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池のうわさ

 それはただ退屈という時間を飲み干した男たちの表情。言葉にあくびで返す人物に眠気と戦っている者に二人の会話をこそこそと繰り広げる者。中には机の引き出しの中でゲームをしている者までおり、誰もが教師の話を雑音の一つとして捉えている。

 そんな光景が影を作り静寂の喧騒となって。一人の少女の中に煩わしさという形で残ってしまう。

――先輩もあんな感じなのかな

 金に近い茶色の髪を一度撫でて、端に飾られた白い花に触れる。薄緑の葉が四つ連ねられて伸びている。それが二つの列を成しており、少女の気に入り。

 鼻に触れている時点で落ち着きを失っている事に気が付き原因を心の中に湯気として広げる。授業の後に待っている時間が楽しみで仕方がない。跳ねる心は一瞬だけ。それからすぐさま板書と話をつかむ耳に神経を刻むように無理やり通わせる。

 女子は大半が真面目なのか、しかしながら一人だけ髪をいじり机に肘をついてあくびを交えながら聞いている様子。あの女が成績上位なのだと知った時の驚きと苛立ちはあまりにも大きかった。

 しかしながら今となっては自分に出来る事をと目の前の事に集中するのみ。学業という舞台の端、下位へと追いやられてしまっては部活という権利の土台から振り下ろされてしまうのだ。親の言いつけは絶対。反抗すら許さない理由など目の前の教師にあった。

――教科担任がお父さんとか嫌だ

 しかしながら幾ら唱えたところで言葉は呪いへと昇華されることなどなかった。夢野、そう書かれた名札を首から提げている父の細い顔は、鋭く尖った目は、少女の方へと向けられた。

「灯里、答えなさい」

 教育の場で下の名で呼ぶ。そんな父に対して寒気を覚えながらも求められた言葉を答えてみせる。

「1765年にオーストリアの皇帝に即位したのはヨーゼフ二世です」

「よろしい」

 無闇に顔を捻じ曲げ作った笑顔はこの上なく気味が悪い。裏ではこの笑顔を素敵だとはしゃぐ女子たちもいるのだと知って是非感性を取り換えて欲しいと思ってしまったのは誰にも教えず心の袋に密封していた。

 授業終了のチャイムと共に誰もが即座に立ち上がり、一礼。掃除は始められるものの男子は暴れ回って埃をまき散らすのみ。

――先輩もこんな感じじゃないよね

 灯里は箒を手に取って掃いていく。誰かが何をしていたところで果たさなければならないことは果たすのみ。

「灯里ちゃんさ、かわいい魔女っ子みたい」

 女子たちが頬を綻ばせながら告げる事に首を傾げ、手が停まっている事に気が付きすぐさま手を動かし始める。

「かわいいよね」

 男子たちは明るい声色を耳にして顔を向けるも灯里の顔を目にすると共にすぐさま彼らの世界へと戻って行った。

「あれがかわいいらしいぜ」

「女って分からねえな」

 女子からはよくかわいいと告げられることはあれ、男子からの反応は芳しくなかった。果たして何がいけないのだろう。この反応が日常生活の妨げにならないことだけを祈りつつ掃除を続けるのみだった。

 それから掃除の時間は終了を迎えて遂に迫ってきた部活の時間を想い、心は熱を帯びる。心臓の動きが加速している様が手に取るように分かってしまう。

――心の支えが来るよ

 まだかまだかと待ちわびる心は体よりも確実に素早くなっていく。身の味わう時をも置き去りにして。目の前の全ての時間の流れのゆったりとした様にもどかしさを覚えてしまう。

 すぐにでも終礼を終えたつもりだろう。わずかな言葉だけで解散を告げた教師だったものの、それでも灯里にとっては遅すぎる。

 それからの動きはすぐの事だった。代り映えのしない幾つものドアが並ぶそこで、ドアの上に取り付けられた札に書かれた文字を見つめ、一つのドアの前に立つ。そのドアの中を示す札には放課後幻想怪奇倶楽部と書かれており、その世界が灯里に手招きをしていた。

