27. 逃げられない足音【カルマン視点】
書斎で老齢の従者を殴り飛ばしたカルマンは、肩で大きく息をした。普段は整えているダークブロンドの髪を、苛立ちを隠さず掻きむしる。
「オルティス伯爵令嬢はなぜ来ない! 間違いなく手紙を届けたんだろうな。答えろ、ハンス!」
手紙を出して何日経っても、ララからの返事は届かなかった。今まで手紙で呼び出せば、翌日には返事が来ていたのに。
床に横たわった従者、――ハンスの脇腹を乱暴に蹴ると、彼はよろめきながら立ち上がった。
「ぐっ、……はい。これまで通り、オルティス伯爵家に届けております。彼女が不在の場合、職場に転送されることになっていますので、すでに届いているはずです。開発局か、……捜査局に」
捜査局、と聞き、カルマンは舌打ちをした。
(どうなってるんだ。あの女との婚約を破棄して、まだ一ヶ月しか経っていないのに)
たった一か月。その間に、自分と彼女の日常は大きく変わった。
パーティーに顔を出せば、度々ララの噂を聞いた。彼女が開発局員と捜査官を兼任しており、事件解決に貢献していると。
最初は誰かの作り話だと思った。しかしどうやら事実らしい。ララ・オルティスは今、『呪われた令嬢』ではなく、『可愛らしい新人捜査官』として生きている。
「あり得ない。あの女の肩を持つ人間がいるなんて」
ララが少女だった頃から、世間から孤立させてきた。彼女のくだらない体質を利用して。
簡単だった。彼女は死人が見えることを否定しないため、ちょっと大袈裟に話せば自分の嘘だって真実になった。
全てはオルティス家の船を手に入れ、事業を軌道に乗せるため。婚約者となったララの未来なんて、考えたこともなかった。どうせ時が来れば、捨てるつもりだったから。
彼女が誰の手も求めないように。隠れて孤独に死んでいくように。精神的にも肉体的にも、追い詰めた。
「計画通りだったんだ。最高のタイミングでオルティス家との縁を切れた。幸運なことに、危険視していたあの男も殺せた。末端の組織は一部潰されたが、代えならいくらでもいる。仕事は順調だった。なのに、なぜ……こんなことに」
ララが人前に顔を出すようになったのは完全に誤算だった。彼女一人では不可能なはずだった。そう教え込んできたから。
(あの女を捜査局に入れた人物も気になるが、それより問題なのは……)
窓に映った自分の顔を見る。虚ろな目の下には、濃いクマが確認できた。すぐさま目を逸らし、カーテンを閉める。
その様子を見ていたハンスが、意を決したように白髪頭を下げた。
「チェスター様。やはり、オルティス伯爵令嬢に謝罪をされた方が」
「……なんだと?」
「あの方はもう一人ではありません。捜査官として、味方を増やしつつあります。最近では騎士たちも、あの方の能力を認め始めているようですし……」
「だから謝罪しろと?」
「はい。今謝罪すれば、これまでの不当な扱いも許してくださるかもしれません。……あの方は誰よりも忍耐強く、心優しい方ですから」
「随分と肩を持つじゃないか。あー、それは当然か。……お前の孫娘とあの女は、確か年齢が近かったはずだから」
カルマンが『孫娘』と言った瞬間、ハンスが顔を上げた。硬い面持ちから緊張が滲み出ている。
「お前はあの女と孫娘を重ねて放っておけなかった。婚約を破棄した日も、私が手を上げた時を狙って来たんだろう? 器用なものだ」
この老いぼれは昔からそうだ。ララに暴力を振るった自分を、いつも哀れむように見ていた。主人である自分を、使用人風情が偉そうに。
(自分の立場を思い知らせてやらないとな)
口角を持ち上げたカルマンは切り札を出した。
「お前の大切な孫娘は今も生きている。それが誰のおかげか忘れたわけじゃないだろう?」
こう言えば、ハンスは自分に逆らえない。
「……もちろんです。チェスター様へのご恩を、忘れたことはございません」
「そうか。それなら良いんだ」
ハンスの孫娘は、何年も前に謎の病に倒れたことがある。その時他国から特効薬を手に入れて孫娘を助けたのがカルマン、……ということになっているのだ。
当時辞表を提出していたハンスだったが、その件があり考えを改めたらしい。
(本当に馬鹿なやつだ。最愛の孫娘を毒で衰弱させていたのが、この私だとも知らないで)
弱みがある人間は扱いやすい。他人を優先させる馬鹿なら、なおさら。
「お前は私の従者として、今まで通り過ごせ。余計なことは考えず、な」
「……謝罪はされない、ということですか?」
「当然だ。確認のために呼び出してはいるが、私の夢見が悪いこととあの女は無関係だろうからな。……文句があるのか?」
「……いえ。ございません」
それっきり、ハンスは喋らなくなった。
ようやく静かになった、と、カルマンはほくそ笑む。
(あの女だって、どうせすぐに来るはずだ。私の命令に従わなかった場合どんな目にあうか、一番よく分かってるだろうからな)
あとはあの夢さえ見なくなれば、全てが上手く。
婚約破棄をした翌日から見るようになった、あの忌々しい夢。
――初めは何もない、真っ白な空間だった。
自分がただそこにいて、他には誰もいない。後ろを振り返っても、誰もいない。
だがもう一度振り返ると、遠くに一人の子供が立っていた。おそらく男だろう。「誰だ」と聞こうにも、声が出ない。
こちらを無言で見つめる子供。
気味の悪いやつだ、と目を逸らす。しかし視線を戻す度に、子供は音もなく近付いてくる。子供の顔に見覚えがあると気付いた頃には、無意識に震えて、後ずさっていた。
毎日毎日同じ夢を見て、眠る度に、近付いてくる。
次第にカルマンは、子供に背を向けて逃げるようになった。自分でもなぜだか分からない。けれども逃げねばならぬ気がした。
走って、走って。走って、走って。
夢なのに、口の中に鉄の味が広がる。声は出せないのに、自分の荒い呼吸音が脳内に響く。
遂に今朝、カルマンは疲れ果てて足を止めた。こんなに走ったのだから、しばらくは大丈夫だろう。そう思うものの、振り向けなかった。ヒタヒタと近付く足音が、背後で止まったから。
脂汗を流しながら耳を澄ませると、左肩に何かが置かれた。恐る恐る、肩に視線を向ける。
そこにあったのは、小さな手だった。
直後、――耳元で聞こえる、子供特有の高い声。
「――やっと遊べるなぁ。チェスター・カルマン」