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時代の混沌

亀寿軍記

作者: 双鶴

雪が降っていた。


諏訪の館は沈黙に包まれていた。障子の向こうに広がる庭は、墨絵のように静まり返り、誰も言葉を発さなかった。言葉は、今この場にふさわしくないものだった。


勝寿丸は、まだ幼かった。父が亡くなったと聞かされたとき、彼は何も言わなかった。言葉が、何も届かないことを知っていたのだ。


囲炉裏の火が揺れていた。諏訪頼重は、勝寿丸の手を握った。その手は冷たく、しかし震えてはいなかった。子はまだ、涙を流すことを知らなかった。悲しみとは、形のないものだと、彼は肌で感じていた。


「父上は、どこへ行かれたのですか」


夜が更けてから、勝寿丸はぽつりとそう言った。頼重は答えなかった。返事は、どこにもなかった。火の揺らぎだけが、彼らの間に残った。


その夜、勝寿丸は夢を見た。父が、遠い空を見上げていた。空は赤く染まり、何かが崩れていく音がした。目覚めたとき、彼は胸の奥に、言葉にならないものを抱えていた。



雪の庭を歩くと、足跡が残った。だが、すぐに消えた。踏みしめたはずのものが、何もなかったかのように消えていく。彼はそれを見ていた。残そうとしたものが、あっけなく消えることを知った。


「父上は、何を守ろうとしたのですか」


誰にも聞こえない声で、彼はつぶやいた。返事はなかった。だが、その言葉は彼の中に沈んだ。形を持たずに、静かに沈んでいった。



春が来ても、館の空気は変わらなかった。勝寿丸は、剣を握るようになった。諏訪頼重は何も言わなかった。ただ、見守った。


「鎌倉は、遠いですか」


勝寿丸がそう言ったのは、ある夕暮れだった。空は淡く染まり、山の端に光が残っていた。頼重は答えた。


「遠くはない。だが、近くもない」


その言葉の意味を、勝寿丸はすぐには理解できなかった。だが、胸の奥に残った。鎌倉は、灯のように揺れていた。手には届かないが、消えはしない。


信濃の山々には、まだ雪が残っていた。春の兆しはあったが、空気は冷たく、地は凍てついていた。諏訪の館の庭には、踏みしめられた雪が残り、兵の足音だけが静かに響いていた。


勝寿丸は、諏訪頼重の前に立っていた。まだ十五にも満たぬ少年の顔に、幼さは残っていたが、目だけは違っていた。火を見つめるような、何かを燃やす目だった。


頼重は言葉を発さなかった。ただ、剣を差し出した。柄は重く、冷たかった。勝寿丸はそれを受け取った。握り直すことはしなかった。手に馴染まぬまま、ただ握った。


「鎌倉へ向かう。父の名を、ただの過去にしてはならぬ」


その言葉に、誰も返さなかった。沈黙の中で、兵たちは動き出した。諏訪の館を出た一行は、山を越え、谷を渡り、かつての都を目指した。


頼重は、勝寿丸の背を見送っていた。あの子はまだ、剣の重さを知らぬ。だが、問いの重さは知っている。父を失った夜、囲炉裏の火を見つめていたあの目を、頼重は忘れていなかった。


