31. 黒と赤の密会【テオドール視点】
テオドールが執務室に戻ったのは、日が沈んだ後だった。
ひと月ほど前までは書類の山だったこの部屋も、今ではすっかり片付いている。
時折腕に視線を向けながら、自分が知っている情報を紙に書き出す。
しばらくすると、廊下からバタバタと足音が聞こえた。わざと足音を立てているということは、あの男はララに会いに来たのだろう。
テオドールがペンを置いて顔を上げると、部屋の扉から赤髪が飛び込んできた。血相を変えて、ノックもせずに。
「ララ無事⁉」
何度も見てきた、目くらましの赤。
現れたのはテオドールの旧友、ジャスパー・フォードだった。
「あなた、子供助けるために川に飛び込んだって。……起きて大丈夫なの? 怪我は?」
呼吸を乱したジャスパーが、こちらに近寄ってくる。全力で走ってきたのだろう。偽りだらけの新緑色の瞳が、不安げに揺れている。
「それ以上近付くな」
「…………は?」
テオドールが短く言うと、ジャスパーは目を剥いた。人生で初めてだろう。ララの口から拒絶されたのは。
こんなことをしたって事情を知っているジャスパーに効果はないのだが、嫌がらせをせずにはいられなかった。
ジャスパーがテオドールに、ある事を隠していたからだ。
ジャスパーは五秒ほど固まった後、「マジ?」と顔をしかめる。そのまま背中から倒れ込むようにソファに座った。
「なーんだ、テオなの? ララ出しなさいよぉ。あたしは全部知ってるんだから」
そう。この男は、――知っている。
「ソファを殴るな。あとララは寝てるから出てこない」
「あんたが無茶させたからでしょ? 草むしりに行ったはずなのに、どーして子供担いで川から這い出すことになるわけ?」
不服そうに眉間にしわを寄せるジャスパー。さすがに昼間の情報は、まだ完全には伝わっていないらしい。
テオドールは自分の机から離れ、ジャスパーの正面に腰掛けた。
「気になるのか?」
「当たり前でしょ。だって」
「ララのことだから、か?」
「……そうよ」
「そうか、そうだよな。じゃあ質問に答えよう。だがその前に、……お前に聞きたい。ジャスパー・フォード」
テオドールが纏う空気が変わったと気付いたのか、ジャスパーはソファを殴る手を止めた。
「ララが傷つけられていたことを、なぜ俺に報告しなかった」
これだけ言えば、この男には伝わるはずだ。チェスター・カルマンの名前を出さずとも。
知っていたはずなのだ。ジャスパーはララの身に降りかかった出来事を知った上で、何年も見て見ぬふりを貫いていた。
ジャスパーの考えはある程度予想がつく。責めるつもりはない。けれども二人の関係上、意図的な報告漏れを見逃すわけにはいかなかった。
「あたしの仕事じゃないからよ」
答えを待つテオドールに、ジャスパーはそう吐き捨てた。
「お喋り好きで人当たりの良い、害のないジャスパー・フォード。その立場を守るのがあたしの役目。ララの個人情報を流すのは任務に含まれてない」
悪びれもなくジャスパーは答える。
「ララを救う方法はあったはずなのに、お前はそれすらしなかった」
「誰か一人に肩入れしたって、何の得もないじゃない。あたしがいろんな情報持ってるってバレたら、今までの苦労が水の泡になる。しくじったら、あんた達にも迷惑がかかると思った。あたしはそんなリスクを負いたくなかったから、ララを助けなかったし、あんたに報告しなかった」
一般人ならば、簡単にこの男の言葉を信じてしまうだろう。部外者のララを見捨て、任務を優先したのだと。別に間違えていない。それが本心であってもおかしくはない。
だがテオドールは、自分の親友が正直者で大噓つきだと知っている。この先の言葉があることを、知っている。
「――で?」
「で? って何よ」
「建前は分かった。次は本音を話せ」
