42. 夜会と呪われた令嬢(1)
嫌がるララを引っ張っていくように、あっと言う間に夜会当日がやってきた。
この日のために急いで必要な物を揃え、シアーズ侯爵家の資料を頭に叩き込んだ。超特急だが準備は万端。今の気持ちを一言で表すとするならば――、
「もう帰りたいです」
「まだ馬車の中だ」
テオドールに冷静に返され、ララはうな垂れる。カーテンをわずかに開けて外を見ると、街灯のおかげで予想より明るかった。
「馬車、多いですね」
さすがは侯爵家主催の夜会だ。馬車で道が混んでいる。
(緊張するけど、任務の遂行が最優先)
ララは自分の顔を覆うヴェールに触れる。
シアーズ侯爵夫人は今、どんな状態なのだろう。冷静に話ができるのだろうか。
考えていると馬車が止まった。到着してしまったらしい。テオドールが先に降り、こちらに手を差し出す。
「今だけ」
エスコートしたいと言う彼に、見惚れてしまった。
街灯に照らされた、半透明なテオドール。
――格好良い。
唐突に頭に浮かんだ言葉を自覚して、ハッとした。
最近の自分は変だ。
テオドールは告白について、『返事はするな』と逃げ道をくれた。彼は死者。今後も生き続ける自分を想っての発言だと、さすがに理解している。
だがその言葉が、どうにも不満なのだ。
差し出された彼の手をとればこの曖昧な感情が伝わってしまいそうで、怖気付く。
テオドールは躊躇う様子を見て、夜会に行きたくないがゆえの抵抗だと誤解したらしい。
「夜会を乗り切ったら、俺にできる範囲で君の願いを聞いてやる」
またしても甘やかされてしまった。相変わらず彼は過保護だ。
なんだか急におかしくなって、勝手に笑みがこぼれる。テオドールの手に自分の手を重ねると、どきどきするのに安心した。
テオドールは満足そうに頷き、ララの手を軽く握る。
「自信を持って胸を張れ。そのための勝負服だろう?」
彼が今日のために選んでくれたのは、ララの瞳と似た薄紫色のドレスだった。緩く巻いてハーフアップにした髪には、品の良いピンクダイヤモンドの髪飾りがついている。
「物自体はとてつもなく素敵なのですが、着慣れていないせいで落ち着かないと言いますか……」
当初は経費で身支度を整えるはずだったのだが、テオドールが「金は金庫に保管している俺のを使う」と言って譲らなかったため、結局彼からの贈り物に全身を包まれることになった。
仕事用だという点を踏まえても、実はとても嬉しい。だってテオドールが自分のために選んでくれたのだ。こんな経験、二度とできないだろう。
できるだけ綺麗に着こなすためにも、姿勢だけは気をつけなくては。
背筋を伸ばしてテオドールを見ると目が合った。ヴェールがあって、彼からは顔が見えないはずなのに。
「心配いらない。誰にも見せたくないくらい、君は綺麗だ」
この人は、なぜこんなに恥ずかしいことを言えるのだろうか。顔が熱くなる。ヴェールがあって助かった。きっと今の自分は、締まりのない表情をしているだろうから。
消え入りそうな声で「ありがとうございます」と言うと、テオドールは「ん」とだけ答えた。声が耳をくすぐり、今度は全身が熱くなる。
馬車から降りると、前の馬車に乗っていたアルバートとヒューゴが近寄ってきた。並んで侯爵邸の門をくぐり、庭園を抜けて玄関ホールに入った。
「ララちゃん本当にヴェールつけたまま参加するの? 外しちゃいなよぉ」
大広間に向かう途中、アルバートが大きな瞳をぱちくりさせて首を傾げた。可愛らしさに負けて危うく従いそうになったララだが、正気を取り戻して首を横に振る。
「い、いえ。誰かを失神させて犯罪者にはなりたくありませんので」
「うーん。……ララちゃんの噂、多分もう変わってると思うんだけど。それに夜会用のお化粧してもらってるんでしょ?」
「はい。万が一ヴェールが捲れても良いように、念には念を、と思いまして」
ララは日常向けの化粧はできるが、こういった場にふさわしい化粧は不慣れだ。今日はジャスパーに頼んで、『人を不快にさせない感じの夜会に合う化粧』を施してもらった。
(ジャスパー、なぜかお化粧がとても上手なのよね。普段してないのに)
以前カルマンに打たれた痣を隠しきれず困っていたところ、ジャスパーが魔法のような手付きで隠してくれた。
転んで顔をぶつけたと嘘をついてしまったのは申し訳なかったが、あの件があったおかげで彼の化粧の腕前を知ることができたのだ。
「ジャスパーも夜会に遊びに行くと言っていたのですが、まだ来ていないのでしょうか?」
自分の支度に付き合わせたため、彼が遅刻していないか少々心配である。
華やかな赤髪を探して辺りを見回すと、ヒューゴが「ジャスパーなら先に到着してますよ」と教えてくれた。
(私と一緒に来たヒューゴ様が、どうしてご存じなんだろう?)
