表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/37

第12章 壊れ始めた日常

翌朝、桜ヶ丘苑の空気は、明らかに変わっていた。


新聞記事の影響だけではない。


それ以上に――

「北尾家で、二人目が倒れた」という事実が、

職員たちの間に、じわじわと染み広がっていた。


ナースステーションでは、誰も大きな声を出さない。


電話が鳴るたび、誰かが肩を震わせる。


看護師長は、朝の申し送りで、必要以上に丁寧に話した。


「……本日は、警察の立ち入りはありません」

「通常業務を、落ち着いて行ってください」


だが、その手元の資料は、微かに揺れていた。



午前十時。


女刑事が、三度目の訪問をした。


今度は、年配の刑事と一緒だった。


正式な事情聴取。


私服ではなく、きちんとしたスーツ姿。


施設長は、露骨に緊張していた。


「……どうぞ、こちらへ……」


事務室の扉が閉まる。


その瞬間、施設の中の空気が、一段、重くなる。


憲治は、廊下の端の車椅子に座らされながら、

耳だけを、そちらへ向けていた。


完全には聞こえない。


だが、断片だけでも、十分だった。


「……職員の退職……」

「……記録の不整合……」

「……ご家族の事故との関連……」


関連。


その言葉に、憲治の胸の奥で、静かに音がした。


(……来たな)


ようやく、

線が、つながり始めた。



昼前。


看護師長が、珍しく、憲治の部屋に来た。


一人で。


扉を閉め、カーテンを半分だけ引く。


「……北尾さん……」


優しい声。


だが、その奥に、はっきりと、焦りが滲んでいる。


「最近……ご家族、大変ですね……」


返事は、ない。


憲治は、いつものように、口を半開きにし、

天井を見つめているだけだった。


看護師長は、しばらく黙って彼を観察していた。


瞳。

呼吸。

指先。


そして、ぽつりと、言った。


「……あなた……本当に、何も、わからないの……?」


一瞬。


ほんの、一瞬だけ。


憲治は、呼吸の間隔を、わずかに変えた。


それだけ。


だが、看護師長の顔色が、目に見えて変わる。


(……気づきかけている)


彼女は、慌てて首を振り、話題を変えた。


「……いえ、失礼しました……」


立ち上がり、早足で部屋を出て行く。


その背中を見送りながら、

憲治は、心の中で、静かに呟いた。


(……遅い)


疑ったところで、

もう、止められない。



午後。


施設に、一本の電話が入った。


今度は、病院から。


受話器を持った施設長の声が、震えている。


「……はい……はい……わかりました……」


電話を切ったあと、職員たちに、低く告げた。


「……北尾さんの婿さん……意識、戻ったそうです……」


小さなどよめき。


「でも……片側、麻痺が残るかもしれないって……」


半身不随。


運転は、もう無理。


営業の仕事も、難しい。


それを聞いた瞬間、

憲治の胸の奥で、ゆっくりと、何かが収まった。


(……ちょうどいい)


死なない。


だが、元には戻らない。


働けない。

稼げない。

立場を失う。


そして、

これから、

「介護される側」に、近づいていく。



その夜。


消灯後、廊下の向こうで、職員同士の会話が聞こえた。


「……北尾さんの家……呪われてるみたい……」

「……施設の事故と、全部、続いてるよね……」

「……刑事さん、また来るって……」


噂は、勝手に育つ。


人は、

「偶然」を、長く信じ続けることができない。


必ず、

「誰か」を、探し始める。



深夜。


憲治は、久しぶりに、ゆっくりと、目を開いた。


暗闇の中、天井の染みを見つめながら、

頭の中で、家族の形を、並べ直す。


娘――入院中。

婿――半身不随の可能性。

孫――一人。


そして、

自分。


全員、生きている。


だが、

もう、

「普通の家族」ではない。


(……次は、家そのものだ)


金。


保険。


住宅ローン。


介護費。


争いは、必ず、そこに集まる。


そのための種は、

もう、いくつも、蒔いてある。



翌日。


女刑事が、単独で、また施設に来た。


今度は、憲治の前で、はっきりと、立ち止まる。


「……北尾さん」


静かな声。


周囲に、誰もいないのを確認してから、

低く、続けた。


「……ご家族の事故……何か、覚えていませんか……?」


憲治は、ゆっくりと、口を開け、

いつもの、壊れた声を出した。


「……あ……う……」


女刑事は、しばらく、彼の目を、じっと見つめていた。


長い沈黙。


やがて、小さく、息を吐く。


「……失礼しました……」


立ち上がり、去っていく。


だが、最後に、廊下の角で、もう一度だけ、振り返った。


疑い。


それは、もう、はっきりと、芽を出していた。



夜。


憲治は、久しぶりに、シーツの裏に、何かを書いた。


――婿、後遺症、仕事不能。

――娘、退院未定。

――刑事、疑念強。


そして、最後に、

ゆっくりと、ひとつの言葉を書き加える。


――家。


壊すのは、

人ではない。


「居場所」だ。


そこを失えば、

人は、必ず、

自分で、崩れていく。


老人は、暗闇の中で、静かに、次を思い描いた。


火。

水。

金。


方法はいくらでもある。


誰にも疑われず、

一番、取り返しのつかない形で。


――続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