44. 夜会と呪われた令嬢(3)
ララが笑いかけると、少女は目を見開いて頬を上気させた。シアーズ侯爵と夫人も、驚いたような表情でこちらを見る。
少女は両手を体の前でもじもじと動かした後、恥ずかしそうに名乗った。
「……アンジー。アンジー・シアーズ、です」
「アンジー様ですか。素敵なお名前ですね」
霊の正体はアンジー・シアーズ侯爵令嬢。シアーズ侯爵家の一人娘だ。
公表されていない名をララが呼ぶと、夫人はアンジーが立つ場所を見つめる。
「……本当に、アンジーが?」
「いらっしゃいます。容姿や服装に心当たりは」
「間違いなくアンジーです。でも、どうして? あの子は元気なはず……あれ?」
夫人は焦ったように視線をさまよわせる。侯爵も同じ反応だった。
「ケイト。最後にアンジーと話したのはいつだ?」
「……分からないわ。あの子に泣いているところを見せたくなくて。……あなたは覚えてる?」
「いや……」
そうだろうと思った。
アンジーが心細そうに夫人たちを見る。ララはアンジーの頬に手を伸ばした。サーシャの時と同じだ。触れられないが、触れているつもりで撫でる。
「アンジー様は、寂しくなってしまったのですね」
侯爵と夫人は、神の元に帰った子供のことで頭がいっぱいだった。悲しみに打ちひしがれていた。優しさゆえの反応であり、間違えていない。しかしその優しさが、愛娘を孤独にさせた。
アンジーは頬を撫でるララの手に、自分の小さな手を重ねる。
「アンジーがね、……男の子だったらよかったの」
ああ、こんなことを言わせてしまうだなんて。
違うよと伝えたくて、ララは首を振る。だがアンジーの気持ちは痛いほど分かる。男兄弟……家の後継がいないララも、何度も同じことを考えてきたから。
この少女は、テオドールに救われる前の自分と似ている。
「男の子でなくとも、あなたは愛されていますよ」
「でも、お父さまもお母さまも、アンジーを忘れちゃったの。いらない子みたいに。お母さまはずっと泣いてて、お母さまを見てるお父さまも悲しそう」
「アンジー様はお二人が心配になって、慰めようと頑張ったのですね」
「夜いい子に眠ったらね、お母さまの所に来れるの」
アンジーは両親のために生霊になった。そばにいようとしたのだ。深い悲しみから抜け出してほしくて、自分の存在を思い出してほしくて、音を立てたり、物を動かしたりしたのだろう。
ララはアンジーの方を見たまま、侯爵と夫人に話しかけた。
「……私は子供を授かったことがありませんので、お二人の苦しみを完全に理解することはできません。我が子を想う親の気持ちは分かりません。……ですが、親を想う子の気持ちは、分かるつもりです」
ララは自分の両親を思い浮かべる。
二人が泣いていたら、自分は苦しい。苦しかった。息ができなくなるほどに。
「子供は大好きな家族に、いつだって笑っていてほしいのです」
幸せであってほしいのだ。愛する人に。
「お二人の心に空いた穴は、そう簡単に埋まるものではないでしょう。神の元に帰った命を想い続けることは、何も悪いことではありません。……ですがどうか、そばにいる命も奇跡のような存在だと、思い出していただけないでしょうか」
今当然のように隣にいても、それは決して、永遠ではない。蔑ろにして良い理由にはならない。
夫人の元に現れたアンジーの霊は、少女の心そのものだ。少女は両親への愛を、不器用ながら伝えようとした。どうか二人には、この愛を知ってほしい。
ララはアンジーに微笑みかけ、夫人と侯爵に視線を向ける。
目が合った夫人が涙をこぼしたが、心は痛まなかった。涙が負の感情ではないと思ったから。
夫人は本来気丈な性格なのか、目元をぐいっと拭った。そしてララの隣にしゃがみ込む。
「私は恨まれていたのではなくて、愛されていたのね」
「そう思います」
ララが頷くと、夫人は今日初めての笑顔を見せた。
「私の可愛いアンジー。寂しい想いをさせてごめんなさい。格好悪い母でごめんなさい。でもね、あなたが私のお腹の中にいた時から、あなたは私とジェイクの宝物よ。何があっても、それだけは変わらないわ」
