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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
明美 一九八〇年十二月
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誠意

 昨年の十二月、とても寒かったことを憶えている。修お兄さんを殴りつけた後なのに、勲お兄さんが私を食事に誘った。流れのままに松川の料亭に連れていかれる。勲お兄さんのことがとても怖かった。

 そんなお兄さんが、私を見つめる。真っすぐな目で告げた。


「俺の女になってくれ」


 あれから、もう一年が経った。あの日のことを、私は昨日のことのように思い出せる。

 勲お兄さんは、とても優しくて、男らしい。強い力で、私を守ろうとしてくれる。今でも、お兄さんのことは好き。でもそれは、恋愛とは違った。人生を共に歩んでいく。そうしたパートナーとして見ることは出来なかった。

 ジョージのことを、想い描いてみる。優しいけれど、それは頼りないことの裏返し。いままでの私なら、恋愛の対象にはならなかった。

 ただ、ジョージの絵に対する熱意は本物だと思う。私はその瞳に魅せられた。あの真剣な眼差しで、何を見ているんだろう。

 今は小さな蕾だけれど、きっと花開く日がやってくる。私はそう信じている。そんなジョージのことを支えてみたい。電話だけのお付き合いは、もう嫌。

 目立ち始めたお腹を、優しく触った。お腹の中で赤ちゃんが動いている。とっても元気な赤ちゃんだ。新しい生命が、私のお腹の中で育っている。その奇跡に震えた。

 ジョージと二人でこの子を育てる。その事を考えるだけで、私の中から勇気が漲ってきた。


 ――もう逃げない。


 誰からも祝福される形で子供を産み、そして育てたい。

 もう潮時だ。勲お兄さんと決着を付けなければならない。

 黒電話の受話器を持ち上げる。ダイアルを回した。


「もしもし」


「あっ、お嬢さんですか」


 離れ家にいる隆に繋がった。


「表に、車を回してくれる」


「本当に、行くんですか?」


「行くに、決まっているでしょう」


「修羅場になるのだけは、勘弁してくださいよ。親分に怒られますから」


「あんたは、黙って私の言うことを聞いていたらいいの」


「へい」


「三十分したら、表に出るから」


「分かりました」


 受話器を置く。

 勲お兄さんとの問題の解決の為に、奥さんである順子さんに会うことにした。

 順子さんは、近くのマンションで、勲お兄さんと一緒に生活をしている。とても綺麗な人で、お兄さんとの付き合いは長かった。ただ、籍は入れていない。

 順子さんは、勲お兄さんからクラブのママを任されている。噂では、高級なクラブだそうで、かなりのやり手だと聞いている。

 勲お兄さんが銃弾に倒れてからは、掛かりっきりで看病にあたったそうだ。店はチーママに任せていたと、隆が言っていた。

 私は、お兄さんの見舞いに、一度も足を運ばなかった。なぜなら、順子さんに会ってしまうから。つまり、逃げていた。


 化粧台に向かった。あまり目立たないように、軽い化粧をする。

 鏡の中の自分を見つめた。

 順子さんにとって、私は勲お兄さんの浮気相手になる。分かっていたはずなのに、私はお兄さんの愛人になった。これは許されることではない。言い逃れは出来なかった。

 胸を張ってジョージと生活をする為には、避けては通れない。ケジメを付けなければいけない。

 何を言われても誠実に対応することを、自分に言い聞かせる。順子さんとの話し合いが、無事に終わることを祈った。言い争っては駄目だ。

 時間になる。玄関に向かった。表に出ると、隆が車を止めて待っていた。


「隆、クラブ順子までお願いね」


 隆が、お道化た表情で笑う。


「昔は、なかなか車に乗ってくれなかったんですけどね」


 隆が、後部座席のドアを開けてくれる。

 私は、悪戯っぽく笑った。


「そんなこともあったね」


 黒いベンツの後部座席に、体を滑り込ませる。バタンとドアが閉じられた。運転席に座った隆が、ハンドルを握る。車がゆっくりと走りだした。

 車に揺られながら、明るい街並みを眺める。見慣れた景色のはずなのに、全く違う景色に感じた。多分、緊張で私が震えているからだろう。

 話し合いの場は、隆を通じて用意してもらった。場所は、クラブ順子で行われる。時間は、客がいない昼の一時からと、先方から指定してきた。

 話の内容について、順子さんとすり合わせは出来ていない。私の希望は、勲お兄さんと別れることを、順子さんに納得してもらうこと。これが第一。その上で、順子さんに味方になって欲しい。

