11. ララ・オルティスの懺悔【テオドール視点】
「母上の涙を見た回数?」
ララに聞き返しながら、テオドールは母、――マリッサの顔を思い浮かべた。
「難しい質問だな。うちの母は涙腺が弱いから」
涙もろく穏やかで、家族からも患者からも好かれる人だ。
「場合によっては、暴れる患者を無理やり診療台に押さえつけるくらい勇ましいんだが」
「意外ですね」
「人命救助のためならなんでもする家なんだ。……母の秘密をバラしはしたが、君の質問には具体的な回数で答えられないな」
「充分です。夫人は感情豊かな方なんですね」
「オルティス伯爵夫人とはだいぶ違うか?」
先ほどの家族の会話からは、落ち着いた印象を受けた。快活なオルティス伯爵とは対照的だったように思う。
「昔はもっと笑う人だったんです。冷静で芯が強いところは今と全然変わっていませんが。……そんな母だから好きになったのだと、父はいつも言っていました」
過去を思い出しているのか、ララが瞼を伏せる。色素が薄く長いまつ毛が、儚げで、危うい。
目を離した途端、どこかに消えてしまいそうだ。
「父が愛した母を、私は奪ってしまいました」
ララのラベンダー色の瞳が、ただ寂しそうに揺れている。
彼女に向かって伸ばしそうになった手を、テオドールは膝の上で握りしめた。
(――なあ。どうしてそんなに、我慢するんだ?)
以前から気になっていた。自分の前では花が咲いたように笑う彼女が、ふとした瞬間に見せる、諦めた表情。
ララは家族を好きだと言った。あの目は本音を言っている目だった。それなのに、オルティス家はどこか歪だ。家族と話す彼女も、彼女と話す家族も、お互いにずっと、何かを堪えているように見える。
愛する相手からの婚約破棄にうな垂れていた昨日よりも、今の方が何倍も辛そうだ。
(吐き出してしまえ。君の手元に残るものは、幸福だけであってほしい。だから不安や苦しみが尽きるまで、吐き出してしまえ。全部あの世に、持っていってやるから)
テオドールが静かに見守っていると、やがてララは祈るように、心を削るように、つぶやいた。
「私が母を、……泣かせてしまった」
その声を聞いて理解した。
これはララ・オルティスの懺悔なのだと。
「話せることだけで構わない。君と夫人の間に何があったのか、教えてくれないか?」
彼女の心をすくい上げるように、慎重に話を促す。するとララが、不安そうにこちらを見た。
「……迷惑ではありませんか?」
「君の心を知ることが?」
「大した内容じゃないんです。私が弱いだけで。答えが出せる問題でもありません。呆れられてしまうかも」
「呆れたりしない。迷惑でもない。俺が知りたいから聞いてる」
テオドールは視線を逸らさずに告げる。
数秒の沈黙の後、ララはぽつりぽつりと話し始めた。
「……私、小さい頃は、霊と生きた人間の見分けがつかなくて」
「モルガン局長に言われてたな。誰もいないところに向かって手を振ってたって」
「はい。当時は領地にある本邸で過ごしていて、ほとんど霊を見なかったんです。だから両親も私の体質に気付きませんでした。初めて人前で霊と話をしてしまったのが、九歳の頃……父の仕事の関係で訪れた、カルマン伯爵家主催のお茶会でした」
最高に聞きたくない名前の登場に、テオドールは心中穏やかでなかった。
カルマンと自分の間には繋がりがない。ララの婚約者という理由で、テオドールは彼についての情報を遮断してきた。
繋がりがないにも関わらず、この世で最も嫌いな人間だ。理不尽だろうがなんだろうが、自分の心に嘘はつけない。存在と共にララの記憶から消えてくれないかな、とまで思っている。
「そこで体質が発覚して、噂が広まったのか」
「はい。霊と話す私を実際に見たのは、同い年くらいの子供数人とカルマン卿だけだったと思いますが、噂が広まるのはあっという間でした。あの日から、私は嫌われ者になったんです」
幼いララは、どんな気持ちで噂を受け止めたのだろう。今だって簡単に壊れてしまいそうなのに。
「呪いとか、他の噂に身に覚えがなくても、霊が見えるのは本当なので、完全に否定できなくて……。すぐに周りからの視線に耐えられなくなってしまいました。なので先ほどお話した、令嬢を失神させてしまったパーティー以外は、ほとんど社交の場に出たことがありません。お茶会に行くのは、いつも母一人でした」
