第11章 婿という存在
娘が入院してから、桜ヶ丘苑には、妙な静けさが続いていた。
面会予定表から、北尾家の名前が消える。
週に一度、当たり前のように聞いていた、
あの三人の足音が、完全に途絶えた。
職員たちは、どこかほっとした顔で言った。
「大変そうですもんね……」
「娘さん、階段から落ちたんですよね……」
事故。
そう、事故だった。
憲治は、ベッドに横たわりながら、その言葉を、何度も心の中で転がした。
(……事故、か)
人は、信じたいものしか、信じない。
それが、
一番、扱いやすい。
*
午前の回診。
若い医師が、カルテをめくりながら、事務的に言った。
「北尾さん、特に変化なしですね」
「食事量も、ほぼ横ばいです」
看護師長が、横で、うなずく。
「相変わらず、反応は乏しいです」
憲治は、天井を見つめたまま、舌をわずかに動かした。
「……あ……」
医師は、ちらりと見るだけで、すぐに視線を戻す。
「進行は安定していますね」
安定。
それは、
「何も疑わない」という意味でもあった。
*
午後。
施設長室の前で、女刑事と、施設長が、低い声で話していた。
扉は、完全には閉まっていない。
廊下に、断片的な言葉が漏れてくる。
「……念のため……内部の聞き取りを……」
「……事故として処理しています……」
「……石田さんから、いくつか……」
憲治は、車椅子に座ったまま、廊下の陰で、動かずに聞いていた。
(……石田は、まだ話している)
いい。
話させておけ。
自分が動く前に、
組織が、先に弱る。
*
その日の夕方。
ナースステーションに、一本の電話が入った。
受話器を取った若い職員が、途中で言葉を失う。
「……え……はい……少々、お待ちください……」
施設長が呼ばれ、事務室に入る。
しばらくして、戻ってきたときの顔色は、明らかに悪かった。
「……北尾さんの、ご家族から……」
職員たちが、一斉に顔を上げる。
「娘さん……今朝、意識が戻ったそうです」
小さなどよめき。
「でも……記憶が、少し曖昧で……」
施設長は、言葉を選びながら続けた。
「……階段のこと、あまり覚えていないそうで……」
事故。
やはり、事故だった。
誰も、疑っていない。
憲治は、胸の奥で、静かに息を吐いた。
(……順調だ)
*
その夜。
消灯後、廊下の向こうから、職員同士の小さな会話が聞こえてきた。
「……北尾さんの婿さん、最近、会社休んでるらしいよ……」
「え……奥さん、入院してるんでしょ……」
「……しかも、介護費の件で、揉めてたみたい……」
介護費。
金。
遺産。
すべて、同じ場所につながっている。
憲治は、暗闇の中で、ゆっくりと目を開けた。
(……婿)
あの男。
笑いながら、
「まだ生きてたんだ」と言った声。
コーヒーを飲みながら、
「意味ないよね」と言った顔。
そして、
延命を切り捨てる話を、平然とした口調で続けた。
あの男は、
娘よりも、
孫よりも、
ずっと、壊れやすい。
*
憲治は、数日前に記憶した情報を、静かに呼び起こした。
住所。
勤務先。
部署名。
――市内の中堅建設会社。
――営業課、主任。
通勤時間。
帰宅ルート。
すべて、頭の中に、正確に残っている。
書いていない。
残していない。
誰にも、見せていない。
それでも、
一度入った情報は、もう、消えなかった。
(……外に、出る必要はない)
自分は、ここから動かない。
外の世界のほうが、
勝手に、こちらに近づいてくる。
*
翌朝。
新聞の地方欄に、小さな記事が載っていた。
〈高齢者施設で相次ぐ転倒事故 県警が実態調査〉
写真は、桜ヶ丘苑の外観だった。
職員たちは、露骨に動揺していた。
看護師長は、朝から、何度も電話をかけている。
施設長は、事務室にこもったまま、出てこない。
憲治は、その紙面を、遠くから、静かに眺めていた。
(……いい流れだ)
施設。
家族。
警察。
すべてが、
同時に、少しずつ、壊れ始めている。
*
その日の午後。
ナースステーションに、また、電話が入った。
今度は、明らかに、様子が違った。
受話器を持つ職員の声が、震えている。
「……はい……はい……え……?」
一瞬、沈黙。
「……え……救急……?」
施設長が、飛んできた。
別室に入り、扉が閉まる。
中から、押し殺した声が漏れた。
「……北尾さんの、婿さんが……」
その先は、聞こえなかった。
だが。
数分後、施設長が出てきたとき、顔は、完全に血の気を失っていた。
職員たちに、小さく告げる。
「……北尾さんのご家族……ご主人が……」
一度、言葉を切る。
「……会社の駐車場で、倒れているのが見つかったそうです……」
心筋梗塞の疑い。
意識不明。
搬送先、未定。
誰かが、息を呑んだ。
「……最近、相当、疲れてたらしいですよ……」
「奥さんの入院もあったし……」
事故。
病気。
偶然。
すべて、都合のいい言葉が、自然に並んでいく。
憲治は、車椅子の上で、静かに、目を閉じた。
(……まだ、死なせない)
失うのは、
命ではない。
仕事。
信用。
金。
家族。
生きたまま、
少しずつ、奪う。
それが、
一番、長く、苦しい。
胸の奥で、何かが、ゆっくりと、整列していく。
次に壊すのは――
「家」。
あの男が、
最後に、逃げ込む場所。
そこを、
一番、きれいな形で、
消してやる。
――続く。