 ただ、順子さんからすれば、こんな自分勝手な話はないと思う。浮気相手である私と、お兄さんを取り合うわけではないのだ。勝手に浮気をされて、勝手に去っていく。それを承認しろというわけだ。

 私だったら、絶対に怒る。「馬鹿にするな!」と怒鳴りつけるだろう。舐めた話だと思う。

 ただそれでも、順子さんの力を、私は必要としていた。

 最終的に、勲お兄さんを制することが出来るのは、順子さんだと感じていたから。

決着の落としどころは、つまるところ慰謝料になるだろう。どれだけの金額が必要なのかは見当がつかない。私の全財産が必要なら、渡したってかまわない。全てを清算して、ジョージと生活が出来るのなら、安いものだ。それくらいの覚悟は出来ている。

 四つ辻を曲がると、車が減速を始めた。狭い路地に車を止める。


「お嬢さん、ここです」


「ありがとう」


「あっしは、車を入れてきますんで、ちょっと待っていて下さい」


「ありがとう。でも、外で待ってて」


「えっ、大丈夫ですか?」


「修羅場を見るのは嫌でしょう?」


 隆が、困ったような顔をする。


「でも、何かあったんじゃ……」


「じゃ、一時間後に迎えに来てよ。それまでに、話をつけておくから」


「そうですか。分かりました」


 黒いベンツが走り去っていくのを見送る。目の前の、白いビルを見上げた。安普請の建築物が乱立している中、そのビルはお城のようにそびえている。立派なエントランスが、同じビルでも格式の高さを物語っていた。

 そのビルの中には、多くの水商売の店が入居している。案内板を見ると、クラブ順子は三階にあった。エレベーターに乗り込み、三の数字を押す。両側から、扉が閉じられた。ゆっくりとエレベーターが上昇する。

 今から、どの様な話になるのか分からない。体が震えていた。隆には、こんな姿を見られたくない。

 エレベーターが止まる。扉が開かれた。いよいよ勝負の時だ。拳を握り締める。胸を張った。

 エレベーターを降りると、目の前にクラブ順子の入り口が見えた。大きく深呼吸をする。ノックした。


 コンコン。


 応答がない。

 少し不安になりながらも、重いドアを開けた。足を踏み入れる。

 店内は暗く沈んでいた。接客をする為のボックスが、大きめのソファーで形作られている。真ん中に通路があり、その先にカウンターがあった。そこだけが照明に照らされている。白く浮かび上がっていた。


