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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年十一月
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前哨戦

 旗本興行。この大阪における旗本興行の影響力の大きさに思いを巡らせてみた。

 昨今の漫才ブームのけん引役は、旗本興行の芸人によるところが大きい。旗本新喜劇はもちろんの事、様々な番組の司会者も旗本興行で占められていた。大阪で芸能と言えば旗本興行を抜きにしては語れない。その旗本興行が、神戸の西岡組と裏で繋がっていた。驚きの事実だ。


「ジョージ。もうええから、ソファーに座れ」


「はい」


 立ち上がり、僕はソファーに座り直す。すると、タイミングを見計らっていたのか、台所から美弥子さんが姿を現した。


「はーい。おつまみですよ~」


 傍までやってくると、美弥子さんが目の前にお皿を置いてくれた。チーズがお皿の上に可愛らしく並べられている。食べやすいように爪楊枝が刺してあった。


「美味しそうだ。ウィスキーに丁度いいね」


 僕の言葉に、美弥子さんが嬉しそうに笑う。そのまま、ソファに腰を下ろした。


「ウィスキーを飲んでいるんですか。私が注いであげます」


 美弥子さんが、ローテーブルの上にあるウィスキーの瓶を持ち上げる。


「嬉しいな。女子高生からのお酌だ」


「高いですよ、このお酌は」


 美弥子さんが、可愛らしく僕のことを睨んだ。


「怖いな。心して飲まないと」


 グラスを手に取り、中に残っているウィスキーを先に口にする。氷が解けて、口当たりが軽くなっていた。

 飲み切ったグラスを差しだす。美弥子さんはボトルを両手で持ち、真剣な目つきで琥珀色の液体を注いでくれた。


「これくらいで、いいですか?」


 ウィスキーが、グラスに半分ほど注がれる。


「うん。ありがとう」


 グラスを口元に寄せて、ウィスキーを口に含んだ。時間が詰め込まれた強い香りが、鼻孔を突き抜けていく。とても美味い。

 今度は、用意してくれたチーズを口の中に放り込む。これまた熟成された濃厚な香りが口の中に広がっていった。二つの香りが、口の中で絡み合い踊り出す。


「私のウィスキー、どうですか?」


 美弥子さんが、興味深そうに僕を見ている。


「うん。格段に美味しくなった。今度からは、美弥子さんを指名しなきゃいけないな」


「あら、嬉しい。でも、私の指名料は高いですよ。ウフフ……」


 美弥子さんが媚びを含んだ目で僕を見つめている。チラッと社長に視線を向けると、難しそうな表情を浮かべていた。慌てて話題を切り替える。


「お酒ってね、料理との相性が大切なんだ。例えばね、このチーズとウィスキーの取り合わせは最高だ」


「あら、そうなんですか」


「社長が用意してくれたこのウィスキーはとても強いお酒でね。暴力的と言っても良い。生半可な料理だと、その癖の強さに押し潰されてしまうんだ」


「このチーズは潰されないの?」


「全く潰されない。チーズっていうのは、とても懐が広い食べ物だと思うな。攻撃的なウィスキーを丸く包み込んでしまう。母性愛の様なものを感じるね」


「へー、面白い。他には、どんな相性があるんですか?」


「色々あるけど、基本的にはその土地の料理と、その土地のお酒なら合うんじゃないかな。長い歴史の中で、相互に関係しあって発展してきたからね。お刺身や焼き魚を食べるんなら、日本酒が欲しくなる。ウイスキーは、合わないな」


