01. 終わりの日
「死んだ俺の最後の願いを、叶えてほしい」
「…………へ?」
戸惑いと悲しみの中に、ほんの少しの好奇心を入れて飲み込んだような、複雑な気分だった。それゆえにララは、間の抜けた声を出すことしかできなかったのだ。
真っ直ぐにこちらを見つめる、凛々しい青年。
彼の願いを叶えることは、きっと自分には難しい。だが同時に、頷く以外の選択肢がないような気もする。そう考える理由は三つ。
一.青年は王立犯罪捜査局の局長だが、高貴な身分と数々の功績からは想像がつかないような、『良い性格』をしている。
二.おそらく現段階で彼の姿を視認できる人間は、ララだけである。
三.なぜなら彼は、数時間前に亡くなったらしく……何度見ても半透明だからだ。
どうか気のせいであってほしいのだが、とてつもなく、何かに巻き込まれそうな予感がする。
彼の願いとは一体何なのか。
ララは真剣に考えながらも、頭の片隅ですでに悟っていた。
『これってもしかして、昨日の婚約破棄よりも厄介なのでは……?』と。
◇◇◇
「オルティス伯爵令嬢、君との婚約を破棄することにしました」
ララの婚約者、チェスター・カルマンがそう告げた。彼の書斎に通されてから、わずか数十秒後のことである。
ついに恐れていた事態が起きてしまったのだ。
「……理由を、教えていただけますか?」
「理由?」
「婚約破棄の、理由です」
カルマンと婚約してから、すでに十年ほど経っている。
婚約の際にカルマン家から提示された条件はララの家には不利なものだったが、両親は無理をして縁を結んでくれた。嫌われ者の娘のために。
だからララも耐えてきたのだ。カルマンに何度傷つけられても、誰にも言わず、耐えてきた。
これ以上、両親に迷惑をかけたくなかった。
「私は今まで、一度も契約違反を犯していません。仕事で関わる方以外には顔を知られていませんし、私的な外出もしていません。カルマン卿に秘密だと言われたことは、両親にだって話していません。それなのになぜ、急に婚約破棄なんて……」
これまでの不当な扱いを思い出し、視線を下げる。すると突然、右腕をカルマンに掴まれた。驚きと痛みで思わず眉を寄せる。
「……っ。離して、ください」
逃れようと腕を引っ張ってみたが、痛みが増すばかりだった。八つ歳上のカルマンに力を込められれば、ララには振りほどきようがない。
「君は勘違いしているようですね。契約を守れば私と君が対等になるとでも思っているのですか? そもそもオルティス伯爵家が王国一の造船技術を持っていなかったら、君みたいな呪われた女と婚約するはずないでしょう」
「彼らが見えるのはただの体質で、呪われているわけでは――」
ここまで言って、ララは気付いた。カルマンが拳を振り上げたことに。
「もう良い。少し、黙りなさい」
珍しく反論したのがまずかったようだ。身を小さくしてぐっと目をつぶる。すると同時に、一つの考えが頭をよぎった。
――そうか。やっと終わるのか。
これを耐えれば、今だけ我慢すれば、もう暴力を振るわれなくて済む。
おかしな話だ。婚約破棄を望んでいなかったはずなのに、長年の苦痛から解放される未来に安堵する自分がいる。
歯を食いしばって衝撃に備えた、その時。扉をノックする音が室内に響いた。
恐る恐る目を開けると、カルマンが外に向かって声を投げた。
「誰だ」
「ハンクでございます。商会の方がいらっしゃいました」
唐突に二人の時間に終わりを告げたのは、カルマンの従者の声だった。
「分かった、すぐ行く」
ダークブロンドの髪をかき上げ、短く返事をしたカルマン。そのまま退出するのかと思いきや、彼の手は再びこちらに伸びてきた。乱暴に髪を掴まれ、無理やり顔を近付けられる。
「婚約を破棄するにあたって必要な書類は、すでにオルティス家に送っています。もう会うことはないでしょう。……君に会えなくなると、痛めつけられる相手が減ってしまうので、少々残念ですが」
軽薄そうな笑顔。それは、ララの背筋を凍らせるには充分だった。