「いらっしゃい、泥棒猫さん」


 赤いドレスの女が、カウンターの中から私を睨んでいた。順子さんだ。

足がすくむ。

 今回の問題で、順子さんは被害者だ。非は完全に私にある。その事を考えるだけで、めまいがした。


 ――逃げ出したい。


 それでも、私は前に進まなければいけない。

 両手でお腹をさすった。ここに来た目的を噛みしめる。この子と、ジョージと私。三人で生活を始めるのだ。

 足に力を入れる。ゆっくりと歩みを進めた。私が歩く姿を、順子さんは氷のように冷たい目で見降ろしている。カウンターの手前に到着した。ゆっくりと頭を下げる。


「今日は、時間を作って頂き、ありがとうございます」


「どういうつもりかは知らないけれど、良く顔を出せたわね」


 順子さんの強い口調に、心臓が締めあげられる。


「……話というのは」


「ちょっと待って。まずは座りなさいよ。その大きなお腹じゃ、立っているのも辛いでしょう」


「お気遣いありがとうございます。では、失礼します」


 言葉に甘えてカウンターで落ち着くことにした。とても助かる。実際のところ、足が震えていて、立っているのもやっとだった。

 順子さんは、仕事のように、私の前におしぼりを置く。


「何か、飲む?」


「いえ、私は、何も……」


「遠慮しなくてもいいのよ。アタシもね、何かしていないと、落ち着かないのよ……特に、アンタを前にするとね」


 面倒くさそうに順子さんが呟く。棘のある言葉に気圧された。


「すみません」


「妊婦だもんね……ソーダは飲めるの?」


「ええ、ありがとうございます」


 順子さんが、カウンターの中で作業を始めた。グラスを二つ用意する。


 カラン、カラン。


 氷がグラスの中で跳ねまわった。ソーダが注がれる。

 目の前に、コースターが敷かれた。


「はい、どうぞ」


 ソーダが提供される。グラスの中で気泡が踊っていた。

 順子さんが、自分の為に用意したグラスを持ち上げる。横を向いて、ソーダを飲み始めた。

 私もグラスを手にする。口に含んだ。


 ――甘い。


 弾ける炭酸が心地よかった。態度こそ冷たいが、順子さんの気遣いも嬉しい。少しホッとする。


「アンタのそのお腹。どれくらいになるの?」


 私のお腹を横目で見ながら、順子さんが問いかけた。


「六ヶ月になります」


「六ヶ月っていうことは……」


 順子さんは考える素振りをする。途端に驚いた表情になった。


「どうかされましたか?」


「あんた、半年前ってことは、勲が撃たれた時じゃない。もしかして、あの時に、仕込まれた子供じゃないでしょうね?」


 順子さんが、目を丸くして私を睨む。


「……いえ、違います」


 順子さんが、怪訝な顔をした。


「勲に遊ばれているアンタが、どうしてそんなことを言えるのよ。他にも男がいたっていうこと?」


 私は真っすぐに見つめた。


「はい」


「あっきれた――――!」


 順子さんの驚きに、つい目を逸らしてしまった。傍から見れば無理もない。自分の事が、酷い阿婆擦れ女のように感じた。恥ずかしい……。

 私が黙っていると、順子さんが続けて質問してきた。


「――アンタ、大した玉ね。あの勲を相手に、二股をかけていたの?」


「はい」


「そのことは知っているの、勲」


「はい、知っています」


 順子さんが、大きく息を吐いた。


「ハー。てっきり、アンタと勲を取り合うのかと思ってた……どうも違うみたいね」


「はい」


「じゃあ、何しに来たの? アンタの要件を言いなさいよ」


 順子さんが、私を睨みつけた。

 椅子から下りる。背筋を伸ばした。


「まずは、順子さん、貴女への謝罪です。申し訳ありませんでした」


 深々とお辞儀する。顔を上げた。順子さんが、私を馬鹿にしたように睨んでいる。


「ハッ、それだけ? アンタ、子供のお使いに来たの?」


「い、いえ。そういうわけではありません」


「じゃあ、どうしたいわけ? 悪いことをしたら、それなりの態度を見せるのが筋じゃない。そこのところは、どうなの?」


 具体的な要求は言わない。順子さんは、私に言わせたいようだ。


「お詫びとして、幾らか用意する準備はあります」


「へー、面白い女ね。アンタみたいなのを何て言うか知ってる?」


「えっ! 何て言うか……」


「鴨葱っていうのよ。わざわざ私に会いに来て、お詫びをさせてくださいって、頭がおかしいんじゃないの? 良くそんなんでナンバーワンが勤まったものね。具体的にどれだけ用意したいのか、言ってみなさいよ。あんたの誠意とやらが見てみたいわ」


 唇を噛んだ。順子さんが、具体的な金額を要求してきた。しかし、幾ら提示すれば、納得をするのか見当もつかない。多すぎるのも問題だか、少なすぎては馬鹿にされてしまう。それでは誠意にならない。

 しかし、それ以前に順子さんとの交渉は、和解だけが目的ではない。順子さんに私の味方になってもらわないと意味がなかった。


「金額を提示する前に、お願いがあります」


 順子さんが、目を細める。


「ほら、本性を現した――あんた、何が目的なの?」


 息を吸い込んだ。


「勲お兄さんと私が別れるために……協力してください」


 順子さんが、激しく私を睨んだ。手に持っていたグラスの中身を、私に浴びせかける。


 ビッシャ!


