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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第13章 家に起きた異変

北尾家の「家」は、築二十五年の二階建てだった。


郊外の分譲地。

駅からバスで十五分。

決して立派ではないが、

「普通の家族」が、「普通の人生」を送るために、

無理をして組んだ住宅ローンの象徴だった。


その家に、最初の異変が起きたのは、

梅雨に入る直前の、蒸し暑い夜だった。



深夜二時過ぎ。


近所の住民が、異音に気づいた。


「……ジャー……ジャー……」


水の流れる音。


最初は、雨だと思った。


だが、音は止まらない。


窓を開けて覗くと、

北尾家の玄関から、

細い水の筋が、道路へ流れ出していた。


慌てて、インターホンを鳴らす。


返事は、ない。


鍵は、内側から閉まっている。


消防を呼び、

窓を割って中に入ると――


一階は、すでに、浅く水に浸かっていた。


洗面所の配管が、外れている。


だが、不自然だった。


老朽化で割れたのではない。


金具が、きれいに、緩められていたのだ。



翌朝。


娘は、病院のベッドの上で、その連絡を受けた。


「……家が、水浸し……?」


声が、震える。


まだ、歩行訓練も始まっていない。


婿は、片腕と片脚に麻痺を残し、

リハビリ病棟に移ったばかりだった。


「……そんな……誰が……」


保険会社の担当者は、淡々と説明した。


「自然破損か、故意かで、対応が変わります」

「現在、警察にも連絡しています」


警察。


その言葉だけで、

娘の顔から、血の気が引いた。



桜ヶ丘苑。


昼の食堂で、職員たちが、小声で噂していた。


「……北尾さんの家、水浸しだって……」

「……事故続きじゃない……?」

「……やっぱり、何か、あるよね……」


憲治は、テーブルの端で、

スプーンを、だらしなく落とした。


ガチャン。


職員が慌てて拾う。


「ごめんなさいね……」


その手が、わずかに、震えていた。


誰も、気づかない。


その瞬間、

憲治の指先が、ほんの一ミリだけ、

意図的に、力を抜いたことを。



午後。


女刑事が、今度は、家の現場を見に来ていた。


床下。

配管。

工具の痕。


「……事故じゃないわね……」


完全な破壊ではない。


水が、じわじわ広がり、

床と壁と、家財を、確実に、腐らせる構造。


しかも、

元栓は、きちんと、開いたまま。


「……内部の人間……?」


だが、

家族は、全員、入院中か、施設入所中。


鍵は、壊されていない。


侵入の痕跡も、ない。


ありえない。


それでも――

彼女の頭に、ひとつの顔が、浮かぶ。


白い天井を見つめる、

ぼんやりした、老人の目。


「……まさか……」


すぐに、その考えを、振り払った。


理屈に、合わない。


動けない。


話せない。


判断できない。


重度の認知症。



夕方。


施設長のもとに、警察から、一本の電話が入った。


「……北尾さんのご自宅……不審な破損で……」

「……念のため、ご本人の最近の様子を、教えていただけますか……」


施設長は、慎重に答えた。


「……徘徊もなく……意思疎通も、ほぼ不可能で……」

「……危険行為などは……一切……」


電話を切ったあと、

しばらく、机に手をついたまま、動かなかった。


なぜか、

胸の奥が、重く、ざわついていた。



夜。


憲治は、ベッドの中で、静かに、耳を澄ませていた。


廊下を歩く足音。

ナースコールの電子音。

遠くのテレビの笑い声。


すべて、いつも通り。


誰も、疑っていない。


誰も、止めていない。


彼は、シーツの裏に、また、書き足す。


――家、水害。

――保険調査、開始。

――刑事、現場確認。


そして、最後に、細く、小さく。


――次は、「火」。


家は、

「帰る場所」だ。


それを、

水で腐らせ、

次は、火で、消す。


帰る場所を失った人間は、

必ず、

誰かを、恨む。


その「誰か」が、

最後に、自分に向くように。



翌日。


女刑事は、再び、施設を訪れた。


今度は、憲治のカルテを、正式に、閲覧するためだった。


診断。

経過。

事故の記録。


そして、

転倒後の、奇妙な回復の兆し――


書きかけで、消された、医師のメモ。


「……一過性の意識清明……?」


彼女は、そこに、赤ペンで、丸をつけた。


ようやく。


ほんの、わずかだが。


霧の向こうに、

「人の形」が、見え始めていた。


――続く。

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