55. 王国の噂話
足が勝手に動いていた。全速力で人の間を縫うように走る。
後ろからフロイドたちの声が聞こえたが、振り向く余裕はなかった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
(そんな……そんなことって)
霊になった人の家に『棺が届いた』と聞いたら、勘違いするしかないではないか。
ララは大広間から飛び出し、正門に向かって玄関ホールと庭園を駆け抜ける。
(初めから騙されていたなんて)
ララだけではない。捜査官も国民も、テオドールさえも欺かれたのだ。――グラント公爵家に。
違和感はあった。テオドールのイヤーカフを届けに行った日のことだ。
マリッサは一度も聞いてこなかった。『テオドールの霊は、この場にいないのか』と。
彼女は霊の存在とララの体質を信じていた。それならば、五十九日の寄り道期間も信じている可能性が高い。つまり、テオドールの魂が五十九日間漂っていると考えるはずなのだ。
だがマリッサは霊について聞いてこなかった。理由は簡単。彼女は自分の息子が霊になっていると、夢にも思わなかったのだ。
(テオが言ってた。グラント公爵家には、屋敷の中にも医療設備が整ってるって。……人命救助のためなら、なんでもする家だって)
――もしも、の話だ。
グラント公爵家が安眠の間を屋敷に展開した理由が、『死んだ息子の遺体を五十九日間守るため』ではなく、『意識不明の息子を、姿が見えない外敵から守り抜くため』だったとしたら。
テオドールが帰った場所が、『神の元』ではなく、『意識が戻りかけた自分の体』だったとしたら。
耳に届く蹄の音が大きくなってきた。正門付近にぼんやりと馬のような影が見えて、ララは足を止める。肩で息をし、影を見つめる。
馬から飛び降りた人影が、迷いなくこちらに向かって走ってきた。
外灯に照らされて、はっきりと相手の顔が見えた。
これは現実なのだろうか。ようやく見えたと思ったのに、すぐにぼやけて見えなくなる。
涙が溢れて止まらなかった。拭うのを諦めて、しゃくりあげながら叫んだ。
だって、ひどいではないか。
「生霊だったなんて、聞いてないです!」
強い衝撃と共に、覆いかぶさるように抱きしめられた。捜査局の制服越しに、鼓動が聞こえる。
テオドールの心臓が、動いている。
「俺もさっき気付いたんだ」
――死んでなかった、って。
テオドールは言いながら、腕にぎゅうっと力を込めた。
「わ、私が、今日一日で、どれだけっ……!」
「分かってる悪かった。何回でも謝るし殴って良いから泣き止んでくれ」
ぽろぽろとこぼれる涙を、焦った様子のテオドールが拭う。触れる指先が優しくて、さらに涙が出てくる。
ララだって怒っているわけではない。本当はもっと可愛いことを言いたい。だが彼との会話が夢みたいで、覚めてしまわないか不安で、感情と言葉がちぐはぐなのだ。
鼻をすすり、涙を止めようと試みる。ほんの二ヵ月前まで涙を止めるのは得意だったのに、随分と泣き虫になってしまったものだ。
「……本当の本当に、生きて、いるのですね」
「奇跡的にな」
改めてテオドールを見上げると、少し髪が乱れていた。馬を飛ばしてきたからだろう。彼に頭を下げてもらい、整える。
「先ほどまで眠っていたのですか?」
「ああ。起きてすぐここに来た」
「急に動いて大丈夫なのですか? 刺し傷も……」
「数日前までは死にかけてたらしい。だが今は問題ない」
数日でそんなに回復するものなのだろうか。心配そうな表情を浮かべたララの首筋に、テオドールが顔を埋めた。甘えるようにすり寄られ、背筋が痺れる。
「目が覚めたら、君の香りがした」
「香り……?」
「母に渡しただろ。『大地のおすそ分け』」
ララがイヤーカフを届けに行った日、テオドールの命は長くないと考えられていたそうだ。傷の治療は完璧だったものの、彼は血を失いすぎた。
