30. 惚れた弱み【テオドール視点】
テオドールがララの体で町の診療所から出ると、空には穏やかな青が広がっていた。数十分前までの豪雨が嘘のような、爽やかな風が吹く。
いまだにララがずぶ濡れなことが気がかりではあるが、降り注ぐ日差しのおかげで寒さは感じない。
(天気が安定してる間に、捜査局に帰るか)
白衣の裾を絞っていると、フロイドとアルバートが駆け寄ってきた。
「局長、子供たち大丈夫なんすか?」
「ああ。命に別状はない」
「良かったぁ。多分もうちょっとしたら家族が来ると思うよ」
「そうか」
「ララさんはどんな感じっすか?」
「しばらくは起きそうにないな。ずっと走り回ってたし」
川に飛び込んで人を救出したのだから、体への負担は相当なものだっただろう。
ララは特殊な体質だから、魂が眠れば回復する。そう理解しているものの、彼女の笑顔を見るまでは安心できそうにない。
「そういえば子供たちが川に落ちたって情報、誰から聞いたんすか? ほとんど誰も出歩いてなかったっすよね?」
フロイドがタオルで頭を拭きながら聞く。
「子供たちに憑いてる身内の霊だ」
「これまた」
「信じられないか?」
「いまさら何言ってんすか。ララさんにしかできない捜索方法だから感心してただけっすよ。それで、霊に場所を教えてもらって子供たちを見つけたから、助けるために川に飛び込んだ、と」
「……言っておくが、俺は止めたぞ」
「へぇ、じゃあララさんに押し切られたんすか」
本音を言えば、ララの体で飛び込むなんてしたくなかった。彼女の体が傷つく可能性があったからだ。
しかし自分の思い通りにはいかなかった。仕方がない、あれは、仕方がない。なぜなら――、
「……ララが『あなたを信じています』って言ったんだ」
「うわぁ、殺し文句っすね」
フロイドが「あちゃー」と片手で顔を覆うが、口元がニヤけているのはバレバレである。
捜査官としては、あの時アルバートが到着するまで待つべきだった。ララの安全を考えれば、無茶をさせるべきではなかった。そんなことは当然分かっている。
けれども彼女のラベンダー色の瞳に見つめられたら。必死に走る姿を見たら。『あなたを信じています』だなんて言われたら。それだけで全部、吹っ飛んでしまった。
彼女からの信頼だけは、絶対に失いたくなかった。
「要するに、惚れた弱みってやつっすか」
今度こそ心底楽しそうな笑みを隠さなくなったフロイド。生意気に育ったものだ。
「分かってるなら聞くな」
ジトっとした視線を送ると、なぜかフロイドは目を丸くした。
「なんだその顔」
「いや、はぐらかさねぇんだな、と」
「ララへの気持ちをか? お前らに隠す必要ないだろ」
「なのにララさんにだけは……言わないんすか」
「言ってどうする。俺はあと二十日もすれば消えるのに」
ララには未来があって、自分にはない。こんな厄介な感情を伝えれば、優しい彼女は辛い思いをするだろう。
「まあ、そりゃそうなんすけど。最後くらい自分の欲に素直に動いても、神サマとやらは怒らないんじゃないっすかねぇ」
「珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
「局長が惚れっぽい男だったら俺だってこんなこと言いませんよ。でも、……今まで誰も寄せ付けなかったじゃないっすか。仕事で夜会に顔出しても、ご令嬢が押しかけてきても」
「変な噂でも立って、ララに誤解されたくなかったからな」
「女性嫌いだったし、てっきり色恋に興味がないのだと」
「外れて残念だったな。ララ以外に興味がないだけだ」
彼女には愛する婚約者がいたから、自分の気持ちを伝えずに生きてきた。だからと言ってララから離れるつもりもなかったし、他に目が向いたことは一瞬たりともなかった。
