第1章 回復
天井の染みを、北尾憲治は数えていた。
三十七。
左目の真上、蛍光灯の縁に沿って広がる薄茶色の輪郭。昨日より、ほんのわずかに濃くなった気がする。だが誰も気づかない。誰も天井など見ていない。ここにいる人間で、天井を「観察」している者は、たぶん自分だけだ。
「……ケンちゃん、はい、あーん」
スプーンが口元に運ばれる。
白濁した流動食。甘ったるい匂い。
憲治は口を半開きにし、舌をだらりと垂らし、目を虚空に泳がせた。介護士の女が、慣れた手つきで押し込む。嚥下反射が遅れたふりをして、わざと少しむせる。
「もう……また詰まらせる。ちゃんと飲み込んでください」
呆れと苛立ちが混じった声。
(ちゃんと、飲み込んでいるよ)
心の中で、静かに答える。
一年前まで、自分がここに来ることになるなど想像もしなかった。
退職金と年金で、細々とだが一人で暮らせるはずだった。だが、ある朝、駅前の交差点で信号を見失い、車道に踏み出した。通行人に引き戻され、救急搬送され、検査の結果は「重度の認知症疑い」。検査では、以前から進行していた認知機能低下が疑われ、医師は「かなり進んでいる」と家族に説明した。
家族はすぐに決めた。
「もう一人暮らしは無理だね」
「施設に入ってもらうしかない」
本人の意思など、聞かれなかった。
――桜ヶ丘苑。
要介護三以上、高齢者専門の特別養護老人ホーム。
入居して半年。
転倒事故が起きた。
夜中、トイレに行こうとして、ベッド脇で足を滑らせた。後頭部を、金属製の手すりに強く打ちつけた。
救急搬送。
軽度の脳挫傷。
意識障害、二日。
目を覚ました瞬間、すべてが戻ってきた。
自分の名前。
年齢。
娘の顔。
亡くなった妻の声。
ここに来る前の生活。
そして――
自分が「痴呆老人」として扱われている現実。
医師が覗き込み、光を当て、名前を呼んだ。
「北尾さん、ここがどこかわかりますか?」
わかっていた。
だが、口を開けば何かが終わる気がした。
ここで「治りました」と言った瞬間、家族は何をするだろう。
施設は何をするだろう。
(帰される)
(財産の話をされる)
(邪魔者扱いされる)
直感が、強烈に警告した。
だから憲治は、意味のない音を漏らした。
「あ……あ……」
医師は溜息をつき、カルテに何かを書き込んだ。
――認知機能、改善見られず。
それが、すべての始まりだった。
*
それからの毎日は、地獄の観察だった。
家族は月に二度、面会に来る。娘と、その夫。
「まだ生きてるのね」
「ほんと、長いよね。年金だけはちゃんと入ってる?」
憲治の目の前で、平然と話す。
「ねえ、これわかる?」と娘が笑いながら、赤ん坊に話しかけるような声を出す。
憲治は、わざとよだれを垂らした。
「ほら、また汚してる。ほんと、汚い」
胸の奥で、何かが音を立てて割れた。
職員たちは、表では丁寧だった。
裏では違った。
夜勤の若い男は、声を荒げた。
「動くなって言ってんだろ、ボケ」
ベッド柵を乱暴に上げ、腕をひねって拘束帯を締める。
痛みで呻いても、誰も来ない。
風呂の順番をわざと最後にされ、冷めた湯に放り込まれることもあった。
「どうせわかんないでしょ」
そう言って、必要以上に強く身体を洗う女。
皮膚が擦り切れ、内出血が残る。
だが、誰も疑わない。
――認知症だから。
――何を言っても信用されないから。
憲治は、すべてを覚えていた。
声。
顔。
時間。
手つき。
夜、消灯後、天井の染みを見つめながら、頭の中で何度も繰り返す。
忘れないように。
狂わないように。
(……待て)
焦るな。
ここは檻だが、同時に完璧な舞台でもある。
誰も、この老人が正気だなど、想像すらしていない。
ある夜、隣の部屋から、女の悲鳴が聞こえた。
すぐに、職員の怒鳴り声。
そして、鈍い音。
翌朝、その利用者は「転倒事故」で車椅子に乗せられていた。
その瞬間、憲治の中で、何かがはっきりと形を持った。
――ここでは、人は簡単に壊される。
――そして、簡単に「事故」で死ぬ。
誰が疑う?
認知症の老人が、何かをしたとしても。
憲治は、初めて笑った。
もちろん、口元だけだ。
目は虚ろなまま。
よだれを垂らしたまま。
誰にも気づかれず、心の奥で、ゆっくりと復讐の歯車が回り始めていた。
――続く。




