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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年十一月
62/80

新たな道

 四迷師匠が怒っている。


 ――またやってしまった!


 きっと、僕が逃げ出そうとしたからだ。

 僕は自分の都合しか考えていない。考えてみれば、いつもそうだった。安達親分から逃げ出して、明美から逃げ出して、今度は四迷師匠からも杉山社長からも逃げだそうとしている。

 師匠のことを虚仮にしたのだから、その事に対して償うのが筋だ。それなのに、僕は自分の都合だけで立ち去ろうとしている。

 成長のない自分に嫌気がさした。どうすれば良いのか全く分からない。いまの僕に出来ることは逃げないこと。それぐらいしか思い浮かばなかった。裁判で判決を待つ被告人のように、覚悟を決める。


「申し訳ありません。自分の都合で、勝手ばっかりしました」


 僕を睨んでいた四迷師匠が、表情を和らげた。


「まあ、とにかく座りなさい」


「はい。失礼します」


 膝を折って、元の場所に正座する。

 師匠は手を伸ばすと、パンパンと手を叩いた。


「はーい」


 襖の直ぐ向こうから、仲居の返事が聞こえる。どうやら部屋の様子を伺い、入室のタイミングを図っていたようだ。

 部屋に入ってきた仲居が、師匠に向かって会釈する。師匠は、その仲居に手を振った。


「おー、久しぶりやないか。幸子はん。もう具合はええんか?」


「ええ、お陰様で。お師匠さんにご挨拶に伺いました。益々お元気そうですね」


「馬鹿は風邪をひかんと言うからな」


「オッホッホッホッ。また、ご冗談を」


 感じの良い仲居だった。歳の頃は四十を超えたくらい。はんなりとした仕草に大人の色香を感じさせる。師匠と気軽に会話をしている様子から、この料亭ではそれなりの立場の仲居なのだろう。


「幸子はん、食事の用意をしてんか。それと、熱燗も一緒にな」


 準備が出来ていたのだろう。他の仲居もやってきて、流れるような動きで目の前に料理が並べられていく。支度を終えると、幸子さんと呼ばれた仲居が師匠の傍にやってくる。


「お師匠さん。熱燗は少しお待ちくださいな。熱さはどないしまひょ?」


 幸子さんの言葉に、師匠が笑顔になる。手を伸ばして、幸子さんのお尻を触った。


「きゃっ!」


 幸子さんが黄色い声をあげる。即座に師匠の手を叩いた。


 パン!