「せっかくの美貌がもったいない。ミルクティーのような甘やかな髪も、白い肌も、神秘的なアメジストの瞳も……。呪われてさえいなければ、嫌われることもなかったのに」
ララが貴族に嫌われている理由は、ある体質が原因だった。物心ついた頃から、普通の人間には認識できない存在が見える。
彼らの体は物や人をすり抜け、重力に逆らい宙に浮く。――いわゆる『霊』というやつである。
「皆本当の君を知らない。口を聞いたことも、顔を見たこともない。それなのに噂は勝手に広まる。『呪われた令嬢』『わがままな親不孝者』『不吉な痣』『目が合うと呪われる』なんて話もありますね。実際は死人が見えるだけの、なんの取り柄もない人間なのに。……まあ噂の一番の被害者は、君ではなく君のご両親でしょうけど」
「……父も母も、そんな風に思っていません」
「なぜそう言い切れるのですか? ご両親が君を責めないのは、とうの昔に諦めているからでは?」
「それは……」
彼の言葉を毒のように感じてしまうのは、きっと自分が世界で一番、自分を嫌いだからだろう。
両親には散々迷惑をかけてきたが、責められたことは一度もない。一人娘のせいで苦労しているはずなのに。彼らは少しも、悪くないのに。
何も言い返さないララを見て満足したのか、カルマンが髪から手を離す。そしてゆっくりと扉に向かって歩き始めた。
「オルティス伯爵は君を他の令嬢と同じように婚約させるため、どう考えても不利な条件で我が家と契約を結びました」
――分かっている。そんなことは、誰よりも。
「娘しか授からなかったとしても、オルティス家には圧倒的な技術と財力があります。本来なら養子に入りたがる人間だって簡単に見つかるはずなんですよ。娘がララ・オルティス……君でなければ、の話ですが」
扉に手をかけたカルマンが、顔だけをこちらに向ける。憐れむように見せかけて、実は喜びを隠しきれていない、そんな表情で。
「今までのこと、誰かに話しても無駄ですよ。君の言葉なんて誰も信じません。君は何の役にも立たず、生きているだけで家族を不幸にする。夫人も思っているのではないですか? こんな呪われた娘なんて――」
(ああ、痛い)
「『産まなければ良かった』って」
ずっと不安だった。他人と違う自分の体質。知らぬ間に広まる、身に覚えのない噂。
それを受け止め続ける両親の心の中が、見えないから。
――人の本心なんて、分からないから。
婚約破棄を言い渡された数時間後、ララは仕事に励んでいた。王城内にある王立開発局、その共同スペースで。ここは唯一、ララが自分の立場を忘れて過ごせる場所である。
ララを含む局員たちは白衣に身を包み、アンティーク調のゴーグルをかけて作業中だ。
そんな中、一人だけ黒基調の制服を着た他局の男がいれば、それなりに目立つというもので……。
「――つまり君は、突然の婚約破棄に腹を立て、元婚約者の顔面を五発ほどぶん殴った後に仕事に来た、と」
「グラント卿、人の記憶を勝手に捏造しないでください……」
ララは修理した魔道具を木箱に戻しながら、萎れた花のようにうな垂れる。殴られる可能性があったのはカルマンではなく自分の方だ、という言葉はギリギリのところで飲み込んだ。
「なんだ、殴ってないのか?」
正面の席で書類にペンを走らせていた男、――テオドール・グラントが大げさに驚いてみせる。ララはゴーグル越しに、美形と評される彼の顔を観察した。
長いまつ毛に縁取られたテオドールの瞳は、不思議なほどに澄んだ色だ。光の当たり方によって印象が変わり、全てを受け入れる広い海のようにも、爽やかな快晴の空のようにも見える。
薄い唇と彫刻を思わせる高い鼻。意志の強い目と整った眉が黄金比で配置された顔は、確かに美しい。……だからと言って、意地の悪さは隠しきれていないのだが。
「私に殴れるわけないじゃないですか……。グラント卿は捜査局の方なのに、平気で物騒なことをおっしゃいますね。『縁を結びたい紳士』として大丈夫なのですか?」
「待て、その称号は誰情報だ」
「ジャスパーです」
「あいつはまた余計なことを」
「良いではありませんか。嘘ではないのでしょうし」
