29. ララのわがまま
「――局長の読み通り、めちゃくちゃ降ってきましたね」
フロイドが窓の外を確認し、出来立てのパスタを頬張る。
一時間ほど前、空を見上げたテオドールが「一雨きそうだな」と言い出したため、今日の作業は終わりになった。
「もっと切り倒したいのにぃ」と口を尖らせたアルバートは、子供たちに負けないくらい可愛らしかった。本当にテオドールと同い年なのだろうか、と、改めて疑う。
ちょうど昼時だったこともあり、ララたちは町のレストランに入った。メニュー表を眺めていたところ、雨が降り始めたのである。それも、滝のような雨が。
ララは雨音を聞きながら、運ばれてきたばかりのキッシュを一口サイズに切った。適度な焦げ目とチーズの香りが食欲をそそる。フォークで口に運ぼうとした、その時――。
バンッと音を立て、店の扉が勢いよく開いた。
「ニーナとコリンが家に帰ってきてねえらしい! 誰か見てないか?」
先ほどまで一緒に伐採を行っていた男性が、ずぶ濡れで店に入ってきた。
店内の人間は皆首を横に振る。
「……そうか、ここでもねえか」
顔を曇らせて再び出ていこうとする男性に、ララは駆け寄った。彼が探している人物の名前に、聞き覚えがあったからだ。
「あの、子供たちが帰っていないというのは」
「捜査局のお嬢さんか。さっきまでお嬢さんに遊んでもらってた子供なんだが」
「サーシャ様のお孫さんですか?」
「そんなことまで知ってるのか。あの二人が家に帰ってないみたいでな。晴れてりゃ問題ねえんだが、この雨だろ?」
依然として止む気配のない雨に、不安な気持ちが押し寄せる。
「心配ですね。私も探してみます」
「いや、でもお嬢さんは、貴族――」
「貴族ですが捜査官です。それに、子供を放っておくなんてできません」
「……草抜いてる時も思ってたけど、変わってんなぁ。……二人の捜索、頼めるか?」
「お任せください」
男性を先に送り出し、ララはアルバートとフロイドの方に振り返る。すると二人は外に出る準備を終えていた。
「ララさん、止めても探しに行きますよね」
挑戦的に笑うフロイドは、ララの答えを知っているようだ。
「はい」
「それでこそうちの新人っす。雨も心配ですけど、風も強いんで吹っ飛ばされないように。あと何かあった時は、すぐ局長を体に入れてください。頑丈になるんで」
テオドールの扱いがそこそこ雑である。しかし心配されていることは分かるため、ララは承諾した。小走りで席に戻り、床に置いていたトランクを手に取る。
(汗拭き用で持ってきたタオルが入ってるし、一応これも持って行こう)
「それじゃ、新しい情報が入った時はイヤーカフで連絡を」
「承知しました」
「オッケー!」
フロイドの言葉にララとアルバートが頷き、三人は店から飛び出した。
「ニーナさまー! コリンさまー!」
ララは子供の名前を呼びながら町を走る。住民たちは建物の中に避難しているようで、ほとんど人の姿がない。これでは目撃情報も期待薄だ。
打ち付ける強い雨と、次第に近くなる雷鳴。空が光る度に肩が跳ねるが、それでも足は止めなかった。
「大丈夫か、ララ」
時折そう尋ねてくるテオドールが、ララの支えだった。
「ありがとうございます。グラント卿がいてくださるので、私は大丈夫です。建物の中にも二人はいませんか?」
「ああ。ざっと見てきたが、どこかで休んでるわけでもなさそうだ」
「そうですか……」
この辺りにはいないのだろうか。そっと左耳のイヤーカフに触れる。けれどもアルバートやフロイドから連絡はない。
――っ、ララちゃ――。
「……ん?」
通信ではないが、ララの耳に声が届いた。
「どうした?」
「今、声が……」
雨音が大きくて、よく聞こえない。だがテオドールに聞こえていないのならば、おそらく間違いないだろう。
ここで初めて足を止め、周囲の音に耳を澄ませる。
――っ、ララちゃん――。
――けてっ、ララちゃん!