 師匠が痛そうな素振りをする。


「アイタタタッ……いつにも増して元気がええのう。これならもう大丈夫や」


 幸子さんが、ワザと唇を尖らせた。


「お師匠さんは、本当にスケベなんだから~」


 師匠が、悪戯っぽく笑う。


「ワシは猫舌だから、幸子はんのひと肌くらいがええの~」


「はいはい、分かりました。火傷するくらいに熱いのをご用意いたします」


「火傷するくらいにか! それは愉しみじゃの~。どうじゃ。今晩、ワシが火傷させたるぞ」


「師匠のじゃ、火傷できません」


「ワシのじゃ火傷できんか。カッカッカッ!」


 師匠のスケベな絡みを、幸子さんが軽くいなした。そんな幸子さんの返しに、師匠が気を良くしている。それにしても、マイペースな師匠の行動に呆れてしまった。


 ――ここはキャバレーではないのに……。


 先程までの緊迫感が薄れていく。心が少し軽くなった。

 幸子さんたち仲居が部屋を出ていく。急に静まり返った。僕たち三人だけになる。

師匠が、僕と杉山社長に微笑んだ。


「折角の美味しい料理じゃ。食べるとするか。おい、ジョージ」


「はい」


 師匠が、お膳の上のコップを指さした。


「まずは、そのビールを空けんか」


「はい。頂きます」


 コップ中のビールは、時間が経ち白い泡が消えていた。コップを掴み、一気に飲み干す。少し苦かった。


「そうそう、若いんじゃから、もっと飲まんか」


 四迷師匠が、瓶ビールを掴んだ。空になったコップを、僕は師匠に差し出す。


「いただきます」


 師匠から酌を受けた。

 しかしこの後、どの様に師匠と接すれば良いのだろう。傍にある瓶ビールを掴んだ。場を取り繕うようにして、杉山社長に酌をする。

 酌を受けた社長が、お膳の上の先付けに箸を伸ばした。


「烏賊ですな。師匠が言うように、熱燗が欲しくなりますな……うん、美味い」


 先付けは、細長い角皿に盛り付けられていた。焼烏賊、煮烏賊、烏賊の和え物。烏賊だけで三種類の調理が施されている。僕も、順番に食べていった。


「面白いですね。同じ烏賊なのに、それぞれに味わい深いです」


 焼き烏賊は、香ばしさが引き出されていて、烏賊本来の旨味を味わうことが出来る。煮烏賊は、醤油の味がしみ込んでいて、噛むほどに旨味が溢れ出した。烏賊の和え物は、明太子が使われていてピリリとした辛みが、程よいアクセントになっている。


「失礼します」


 声がした。襖が開けられ、先程の幸子さんが熱燗を持って現れた。師匠が嬉しそうに、見上げる。


「やっと来たか。幸子はん、酌をしてくれ」


「はい、はい。分かりましたよ」


 師匠の傍に寄り添い、幸子さんが師匠に酌をする。注ぎ終わったのに、師匠は熱燗を飲まない。僕たちに視線を流した。


「お前たちも、幸子はんに酌をしてもらえ。今から乾杯するからな」


 幸子さんが、ニッコリと笑う。立ち上がり、傍までやって来た。杉山社長と僕は、幸子さんに酌をされる。透明な液体がお猪口に注がれた。熱燗の甘い香りが立ち上る。

 師匠が、杉山社長に向かって顎をしゃくった。


「杉山、乾杯の音頭や」


 急なフリに、杉山社長が驚いた。


「は、はい。分かりました。えー、何に乾杯して良いのか分かりませんが、四迷師匠の益々のご活躍と、ジョージの更なる成長をお祈りして……乾杯!」


「乾杯!」


 お猪口を高く掲げて、一息に飲んだ。ツンとしたアルコールの刺激が喉を通る。お腹の中がほんのりと温かくなった。

 師匠が徳利を持ち、僕に差し出す。今度は、師匠から酌を受けた。


「ジョージ」


「はい」


「これも何かの縁じゃ。ワシは、初めて会った時から、お前のことを面白い奴じゃと感じておった。怒鳴りつけはしたが、嫌いで言うたわけではないぞ」


「はい。ありがとうございます」


「お前には、お前の行く道がある。無理にワシに合わせる必要もない」


「はい」


「弟子云々の話は、これで終わりじゃ。それよりも、ワシは、お前の話を聞いてみたい」


 僕は、怪訝な顔をする。


「僕の……話ですか?」


 師匠が、悪戯っぽく笑った。


「そうじゃ。安達を出し抜いて、よくもまあ、あの月夜と付き合うようになったもんじゃ。どうじゃ、その話を、ワシに聞かせてくれんか。今日は、お前たち二人の馴れ初めの話をアテにして、酒を飲むことにしよう」


 四迷師匠が、ワザとスケベな表情を作った。

 僕は、師匠という人間の懐の広さを感じた。なんだか笑いが込み上げてくる。

 師匠を楽しませたいと思った。そうすることが、僕に出来る最大の償いにも思えたから。


「師匠、無礼講で宜しいですか?」


 師匠が、悪戯っぽく笑う。


「ああ、そうしろ、そうしろ」


 背広の上着を脱いで、ネクタイを緩める。息苦しいので、ワイシャツの第一ボタンも外した。

 僕のそんな態度に、杉山社長が驚いた顔をする。


「おいおい、ジョージ。それは砕けすぎやろ」


 心配してくれる杉山社長を、四迷師匠が制した。


「かまへん、かまへん。好きなようにさせてやれ。おい、ジョージ、景気付けに、もっと飲め!」


「はい。頂きます」


 師匠からの酌を受けて、熱燗を一息にあおった。師匠とこうして、また膝を突き合わせていることが、とても嬉しい。

 明美のことを想い描いた。ジュエリーボックスの面接の日に、戎橋で明美に出会った頃から話を始める。氷のように冷たい瞳に、僕は魅了された。

 僕の淡い恋心が、大きく前進したのは、ジュエリーでの初舞台だった。僕は、舞台のモデルとして、明美を指名する。明美が舞台に上がって来てくれた。僕は有頂天になる。

 舞台の上で、僕の言葉に明美が涙を流した。その一粒の美しい涙に心を打たれる。丁寧に似顔絵を描きあげた。しかし、あれが切っ掛けで、僕は安達親分に殴られる。

 その後、キャバレーの黒服なのに、ヤクの取引現場に連れ出された。しかし、不審がられた僕は、安達組と敵対する組織に捕らえられる。酷く殴られながら、尋問された。木崎さんが助けには来てくれたが、更に足を怪我する。全治一か月の大けがだった。