 ドアを静かに開くも、灯里を迎え入れた一人の男は気が付いたようで本を閉じ、灯里の方へと顔を向ける。

「今日も来てくれたんだね」

「部員だから当たり前ですよ先輩」

 毎日のように繰り返される幕開けのやり取りが彼の記憶力を疑ってしまう。などと内心毒づきながら早速今日の出来事を口にした。

「掃除中に女子生徒からかわいいって言われたんですよ」

「それは、おめでとう。お祝いに赤飯炊かなきゃいけないね」

「先輩までバカにして」

 頬を膨らませながら先輩、椅子の背もたれにかけられたブレザーにつけられた名札が現川という名字を示すこの男の方へと顔を近付ける。

「男子から見たらそんなに魅力ありませんか」

 現川は灯里の顔を数秒だけ見つめる。ほんのりと茶に色付いた灰色の瞳に映る灯里の顔、ダークブラウンの瞳がよく目立つ。現川は目を逸らし、本へと目を落とす。

「将来に期待かもね」

「もう、先輩まで」

 思わず肩を落としてしまう。あの目には期待など微塵も宿っていない。その程度の事は青みのかかった黒髪にも無機質を装う瞳にも隠し切れないようだった。

 そんな彼が突然歩み寄り、手首を緩く握り締めて見つめてくる。吸い寄せられてしまいそうなその瞳は男女共通のガラス玉。

「夢野さんの将来の姿、見てみないか」

 つまるところ怪奇現象への好奇心ただ一つでの行動。灯里の事など意識していない様が目に見えてついため息をついてしまう。

「そういうところ先輩らしいですね」

 言葉を返した灯里に向けられた表情は清々しさに充ちた笑顔。あまりにもはっきりと作られた笑顔は灯里が込めた意図を汲み取ったのだろうとつかませる。

「うつらうつらして危うくうつつから抜け出すところだったよ」

「うつ……つ川先輩だから……ってそんな名前ネタ」

 現川は猫の足跡の柄を連ねて彩られたトートバッグを肩にかけて歩き出す。渡る廊下は緩やかな日差しが揺れて、床に描かれた窓の桟の影に貫かれた二人の影、それが時たま大きな壁の影に飲み込まれてしまう。

 廊下を抜けた先に待つ下駄箱。灯里の将来の目は決して見る事のない生の光景。どうしてもそう思えてしまう。

 校舎の壁に三方向を塞がれた中庭へと向かい、中心に広がる浅い池を前にして現川は語り始める。

「これはちょっとした噂。ある生徒が試したらしいんだ」

 確かな情報など無いのだろう。トートバッグを倒した丸太を削り作られたベンチに降ろして言葉を続ける。

「水面が揺れてるんじゃないかってくらい暑い池での事」

 トートバッグに手を入れ、何かを探りまわしてしばらくの後、恐らく必要なものと思しきそれを取り出した。

「池の周り、みなもに映る顔を囲むように鏡を置いていくんだ」

 自身の言葉に従うように鏡を置いていく。校舎の周りを駆け回っている集団は運動部だろうか。微かに不揃いな足音と耳が痛くなるような鋭い掛け声が清らかな姿で澄み渡る。

「そうして一人で池を覗き込むんだ」

 現川はそのまま石畳の地面に膝をつき、池を覗き込んだ。後ろから見ている灯里にはこの上なく滑稽な光景でしかない。

 それからしばらくして顔を上げた彼から表情の色は消え失せていた。灯里にとっては彼の不満顔など見慣れ過ぎて分かりやすいものだ。

「そんなにつまらないものが映ってたんですか」

「何も映らなかったよ」

 軽く口を広げて乾いた笑いを零す様に隠された本心は不明瞭そのもの。

「試してごらん」

 そうして池へと歩み寄ろうとした灯里だったものの現川の声に引き留められる。彼はトートバッグから掌に収まる大きさの直方体を手渡した。

「もしよかったらカメラで撮ってみて、夢野さんの将来の姿、見てみたいんだ」

 ため息をつきながら傾いた陽光を受けて銀色のきらめきを放つカメラを受け取る。恐らく彼が見たいものは灯里の将来の姿ではなく怪奇現象の存在を残した画像。

「分かりました。ちゃんとカワイク撮るんで褒めて下さいね」

 現川が灯里を褒める光景など想像も付かない。灯里としても現川に寄せる特別な想いがあるわけでもなく、どちらかというと日頃の男子からの扱いへの不満と冗談を交えた八つ当たりに過ぎなかった。

「今の顔と違ったら別人と思われるかもね」

「加工の疑いからじゃないんですか」

 会話を挟みながら向かい合ったそこは薄っすらと緑に色付いており、自然の水のにおいを象徴する嫌悪感が鼻を突く。顔を軽くしかめながらもそれでは綺麗に撮れないかも知れないと考え改め表情を和らげる。

