第一話『暇乞い』
(…下北半島…斗南の土地は何も無え所だった…
米も麦も取れねえがら稗を食べ、稗も無ぐなると木の実や山菜、雑草や木の根っこどが、とにがぐ喰えるもんは何でも食べだ…
短けえ間だったけれど、よぐ生きてこられたもんだ…)
「佐川の殿様、お暇頂戴致します。」
一軒の家の板の間の上に
年齢十四、五歳
長い茶色の髪を無造作に後ろに束ねた
茶色い瞳
の、渋染の着物に柿色の帯を付けた少女が正座をし、年齢四十歳ほどの男性と向かい合っていた。
この、佐川の殿様と少女に呼ばれた男性は、紺色の着流しを着ているものの、髷の結い方から武士と思われる。
だが月代は毛が伸びきっており、髭も剃らずに生やしたままである。
「…ゆきよ、考え直さぬか?」
「はい、二年前、実り豊がな会津から、ここ斗南に移ってきて、お武家様方の暮らしも儘なんねえ中、庶民のおらを今まで養って頂き、あんがとさまでござった。」
「廃藩置県とやらでこの斗南藩が無くなることを気にしとるのか?
藩の消滅後、我が佐川家は江戸…東京に行かれることになったお館様、容大様について参るつもりだ。
ゆき、引き続き江戸でも我家の女中として仕えてくれぬか?」
「江戸に行がれる佐川の殿様方ご家族の暮らしもどうなるか判んねえ中、これ以上お世話になる訳にはいがねえす。」
「お前のような十五になったばかりの小娘が、家を出てどうやって生きていくつもりだ?」
「…女ならば、生ぎていげます…」
「ゆきよ!それは!!」
「お武家の奥方様やお嬢様すら大勢女郎に身売りしておられるのに、おらだけがいづまでも甘える訳にはいげねえす。」
「ゆきよ、粂吉は、お前の父は、この佐川官兵衛直清を身を呈して銃弾から守ってくれた。
その命の恩人の娘のお前が…そんなこと…止してくれ、ゆき…止さぬというのなら、主…」
「佐川の殿様!誠のどごろを言うと、おら、もうこえーんです!ろくにさ喰えねえんが。
女郎さなって、おまんまでっこら喰いてえんです!」
これは嘘であった。
今、主君の佐川官兵衛が「主命」でゆきを引き留めようとした事を察し、咄嗟に思い付いたのである。
度を越えた貧困の中においても暖かい目をゆきに向け続けてくれている佐川家の人が、ゆきは大好きだった。
だからこそ、自分達の食い扶持を減らしてまで分け与えてくれる事が、ゆきには心苦しく、申し訳なく思っていた。
自分がいなくなれば少しは彼らの口が潤うだろうと、いつもその事を考えていた。
今回の廃藩置県はそのきっかけに過ぎなかった。
「…ゆきよ、それはお前の本心ではあるまい…だが……」
「………」
佐川官兵衛はゆきの嘘を見抜いたものの、無言で頭を下げ続けているゆきの姿に、梃子でも動かないような強い意志を感じた。
やがて頭を上げ、目を合わせたゆきに、佐川官兵衛は力なく頷いた。
ゆきは佐川官兵衛に暇を告げた翌早朝、独りで家を出ていった。
もう二年も着のみ着となっている、所々が解れて、今のゆきには少し小さくなってしまった渋染の着物を着て、荷物といえば、僅かな稗と豆の入った小さな包みだけである。
それと、腰に印籠を付けていた。
これは、見るからに貧しい雰囲気の姿格好のゆきが道中、難に遭わないようにと佐川官兵衛が佐川家の家紋の入った印籠を呉れたのである。
この印籠によって武家の奉公人と判るため、変な輩にゆきが絡まれたりすることの無いようにと、佐川官兵衛は思いやったのである。
家を出ていくゆきを見送る者はいない。
玄関を出て、小さな門の外で立ち止まったゆきは振り返り、今の佐川邸となっている剥き出しの板張り造りの質素な家屋に向かって一礼し、そして家に背を向けて歩きだした。
その遠ざかるゆきの後ろ姿を、家の窓から佐川官兵衛が目で追っていた。
ゆきは斗南から、同じ陸奥の国で大きな歓楽街がある八戸を目指していた。
およそ二十五里の道のりで、健康な人の足で二日半から三日ほどかかる。
ゆきは斗南における約二年の極貧生活で痩せて体力も衰えており、その長い道のりをゆっくりと進んでいた。
途中、飢えを防ぐ為、山菜を摘んでは食べ、摘んでは食べしながら旅をした。
暦の上ではもう夏だが、寒冷地である陸奥の国においては様々な種類の山菜が旬の季節だった。
ゆきは斗南を出て五日後に、ようやく八戸に着いた。
第一話 (終)
恋愛モノです。
あまり読んだこともないジャンルですが、これも、起きた時に突然アイデアが生まれたものです。
実際の時代背景や実在の人物を登場させることとか、会津(福島県)はおろか、親類縁者に東北地方出身がいないのに、主人公は会津弁とか…
勉強することがいっぱいあって、筆の進みが今まで以上に遅くなりそう…
会津弁についてなど、実際のものとは違う部分が多々でてくると思いますので、その時はドシドシ指摘して下さいませ!
長い目で宜しくお願いいたします。