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沈黙の檻  作者: キロヒカ.オツマ―


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第11章 婿という存在

娘が入院してから、桜ヶ丘苑には、妙な静けさが続いていた。


面会予定表から、北尾家の名前が消える。


週に一度、当たり前のように聞いていた、

あの三人の足音が、完全に途絶えた。


職員たちは、どこかほっとした顔で言った。


「大変そうですもんね……」

「娘さん、階段から落ちたんですよね……」


事故。


そう、事故だった。


憲治は、ベッドに横たわりながら、その言葉を、何度も心の中で転がした。


(……事故、か)


人は、信じたいものしか、信じない。


それが、

一番、扱いやすい。



午前の回診。


若い医師が、カルテをめくりながら、事務的に言った。


「北尾さん、特に変化なしですね」

「食事量も、ほぼ横ばいです」


看護師長が、横で、うなずく。


「相変わらず、反応は乏しいです」


憲治は、天井を見つめたまま、舌をわずかに動かした。


「……あ……」


医師は、ちらりと見るだけで、すぐに視線を戻す。


「進行は安定していますね」


安定。


それは、

「何も疑わない」という意味でもあった。



午後。


施設長室の前で、女刑事と、施設長が、低い声で話していた。


扉は、完全には閉まっていない。


廊下に、断片的な言葉が漏れてくる。


「……念のため……内部の聞き取りを……」

「……事故として処理しています……」

「……石田さんから、いくつか……」


憲治は、車椅子に座ったまま、廊下の陰で、動かずに聞いていた。


(……石田は、まだ話している)


いい。


話させておけ。


自分が動く前に、

組織が、先に弱る。



その日の夕方。


ナースステーションに、一本の電話が入った。


受話器を取った若い職員が、途中で言葉を失う。


「……え……はい……少々、お待ちください……」


施設長が呼ばれ、事務室に入る。


しばらくして、戻ってきたときの顔色は、明らかに悪かった。


「……北尾さんの、ご家族から……」


職員たちが、一斉に顔を上げる。


「娘さん……今朝、意識が戻ったそうです」


小さなどよめき。


「でも……記憶が、少し曖昧で……」


施設長は、言葉を選びながら続けた。


「……階段のこと、あまり覚えていないそうで……」


事故。


やはり、事故だった。


誰も、疑っていない。


憲治は、胸の奥で、静かに息を吐いた。


(……順調だ)



その夜。


消灯後、廊下の向こうから、職員同士の小さな会話が聞こえてきた。


「……北尾さんの婿さん、最近、会社休んでるらしいよ……」

「え……奥さん、入院してるんでしょ……」

「……しかも、介護費の件で、揉めてたみたい……」


介護費。


金。


遺産。


すべて、同じ場所につながっている。


憲治は、暗闇の中で、ゆっくりと目を開けた。


(……婿)


あの男。


笑いながら、

「まだ生きてたんだ」と言った声。


コーヒーを飲みながら、

「意味ないよね」と言った顔。


そして、

延命を切り捨てる話を、平然とした口調で続けた。


あの男は、


娘よりも、

孫よりも、


ずっと、壊れやすい。



憲治は、数日前に記憶した情報を、静かに呼び起こした。


住所。

勤務先。

部署名。


――市内の中堅建設会社。

――営業課、主任。


通勤時間。

帰宅ルート。


すべて、頭の中に、正確に残っている。


書いていない。

残していない。


誰にも、見せていない。


それでも、

一度入った情報は、もう、消えなかった。


(……外に、出る必要はない)


自分は、ここから動かない。


外の世界のほうが、

勝手に、こちらに近づいてくる。



翌朝。


新聞の地方欄に、小さな記事が載っていた。


〈高齢者施設で相次ぐ転倒事故 県警が実態調査〉


写真は、桜ヶ丘苑の外観だった。


職員たちは、露骨に動揺していた。


看護師長は、朝から、何度も電話をかけている。


施設長は、事務室にこもったまま、出てこない。


憲治は、その紙面を、遠くから、静かに眺めていた。


(……いい流れだ)


施設。


家族。


警察。


すべてが、

同時に、少しずつ、壊れ始めている。



その日の午後。


ナースステーションに、また、電話が入った。


今度は、明らかに、様子が違った。


受話器を持つ職員の声が、震えている。


「……はい……はい……え……?」


一瞬、沈黙。


「……え……救急……?」


施設長が、飛んできた。


別室に入り、扉が閉まる。


中から、押し殺した声が漏れた。


「……北尾さんの、婿さんが……」


その先は、聞こえなかった。


だが。


数分後、施設長が出てきたとき、顔は、完全に血の気を失っていた。


職員たちに、小さく告げる。


「……北尾さんのご家族……ご主人が……」


一度、言葉を切る。


「……会社の駐車場で、倒れているのが見つかったそうです……」


心筋梗塞の疑い。


意識不明。


搬送先、未定。


誰かが、息を呑んだ。


「……最近、相当、疲れてたらしいですよ……」

「奥さんの入院もあったし……」


事故。


病気。


偶然。


すべて、都合のいい言葉が、自然に並んでいく。


憲治は、車椅子の上で、静かに、目を閉じた。


(……まだ、死なせない)


失うのは、

命ではない。


仕事。

信用。

金。

家族。


生きたまま、

少しずつ、奪う。


それが、

一番、長く、苦しい。


胸の奥で、何かが、ゆっくりと、整列していく。


次に壊すのは――


「家」。


あの男が、

最後に、逃げ込む場所。


そこを、

一番、きれいな形で、

消してやる。


――続く。

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