まだ終わりじゃないんだろ、と目で促すと、ジャスパーが吹き出した。真っ赤な前髪をかき上げ、ソファに座り直す。
「え〜、あたしの嘘そんなに下手?」
「ララが絡んでなければ、そこそこ上出来だった」
ジャスパーが保身のためにララを助けなかったとは考えられないだけだ。
「お前が俺に報告しなかったのは、……それがララの望みだと考えたから、だろ?」
おそらくジャスパーは、ララの意思を守りたかったのだ。
「……全部お見通しってわけね。ちょっと前までララがカルマンを好きだって勘違いしてたくせに」
そこについては触れてくれるな。愚かな自分を殴りたいのに、ララの体だから殴れないのだ。テオドールは行き場のない自分への怒りを舌打ちで誤魔化す。
「チェスター・カルマンについては何も聞かないと決めていたんだ」
「好きな子の口から婚約者の惚気話とかされたら耐えらんないもんね。そりゃあ話を振らないのが一番だわ」
「……」
図星を突かれたテオドールの目元がひくつく。話題を変えた方が賢明だと思ったのか、ジャスパーは苦笑いを浮かべてララの話に戻した。
「ララはね、手を差し伸べられることを望んでいなかった」
だからジャスパーは、ララの痛みに気付かないふりをした。
「あの子にとって、自分が受けた傷は恥なのよ。暴力を振るわれることも、侮辱されることも、全部自分のせいだと思ってる。だから誰にも苦しみを打ち明けなかった」
テオドールの脳裏に、川岸を走るララが蘇る。
『――ご存知の通り、私は両親に迷惑しかかけられない、情けなくて、どうしようもない娘です』
『もう、役立たずには戻りたくないんです! 協力してください、グラント卿』
(そうか。……そういうことか)
特異な体質を持つ自分を、彼女は今でも許せていない。少しずつ前向きになっているが、まだ完全ではないのだろう。
王国で五本の指に入るほど優れた、魔道具の専門家なのに。優しさも美しさも聡明さも、全て努力の賜物なのに。彼女は自分を、認められない。
「……あの男が、ララをそうさせたのか」
チェスター・カルマン。あの男が近くにいなければ、ララが自分を責め続けることはなかった。家族との関係が今ほど拗れることもなかったはずだ。
何度心無い言葉を浴びせられてきたのだろう。どれほど涙を流したのだろう。
「今すぐララを甘やかしたい」
「声出てるわよ」
「出してるんだ。もう遠慮するのはやめる」
別れが近いからとか、ララを困らせるとか。そんなことを気にしている場合ではなかった。
困れ。悲しめ。だが同時に、認めさせる。
彼女の体質が特別であることを。彼女が愛されていることを。
進むべき道が見えた。テオドールは小さく息を吐く。その間ジャスパーは、首元のゴーグルを触ったり離したりを繰り返していた。
「何年も一人で耐え続けてきたララの覚悟を無視して、あたしが手を貸すのは違うと思った。あの子の望みは普通になることで、最も恐れていたのは、カルマンに婚約破棄されることだった。……あたしにはあの子の望みを、壊せなかった」
ジャスパーは友として、ララの望みを叶えたかった。彼女に笑顔でいてほしかったのだろう。だからカルマンがいかにクズであったとしても、ララが望むならば黙って見守ろうと考えた。
ジャスパーは己の正義とララの間で、人知れず苦しんでいた。
「結局婚約破棄されたから、あたしの選択はララを傷つけるだけになっちゃった」
俯いたジャスパーが、片手でゴーグルを握りしめる。
「ララのこと黙ってて悪かったわ。……でも、これだけは信じて。あたしね」
――ずっとあの子の、助けになりたかったのよ。
聞きたかった答えが聞けた。テオドールは呆れたように笑い、ジャスパーの頭を小突く。
「それを最初に言え」
自分とジャスパーはどちらも選択を誤ったが、目的は同じだった。それならば、今後動きやすい。
「チェスター・カルマンを終わらせる」
