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何者か

 家に帰り、シャワーを浴びる。温かなそれはしかしながらあの冷たい池の水を思い起こさせ灯里の顔を歪めてしまう。

「気にしすぎ、ダメだよ」

 シャワーを早々に止めて上がり、夕食の時間を告げる母に従って座る。食卓に置かれた味噌汁は明らかにいつもの通りであるにもかかわらず、恐怖心を煽ってしまう。

――濁った水、いやだな

 味噌汁を啜っている内に手が飛び出してこないか、心配ばかりが頭の中で騒いでしまい、食欲が湧いてこない。

「ごちそうさま」

「全然食べてないじゃない」

 母が心配そうな顔で様子を窺うものの、灯里の本心は笑顔で隠し通し、階段を上り始める。

 歩く度に遅れて何かを引き摺る音が耳に届く。足音の後ろについて来るような錯覚。後ろを売り返ってみるもそこには何も見当たらない。

――気のせい、かな

 階段を上り終え、自室へと戻って机と向かい合う。学生として最も大切な事は勉学だと父は常に言っている。将来のために大切な事であることは否定できない。故に灯里も同じ意見だ。

 ノートを開き、筆を走らせる。ペンが紙をこする音に交じってうめき声が耳に入り、思わず窓の方を振り向く。閉じられたカーテンと壁の間で揺らめく影、それが人の気配を告げるものの、目をこすり見つめ直して気のせいだと知ってため息を零す。

――気にしすぎ、だよね

 それから向き直る前に鏡の方へと目を向ける。そこで灯里は目を見開いた。

 いつもなら全身を映しているはずの鏡、しかしながらそれは灯里の姿を無視して整えられた机を映すのみ。

 非常事態である事は間違いない。灯里は携帯電話を手に取るも電源が入らない事に落胆し、想いに身を任せて駆け出す。階段を駆け下りて受話器を手に取り電話番号を入力して数秒後。一つの音が通話のつながりを教える。

「もしもし、先輩」

「ああ、どうも」

 いつもの通り気の抜けた声が届き、灯里は安心を抱きながら通話を続ける。

「その、私今大変な目に合ってるんです」

「大変な目、それにどうして電話が。目の前に灯里はいるのに、そこでしゃがんでるのに」

 話が繋がらない。違和感を抱きながら灯里は現状に至るまでの経緯を話し始めた。その間の沈黙は彼の真剣な眼差しを思い起こさせる。

「そうか、多分それ、この世界じゃないね」

 途端に体が震え始める。寒気は口を塞いでそのまま。言葉も出ずに灯里は立ち尽くす事しか出来なかった。

「もう一回、池に入れば戻れるかも知れない」

 彼の言葉に雑音が混ざる。あの言葉を真に受けるのならばここは異世界。電波は通じるものなのだと今更ながらに驚きを得た。

「分かりました。帰ったらいっぱい怒りますね」

「それは困る」

 問答無用で電話を切り、親には用すら告げることなくドアを開く。自分の生みの親と同じ姿をしていたところで別人。そのような人物に告げる別れの言葉など持ち合わせていなかった。

 辺りを見回しながら歩いて行く。世界を包み込む暗闇は深く根を張り強く息づいているようで。いつもよりも暗く感じられるのは、不安感をより濃く訴えかけるのはこの場所がいるべき世界で無い事を知っているからだろうか。

 暗闇の中で通りかかった道に川の存在を見た。真っ暗闇の中で揺らめく水は墨のようで飲み込まれたら抜け出す事が出来そうにもなくて。つい足が竦んでしまう。

 そんな灯里の状況はどこまでも静かで平和。一人で勝手に恐れているに過ぎないという情けない事実に打ちひしがれていた。

――気にしすぎ、かな

 川沿いを歩いている彼女の隣、そこで平和は崩される。水を突き抜ける音に心臓は跳ね上がり、つられて体まで跳び上がってしまいそうになるものの縮こまり我慢を決め込む。

 川から上がってきたのは細い何か。灯里は駆け出し、一つの小さな明るみを通り抜けたそこで振り返る。

 街灯に照らされたそれは白のスーツ姿なのだろう。濡れに濡れ切って色の濁った白に覆われた細い腕、やがて街灯の輝きを受ける顔は灯里によく似た醜いもので。

 再び前を向いて駆け出した。腐敗した匂いが鼻を突いて嫌悪感を沸かせる。全力で走っているもののいつ追い付かれてしまうものかと肝を冷やしながら走り抜けてようやく真っ黒に染め上げられた白いはずの壁を目にした。