疑問に思ったララは、つい癖でテオドールを見上げた。しかし――、
「そのうち分かる。楽しみにしておけ」
テオドールからは疑問が深まる答えしか得られなかった。深く聞こうにも、大広間がすぐそこに迫っているため時間がない。
「……では、期待しておきます」
「ああ」
こっそり繋いだままの指先が、きゅっと握られた。テオドールの発言の意味は全く分からないのに、前に進めていた足の重みが、少しだけやわらぐ。
入場のタイミングで、シアーズ侯爵家の執事がアナウンスを始めた。さあ、いよいよだ。
「王立犯罪捜査局より、アルバート・ロックフェラー様、ヒューゴ・ドーハティ様、――ララ・オルティス様」
名を呼ばれた途端、視線が全身に突き刺さった。
目の前に広がるのは、煌びやかな世界。この世界に、自分はまた否定されるのだろうか。そう思うものの、不思議な感覚に陥っていた。
(……意外と、なんともないかもしれない)
この世の大半を占めているように思えた貴族の世界が、ちっぽけに見える。集まる視線も囁かれる声も、大して気にならない。
理由は明確だった。ララの視界の中で、誰よりも何よりも、テオドールが輝いていたからだ。
「もしここにいる全員が君の敵でも、俺は君を愛している」
忘れるなよと彼は言う。ゆっくりと手が離れたが、心細くはなかった。
(あなたが隣にいてくださるから、怖くないのですね)
テオドール・グラントは偉大な人だ。
どうしようもなく臆病だった自分を、変えてしまった。世界の見え方を、変えてしまった。
ララは前を向いて、ヒューゴたちと広間の奥に進む。途中、ちらほらと自分についての話題が耳に入った。騒がせてしまい申し訳ない。呪ったりしないから安心してほしい。
「オルティス伯爵令嬢が捜査官になったって本当だったのか」
「うん、凄いらしいよ」
なんのことだろう。歩きながら令息たちの声に耳をすませた。
「最近はこんな噂があるんだ。――オルティス伯爵令嬢はどんな犯罪者よりも手際良く金庫を破り、詐欺師をも騙す話術で人から情報をかすめ取る。お手製の回復薬は一晩で傷と心を癒すが、代償として薬の使用者は彼女に心を奪われる。捜査官だけじゃなくて騎士の半分以上が、すでに彼女の信者だ」
そんなわけあるか、と訂正したくなった。令息がしたり顔な点も納得いかない。色々と間違えているし、情報収集に関しては、ララはむしろ役立たずである。
真相を伝えたいがむやみに近付くわけにもいかず、黙って続きを聞く。
「おまけにあれだろ? 嵐の中、大荒れの川に飛び込む度胸と、子供数人抱えて這い出すほどの剛腕」
「訓練では男たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「まさに、怪物」
ララは背筋を伸ばしたまま、内心頭を抱えていた。呪いとは違う意味でよろしくない噂が蔓延っている。ちぎっては投げを繰り返すのはテオドールで、自分は無実だ。恥ずかしくなり、歩くスピードを上げた。
「最近じゃあ呪いの噂が霞んでるよな」
「そもそもあの噂、本当か怪しいよね。目が合うと呪われるとか色々言われてるけど、被害者いないし」
フロイドとマックスをはじめとする捜査官たちの宣伝が功を奏したのか、呪いの噂が変わりつつあるようだ。
ララはほっと胸を撫で下ろす。しかしそこで、非難する声が聞こえた。
「被害者ならいます。あなた方、ロレッタ様が五年前に倒れられたのを忘れてしまったのですか?」
声の方を見ると、二人の令嬢が令息たちに近付いていた。テオドール曰く、声の主はヴァイゲル伯爵家の令嬢、ナタリーだそうだ。赤茶色の髪を結い上げており、切れ上がった目元が特徴的だ。
その隣で困ったように俯く令嬢を、ララは知っていた。――ロレッタ・ペレス伯爵令嬢。暗めの髪色と柔らかい顔立ちから大人しそうな印象を受ける、小柄な女性だ。彼女を忘れたことはない。なぜなら昔、失神させた相手だからだ。
どきりとしてロレッタから目を離せないでいると、ナタリーがよく通る声で令息たちに食ってかかる。
「オルティス伯爵令嬢の噂が真実でないとしたら、ロレッタ様が嘘をついたことになるではありませんか」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ」
令息たちが焦ったように否定する。
「ロレッタ様、オルティス伯爵令嬢の呪いの噂は本当なのですよね?」