「高時殿よ……あの子は、まだ泣いておらぬ。泣けぬまま、剣を握ってしまった」


そう思った。だが、言葉にはしなかった。戦に向かう者に、涙の話は不要だった。


勝寿丸は馬上で風を切った。背筋を伸ばし、目を伏せず、前だけを見ていた。諏訪の兵は、その背中を見ていた。少年の背に、北条の名が宿っていることを、誰もが知っていた。


道は険しかった。雪解けの泥が馬の蹄を奪い、崖の風が耳を裂いた。だが、誰も止まらなかった。止まれば、過去に戻るだけだった。


勝寿丸は、父の名を思い出していた。高時。かつて鎌倉を治め、そして滅びた人。その名を、ただの記憶にしてはならぬ。そう思った。


「私は、父の声を聞いた。誰も語らぬその声を、確かに感じた」


その声は、風の中にあった。雪の中にあった。沈黙の中に、確かにあった。


そして、軍は峠へと向かった。


峠道は狭く、両脇を切り立った崖が迫っていた。春の雨が降り出し、ぬかるんだ地面に馬の蹄が深く沈む。風は冷たく、山の気配は重かった。


足利方の兵が道を塞いでいた。数は多く、陣形も整っていた。盾を構え、矢を番え、こちらの動きを待っていた。諏訪の軍勢は一瞬、足を止めた。


勝寿丸は、馬を進めた。誰よりも前に出た。剣を抜き、声を上げた。


「進め。止まれば、父の声が届かぬ」


その声は、雨に溶けた。だが、兵たちの胸には届いた。諏訪の若武者が先陣を切り、矢が飛び、盾が割れ、叫びが響いた。


勝寿丸は、敵の列に斬り込んだ。刃が肉を裂き、血が地を濡らす。彼は振り返らなかった。敵の顔を見なかった。ただ、前へ。前へ。


一兵卒の目に映ったのは、若君の背中だった。小柄なその背が、風を裂いて進んでいた。泥にまみれ、血に染まりながらも、剣を握る手は震えていなかった。


「この人は、ただの子ではない」


兵はそう思った。名もなき者の目線に、確かなものが映っていた。


戦は激しかった。崖から落ちる者もいた。馬が倒れ、叫びが途切れ、雨がすべてを洗い流していった。


だが、勝寿丸は止まらなかった。剣を振り、道を切り開いた。峠の向こうに、鎌倉の空が広がっていた。


その空は、まだ遠かった。だが、確かに見えていた。


兵卒は、ふと思った。


「この峠を越えた先に、都がある。若君は、三度目も越えるのだろうか」


その問いは、雨に消えた。だが、胸の奥に残った。


鎌倉の門が見えたとき、兵たちの足が一瞬止まった。高く、重く、黒くそびえるその門は、かつて北条の威を示していた。今は、足利の名のもとに閉ざされている。


勝寿丸は馬を降り、剣を掲げて門の前に立った。泥にまみれた衣の裾が風に揺れ、彼の影が門の石に落ちた。


「我こそは、北条高時の子、勝寿丸。鎌倉を、取り戻す」


その声は、門の向こうに届いた。敵が動揺し、民が集まる。誰もが沈黙していたが、ひとりの老人が膝をつき、頭を下げた。続いて、幾人もの者が地に伏した。


門が開いた。足利の兵は後退し、諏訪の軍勢がゆっくりと進んだ。勝寿丸は鶴岡八幡宮へと向かった。灯が揺れ、空が広がっていた。彼は、そこに立った。


石段の上から見下ろす鎌倉の街は、静かだった。歓声もなく、喧騒もない。ただ、風が吹いていた。


「都を、取り戻した」


そう思った。だが、空はどこか遠かった。かつて父が見た空とは、違っていた。勝利の実感は、すぐに風にさらわれた。


一兵卒が、そっとつぶやいた。


「若君は、父君よりも遠くを見ておられる。あの空を、三度越えられる方だ」


その言葉は誰にも聞かれなかった。だが、石段の上の少年は、確かに遠くを見ていた。


歓喜は、長くは続かなかった。


鎌倉を奪還してから二十日も経たぬうちに、空気は変わった。足利尊氏が動いたという報が届いたとき、兵たちの顔から笑みが消えた。数が違った。勢いが違った。何より、風が違っていた。