テオドールが紳士淑女から放っておかれない存在だというのは、おそらく事実だ。
女性が苦手だと言っていた頃の彼であれば同情するが、克服した今は問題ないはず。
「医学の名門グラント公爵家のご長男で、犯罪捜査局の局長。国への貢献度などを踏まえると、好かれない方がおかしいのかもしれませんが」
「好かれたい相手に好かれないと意味がないだろ。むしろ面倒なことの方が多い」
「人から好かれすぎて困る、ですか。一度で良いから言ってみたいものです。なんて羨ましい悩みなんでしょう」
かつてないほどに捻くれた発言がこぼれ、ララは後悔した。
自分が嫌われているのとテオドールは無関係。これでは完全に八つ当たりだ。
「……申し訳ございません。今の発言は撤回します」
「気にするな。僻んだところで君が婚約破棄された事実は変わらないからな」
「あ、あなたまさか、優しさというものをグラント公爵夫人のお腹の中に忘れてきたのですか⁉︎」
「あははっ、よく言われる」
テオドールの色気漂う黒髪が、彼の動きに合わせて憎たらしく揺れた。
ひどい人だ。人の傷口を容赦なく突き、その上で絵に残したくなるほどの極上の笑みを浮かべている。
こんな性格なのに世間からの信頼が厚いテオドールは、三年と少し前からララのお得意様である。彼が率いる王立犯罪捜査局で使用する道具は、ララが開発と修理を担当しているのだ。
「そういえば、婚約破棄のことは家族に報告したのか?」
「まだです。カルマン卿が我が家に手紙を出したとおっしゃっていたので、両親にも事情は伝わってると思いますが」
「ふーん。でも報告は、自分の口から早めにした方が良いぞ」
「ふふっ、仕事人間からの助言ですか?」
テオドールは自他共に認める仕事人間だ。今日だって非番なはずなのに自ら魔道具の修理を頼みにきたし、先ほどから待ち時間を使って事務作業をこなしている。
根が真面目だから人から好かれるのだろうな、口の悪さはさて置き、とララは分析している。
「仕事人間なのは君も同じだろ」
「グラント卿と比べたらまだまだです」
「研究室に住み着いて仕事してること、知らないとでも思ってるのか?」
「か、監視の目が厳しいですね」
「君が仕事ばかりして婚約破棄の報告を両親にしないような不良娘でないことを願っているだけだ」
「……明日になれば両親が領地から王都に出てくるはずなので、ちゃんと家に帰って報告します」
安心してください、と言ってはみたが、正直、両親への報告が最も気が重い。二人を困らせるのは、もう嫌だ。
今朝カルマンの話を聞いた限り、婚約破棄の理由は、彼が営んでいる貿易業が軌道に乗ったからだろう。本来は契約違反だが、隣国の造船所と取引をしてオルティス家との縁を切った。そうまでしてでも、結婚前にララとの縁を切りたかったのだ。
だが彼は、両親に真実を伝えないだろう。上手く誤魔化すに違いない。今までだって、ずっとそうだったのだから。
「今家に帰っても余計なことを考えてしまうだけなので、仕事してる方が楽なんです。それにグラント卿がしょっちゅう依頼をしにきてくださいますから、溜め込むと後が大変なんですよ……と。はい、これで今日の分は全部です。確認をお願いします」
修理を終えたララは、木箱に収めた魔道具と修理報告書をテオドールに渡す。
「言っておくが、俺が全部壊してるわけじゃないからな」
「存じ上げておりますとも。捜査局にはやんちゃな方が多いみたいですね。よく名前があがるロックフェラー卿は、開発局では破壊神と呼ばれています」
「あいつに関しては否定できないのが痛い」
テオドールは苦笑いを浮かべながら魔道具を手に取り、状態を確認していく。
その間にララは、小さなカードにメッセージを書き始めた。内容は『今日もお仕事頑張ってください』という簡単なものである。
捜査局からの修理・開発依頼が多いのは、彼らが国のために激務をこなしている証拠。ほんの少しでも、感謝の気持ちが伝われば嬉しい。
ララは書き終わったカードを修理済み魔道具が入った木箱に忍び込ませる。そして自分の仕事道具を革製のトランクに収納し、立ち上がった。
(……あ、そうだ)