第十二話『銀鏡邸』
登場人物
◎ゆき
15歳 女性
茶色い髪 茶色い瞳
旧会津藩家老佐川官兵衛に仕えていた馬丁の一
人娘
馬と心を通わせることが出来る
◎銀鏡 晴近 (しろみ はるちか)
22歳男性
長身 細身に見えるが筋肉質
黒髪の長髪 黒い瞳 驚く程の美青年
華族 従三位中納言
◎とら
ゆきが世話した牡の仔馬
世にも珍しい、金色に近い尾花栗毛の毛色を持
つ
銀鏡晴近の乗車する馬車の馬車馬になってい
た。
◎たけ
17歳 女性
ゆきが仕えた佐川家の向かいの西川家に下働き
の女中として仕えていた
二歳年下のゆきと仲が良かった
八戸の遊女斡旋屋「多志南美屋」にて遊女とし
て稼働している(源氏名:竹鶴)
◎せつ
29歳 女性
八戸の遊女斡旋屋「多志南美屋」において稼働
している遊女(源氏名:藤松)
かつて江戸(東京)吉原の大見世遊郭「扇松屋」
において「格子」の位にあった元上級遊女
自分が果たせなかった花魁になる夢をゆきに託
し、ゆきを江戸(東京)に向かわせる
◎粂吉 (くめきち)
歿年50歳 男性
会津藩士 佐川官兵衛の馬丁
ゆきの父
会津戦争の折、官軍の銃撃により戦死
◎みつ
女性 ゆきの母
ゆきを出産した後、まもなく死去
元は佐川家の給仕女
◎佐川官兵衛(直清)
39歳 男性
旧会津藩家老
粂吉、ゆき父子の主君
戊辰戦争で活躍 鬼官兵衛の異名を持つ
熱い心を持った人情家
◎中村半次郎
男性 薩摩藩士
会津戦争時、官軍軍監
人斬り半次郎の異名を持つ
後の桐野利秋
「こご左だね?」
「うん。もう少しで着くよ、ゆき君。」
ゆきは銀鏡晴近に押し切られる形で再び馬車を走らせていた。
手綱を繋いでいるとらは、先程と違って、一々指示を与えなくても自身で道を選んで走っていった。
兵部省と晴近が言ったさっきの建物からの道のりをとらは覚えているのであった。
とっくに東京における方向感覚が麻痺しているゆきには、一体、どちらの方向に向かっているのかすら見当がつかなかったが、銀鏡邸は高輪という所にあるらしい。
ゆきが馬車の進路を左へ変えたところ、前方に左右に長く伸びる白い漆喰造りの塀が見えてきた。
その塀の長さは何間あるのだろうか?馭者台のゆきの目には、塀の左右の端が見えない程であった。
「あの白い塀の中に私の家がある。
このまま真っ直ぐに道を進んで、塀に突き当たって右に曲がると門が見えてくるよ。」
客車の前部の小窓から晴近が顔を覗かせ、ゆきにそう言うと、ゆきは驚いて手綱を手離してしまった。
馬車を牽くとらが、何事か?といったふうに足を止め、首を振り返らせてゆきを見た。
「銀鏡さま!あんた、やっぱしうんと偉え人だったんだが!?」
ゆきが振り返り、客車の前部の小窓から顔を覗かせている晴近に尋ねた。
「ただ血脈が長く続いているというだけだ。
別に偉い訳ではない。」
「げんども、こら程大ぎぐて立派なお屋敷見たごどねえ!」
「ああ、この家は、元は幕府側の某大名家の屋敷だったもので、没落して手放したのを母が自分方の実家にねだって買ったものだよ。」
「おらのところの佐川の殿様のお屋敷よりも、ずっとずっと、ずねえ!!」
「…ん?佐川…?佐川という姓は何処かで聞いた事があるような?
…ゆき君は武家に奉公していたのかい?御中間だったのか。」
「はい、お父が佐川家の馬丁でした。」
「そうか、だからとらの出産に立ち会ってたのか。どおりで馬にも詳しい訳だ。
さて、ゆき君、早く家に入ろうか。」
「わわわ、緊張するなあ…」
馬車を進め門に近づくと、厳かに門が開き、馬車は白い塀の中へと入っていった。
「お帰りなさいませ、御当主様。」
「お帰りなさいませ、晴近様。」
門をくぐると数名の男女が出迎え、深々と頭を下げた。
皆、この和風の元大名屋敷にはそぐわない洋服姿である。
男女とも白い襟付き長袖シャツを着て、男性は黒色ズボン、女性は黒色スカートを着用している。
「おや?その娘御は誰です!
