第12章 壊れ始めた日常
翌朝、桜ヶ丘苑の空気は、明らかに変わっていた。
新聞記事の影響だけではない。
それ以上に――
「北尾家で、二人目が倒れた」という事実が、
職員たちの間に、じわじわと染み広がっていた。
ナースステーションでは、誰も大きな声を出さない。
電話が鳴るたび、誰かが肩を震わせる。
看護師長は、朝の申し送りで、必要以上に丁寧に話した。
「……本日は、警察の立ち入りはありません」
「通常業務を、落ち着いて行ってください」
だが、その手元の資料は、微かに揺れていた。
*
午前十時。
女刑事が、三度目の訪問をした。
今度は、年配の刑事と一緒だった。
正式な事情聴取。
私服ではなく、きちんとしたスーツ姿。
施設長は、露骨に緊張していた。
「……どうぞ、こちらへ……」
事務室の扉が閉まる。
その瞬間、施設の中の空気が、一段、重くなる。
憲治は、廊下の端の車椅子に座らされながら、
耳だけを、そちらへ向けていた。
完全には聞こえない。
だが、断片だけでも、十分だった。
「……職員の退職……」
「……記録の不整合……」
「……ご家族の事故との関連……」
関連。
その言葉に、憲治の胸の奥で、静かに音がした。
(……来たな)
ようやく、
線が、つながり始めた。
*
昼前。
看護師長が、珍しく、憲治の部屋に来た。
一人で。
扉を閉め、カーテンを半分だけ引く。
「……北尾さん……」
優しい声。
だが、その奥に、はっきりと、焦りが滲んでいる。
「最近……ご家族、大変ですね……」
返事は、ない。
憲治は、いつものように、口を半開きにし、
天井を見つめているだけだった。
看護師長は、しばらく黙って彼を観察していた。
瞳。
呼吸。
指先。
そして、ぽつりと、言った。
「……あなた……本当に、何も、わからないの……?」
一瞬。
ほんの、一瞬だけ。
憲治は、呼吸の間隔を、わずかに変えた。
それだけ。
だが、看護師長の顔色が、目に見えて変わる。
(……気づきかけている)
彼女は、慌てて首を振り、話題を変えた。
「……いえ、失礼しました……」
立ち上がり、早足で部屋を出て行く。
その背中を見送りながら、
憲治は、心の中で、静かに呟いた。
(……遅い)
疑ったところで、
もう、止められない。
*
午後。
施設に、一本の電話が入った。
今度は、病院から。
受話器を持った施設長の声が、震えている。
「……はい……はい……わかりました……」
電話を切ったあと、職員たちに、低く告げた。
「……北尾さんの婿さん……意識、戻ったそうです……」
小さなどよめき。
「でも……片側、麻痺が残るかもしれないって……」
半身不随。
運転は、もう無理。
営業の仕事も、難しい。
それを聞いた瞬間、
憲治の胸の奥で、ゆっくりと、何かが収まった。
(……ちょうどいい)
死なない。
だが、元には戻らない。
働けない。
稼げない。
立場を失う。
そして、
これから、
「介護される側」に、近づいていく。
*
その夜。
消灯後、廊下の向こうで、職員同士の会話が聞こえた。
「……北尾さんの家……呪われてるみたい……」
「……施設の事故と、全部、続いてるよね……」
「……刑事さん、また来るって……」
噂は、勝手に育つ。
人は、
「偶然」を、長く信じ続けることができない。
必ず、
「誰か」を、探し始める。
*
深夜。
憲治は、久しぶりに、ゆっくりと、目を開いた。
暗闇の中、天井の染みを見つめながら、
頭の中で、家族の形を、並べ直す。
娘――入院中。
婿――半身不随の可能性。
孫――一人。
そして、
自分。
全員、生きている。
だが、
もう、
「普通の家族」ではない。
(……次は、家そのものだ)
金。
保険。
住宅ローン。
介護費。
争いは、必ず、そこに集まる。
そのための種は、
もう、いくつも、蒔いてある。
*
翌日。
女刑事が、単独で、また施設に来た。
今度は、憲治の前で、はっきりと、立ち止まる。
「……北尾さん」
静かな声。
周囲に、誰もいないのを確認してから、
低く、続けた。
「……ご家族の事故……何か、覚えていませんか……?」
憲治は、ゆっくりと、口を開け、
いつもの、壊れた声を出した。
「……あ……う……」
女刑事は、しばらく、彼の目を、じっと見つめていた。
長い沈黙。
やがて、小さく、息を吐く。
「……失礼しました……」
立ち上がり、去っていく。
だが、最後に、廊下の角で、もう一度だけ、振り返った。
疑い。
それは、もう、はっきりと、芽を出していた。
*
夜。
憲治は、久しぶりに、シーツの裏に、何かを書いた。
――婿、後遺症、仕事不能。
――娘、退院未定。
――刑事、疑念強。
そして、最後に、
ゆっくりと、ひとつの言葉を書き加える。
――家。
壊すのは、
人ではない。
「居場所」だ。
そこを失えば、
人は、必ず、
自分で、崩れていく。
老人は、暗闇の中で、静かに、次を思い描いた。
火。
水。
金。
方法はいくらでもある。
誰にも疑われず、
一番、取り返しのつかない形で。
――続く。