簡潔に言えば、ジャスパーが目を輝かせた。数秒前の大人しさが嘘のように生き生きとしている。
「その言葉を待ってたのよ! やるわよ! 完膚なきまでに! 潰す!」
「お前、そんなに嫌いだったのか」
「あったりまえでしょ⁉ 何回あいつの抹殺計画立てたと思ってんのよ! あんたは知らないでしょうけどね、ララは顔を殴られたこともあるのよ? それなのにあの子、絶対にカルマンにやられたって言わないの。『転んじゃって』って笑うだけ。そんなはずねーだろって思いながら化粧で隠してあげたあたしを褒めたたえてくれても良いんじゃないの?」
「……カオヲ、ナグッタ……?」
「あ、やば。褒めてほしかったのに雷落とされそう。落ち着いて、ララの顔に怒られるのはきついから勘弁して」
「そうだ、呪い殺そう」
「名案みたいに言ってもダメよ。テオならできそうだけどさぁ。直接手を下したらララが困るでしょうよ」
「もう良いんじゃないか。ララの前から消せれば何でも」
ララを自分のこと以外で困らせるのは本意ではないが、発言自体は半分以上本気である。
「ララに関する噂も、どうせあの男が流したものだろ」
以前聞いた話だと、ララが霊と話をした現場を目撃したのはカルマンと数人の子供だけだったはずだ。当時のララが九歳だったということは、カルマンの歳は十七。いくらでも噂をコントロールできたわけだ。
「社会的に抹殺するには、証拠が必要か……」
ララの腕の痣はもうじき完治するし、証拠にはならない。
ジャスパーに腕の痣を見せると、「山にするか、海にするか……」と遺体の隠し場所を思案し始めたため、相当頭にきているようだ。
「あいつ絶対後ろ暗いことやってるでしょ。ララの件以外にもさ。調べればいくらでも出てくると思うし、仕立て上げてでも地獄に落としてやるわ。ぐふふ、腕が鳴るぅ」
並々ならぬやる気を出すジャスパー。心なしか肌ツヤが良くなった気さえする。気持ち悪いやつだ。
「ただ、情報を掴んでから動くとなると、テオが神の元に帰るまでには間に合わないわね。やるからには徹底的に調べ上げてからにしたいし。どうする?」
「あの男を完全に消すのは俺がいなくなってからでも構わないが、ララの件を解決するのは早めが良い。安心して離れられないからな」
「このまま残るって選択肢はないの? ララから聞いてると思うけど、霊って割と自由に残ってるらしいわよ」
「それは、――ないだろうな」
霊体では、ララを守れない。物理的にも立場的にも、盾になってやれない。
「ふーん。……ま、あたしは二度と会えないと思ってたテオとこうやって話ができたから。これ以上は望まないわ。希望通りカルマンは必ず潰す。手始めに、あいつがララから奪った他者との繋がりを奪い返してやるわ」
「やり方はお前に任せる」
「そう? じゃあ、『妖精の戯れ』ってところかしらね」
「悪魔の間違いじゃないのか」
「失礼ねぇ、最初は軽めにするわよ。一回で終わらせるなんてもったいないもの。……やっとララを、堂々と助けられるのに」
(お前が羨ましい、なんて思う日が来るとはな)
決して口には出さない。だから思うだけは許してほしい。
この先もララの隣に立つ権利のあるジャスパーが。……ヒューゴが、アルバートが、マックスが、フロイドが。
――ただひたすらに、羨ましい。
テオドールは何食わぬ顔でジャスパーと会話を続けた。カルマンに何体もの霊が憑いている話や、ララと親しい子供の霊がいた話を。
そうしているうちに、次第に夜が深くなってきた。
立ち上がって窓を開けると、夏の夜風が髪を揺らした。終わりの時が、近付いている。
今だけは、残された時間だけは。
彼女の隣を、譲らない。
「時期を見て動け、ジャスパー」
夜空からジャスパーに視線を移す。
弧を描いた親友の口元が、歌うように動いた。
「――了解」