 でも、そのお陰で、僕は明美と付き合うことになった。安達家での療養生活は、とても有意義なものだった。喜美代さんや京子さんとも仲良くなる。

 表立って付き合うことが出来ない、僕と明美だった。そんな僕たちが、岡山にある大原美術館に、二人で旅行することを計画する。楽しいはずのデートだったのに、僕たちは喧嘩をした。その喧嘩がきっかけで、二人で駆け落ちすることを決意する。その晩、僕は明美と結ばれた。


「月夜は良かったか?」


 スケベな表情で、師匠が問いかけてきた。


「ええ、まあ」


「もうちっと、その時のことを詳しく話なさい」


 師匠がにじり寄る。


「いや詳しくと言っても、僕も初めての事で……」


「なぬ! ジョージ。お前、童貞か?」


 恥ずかしさに、頭に血が上る。


「いや、童貞というか。初めての時は、萎んでしまって……」


 師匠が、膝を叩いた。


「カーカッカッカッ! 萎んだんでは無理じゃの。女との秘め事にも、場数が必要じゃ。どうじゃ。この後、三人で繰り出すか!」


 杉山社長が、身を乗り出す。


「師匠! ご相伴にあずかります」


「馬鹿いえ。杉山、お前の奢りじゃ」


「そんな~」


 三人で、大笑いした。

 その後、僕と明美の駆け落ちは、失敗に終わる。一発の銃声にかき消されてしまったのだ。

 話を聞きながら四迷師匠は、時には頷き、時には揶揄い、時には聞き直して、話を盛り上げていく。話の達人は、話を聞くことも達人だった。

 話をしながら、僕にとっての明美の存在が、ひと際大きなものに感じられる。僕の話が一段落した。

 その時、師匠が眉を寄せる。


「なあ、ジョージ」


 師匠の声が少し低かった。先程と雰囲気が違う。僕の中の緩んでいた気持ちが、急に引き締まる。


「はい」


 師匠が、ジッと僕を見つめた。


「安達が撃たれてから、お前は逃げ出した。その後の、明美さんとの繋がりは、どうなったんじゃ」


 師匠の問いかけに、僕の心が沈んでしまう。


「初めの頃は、行く先々から頻繁に電話をしました」


「最近は?」


 少し言い淀む。


「……ここ一ヶ月は……電話が出来ておりません」


「なぜじゃ?」


「それは……明美の対応が、段々と余所余所しくなってきたからです」


「余所余所しい……どんなふうに?」


「何て言うか、僕と話をしていても、明美はどこか上の空なんです。明美には明美の生活があるだろうし、僕はただ逃げ回っているだけ。この距離感は仕方がないかなって思いました。そんな時に、明美と喧嘩をしました」


「何が原因じゃ?」


「えーと、大阪に帰ってきてくれって、明美に言われました。その頃、僕は札幌にいました。今は無理って答えたら、意気地なしって返されました。その後も、何度か電話をしましたが堂々巡りで……だから、大阪に帰ることにしました」


 四迷師匠が、僕を鋭く見つめる。


「今は、どうしているんじゃ?」


「今は、天王寺公園で浮浪者をしています。それでも、絵は描き続けています」


 四迷師匠が、僕のことをジッと見つめた。

 その視線に耐えられない。僕は俯いてしまう。


「なあ、ジョージ」


「はい」


 顔をあげた。


「お前は、先程、明美さんと一緒になるために、ワシの力を借りたいと言ったな」


「はい」


「それなのに、今のお前は、明美さんと連絡を取り合っていない」


「そ、それは……今の僕では、付き合うに値しないからです。安達親分と対等に渡り合う力があれば、明美と付き合うことが出来る。そう思ったからです」


 四迷師匠が、首を傾げた。目を細める。


「あのな、ジョージ」


「はい」


「気持ちは分かるが……お前の考え方は、間違っているぞ」


「……」


「確かに、経済力を含めた何かしらの力がなければ、生活を維持することは出来ない。しかし、力があるからといって、愛が育つわけでもない」


「そうは、言っても……」


 師匠の言葉に納得しつつも、素直に「はい」と答えることが出来なかった。


「お前に必要なことは、己を信じる心じゃ」


「……信じる心」


 師匠が、真っすぐに僕を見つめる。


「そうじゃ。結果ばかりを追い求めるな。今は己を信じて、力をつけろ。ワシだって、ガキの頃から落語家だったわけじゃない。我武者羅に突き進んできた結果が、今のワシじゃ。結果は後から付いて来る」