勝寿丸は再び剣を握った。鶴岡八幡宮の石段に立ち、都を見下ろした。かつての歓声は、今は沈黙に変わっていた。民は家に籠もり、兵は言葉少なに矢を整えていた。


「まだ、終わってはならぬ」


彼はそう言った。だが、その声は誰にも届かなかった。戦の喧騒が、すでに遠くから響いていた。


足利の軍は、容赦なく押し寄せた。門が破られ、火が上がり、煙が街を覆った。叫びが響き、血が流れる。諏訪の兵は踏みとどまったが、数の差は埋めようがなかった。


勝寿丸は、石段の上で立ち尽くしていた。剣を握る手に力は入っていたが、目は遠くを見ていた。かつて父が見た空。かつて自分が見た空。今、その空は、どこか遠くにあった。


諏訪頼重は、炎の向こうからその姿を見ていた。あの子は、まだ泣いていない。だが、泣くことも許されぬまま、都を背負っている。


「高時殿……あの子は、三度目の空を見ようとしている。だが、この崩れゆく都に、何を残せるのか」


そう思った。だが、言葉にはしなかった。


一兵卒が、最後の矢を放ちながらつぶやいた。


「若君は、空を見ておられる。だが、地が崩れていく。三度目の奪還は、夢のように遠い」


その言葉は、誰にも聞かれなかった。だが、風がそれを拾ったような気がした。


都は、崩れていった。


夜の山道を、勝寿丸はひとり進んでいた。雨は止まず、足元は泥に沈み、道はもはや道ではなかった。風は冷たく、木々のざわめきが耳を刺した。


兵は散った。諏訪の若武者も、名もなき一兵卒も、すでに姿を消していた。声も灯もなく、ただ風と水音だけが耳に残る。


それでも彼は歩いた。剣を捨てず、背を丸めず、ただ前を見据えていた。鶴岡八幡宮の石段が、遠い記憶の中で揺れていた。あの空は、今どこにあるのか。誰が見ているのか。


「まだ、終わっていない」


誰にも届かぬ声だったが、彼の中では確かに響いていた。父の名を、ただの過去にしてはならぬ。そう思った。


山の向こうに、武蔵野の空が広がっていた。そこには、まだ戦が残っていた。勝寿丸は、三度目の鎌倉を目指していた。炎のように、最後の光を灯すために。


一兵卒は、敗走の途中で振り返った。誰もいない道に、若君の影が遠くに見えた。


「この人は、三度目の都を目指している。誰もついていけぬとしても、あの背は、止まらぬ」


その言葉は、風に消えた。だが、胸の奥に残った。


都は、遠ざかっていた。だが、彼の歩みは止まらなかった。


夜の帳が降りていた。


龍ノ口の丘は、海からの風に晒されていた。潮の匂いが、草の間をすり抜けていた。遠くで波が砕ける音がした。誰も語らなかった。語るべきことは、すでに過ぎていた。


北条時行は、縄をかけられたまま、空を見上げていた。かつての名は、勝寿丸。今は、ただの囚人だった。だが、彼の目は、まだ何かを見ていた。


空は広かった。雲は流れていた。灯はなかった。だが、彼には見えた。鶴岡八幡宮の石段。諏訪の館の雪。峠を越えた風。三度、鎌倉を奪ったときの空。それぞれ違う空だったが、どれも胸に残っていた。


最初は少年の疾走だった。諏訪頼重の剣を握り、峠を越えて都へ駆けた。二度目は南朝の旗のもと、北畠顕家と並び立ち、再び鎌倉を奪った。三度目は、炎のような最後の光。武蔵野の地で足利基氏を退けたが、都はまた遠ざかった。


「三度、鎌倉を取り戻した。だが、それを覚えている者は、どれほどいるだろう」


時行は、誰に語るでもなく、そう思った。名は消える。声も消える。だが、空だけは変わらずそこにある。


ひとりの僧が近づいた。経を唱える声が、風に溶けていく。時行は、目を開けた。空は、変わらず広かった。


縄が引かれた。足元の草が揺れた。誰かが目を伏せた。誰かが、空を見た。


時行は、最後にひとつだけ思った。


「父の名を、ただの過去にしてはならぬ」


風が吹いた。空が広がった。


そして、すべてが静かになった。


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