第2話「優等生の凛、壊れる日」
1
「春野凛って、ちょっと怖いよね」
休み時間、誰かの何気ない一言が、教室の空気を歪めた。
「成績トップ、運動もできて、委員会も全部引き受けて。……なんか、近寄りがたいっていうか」
「裏で努力してるんだよ、あの子。……それにしてもさぁ」
声は笑い交じりだった。でも、棘があった。
俺は黙ってその会話を聞いていた。
笑うことも、止めることもできずに。
──そのときだった。
「……そういうの、本人に聞こえる場所で言わないでくれる?」
声の主は、凛だった。
教室の後ろで、資料をまとめていた彼女の背中が、ピクリと揺れていた。
その顔は、笑っていた。
いつもの、完璧な笑顔だった。
けれど、その目は──ひどく乾いていた。
2
放課後。
俺は、屋上で凛と二人きりになった。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「いや、別に。あいつら、悪気はないんだと思う」
凛はフェンスにもたれて、風に髪をなびかせていた。
「……でも、ああいう言葉、たまに効くんだよね。じわじわ」
「凛?」
「私ね、昔から『優等生』って呼ばれてきた。
テストで100点取って、委員長やって、笑っていれば“凛ちゃんはすごい”って褒めてもらえる」
「……」
「でも、ちょっとでも疲れた顔を見せたら、みんな離れていくの」
彼女の横顔が、少しだけ揺れた。
「“がんばらなくても、誰かに愛されたい”って思ったら、ダメなのかな」
その言葉に、ぞくりとするものを感じた。
俺の“目”が見ていた。
凛の背中に、ふわりと黒い影が浮かんでいる。
それは、昨日の放課後よりも濃く、形を成していた。
真白の言葉が頭をよぎる。
「完全には堕ちていない。でも、もうすぐ──」
3
夜。
真白と駅前で落ち合う。
「進行してる。春野凛、心のスキマが広がってる」
「……知ってる」
俺はうつむく。
「アイツ、言ってた。“がんばらなくても、愛されたい”って」
「それは、“契約”の入り口。欲望でもある。
“誰かに必要とされたい”という想いは、悪魔の甘い蜜」
真白は淡々と言う。
「でも……」
「でも?」
「俺は……それを否定したくない。
疲れてるやつに『がんばれ』なんて言いたくない」
「……優しいね、あなたは」
「それが間違いでも、偽善でも……俺は、凛の気持ちに寄り添いたい」
真白は、小さく息を吐いた。
「……なら、覚悟して。
“共感”は、時に悪魔の扉を開く鍵にもなる」
4
次の日の朝。
凛は教室に来なかった。
代わりに、学校の非常階段に座り込んでいた。
制服はよれていて、髪もぼさぼさだった。
でも、彼女は笑っていた。
「ねえ、見て。がんばるの、やめてみたの」
その手には、ビリビリに破られた課題プリント。
「そしたら、すごく楽になったよ。
誰も私に期待しないし、何も任されないし、もう“優等生”じゃなくて済む」
黒いもやが、彼女を包み始める。
「凛、それは──」
「ねえ智久。もし、私が“がんばらない私”になっても、好きでいてくれる?」
その瞳が、潤んでいる。
それは懇願だった。
「救って」じゃない。「許して」だった。
俺は、一歩近づく。
「……お前がどんな自分でも、俺はちゃんと見てるよ」
「……ほんと?」
凛が、そっと俺にキスをしようとした、その瞬間──。
「離れて!」
真白が現れ、ナイフを振りかざした。
キィィンと空気が震える。
黒いもやが、悲鳴のように弾けて消える。
凛は、気を失うように俺に倒れかかってきた。
「……ありがとう、智久」
小さく、震える声だった。
5
その日の帰り道。
真白と並んで歩く。
「……言ったでしょ? “共感”は鍵にもなるって」
「……ああ」
「でも、彼女は助かった。
あなたが“がんばらない彼女”を否定しなかったから」
「……でも、俺も少し怖かった。
あのとき、“好き”って言われたら、たぶん──」
「キスしてた?」
「……ああ」
真白が立ち止まる。
そして、ぽつりと呟く。
「それは、罪じゃない。でも、“隙”にはなる」
「え?」
「あなたの優しさは、きっと……たくさんの“悪魔”を呼ぶことになる」
真白の声は、少しだけ震えていた。
夕暮れの風が、二人の間を通り抜ける。
「……それでも私は、あなたの隣にいる」
そのとき、彼女が少しだけ俺の袖を握ったのを、俺は気づいてしまった。
──第2話・了──