はっきりと自分の気持ちを伝える姿は、とても強くて、格好良かった。アンジーは立ち尽くしたままぽろぽろと涙を流し、夫人を見つめる。
「本当は今すぐあなたを抱きしめに行きたいけど、体は眠っている時間よね。明日の朝、必ずジェイクと一緒に会いに行くわ。だから今日は、ゆっくりおやすみ」
夫人が小指を出すと、アンジーは自分の小指を絡めた。二人の小指が繋がれている様子は、ララにしか見えない。だが直感した。
この親子なら、心配いらない。
「……やくそく」
幸せそうに頬を緩めたアンジーの体が透けていく。少女は最後、ララに向かって手を振った。
「ララさま、ありがとう」
夫人と別れたララは、来た時と同様、シアーズ侯爵の後ろに続いて廊下を進む。
(……よく考えたら私、侯爵に歯向かったのよね)
彼の依頼を無視したことを思い出し、こめかみを押さえる。
自分の選択に後悔はしていないが、侯爵からの依頼内容を夫人に喋ったのはまずかったかもしれない。後で喧嘩になっては困るし、早めに謝っておこう。
侯爵に話しかけるタイミングを見計らっていると、大広間に戻ってきてしまった。
なぜだか分からないが、入場した時とは違う視線を感じる。会話に花を咲かせていたであろう令息たちも、壁際で退屈そうにグラスを煽っていた令嬢も、踊る男女も、皆あんぐりと口を開けてこちらを見る。
「何かあったのでしょうか?」
半分ひとり言のつもりだったのだが、声に反応して侯爵が振り向いた。
「驚くなという方が、無理だろうな」
彼の視線を追って自分の手元を見ると、握ったヴェールがふわりと空気を含んだ。ララは飛び跳ねそうな勢いで目を剥く。
「……ああっ!」
しまった。アンジーの前で外したまま、被り直すのを忘れていた。大慌てで俯き、ヴェールを被ろうとする。しかしその手を侯爵に止められた。
「これを被るのはもうやめなさい。下を向く必要もない」
ヴェールを取り上げられ、ララはひどく狼狽える。
「ちょ、え、ちょ、それがなくては」
「アンジーには普通に笑いかけていただろう」
「あ、あれは例外でして。ご存じだと思いますが、貴族が集まる場では顔を隠しているのです。ヴェールを外したせいで、みなさまも驚いていらっしゃいますし」
「私には妻と娘がいるからこのようなことは言いたくないのだが、皆が驚いているのは、君が美しいからだ」
予想だにしなかった侯爵の言葉に、ララはさらに狼狽える。侯爵は意外と冗談を言う人なのだろうか。だとすると先ほどまでのイメージと違いすぎる。
隣のテオドールが愉快そうな点もいただけない。笑ってないで助けてほしい。
情けない顔で大広間から退出しようとしたララだったが、次の瞬間、ピタリと動きを止めた。
「君には申し訳ないことをした」
シアーズ侯爵がララに向かって、頭を下げたのだ。
「私は君の能力を信じたくなかった。君の噂だけを利用し、言いたくないことを言わせようとした。君の気持ちを無視した行いだった」
テオドールが侯爵について『真面目な男だ』と言っていたが、その通りのようだ。こんなに大勢の前で、嫌われ者の小娘に頭を下げるとは。
「侯爵。結局私は、依頼を達成できていませんので」
「そんなことはない」
頭を上げた侯爵の表情は、心なしか柔らかかった。アイスグレーの瞳から、初めて温もりを感じる。
「私が君を呼んだのは、ケイトに笑ってほしかったからだ。君は私を恐れることなく真実を話し、見事に依頼を達成した。……同時に私は、夫としても父としても足りない男だと痛感させられた」
「それは違います」
ララも最初は、シアーズ侯爵が夫人の言葉を疑う、愛の薄い人なのだと思っていた。だが今の話を聞いて確信した。シアーズ侯爵は夫人を信じていなかったのではない。霊を信じたくなかったのだ。
「私には霊が見えない。いくら心身を鍛えようとも、怯える妻一人守ってやれない。無力な自分を認めたくなかったんだ」
「ですが侯爵は、世間に嫌われている私を呼んででも、夫人を救おうとされました」
そんな人だから、アンジーも心配していたのだろう。
「誰しもできることとできないことがあります。私は侯爵のように、勇ましく戦うことはできません」
「最近は、捜査官たちを日々投げ飛ばしていると聞くが」