昏睡状態が続き、脈も徐々に弱まっていた。神に祈るしかできぬ日々。
テオドールの死を偽るために用意した棺を、実際に使う日が近付いてくる。
テオドールの母、マリッサは、最後にテオドールを喜ばせようとしたらしい。彼が好きだったものを使おうと、ララが贈ったアロマオイルを病室で使ったのだ。
「両親はたまげただろうな。いつ死んでもおかしくない状態だった俺が、みるみるうちに回復していったんだから。……なあララ。大地のおすそ分けの効能は?」
「精神安定と…………生命力の、活性化、です」
だよなぁ、とテオドールが喉を鳴らした。
「君が俺を、救ってくれた」
ああ、どうしよう。
せっかく涙が止まったと思ったのに。
俯いて顔を隠そうとしたのだが、テオドールに阻まれた。
「ありがとな、ララ」
テオドールが顔を傾けたのを見て、ララは身を委ねた。唇が重なり、わずかに離れては、深く合わさる。
呼吸が乱れる。熱い吐息ごと絡め取られ、食べられてしまいそうだった。足から力が抜けて立っていられない。テオドールに抱きしめられながら、必死に彼の制服を掴んだ。
欲しい、欲しい。奪ってほしい。
どれほどそうしていたのだろう。ララの全身が赤く染まった頃、二人は口付けをやめた。
体中が熱くて、ぼーっとする。蕩けた顔で呼吸を繰り返した。
「約束、ちゃんと守ったぞ」
頭上から聞こえた低い声に、ララはこくんと頷く。
「……おかえりなさい、テオ」
「ああ、……ただいま」
互いにもう一度唇を重ね、名残惜しそうに離れる。
目の前には、大空みたいな青があった。
「君と生きるために、戻ってきた」
◇◇◇
――死んだはずのテオドール・グラントが生きていた。
情報が夜の王都を駆け巡り、この日の夜会は非常に賑やかだった。
テオドールを追ってきたグラント公爵家の面々は貴族たちから質問攻めにあい、大所帯で夜会会場に駆け付けた捜査官たちはこちらを見るなり号泣し始めた。
「局長とララさんが並んでるところ、見れるなんて……っ!」
「良かったよぉ。本当に、うぅっ、良かったよぉ」
マックスが鼻をすする横で、アルバートが真っ赤な目元を擦っている。
彼らをなだめながら静かに涙を流していたヒューゴが、ララに向かって深く頭を下げた。
「テオを救ってくださったこと、……心から……感謝いたします」
震えた声が温かくて、弱った涙腺が刺激される。
ララは捜査官たちに混ざり、子供のように泣いた。それと同じだけ笑い、喜びを分かち合う。
頭を撫でてくれるテオドールの瞳が微かに揺れていると気付き、愛おしさで抱きしめずにはいられなかった。
捜査官たちにもみくちゃにされたララとテオドールは、じゃれ合うようにダンスを踊った。
半透明ではない彼と手を繋ぐ度、耳元で愛を囁かれる度、大好きな笑顔を見る度、胸が高鳴る。
この上なく幸せな時間を過ごし、二人は会場を後にした。
女性に見向きもしなかったテオドールに想い人がいた。これは貴族たちにとって、彼の生存の次に衝撃的な出来事だったようだ。
そのためテオドールが帰ってきてからの数日は、捜査局を訪ねてくる人の対応に追われた。
『誰もが憧れる犯罪捜査局の局長』と『元呪われた令嬢』の組み合わせでは、難色を示す者もいるかもしれない。
ララは周囲の説得方法に頭を悩ませていたのだが、不思議なことに祝福の声以外届かなかった。
ジャスパー曰く、『あなた達が本気で愛し合ってることくらい、見たら誰でも分かるもの』だそうだ。
接点がないと思われたテオドールとララは、いつの間に恋仲になったのか。皆の興味はそちらに向いたらしく、ララは何度も馴れ初めを聞かれた。
答えるためには、忘れてはならない人がいる。チェスター・カルマンだ。
カルマンは倉庫街での事件の後、すぐに死刑を言い渡された。しかし通常の刑は執行されず、北部の牢獄に送られた。
残虐な行為に手を染めた者は、王国では簡単に死なせてもらえない。安らかに神の元に帰ることを許されない。