「――助けてっ、ララちゃん!」
ララはガバッと顔を上げ、声が聞こえた方向に走り出す。
「グラント卿、サーシャ様が私を呼んでおられます!」
「子供たちについては」
「おそらく居場所をご存知だと。ただ、サーシャ様は助けを求めていらっしゃいますので……」
「分かった。情報が入り次第アルたちに連絡を」
「はい! サーシャ様、ララです! どちらにいらっしゃいますか!」
ララがサーシャの名前を呼び始めてから彼女に会うまで、そう時間はかからなかった。
「ララちゃん助けておくれ! ニーナとコリンが!」
家をすり抜けて現れたサーシャは、今にも泣き出しそうな顔をしていて。彼女の最愛の身に何かが起こったのだと、簡単に理解できた。
「サーシャ様、お二人がお家に帰っていないと聞きました。何があったのですか?」
「ガ、ガルム川に架かってる橋が一部崩れて、あの子たちが川に落ちたんだ。風で倒れた木に掴まってるんだけど、流れが速くて。一緒にいたのに、私には何もできなくて……!」
祈るように顔の前で手を組み合わせるサーシャ。震えるその手を、ララは両手で包みこんだ。テオドールと違って触れられないが、触れているつもりで力を込める。
「必ず助けます」
誓うようにつぶやいたララは、ガルム川を目指して足を動かす。
右耳に触れ、イヤーカフを起動させた。
「ララです。子供たちがガルム川に落ちたとの情報が入りました。橋が一部破損したそうです。今現地に向かっていますので、応援をお願いします」
通信を切ったララに、隣を走るテオドールが目配せをする。
「アルとフロイドは」
「アルバート様は川に向かってくださるとおっしゃっていました。フロイド様は救助船を出せるか確認されるそうです」
「この雨だと、出せても時間がかかりそうだな」
「はい。……どちらにせよ、状況を確認しないと」
二人は頷き合い、ガルム川へ向かった。
ガルム川に到着したララとテオドールは、急いで子供たちの姿を探す。
「あそこだ」
テオドールが指さした方向に、子供たちを発見した。姿が見えたことで、わずかに安堵する。しかし――、
「掴まってる木ごと流されてますね。川岸からも距離がありますし」
子供たちは、すでにかなりの距離を流されていた。ここまで耐えている事実が奇跡のように感じる。
「体力が残ってそうか、近くに行って見てくる」
「お願いします」
辺りを見回しても、アルバートやフロイドの姿は見つからなかった。他の大人の姿もない。
今にも落ちてきそうな暗い空と荒い川の流れが、不安を煽る。
(私がしっかりしないと。でも、どうすれば……)
一刻も早く助け出し、ふわふわのタオルで包んであげたい。温かい部屋で、安心できる場所で。
トランクの持ち手を強く握ったララは、思い出した。
このトランクの中に、使えないはずだったものが入っていることを。
「……そうだ」
トランクを地面に置き、役に立たないと思っていた発明品、――片手弓を手に取った。捕縛用に作ったものだが、使えるかもしれない。
素早く右手に装着し、構える。木に掴まったまま流されていく子供二人に、照準を合わせようと試みた。
だが、問題が発生した。
(ダメ。掴まってる木が邪魔で正確に狙えない。それに、水から出てる部分が少なすぎる)
あれでは縄が水に阻まれてしまう。
唇を噛み締めるララの元に、テオドールが戻ってきた。
「二人とも意識はあるが、体力がほぼ残ってない。もって数分だ。アルがもうすぐ到着するだろうから――」
テオドールはララの前に降り立ち、冷静に現状と今後について説明する。
子供たちに残された時間はあとわずか。片手弓では救助できず、今のところ救助船やアルバートたちの姿は見えない。……こうなったら。
(グラント卿がこれを言わないのは、私のためだって、分かってるけど)
分かっていても、わがままを言うしかない。
「グラント卿。……あなた、泳ぐのも得意ですよね」
覚悟を決めて真っ直ぐに見つめると、テオドールは瞠目した。
「君、自分が何言ってるか分かってるのか? 危険だ。アルたちが来るのを待って」
「苦しむ子供たちも、心を痛めていらっしゃるサーシャ様も、どちらも見える私が、ただ待ってるわけにはいきません」
自分でもバカなことを言っていると思う。一時的に身体能力が上がるのはテオドールの力であり、自分の力ではない。決して思い上がってはいない。