 ソーダを頭から被った。氷が額にぶつかる。全身から、ソーダの甘い匂いが漂った。


「図々しい女ね。協力してくれだ! よくもまあ、そんなことが言えたもんね。あんた、その言葉の意味が分かってるの? 完全に私の事を舐めてるわね」


「いえ、そんなつもりは……」


「頭の悪い女……アタシはね、アンタが死のうがどうしようが関係ないの。アンタが存在しているだけで腹立たしいの。それを……」


「……」


 何も言い返せなかった。ソーダが目に沁みて痛い。


「本当に詫びを入れたいなら、アンタ、死になさいよ!」


 順子さんの目が、怒りで燃えていた。


「それは出来ませんが、出来る限りの誠意は見せるつもりです」


 順子さんが、鼻で笑った。


「ハン! 出来る限りの誠意ねー。くれるって言うんだから、貰うけれど……アンタがそこまで必死なのは、男の為よね」


「はい。そうです」


「私に頭を下げるよりも、その男と一緒にサッサと逃げたらいいじゃないの」


「二人で駆け落ちをしようとしました。ですが、ジョージは、今も勲お兄さんから追われています。見つかれば、タダでは済まないと思います。」


「へー、そうなんだ。勲のことだから、下手したら殺しちゃうかもしれないね」


 順子さんが、不気味に笑った。


「そ、そうならないために、順子さんの助けが必要なんです」


「ふーん、なるほどね……私に会いに来た意味がやっと分かった」


 値踏みするかのように、順子さんが私のことをジロジロと見つめた。負けじと、私も見つめ返す。


「勲お兄さんから干渉されずに、ジョージと一緒に暮らしたい。私の希望は、それだけです」


 怒りに燃えていたはずの順子さんが、今度はニヤニヤと笑っていた。


「具体的な話をする前に、アンタの男の話を聞かせてよ。ちょっと興味が出てきた」


「分かりました。ちょっとおしぼりをお借りします」


 おしぼりを手に取る。ソーダで濡れた顔や服を、おしぼりで拭きながら、ジョージの事を想い描いた。もう半年以上も会っていないけれど、ジョージの事なら何でもわかる。

 濡れたおしぼりをカウンターに置いて、両手をお腹に添える。子供に聞かせるようにして、話を始めた。

 ジョージは、ジュエリーボックスの黒服で、似顔絵が得意だった。支配人の勧めもあり舞台に上がるようになる。ジョージは似顔絵を描くことで、お客様を笑わせた。お客様だけではなく、ホステスからも仲間の黒服からも人気があり、店では無くてはならない人物に育っていった。

 ところが、そんなジョージと私は恋仲になってしまう。切っ掛けは、勲お兄さんだった。お兄さんがヤクザのトラブルに、ジョージを引きずり込む。その事で、大怪我を追ってしまったのだ。怪我をしたジョージは、安達家で療養することになる。この療養期間が、私とジョージの関係を発展させた。

 そんなジョージと、駆け落ちすることを誓い合う。勲お兄さんから逃げるためだ。上手くいくかに見えたけれども、そのタイミングでお兄さんが拳銃で撃たれてしまう。計画していた駆け落ちは出来なくなった。ジョージも姿をくらますことになる。それからは、私もずっと会えていない。

 話を遮るでもなく、順子さんは、私の話をじっと聞いていた。


「ふーん。それで、今はどうしているの?」


「今は、浮浪者をしています」


 順子さんが、浮浪者という言葉に驚く。


「浮浪者! まー、落ちるところまで落ちたもんね。アンタ、本当に、そいつと一緒になる気なの?」


「はい」


 私は、力強く返事した。


「そんなんで生活が出来るの? アンタ、お腹に子供がいるんでしょう」


「今は無理ですが、きっと立ち上がってくれると信じています。二人で一緒に生活が出来ると信じています。ただその為には、私たちに干渉しないと、勲お兄さんに約束して欲しい。その協力を順子さんに……お願いをしたいのです」


