた。
それだけ。
たった、それだけ。
だが――
女刑事の背筋に、冷たいものが走る。
(……今……反応した……?)
「……北尾さん……」
もう一度、名前を呼ぶ。
返事は、ない。
だが、
シーツの端を掴む、
その指先だけが、
微かに、力を帯びていた。
*
面談後。
女刑事は、施設長に、低い声で告げた。
「……この方……夜間……完全に、見守りされていますか……?」
施設長は、戸惑った顔で答える。
「……巡回は……二時間おきで……」
「……個室ですし……動ける状態では……」
女刑事は、頷きながら、心の中で、決めていた。
――夜を、見る。
誰にも、知らせず。
この老人が、
「本当に、何もできない存在なのか」
それを、確かめる。
*
その夜。
憲治は、久しぶりに、
はっきりと、目を開いた。
誰も、見ていない。
ナースステーションの灯りは、遠い。
彼は、ゆっくりと、首を動かし、
ベッドの脇の、隠した場所から、
小さな紙片を、指で引き出した。
――火、成功(予告)。
――刑事、接近。
――夜、注意。
小さく、息を吐く。
(……いい……)
疑われるのは、構わない。
だが、
「証明」されなければ、意味がない。
彼の復讐は、
殺すことではない。
壊すこと。
家。
金。
関係。
信用。
最後に、
自分が、
「正気だった」と、
誰にも、証明されないまま――
すべてを、燃え残らせる。
廊下の奥で、
誰かの足音が、止まった。
女刑事が、
静かに、影の中から、
この部屋を、見ていたことを、
彼は、まだ、知らない。
――続く。