「参加したいとは思わなかったのか?」
「少しも思わなかったと言うと嘘になりますが、両親がそばにいてくれれば、それで充分だったんです。私は自分だけが被害者だと思い込んで、閉じこもっていただけですから。……母はずっと、耐えてくれていたのに」
ララが一度言葉を止め、小さく息を吐いた。その息が震えていると気付き、続きを聞きたいのに、話すのをやめさせたいとも思ってしまう。
「辛かったら言わなくて良い」
「ありがとうございます。昔のことなので、今は大丈夫です」
口元だけで、ララが小さく笑ってみせた。
「……もう想像はついていると思いますが、母は私がいないところでも、辛い目にあっていました。守られていただけの私は、そんなことにも気付けなくて。ある日お茶会から帰ってきた母が私を見るなり泣き始めて、やっと気付きました。……私が母の涙を見たのは、あの一回だけなんです」
「その日だけ、夫人の中で何かが切れてしまったんだな」
「溜まりに溜まった負の感情が、溢れてしまったんだと思います。でもあの時も、母は私を抱きしめて、何度も『どうして』と言うだけでした」
「……そうか」
「一言も責めなかったんです。本当は言いたかったはずなのに。私に、『どうして普通に生まれてきてくれなかったのか』って」
人生で一度だけ見た母の涙が、鼻をすする音が、嗚咽混じりの声が、ララは忘れられないのだろう。
「私がいなければ、お母様を苦しめることもなかったのに――」
夜が更け、ララの就寝時間になったため、テオドールはララの部屋を出てオルティス家を見て回ることにした。
人気のない廊下を歩く。途中、浮かんでは消える、過去への後悔。
なぜ自分は、幼い頃のララと出会えなかったのだろう。暗く冷たい世界の中に、彼女を一人にしてしまったのだろう。
「……分かってる、つもりだったんだがな」
常にゴーグルをつけていたって、分かっているつもりだった。ララが噂とは全く異なる人間であることも、聡明で優しく、美しい人間であることも。
だが、肝心なことを何も分かっていなかった。
皮肉なものだ。抱え込んで大きくなりすぎたこの気持ちを、伝える資格がなくなってから。――死んでから、ララの孤独に初めて触れられた。
「あと、五十九日か」
残された時間で、自分に何ができるだろう。
考えながら廊下を進むと、明かりが漏れている部屋にたどり着いた。中からオルティス伯爵と夫人の声が聞こえる。
もし。もしもだ。彼らがララのことを悪く思っているならば、自分は彼女の親であっても好きにはなれないだろう。
盗み聞きの趣味はないが、テオドールは扉をすり抜けて部屋に入った。彼らの本心を探るために。
入った直後聞こえたのは、オルティス伯爵の声だった。
「――ミランダは本当に良いのかい? ララと一緒に領地に戻らなくて」
「…………」
船の模型をいじりながら、伯爵が夫人に尋ねる。しかし夫人は、答えようとしなかった。
「連れて帰らなくて後悔しない?」
「……しないわ。王都に残るのがあの子の望み。ヘンリーには心を開いてるから、仕事の方は安心だし」
「このまま言わないつもりかい? ララに家以外の居場所を作ってやりたくて、開発局に入れるように頼み込んだのは君だってこと」
「言う必要ないもの。ヘンリーが局長として好き放題できる権限を持ってなかったら、十歳の女の子を入れるなんてできなかったわけだし」
部屋の入り口付近で様子をうかがっていたテオドールは、オルティス夫妻の会話に眉をひそめた。
ララは開発局の局長を恩人だと言っていた。そして自分のことを両親から疎まれる存在だと考えているようだった。だが彼女の両親の発言は、そうは聞こえない。
微妙に食い違う情報。困惑するテオドールに気付くはずもなく、夫人は言葉を続ける。
「婚約破棄の噂が広まって、またあの子が傷つくのは嫌だけど……。ララにやりたいことがあるなら、一緒に暮らしたいなんて言うべきじゃないわ。母親のわがままは邪魔なだけだもの。私たちがやるべきなのは、あの子が領地に戻りたいと思った時に、いつでも戻ってこられる環境にしておくことよ」
「……そうだね。ミランダが納得してるなら良いんだ。君はいつでも、一人で後悔するから」
「仕方がないじゃない。後悔するなって言う方が無理よ。きっと死ぬまで思い続けるわ。……どうして愛するあの子を、普通に産んであげられなかったのか、って」