 順子さんが、腕を組んで、私を見下ろした。


「そのジョージとやらが、仮に立ち上がったとして、何が出来るの?」


「絵を描いて、人を笑わせることが出来ます」


 順子さんが、怪訝な顔をする。


「それは、つまり……芸人っていうこと?」


「今はまだ、芸人ではありません。ただ今度、テレビ番組にジョージが出演します」


「何て、番組?」


「お笑いスター誕生!! です」


「あー、何か聞いたことある。まさか、それを足掛かりにするつもり?」


「はい」


 順子さんが、目を見開いた。手の甲で口元を隠す。


「アッハッハッハッ――」


 順子さんが笑った。私を馬鹿にするように、気持ちいいくらいに大声で笑った。


「――面白い。アンタ、面白いよ。ジョージより、アンタの方が面白いんじゃない。それこそ、そのお笑い何とかに、アンタも出たらいいのよ。アッハッハッハッ……」


「……」


 唇を噛んだ。この順子という女に、そこまで笑われたことが悔しかった。でも、何も言い返せない。


「一度、そのジョージと一緒に遊びに来なさいよ」


 私は眉を寄せる。


「一緒に……ですか?」


「ええ、歓迎するわ。アンタが、一体どんな男を選んだのか見てみたい。ただその時は、そのジョージをお風呂に入れてきてよ。臭そうだから。アッハッハッハッ……」


 又しても、大声で笑った。

 私とジョージを、どこまでも馬鹿にしたいようだ。でも、我慢しないといけない。順子さんを動かすことが出来なかったら、それこそ、駆け落ちしか道は残されていない。そうなってしまえば、お腹の子供があまりにも可哀想だ。誰にも後ろ指を指されない。そんな生活が欲しかった。

 

「今は、まだ、ジョージは追われていますから……」


「急いでないわよ。その時が来たらでいい」


 ギーィ。


 その時、入り口の扉が開かれた。


「失礼します」


 顔をのぞかせたのは、隆だった。大きな体を揺すって、カウンターに近づいてくる。

 順子さんが、隆に声をかけた。


「あら、いらっしゃい」


 私は、慌てて順子さんに顔を寄せる。小さな声で順子さんにお願いをした。


「隆には、ジョージのことは内緒でお願いします」


 順子さんが、目を細める。嬉しそうに笑った。


「慰謝料のオプション扱いになるわよ」


「構いません」


 そんなヒソヒソ話をしていると、隆が私の隣に座った。


「修羅場になっていませんか?」


 順子さんが、隆を見る。


「何よ、修羅場って……楽しく話し合っていたんだよ」


「どんな話になったんですか?」


 隆が、図々しく聞いてきた。順子さんが、隆に手を差し出す。


「知りたかったら、百万円」


 隆が、眉を寄せる。


「姐さん……そんな金、払えませんよ」


 順子さんは、面白そうに笑った。


「ウフフッ……隆、何か飲む?」


「じゃあ、コーヒーで」


「じゃあ……十万円」


「ボッタクリじゃないですか!」


 隆の情けない声に、順子さんがまた笑った。


「アッハッハッ。嘘だよ。インスタントだからね」


 順子さんは、ポットに水を入れて、湯を沸かす準備を始めた。

 隆が私に顔を寄せる。ヒソヒソと語りかけてきた。


「修羅場にならなくて、良かったですね」


 そんな隆の言葉に、微笑んでしまった。隆なりに、私のことを心配してくれている。その事が嬉しかった。

 順子さんが、コーヒーカップを三つ並べる。それらに、インスタントコーヒーを入れた。程なくして、お湯が沸騰する。順子さんが、ポットを持ち上げた。

 カップの中に、お湯が注がれる。コーヒーの香ばしい香りが立ち上った。

 その時、順子さんが顔を歪める。


「ウッ!」


 ポットを置くと、口元に手を当てた。そのまま、慌ててトイレの方に走り出す。

順子さんのそうした様子を見ながら、思い当たる節があった。もしかして……。

 隆が、不思議そうな顔をする。


「姐さん、どうしたんですかね?」


 程なくして、順子さんがトイレから出てくる。私は、立ち上がった。カウンターに入ろうとする順子さんに駆け寄り、捕まえた。


「どうしたの、アンタ」


 順子さんが、驚いたように私を見つめた。そんな順子さんの手を掴み、厨房に引っ張り込む。カウンターに座る隆と距離を取るためだ。

 順子さんの耳元に囁く。


「もしかして、悪阻じゃないの?」


 順子さんが、驚いて私を見た。


「えっ、そうなの?」


「分からないけれど、ちょっと前まで、私も経験していたから」


 順子さんが、私の瞳を無言で見つめた。

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