「はい」


「あれこれ策を弄して結果を先に求める奴はな、己の成長が疎かになってしまう。たとえ結果を手に入れても、そうしたメッキは直ぐに剝がれてしまうもんじゃ。本物はな、何があっても輝きを失わない。ジョージ、お前はな、今、本物になれるかどうか試されているんじゃ」


「試されている」


「そうじゃ。明美さんとよりを戻すことがゴールじゃない。一緒になってからが、スタートじゃ。これからも困難は繰り返し押し寄せてくる。その荒波に立ち向かうためにも、己を信じろ。一つ一つ力を付けるんじゃ」


「はい。肝に銘じます」


「ジョージ。己を信じるとワシに誓うのなら、ワシはお前の力になることが出来る」


 四迷師匠の最後の言葉が、うまく呑み込めなかった。弟子になることを断った師匠が、僕に何をしてくれるというのだろう。

 崩していた足を動かして、僕は正座をし直す。師匠を真っすぐにみつめた。


「今は未熟ですが。自分を信じます。是非、ご教示ください」


 四迷師匠が、僕の顔を覗き込む。しかし、不快感はなかった。僕の全てを見て欲しかった。師匠が口を開く。


「今日、この松川に来るにあたって、ワシは明美さんと話をした」


「えっ!」


 驚いた。目を見開いて、師匠を見る。


「なあ、ジョージ。なぜ、明美さんは、余所余所しくなってしまったと思う?」


「何故……ですか……分かりません」


「明美さんはな、今、妊娠をしておる」


「妊娠!」


 予想外の言葉に、激しく動揺した。


「しかしな、お腹の子供が、安達の子かお前の子か分からん、と言って泣いておった。それでもな、明美さんは子供を産むつもりじゃ――」


 大きく深呼吸した。明美が独りで悩んでいることを、僕は全く分かっていなかった。あまりの自分の不甲斐なさに、唇を噛みしめる。

 僕が黙っていると、師匠が更に続けた。


「――もう一つ、お前に話がある」


 息を呑む。まだ何かあるのか……。


「聞かせてください」


「安達が銃弾で倒れた日、明美さんはこの部屋に安達といたそうじゃ。お前との関係に腹を立てた安達がな、無理やりこの松川に連れてきたんじゃ。明美さんは大いに動揺した。お前が、安達の手下に捕まる事だけを心配して、お前に電話をした。その電話機でな」


 僕は、目を瞑って泣いていた。師匠の話を聞きながら、溢れる涙を止めることが出来なかった。

 今更ながらに、明美の僕に対する愛情を感じていた。いったい、僕は何をしていたのだろう。逃げてばっかりで、自分はおろか明美さえも信じられずにいた。

 僕は、ズリズリと後ろに後退する。改めて四迷師匠に向かって土下座した。


「師匠、教えてください。僕の頭では分かりません。僕は、これからどうすれば良いのでしょか?」


 涙を流しながら、僕は師匠に教えを乞うた。師匠が口を開く。


「ジョージ、顔を上げなさい」


「はい」


 師匠の顔を見る。師匠は、僕の顔を真っすぐに覗き込んだ。


「お前はテレビを見ているか?」


「いえ、ここ最近は、全く見ていません」


「そうか。実はな、この春から面白い番組が始まっていてな」


「面白い……番組ですか」


 話の急な展開に、僕の頭が混乱する。


「お笑いの公開オーディションの番組じゃ。全国から芸人が集まっている」


「は、はい」


「ワシが言うのもなんじゃが、かなり面白い。素人ばっかりが集められたとは思えん緊張感がある。その公開オーディションに、お前も参加しろ。そして、優勝するんじゃ」


「……優勝」


「優勝すれば、旗本興行も黙ってはいないぞ。ワシなんかに頼らずとも、芸人の道が開かれる」


「師匠、その番組は、何という番組でしょうか?」


「その番組の名前か。お笑いスター誕生!!じゃ」

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