「君のせいじゃないよ。もちろんララのせいでもね。……あーあ。例え貴族や国にララの体質が受け入れられなくても、私は君たちがいてくれれば幸せなんだけどなぁ。ララは王都に残るのかぁ」
「何よ、あなただってララに領地に戻ってきてほしかったんじゃない」
「当たり前だろう? 私の天使だ」
「私のよ」
「あー、はいはい。私たちの、だね。真顔やめてよ。そんなに好きならララの前でくらい昔みたいに笑えば良いのに」
苦笑いを浮かべる伯爵の言葉に、テオドールは思わず頷いた。
一連の流れから察するに、夫人は表情と言葉がちぐはぐだ。分かりにくいなんてもんじゃない。相手が捜査局の連中なら、首根っこを引っ捕まえて「お前の表情筋は金属製か?」と言うところだ。
「ララの笑顔を奪ったのに、私だけ笑えるわけないじゃない。あの子は文句ひとつ言わないけど、恨まれてたっておかしくないもの」
「そんな子じゃないって分かってるだろう? カルマン卿に婚約破棄されても、私たちに気をつかうだけで、彼を悪く言ったりもしない。仕事の関係で仕方がなくって言われたら、納得するしかなかったのかもしれないけど。……でも、やっぱり変じゃないか?」
「何が?」
「カルマン卿だよ。結婚を目前にした婚約破棄に表れてるけど、ララへの配慮が足りない。それに十年も婚約者として生きてきたのに、最後の手紙の内容はララへの気持ちや謝罪ではなく、私に向けた事務的なものだった。心というか、思いやりが全く感じられないんだ。ララの様子を聞くために定期的に交わしていた手紙の内容も、もしかしたら嘘だったのかも」
「どうでも良いわ」
「またそんな言い方して」
「あなただってそうでしょう? 婚約者がいた方がララの味方が増えると思って受け入れただけ。あの子の優しさに十年経っても気付かないような……ララに人並みの幸せを約束するという、たった一つの条件すら守れないような小さい男、生きてようが死んでようがどうでも良い」
夫人は辛辣な言葉をしれっと吐く。拍手を送りたくなるほど潔い。自分が生きていれば、間違いなく気が合っただろう。
「……あの子が笑って暮らせるなら、他はどうでも良いのよ」
夫人の本心を知ったテオドールは、しばしその場に立ち尽くす。
今ララに夫人の心を伝えたら、彼女の孤独は終わるだろうか。……考えてみたが、おそらく難しい。
霊と違い、ララには人の話をこっそり聞くなんて芸当はできないのだ。一時的に関係が回復しても、いずれまた他人の本心が気になり、不安になり、再び自分を責めるだろう。だからこんなにも拗れているのだ。
終わりにするには、ララが自分自身と特異な体質を受け入れる必要がある。
難しくとも、方法を見つけるしかない。
テオドールは退出し、廊下から窓の外を見る。月が綺麗な夜だ。
「……戻るか」
無性にララの顔が見たくなった。廊下を進みながら、拗れたオルティス家の関係を整理する。
どうして普通になれなかったのかと、己を責め続けてきたララ。
どうして普通に産んでやれなかったのかと、己を許せない彼女の母親。
さすが親子、と言うべきなのだろうか。
――優しすぎて臆病なところが、そっくりだ。
テオドールがララの部屋に戻ると、すでにララは眠っているようだった。明かりが消えた部屋に、彼女と自分しかいない。
多少の後ろめたさがあるものの、宙に浮いてベッドに近寄る。ララを起こさないように掛け布団に手を伸ばすと――、
やはり、すり抜けないか。
ララが触れているものならば、服以外にも触れるらしい。
ベッドサイドにゆっくりと腰掛け、月明かりでわずかに照らされたララの寝顔を覗く。無防備な寝顔は、普段より幼い。
柔らかそうな頬だなと思った途端、昼間の出来事が脳内に蘇った。いまだに手に残る、抱きしめた時の、ララの感触。
「華奢なのに柔らかいって、どうなってるんだ……」
無意識に声に出してしまい、一人で頭を抱える。
すり抜けなかったことが衝撃的で、紳士としてはあり得ない触れ方をした。瞳を潤ませて首まで真っ赤になったララの顔は、忘れてやれそうにない。
頬を染めたり、口を尖らせたり、視線を泳がせたり……目尻を下げて、笑ったり。
全部全部、忘れてやれそうにない。
ララのミルクティーベージュの髪をさらりと撫で、テオドールは頬を緩めた。
「今日の夜空に誓おう。君が心の底から笑える場所を、俺がつくるよ」