「今のあなたには、子供たちを助けられません。私にも無理です。でも、――あなたと私なら、助けられます」
テオドールに自分の意思を伝え、川下に視線を向ける。百メートルほど先に川幅が狭まった部分を見つけた。水の流れから考えるに、子供たちもあそこを通過するはずだ。
飛び込むなら、あそこだ。
判断を下したララは、弾かれたように走り出した。
「聞けララ! 陸上なら君を守り抜く自信があるが、水中じゃ保証できない。何が流れているか分からないし、君の体で二人の救出をするにはリスクが――」
「私はあなたを信じています」
口に出して、納得する。
そうだ。自分はテオドールを信じている。自分のことよりも、信じているのだ。
「私、金庫の鍵を開けて、あなたに『大手柄だ』って言ってもらった時、本当に、本当に嬉しかったんです」
雨が吹き荒れる向かい風の中、もっと早く走りたいと願いながら、懸命に足を動かす。
「あなたにとって私は、頼りない存在かもしれません。ご存知の通り、私は両親に迷惑しかかけられない、情けなくて、どうしようもない娘です。……でも」
生まれてこなければ良かったのかもしれない、なんて考えたこともあった。家族を不幸にする自分が何よりも許せなかった。自分の居場所はどこにもないと思っていた。
しかし、そんな考えを吹き飛ばしてくれたのだ。テオドール・グラントが。
「あの時のあなたの笑顔を見て、『やっと役に立てた』って、『捜査局にいて良いんだ』って、思いました」
流される二人を追い抜いたのを横目で確認し、目的の場所へと向かう。
あと少し、あと少しの辛抱だと、心の中で何度も叫ぶ。
「今立ち止まったら、私は絶対、後悔します」
(あなたが褒めてくれた私を、私は死ぬまで、手放したくない)
「もう、役立たずには戻りたくないんです! 協力してください、グラント卿」
テオドールが手伝わずとも、ララは川に飛び込むつもりだ。だが、彼なら必ず助けてくれるという甘ったれた信頼も、充分にある。
それを感じ取ったからなのか、ガシガシと頭をかいたテオドールが、唸るように声を出した。
「――後で、説教だからな」
ララが返事をする前に、テオドールが体に入った。走る勢いを殺さぬまま、息を目一杯吸い込んで川に飛び込む。
水が暴れる音が耳に飛び込んできた。
ゴーグルをつけていないため、ほとんど何も見えない。それでもテオドールは、子供と繋がっているかのように迷いなく進む。
体の自由を奪おうとする水の流れも、彼には関係ないようだ。さすがとしか言いようがない。ララは魚になったような錯覚を覚えた。
テオドールはあっという間に二人の元にたどり着き、体を寄せる。
名前を呼ぶとなんとか反応を返してくれるが、二人とも顔が青い。ぐったりとしており、もがく力も残っていないようだ。危ないところだった。
『グラント卿、丈夫そうな木とか、近くにありますか?』
心の中で話すと、テオドールが素早く確認する。少々距離があるが、土手沿いに一本の大きな木を見つけた。
伐採を途中でやめて正解だった。あれだけ立派な木なら、三人分の体重にも耐えられるだろう。
『右手使います』
ララは右腕を前に突き出す。その手首には片手弓。
先ほどは上手く使えなかったが、今度は大丈夫だ。動いていない標的ほど、狙いやすいものはない。
――ビュッ。
照準を合わせて放った縄が、木に巻き付き固定された。成功だ。
『子供たちを抱えたまま、縄を手繰り寄せて川の外まで行けそうですか?』
「いや、その必要はなさそうだ」
『それはどういう…… あ』
川岸に人影が見えた。跳ねるような走り方と背負った二対の斧が、捜査局の可愛い豪傑だと教えてくれる。
「ララちゃーん! テオー! 今助けるからねー!」
縄を巻き付けた木にアルバートがたどり着いた。三人の体重が乗った縄を、彼はいとも簡単に手繰り寄せる。
『アルバート様……やはり、お強い』
自分の体がぐいぐいと川岸に連れて行かれるのを感じ、ララは安心しきってしまった。だからだろう。
(あれ? 急に、眠気が……)
『すみませんグラント卿。泳ぐのに慣れていないからか、眠たく……なってきて。子供たちをどうか、お願い、しま……』
テオドールに二人を託す寸前で、ララは意識を手放した。