ナタリーに質問されたロレッタがビクッと肩を揺らした。数秒沈黙した後、彼女は小さく首を縦に振る。
「は、はい。……噂は嘘ではありません。オルティス伯爵令嬢の顔には確かに」
――呪いの痣がありました。
(なんだ……そういうことだったのね)
五年前から、ララはロレッタに謝りたかった。けれども彼女が失神した理由が分からず、謝れなかった。
今の言葉を聞いて、ようやく謎が解けた。
あのパーティーの数日前、ララは初めてカルマンに顔を打たれた。理由なんて覚えていない。そんなものなかったのかもしれない。
当然顔は腫れあがり、患部は変色した。ララはカルマンの命令に従いヴェールを被り、不慣れな化粧を施した。
(手を尽くしたつもりだったけど、完全には隠れてなかったのね)
普通の令嬢の顔に痣があれば、『暴力や事故の痕』だと認識されたはずだ。しかし残念なことに、ララは普通からかけ離れている。
噂を知っていたロレッタは、ララの顔に薄っすらと残った痣を見て『呪いの痣』だと勘違いしたのだ。そして恐怖のあまり、失神した。
(怖がらせてしまったこと、ちゃんと謝らないと。この場で話しかけても驚かせるだけだろうから、帰ったら手紙を出してみよう)
今までになく前向きだった。誠心誠意謝って、それでも駄目なら仕方がない。そう思えるようになったのだ。
ララが貴族たちの間を通り抜けると、正面からお目当ての人物がやって来た。第二騎士団の制服に身を包んだ、シアーズ侯爵である。
挨拶を交わす最中、ララは侯爵を観察した。身長はテオドールより低いが、体が厚い。短く整えられた髪と、持ち上がることのない口角。アイスグレーの瞳は威圧感がある。
抑揚のない侯爵の声を聞いて、ララは自分の母親を思い出した。
「オルティス伯爵令嬢は別室に。ロックフェラー卿とドーハティ卿は、こちらでお待ちいただきたい」
やはりシアーズ侯爵は、自分に依頼を遂行させたいらしい。ララは侯爵の指示通り動くことにした。
「行ってきます」
ヒューゴたちに背を向け、シアーズ侯爵の斜め後ろを歩く。一人のような顔をして、堂々とテオドールを引き連れて。
人気がない廊下まで来た。夫人の元に向かいながら、侯爵が口を開く。
「君は事情をどこまで把握している」
依頼内容に見当がついているのか聞きたいらしい。
「小さな命が神の元に帰られた、というところまでは」
「そうか。なら話が早い。……ひと月ほど前から、妻が何かに怯えるようになった。自分以外誰もいないはずの部屋で奇妙な音が聞こえたり、棚の上の物が勝手に動くと言っている」
「奇妙な音、というものには、手を叩いたような音も含まれますか?」
「……ああ」
ララは昔、自分の体質と霊について調べようと、手当たり次第に文献を読み漁ったことがある。どれも霊の存在を証明できるものではなかったが、その中に侯爵が言った内容と似た現象の記述があったはずだ。
シアーズ侯爵夫人のそばに、霊がいる可能性が高い。
「不可思議な現象について、夫人はどのように考えておられるのでしょうか」
「産むことができなかった我が子が、自分を恨んでいるのだと。……だから君を呼んだ」
確かにこんな話をできる相手は限られている。
本当に霊が関係しているのならば、夫人を救うとまではいかずとも、多少は力になれるかもしれない。
「では私への依頼とは、夫人の周りで起こっている現象の原因を探ることでしょうか?」
「いいや、違う。妻は影も形もない存在に怯えている。あれは精神的な問題だ」
「え……」
決めつけるような言葉を聞いたララは、心にぽっかりと穴が空いた気分だった。
「依頼は数秒で終わる。妻に、『あなたの近くに霊なんていない』と言ってほしい」
最近理解ある人々に囲まれていたせいで忘れていた。これが普通の反応なのだと。
「……それは、信じていない、ということですか?」
「当然だろう。私は自分の目に映らないものは信じない」
「そういう意味ではございません」
「では、どういう意味だ」
侯爵は歩みを止めぬまま、わずかに振り返った。
虚しい。今から自分は、この人からの依頼をこなさなくてはならないのか。
「霊ではなく、夫人を信じていらっしゃらないのですかと、お聞きしたのです」
一瞬、侯爵の動きが止まった。けれども「対価は支払う」とだけ言い、再び前を向いてしまった。
彼は信じていないのだ。霊の存在も夫人の言葉も。そのくせララにまとわりつく噂を利用し、事を収めようとしている。
ララは侯爵の背中を追いながら、きゅっと拳に力を込めた。