 やがて向かい合った水の鏡面は辺りの鏡や窓によって集められた太陽の輝きによって白く色付いている。そこに映された顔の形に目を奪われてしまった。

「これが私なんだね……確かにこれが私なんだ」

 日頃鏡で見つめる自分の姿とは異なる顔。正面から撮った写真は角度を付けたもの含めて幾つも見て来たもののそれらとも異なる顔はそうありながらも灯里の顔だとしっかりと認識させる。あまり主張の強くない鼻とほんのりと膨らんだ下唇。髪は日頃より少し掠れた色合いをしていたものの肌の色も多少濁っている事を鑑みるに池の色の仕業だろう。

 目元が軽いつり目を、目尻は微かに垂れ目を形作っている。大きな瞳は灯里の視線そのもので、特に変わった様子は見えてこない。

――失敗かも、先輩に言ってやろうかな

 現川へと文句を言いに行こうと顔を離したその時、一つの変化に気が付いた。

――あれ、制服が違う

 灯里が身に着けている学校指定の白のワイシャツは今もそのまま、着替えるはずもない。しかしながら池に映る灯里が着ているものは白みがかったベージュと思しきスーツ。

「撮らなきゃ」

 カメラが池に映り込まないよう低く構え、スーツ姿の灯里の顔をレンズに収める。後ろで待機している彼以外は誰一人として信用しないだろうと半分落胆を抱きながらその場を離れようとしたその時、池に映された彼女に異変が訪れた。

 スーツ姿の灯里が口を横に広げて怪しい笑顔を浮かべる。

「えっ」

 呆気に取られたその瞬間、池の縁付近が揺らめく。灯里は後ろへ飛び退こうと足に力を込めるものの、それは叶わない。

 池から飛び出してきた白い手が灯里の足首をつかみ、顔を歪めてしまう程の痛みを与えながら引き摺り込んでいく。

 顔を歪め、必死に抵抗を試みるも目の前の灯里は表情一つ変えることもなくただ白い手を伸ばすだけ。少しずつ引き摺り込まれて行く。靴が池に波紋を作り始め、いよいよ強烈な危機感が全身を駆け巡り始める。

――先輩

 水中に引き込まれる体、全身が冷たさに浸され、陽光を受けて金色に色付いた茶髪が辺りに広がり池の色と混ざり合う。必死に顔を上げる中で見た景色は校舎の壁に阻まれることなく広がる夕暮れ空とこちらに気が付いていないと言った様子でたそがれに身を浸す現川。

「先……輩」

 地上と池の境界線はこの世とあの世を隔てているよう。逢魔が時、大禍時。そんな時間の存在に断ち切られているように思えてしまう。

 声を上げようとするも口は既に水の中。鼻までもが水に浸かり空気を取り入れることが出来ない。遂にその目は水の膜に覆われて景色すら見渡す事が出来なくなってしまったようだ。

――私、このまま

 生きたいという切望は死という絶望へと塗り替えられてしまう。薄れゆく景色、苦しみに歪められた顔は誰の目から見ても美しくなどないだろう。

 全ての終わりに何も思う事が出来ない。死の実感が訪れる感覚はあまりにも曖昧で悪い心地はしない。

 そんな中で池に入る腕があった。一本、二本と緑に濁った水を突き破るそれは灯里の体を抱き締めて引き上げて行く。

 途端に体が重力をつかみ、全身が濡れた事に心地悪さを感じて行く。空気が纏わりついた体、髪が張り付き獲得した嫌悪感はここが現実だと突き付けていた。

「助……かった」

 咳き込みながら口にした言葉は灯里を助けてくれた人物には伝わらなかったのだろう。灯里を抱き締める固くて長く細い体は初めて灯里に年頃の男の感触を与えた。

「こんなに浅い池で溺れるなんてずいぶん器用だね」

 意地の悪い笑顔を浮かべる彼の顔を映す視界は濡れて歪む。温かな水が濡れた頬を伝って異なる温度感を演出する。

「もう、先輩のせいですからね」

 声は震え、肺は必死に空気を求める。果たして彼を責める言葉は伝わったものだろうか、灯里には分からなかった。

「ごめんね、ただ未来の姿が見えるってしか言われてなかったのに、本当に俺のせいだ」

「そんなに自分を責めないで」

 灯里の額に唇が触れる。灯里は顔を上げ、現川と目を合わせて茶を帯びた灰色の瞳に宿る感情の色彩がはっきりとしている事を確かめる。

「帰ろう、今日はもうおしまいだ」

 離れた現川の背を見つめ、灯里は自分の額を撫でる。

――あの感触

 現川の唇はあまりにも冷たく、彼の心はあまりにも優しすぎる。そんな事実に違和感を抱かずにはいられなかった。

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