「……それには、色々と事情がありまして。と、とにかく、霊に関しては私が適任だったということです。適任者を雇った侯爵は、無力などではありません。夫人とアンジー様を愛していらっしゃる、素敵な男性です」
「アンジーは、……こんな父親を許してくれるだろうか」
「明日の朝、抱きしめてあげてください。それで全て解決です」
生霊になるほど両親を愛しているアンジーが、許さないはずがない。そもそも怒っているのではないのだから。
ララが笑顔で励ますと、侯爵も表情を緩めた。
「あー……、こんなに朝が待ち遠しいのは、初めてだ」
すでに夜会どころではなさそうな侯爵と、しばらくの間アンジーについて話をした。
父の顔になった侯爵からは硬い雰囲気が感じられず、娘を大切に思っているのだと伝わってきた。今の姿をアンジーにも見せてあげたい。
そんなことを考えていると、侯爵が執事を呼び、ララのヴェールを預けた。
「ヴェールは後日、オルティス伯爵家に届けよう。今返すと、君は顔を隠すだろうから」
家に届けられるのは困る。夜会に参加していることを両親は知らない。突然ヴェールが届けば驚かせてしまうだろう。
ララは侯爵に事情を説明し、捜査局に届けてもらえないかと尋ねた。
「オルティス伯爵には昼頃私から手紙を出しているから、今夜のことはご存知だ」
「……え?」
「実は捜査局に依頼状を送る前に、三度オルティス伯爵に君を借りたいと頼んだんだ。突っぱねられたが」
「ち、父が断ったのですか?」
格上の貴族相手に断るのは、リスクが大きい。なぜそんなことを。
「おそらく伯爵は、君の噂だけを利用しようとする私の考えを読んでいらっしゃったのだろう。君のことになるとオルティス家は鉄壁だと分かっていたが、予想以上だった。三度目の依頼では、『あの子を利用するのなら、第二騎士団には今後船を提供しない』とまで言われた」
そこで侯爵は、オルティス伯爵家ではなく捜査局への依頼という形に変更したらしい。
開いた口が塞がらない。あの明るくて人当たりの良い父が、脅すようなことを言うなんて。
「君が依頼を受けてくれたのは幸運だったが、狡い手段をとったことに変わりはない。だから昼間に報告の手紙を出したんだ」
「そう、だったのですか」
「後でどんな仕打ちを受けるか、恐ろしいものだがな」
「父は優しい人です。きっと船の件は冗談で」
「いや、あれは本気だ。伯爵は君のためなら、国外への移住だって考える男だからな」
意味が理解できないララは黙り込む。
「やはり君は知らないのか。あんなに私たちにご両親への愛を語っておいて、君はご両親からの愛をほとんど理解していない」
侯爵は顎に手を当て、「こういう話は直接聞くべきだな」と、一人で納得している。
「次オルティス伯爵に会った時、聞いてみたまえ。『なぜいつまでも自分の手で、船を造り続けるのか』と」
父と母が自ら船を設計するのは、二人とも船が好きだからだ。少なくともララは、そう思っている。別の理由があるのだろうか。
ララが唸っていると、シアーズ侯爵が広間の入り口を見てつぶやいた。
「噂をすれば、いらっしゃったようだ」
一組の男女が広間内を見回している。離れていても、すぐに誰か分かった。
「お父様、お母様……」
「君のことが心配で様子を見に来られたのだろう」
屋敷に届いた手紙を読み、急いで支度をしてくれたようだ。
「……行ってきても、よろしいですか」
「もちろん。私も君を呼び出した件を謝罪したい。家族での話が終わったら合図してくれ」
「承知しました」
両親と顔を合わせるのは、婚約破棄の報告をした日以来だ。
思い返せばあの日から、ララの生活は一変した。半透明なテオドールと共に過ごし、心が動いた。
勇気を出すなら今しかない。昔のように、両親と一緒に笑えるようになりたい。素直な気持ちを伝えよう、と一歩踏み出した。
――だがそこで、二度と聞くことはないだろうと思っていた声に呼び止められた。
「久しぶりですね、オルティス伯爵令嬢」
途端に背筋が寒くなる。
紳士の仮面を被って近付いてくる声の主に、ララは聞きたかった。
(あなたの目的はなんなのですか)
「……カルマン卿」