――どうして校門が開いてるの

 疑問が一瞬脳裏で大きく手を振ったものの、疑問など取り払って校門を通り抜ける。あまりにも頼りない街灯はすぐ傍に立つ木々すら照らす事が出来ない。

 灯里はアスファルトの地面に大きな足音を立てる。つい数時間前に運動部が踏んだ地を同じような道のりで駆けて、壁が三方向を囲む中庭へと曲がる。

――ここ

 全ての始まり、浅い池を見つめ、荒い息を整えようと大きく息を吸う。肺は痛み、足は痺れにも似た感覚を訴えかける。整わない体をふらつかせながら池に一歩、また一歩、寄って行ったその時、背後から声が飛んで来る。

「灯里」

 聞き覚えのある声に振り返るとそこには細身の男子生徒の姿があった。茂みから微かにはみ出した明かり、背の低いライトは青みを帯びた黒髪や血色を感じさせない青白い肌を照らし出すものの、顔だけは闇に包まれたまま。

「こっちに来るんだ、そっちは危険だから」

 その声は確実に現川のもので、優しさは不安を取り払うためのものだろうか。彼は顔を傾け、見えない顔でも口を広げて笑顔を浮かべている事が分かってしまう。

「池に落ちて欲しくないんだ、キミがいなくなるのは嫌なんだ。愛してるよ」

 途端に灯里の顔は無の一色へと染め上げられた。現川の姿をした何者かに向けて軽蔑の視線を向ける。

「池は落ちていなくなる深さじゃありませんよ、それに先輩は私の事なんか意識しない」

 口を突いて出た言葉は、その声は、自分でも驚く程に冷たく夜の色をしている。意識をしてくれない人物、その偽物に対して得体の入れない怒りが湧いていた。

「何者か知らないけど……演技、下手だね」

 振り返り池へと向かって一歩を踏み出した。現川のような何者かは手を伸ばしたものの、構うことなく勢いを付けて。

 足は地面を離れて勢いのままに池へと向かっていく。目が捉えたものは揺らめくみなも。黒々としたそれに対して抱く不安はこの世界に対する恐怖に比べれば小さなもので。

 やがて池を突き破り中へと勢いよく身を放り込んでしまった。浅いはずの底にいつまでもたどり着けずに落ちて行く。夜空から落ちて行くような、そんな妄想が駆け巡ってしかしながら気が付けば夕暮れの色へと変わり果てていて。

――まだ、夕方だったんだ

 意識を戻したそこに映るのは記憶の中の顔とは少しだけ異なるものの自分だとすぐさま認識できる顔。揺れる池に映されたそれを見つめ、やがて振り返る。

「夢野さん」

 現川は眉をひそめて灯里を見つめる。灯里は心配そうに見つめて来る現川に対して控えめで優しい笑顔を浮かべながら言葉をかけた。

「私の事、愛してますか。先輩」

 沈黙が生まれる。わずか三秒間の沈黙はしかしながら今の灯里には長すぎる。あの体験の余韻で激しく打ち付ける心臓が確実に時間の体感を乱していた。

「ああ、当然」

「なんですぐに答えられないんですか」

「大丈夫、そう、大丈夫なんだ。愛してるよ愛してるから許して」

「わざとらしすぎますよ。もう」

 現川の笑顔はきらきらと輝き夕日が過剰な装飾をもたらしていた。灯里は全身がずぶ濡れだと気が付き、肌に張り付く制服に嫌悪感を抱きながら現川のトートバッグから首掛けタオルを取り出し拭い始めた。

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