カルマンは違法薬物の影響を調べるための生きた人形になった。
北部からの定期連絡によると、死の間際まで薬物で朽ち果てる肉体と幻覚に怯えていたそうだ。
カルマン以外も、倉庫街での事件に関与した者はそれ相応の報いを受けた。捜査局が徹底的に調べ上げたからだ。
ララも大いに走り回った。変装した捜査官たちと共に組織に潜入したり、霊から情報をかき集めたり。
その間にテオドールを刺した少年は無罪になり、母国に帰った。テオドールの希望だったため、異論を唱える者はいなかった。
これで少しは、幽霊少年の無念を晴らすことができただろうか。ララは時たま、空を見上げて考える。
「――ふぅ。やっと終わった」
研究室でアロマオイルの仕上げを行っていたララは、並べた小瓶を見て一息ついた。
扉をノックする音が聞こえたため返事をすると、訪問者はテオドールだった。
「そろそろ完成する頃だと思ってな。運ぶの手伝う」
「ありがとうございます」
捜査局用と騎士団用に箱を分け、アロマオイルが入った小瓶を詰めていく。
テオドールには捜査局用を持ってもらおう。木箱に蓋をして顔を上げると、タイミングを見計らっていたかのように口付けをされた。
「――っ、仕事中ですよ」
真っ赤な顔で抗議してみても、テオドールには全く効いていない。
「良いことを教えてやる。君の就業時間は三分前に終わってるし、俺は今休憩中だ」
え? と、置き時計を見ると、テオドールが言った通りだった。……なら、問題ないか。
ララは木箱を作業台の中央に寄せ、テオドールに向き直る。
「もう一回、……お願いします」
テオドールの制服を摘むと、彼は腹を殴られたような呻き声を出した。もちろんテオドールが殴られたところなんて見たことがないため、想像でしかない。
「……可愛すぎて、脈への負荷が大きい」
「冗談なのは重々承知していますが、私より先に半透明になるのは許しませんからね」
「分かってるよ。何があっても二度と君を一人にはしない」
言いながら身をかがめたテオドールが、ララに口付けを繰り返す。
半透明な姿での出会いと別れを乗り越え、やっとの思いで結ばれたララとテオドール。
生霊として過ごした時のことを聞かれる度に、テオドールは恥ずかしげもなく答えた。
『あの六十日は、俺とララが結ばれるための寄り道期間だった』と。
あまりにも堂々と語るものだから、皆信じるしかなかったようだ。
二人の六十日間を知らない者はいなくなった。
「あー……このままだと止まらなくなるな。続きは俺の部屋に帰ってからにしよう」
唇を離したテオドールが、ささっと木箱を二つ重ね、片手で担いだ。
「それでは私が持つ物がありません」
「あるだろ、ここに」
真面目な顔で空いた方の手を差し出したテオドールを見て、ララは吹き出す。
こういう時の彼は何を言っても譲らない。大人しく手を握ると、テオドールが指先に唇を落とした。彼に触れられる度、「好きだ」と言われている気分になる。
「早く帰るぞ、ララ」
「……ふふっ、はい」
指を絡め合った二人は、並んで歩き始めた。
二人を引き裂く運命は、もうどこにも存在しない。
◇
月日は流れ、――事件から三年後。
ミトス王国では新たな噂話が広まっていた。
――あなたが生を終えた時、一体何を思うだろう。
幸せだっただろうか。満足のいく人生だっただろうか。愛する人に伝え忘れたことはないだろうか。安心して神の元に、帰れるだろうか。
やりきった人生だったのならば、それほど素晴らしいことはない。
だがもしも。
もしも心残りがあるのなら、王城勤めのララ・グラントを訪ねると良い。
きっとあなたの最後の願いを、叶えてくれるから――。
fin
『エンディング目前の半透明な令息と、60日の寄り道を』これにて完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