何故、馬車の馭者台に…
山本はどうしたのです!?御当主様!!」
出迎えた男女の内の白髪の老紳士が、ゆきが馬車の馭者台で手綱を取っている事に驚き、客車の窓から顔を覗かせている晴近に向かって尋ねた。
「まあ、色々とあってね…
訳は後で詳しく話すよ、爺。
さっ、ゆき君、奥の停車場まで行ってくれ。」
晴近は老紳士の問い掛けを軽く受け流し、馬車を進めるようにゆきに言った。
「さて、約束どおり茶菓子を振る舞う前に…
ゆき君は洗顔した方が良いな。」
晴近の言うとおり、ゆきは暴れていたとらにしがみついたり、その後、暴走した馬車の馭者台に身を晒して座っていた事で土埃を多分に浴びており、遠目で見ると元の目鼻立ちが判らぬ程に顔が汚れていた。
鏡など持ち合わせていないため、ゆきはその事に気付かず、今、晴近に言われて初めて自分の顔を手でまさぐって、そして手を見た。
掌に茶色い土汚れがベッタリと付いている。
「こら程汚れだ顔で、おらは表さ立ってだんだが!?
早く言ってくんちぇよ!!」
「ごめんよ。でも、さっき言ったところで顔なんか洗えなかったから…
直ぐ近くに井戸があるから案内するよ。」
馬車を停めた場所の直ぐ近くに厩舎があり、井戸もあった。
ゆきは釣瓶の縄を引いて井戸水を汲み、手水鉢に移し変えて顔をバシャバシャと洗った。
ゆきが顔を洗っていたところ、先程の晴近が爺と呼んだ老紳士がやって来て、晴近に何やら話し掛けていた。
「御当主様、また部外者を屋敷に上げなさると、大奥様にお叱りを受けますぞ。」
「部外者ではない。彼女は私の客だよ。」
「客?先程もお尋ね致しましたが、何故あのような娘が馬車を操っておったのですか?
山本はどうしたのですか?」
「馬が暴れて、山本君は振り落とされて怪我をしてしまったんだ。
だから兵部省に置いてきた。
二、三日兵部省の医務室で面倒を見て貰うように頼んできたよ。」
「何と!それは大変でございました。
しかし、だからといって、あのような何処の馬の骨とも判らぬ庶民の娘を…
一体、どちらで拾ってこられたのですか?」
「口を慎みたまえ!二家本。
彼女はその暴れる馬を制して馬車を安全に操り、私を無事にここまで連れて帰ってくれた恩人だ。
なので失礼な物言いはやめて貰おうか。」
それまで穏やかだった晴近は険しい表情となり、それまで爺と呼んでいた呼称も、二家本、とその老紳士の姓を呼び捨てにして言った。
「これは失礼致しました、御当主様…
しかし見たところ、まだ年少の娘であるのに、暴れ馬を制したなどと…」
と、老紳士がゆきの方を見た時、顔を洗い終えたゆきと目が合った。
「あ!…あ…あ……」
老紳士、二家本の爺はゆきの顔をはっきりと見た瞬間、目を見開いて口を大きく開け、呻き声のようなものを上げて、そのまま固まったようになってしまった。
「…ゆき君、着物も随分と汚れてしまったね。
着替えも用意するからついておいで。」
「は、はい…」
ゆきは、呆然と立ち尽くす二家本の爺に軽く頭を下げ、先を行く晴近の後をそそくさと追いかけた。
「お…お姫さま……」
ゆきの背に向かって二家本の爺が呟いたその言葉は、既に距離の離れたゆきの耳には届かなかった。
第十二話 (終)
銀鏡邸のあまりにも豪壮さに気後れしながらも中に入る「ゆき」。
二家本の爺が呟いた「お姫さま…」とは、一体誰のことなのでしょうか?
これからもよろしくお願いします。




