第13章 家に起きた異変
北尾家の「家」は、築二十五年の二階建てだった。
郊外の分譲地。
駅からバスで十五分。
決して立派ではないが、
「普通の家族」が、「普通の人生」を送るために、
無理をして組んだ住宅ローンの象徴だった。
その家に、最初の異変が起きたのは、
梅雨に入る直前の、蒸し暑い夜だった。
*
深夜二時過ぎ。
近所の住民が、異音に気づいた。
「……ジャー……ジャー……」
水の流れる音。
最初は、雨だと思った。
だが、音は止まらない。
窓を開けて覗くと、
北尾家の玄関から、
細い水の筋が、道路へ流れ出していた。
慌てて、インターホンを鳴らす。
返事は、ない。
鍵は、内側から閉まっている。
消防を呼び、
窓を割って中に入ると――
一階は、すでに、浅く水に浸かっていた。
洗面所の配管が、外れている。
だが、不自然だった。
老朽化で割れたのではない。
金具が、きれいに、緩められていたのだ。
*
翌朝。
娘は、病院のベッドの上で、その連絡を受けた。
「……家が、水浸し……?」
声が、震える。
まだ、歩行訓練も始まっていない。
婿は、片腕と片脚に麻痺を残し、
リハビリ病棟に移ったばかりだった。
「……そんな……誰が……」
保険会社の担当者は、淡々と説明した。
「自然破損か、故意かで、対応が変わります」
「現在、警察にも連絡しています」
警察。
その言葉だけで、
娘の顔から、血の気が引いた。
*
桜ヶ丘苑。
昼の食堂で、職員たちが、小声で噂していた。
「……北尾さんの家、水浸しだって……」
「……事故続きじゃない……?」
「……やっぱり、何か、あるよね……」
憲治は、テーブルの端で、
スプーンを、だらしなく落とした。
ガチャン。
職員が慌てて拾う。
「ごめんなさいね……」
その手が、わずかに、震えていた。
誰も、気づかない。
その瞬間、
憲治の指先が、ほんの一ミリだけ、
意図的に、力を抜いたことを。
*
午後。
女刑事が、今度は、家の現場を見に来ていた。
床下。
配管。
工具の痕。
「……事故じゃないわね……」
完全な破壊ではない。
水が、じわじわ広がり、
床と壁と、家財を、確実に、腐らせる構造。
しかも、
元栓は、きちんと、開いたまま。
「……内部の人間……?」
だが、
家族は、全員、入院中か、施設入所中。
鍵は、壊されていない。
侵入の痕跡も、ない。
ありえない。
それでも――
彼女の頭に、ひとつの顔が、浮かぶ。
白い天井を見つめる、
ぼんやりした、老人の目。
「……まさか……」
すぐに、その考えを、振り払った。
理屈に、合わない。
動けない。
話せない。
判断できない。
重度の認知症。
*
夕方。
施設長のもとに、警察から、一本の電話が入った。
「……北尾さんのご自宅……不審な破損で……」
「……念のため、ご本人の最近の様子を、教えていただけますか……」
施設長は、慎重に答えた。
「……徘徊もなく……意思疎通も、ほぼ不可能で……」
「……危険行為などは……一切……」
電話を切ったあと、
しばらく、机に手をついたまま、動かなかった。
なぜか、
胸の奥が、重く、ざわついていた。
*
夜。
憲治は、ベッドの中で、静かに、耳を澄ませていた。
廊下を歩く足音。
ナースコールの電子音。
遠くのテレビの笑い声。
すべて、いつも通り。
誰も、疑っていない。
誰も、止めていない。
彼は、シーツの裏に、また、書き足す。
――家、水害。
――保険調査、開始。
――刑事、現場確認。
そして、最後に、細く、小さく。
――次は、「火」。
家は、
「帰る場所」だ。
それを、
水で腐らせ、
次は、火で、消す。
帰る場所を失った人間は、
必ず、
誰かを、恨む。
その「誰か」が、
最後に、自分に向くように。
*
翌日。
女刑事は、再び、施設を訪れた。
今度は、憲治のカルテを、正式に、閲覧するためだった。
診断。
経過。
事故の記録。
そして、
転倒後の、奇妙な回復の兆し――
書きかけで、消された、医師のメモ。
「……一過性の意識清明……?」
彼女は、そこに、赤ペンで、丸をつけた。
ようやく。
ほんの、わずかだが。
霧の向こうに、
「人の形」が、見え始めていた。
――続く。