魔道具を作る時の幸せそうな顔も、親しくなると冗談を言ってくるところも、照れて恥ずかしそうに俯く姿も。ずっと近くで、見ていたかった。
たとえ自分が、一番でなくとも。
「ララは俺の、唯一だからな」
テオドールが眩しそうに目を細めると、フロイドはカラッとした笑い声をあげた。
「凄えわララさん。局長にここまで言わせるんだもんな」
「このくらい普通だろ」
「へーへー。ララさんに伝えるかどうかは局長の自由ですけど、後悔だけはしないようにしてくださいよ」
「随分と世話焼きになったな」
「誰かさんと働いてたらこうなりました。……ついでに余計なお世話を一つだけ。ララさんに押し切られて川に飛び込んだって言ってましたけど、ララさんが『わがまま』言う相手は、局長だけっすよ」
「……お前」
「ララさんも気付いてないと思いますけどね。――と、子供たちの親が来たみたいっすね」
こちらに走ってくる男女に向かって、フロイドが軽く頭を下げた。
親への説明を済ませたら、今回の任務は完了だ。
「俺対応してくるんで、局長たちは休んでてください」
テオドールが喋る前に、フロイドは逃げるように駆けていった。その後ろ姿を眺めながら、テオドールは隣に立つアルバートに話しかける。
「あいつ、どうしてあんなに生意気になったんだ?」
「フロイドはテオが大好きだからねぇ。仕方ないよねぇ」
それとあいつの性格は無関係だろ。と思ったが、おそらく言い返しても碌なことにならない。これまでの経験がそう言っている。
「テオはララちゃんに気持ち伝えないの?」
「その話まだ続けるのか」
もうやめろよと目で訴えかけても、アルバートには伝わらなかった。いや、違う。伝わっているのに気付かないふりをしているのだ。
アルバートはこういう時、妙に空気を読む。だから普段は騒がしいくせに、今は静かに話を聞いていた。
「テオはララちゃんに、幸せになってほしいんだよねぇ」
「そうだな」
「もうちょっとしたらいなくなる自分は、気持ちを伝えない方が良いって思ってる」
「ああ」
「でもさっき、フロイドや僕には自分の気持ちを言ったでしょ?」
「……ああ」
「僕には『ララは俺のだ』って言ってるみたいに聞こえたけどな〜」
「…………」
どうしてこうも、捜査局には性格が悪いやつが多いのだろう。誰だ、こいつら集めたの。
「……俺か」
「何が?」
「なんでもない」
深いため息をついてみても、アルバートは微笑みかけてくるだけである。
(独占欲を隠せないくらいなら、ちゃんと向き合えってことか)
死んでもなお膨らみ続ける、ララへの感情。それをどうするべきか、考えなくてはならない。この気持ちと、ララと、向き合わねばならない。彼女の気持ちなんて、自分には分からないのに。
――ああ、本当に厄介だ。
テオドールは再び白衣の裾を絞った。裾からは水が落ちてこなくなったが、袖が腕にへばりついて不快だ。肌が新鮮な空気を吸いたがっている。
ララが嫌がるため普段は訓練時でも袖を捲らないのだが、この状況なら許されるだろう。テオドールは袖を肘の辺りまで捲り上げた。
空気に触れた解放感。しかしそれを堪能する前に、テオドールは動きを止めた。
「なんだ……これ」
心臓が一度、大きく脈打つ。
白くて細いララの腕に、あってはならないものを見つけた。うっすらと、けれども間違いなく。
――いつ? なぜ? そんなはずはない。だが、もしそうだとすると……。
疑問と推測が脳内で入り乱れる。まとまりのなかった考えが、徐々に一つの答えに繋がる。テオドールは自分の勘違いに気付いた。
(ララにとって元婚約者との時間は、幸せではなかった……?)
答えに辿り着いた瞬間、煮えたぎる血液。
冷静にならなくては。まずは事実確認だ。そう思うのに、腕から目を離せない。
彼女が耐えてきた痛みが。――強く握られたような痣が、ララの腕には残っていた。