「じゃ、私とジョージさんの相性はどうですか?」


 美弥子さんの、無邪気な言葉に凍りつく。ゆっくりと杉山社長を見た。またまた難しい顔をしている。

 途端に、美弥子さんが笑いだした。


「アッハッハッ! 冗談よ。パパも変な顔をしないでよ。ホントに可笑しい……」


 杉山社長も僕も、呆気に取られてしまった。美弥子さんは、意地悪そうに笑いながらウィスキーのボトルを持ち上げる。杉山社長に差し向けた。


「はい。パパも飲んで。娘からのお酌よ。心して飲んでね」


 美弥子さんに言われるままに、社長がぎこちなくグラスを掴んだ。しかし、その顔が少しにやけている。娘からのお酌が嬉しいのだろう。

 ウィスキーを注がれながら、社長が遠慮がちに美弥子さんに問いかけた。


「ああ、ありがとう……どうやったんや文化祭は?」


 美弥子さんが、楽しそうに文化祭での顛末を社長に語る。社長は嬉しそうに頷いていた。

 一時的な衝突があったにせよ、二人は親子。なんだか微笑ましく感じた。


 文化祭での話が一段落すると、美弥子さんが僕の方に振り向いた。


「ねえねえ。さっきの話の続きを聞きたいんだけど?」


「えっ! 何のこと?」


「ほら、旗本興行って言っていたじゃない」


「ああ……」


 杉山社長が、割り込んでくる。


「それはな、ジョージの身の振り方について話し合っていたんや」


 美弥子さんが、目を輝かせた。


「ジョージさんって、旗本興行に入るの? 賛成! すっごく面白いから人気者になると思うよ」


 杉山社長が首を振る。


「それほど簡単な話でもないんや」


「でも、旗本興行は、アホでも入れるって言うじゃない」


 美弥子さんの言葉に、杉山社長が笑った。


「ハッハッハッ! それやと、ジョージがアホやって言うてるみたいやな~」


 美弥子さんが、申し訳なさそうに肩をすぼませる。


「そういうつもりじゃないけど……」


 社長がウィスキーを一口飲む。話を続けた。


「新喜劇の団員なら、直ぐにでもなれる。あそこは毎日劇団員の募集をしているからな。やる気さえあれば、それこそアホでも入れる。ただな、それではあかんのや」


 社長の話が見えない。どういうことだ?

 僕は、社長に尋ねる。


「でも、社長は旗本興行に入れって……」


 社長が、ニヤリと笑う。


「新喜劇の団員では、駄目やって話や。あそこでは、まず生活が出来ない。タダ同然で使われる。その中からスターになれるのは、百人に一人もおらん。運よくスターになれたとしても時間が掛かる。それにな、新喜劇の団員では安達親分に対しての抑止にはならんのや」


 確かに、旗本興行の芸人といっても、ピンからキリまである。


「じゃあ、僕はどうすれば良いのでしょうか?」


 杉山社長が眉を寄せる。僕の顔を見据えた。


「旗本興行の芸人になる、もう一つの道は、師匠を見つけて弟子入りすることや」


「弟子入り」


「そうや。しかも、旗本興行でも影響力がある芸人やないとアカン」


「……それは誰でしょうか?」


 杉山社長が、悪戯っぽく笑った。グラスに手を伸ばしてウィスキーを舐める。僕は両手を握り、社長の言葉を待った。


「……ジョージも世話になったやろう」


「はい?」


「九束亭四迷師匠や」


「あっ!」


 四迷師匠の豪快な笑い顔が思い出される。一年前、初めてジュエリーボックスで仕事をした日、僕をボックス席に呼んでくれたのが師匠だった。美智子さんの裸の絵を僕に描かせて、皆を笑わせる。芸に対して関心を持つようになったのは、九束亭四迷師匠との縁が大きかった。


「ただな、四迷師匠がお前を弟子に取るかどうかは、正直なところ分からん。気難しい人やからな。しかしな、あの師匠が、もし、お前の身を引き受けてくれたら、安達親分はお前のことを諦めるやろう」


 四迷師匠の人柄を思い浮かべる。あの剽軽な笑顔の裏側に、師匠は人並外れた頑固さと、負けず嫌いの一面を忍ばせていた。そんな四迷師匠を説得するのは、並大抵のことではない。しかし、賭けるしかなかった。


「四迷師匠にお願いしたいと思います」


 杉山社長が、僕の返答に頷く。


「そうか。その点について、もう一つ。弟子を希望する以上、師匠の言うことは絶対や。師匠が絵を辞めて、落語をせいって言うたら、それにも従わなあかんで」


 僕は、言葉に詰まった。四迷師匠は落語家だ。師匠の弟子になるということは、そう言うことなのだ。

 しかし、今、何が大切なのかを考える。明美を取り戻すためには、まず、足場を作らなければならない。それで初めて、安達親分と渡り合う事ができる。四迷師匠が落語をやれというのなら落語を覚えよう。似顔絵を使った笑いは、それからでも出来る。


「分かりました」


「そうか、それなら四迷師匠との話し合いの場は、ワシが用意したる。後は、お前次第や。それでええな?」


 僕は深々と頭を下げた。杉山社長には感謝しても仕切れない。


「ありがとうございます」


 ◇   ◇   ◇   ◇


 杉山社長の家でご馳走になった日から五日後、僕は社長に教えられた松川という料亭にやってきた。時計を見る。約束の時間にはまだ早かった。

 杉山社長が、わざわざこの店を選んだ意図が分からない。四迷師匠の弟子になるためには、このような格式の高そうな料亭で、もてなす必要があるのだろうか。僕とは全く不釣り合いに感じた。

 でも、それよりも、一番の問題はここが安達組のシマのど真ん中ということだ。安達組の組員に見つかりはしないかと、僕はビクビクと震えていた。サングラスを掛けて下を向き、顔を見られないように俯いている。きっと不審者に見えただろう。

 暫くすると、料亭の前にタクシーが停車した。杉山社長が車から降りてくる。サングラスを取ると、僕は社長の元に駆け寄った。


「今日は、宜しくお願いします」


 杉山社長は、僕を見ると表情を硬くした。


「おう、来てたか。今日は、心して掛かれよ」


 真剣な眼差しで頷く。


「はい」


「実はな、話し合いの場にこの料亭を指名したのは、四迷師匠なんや」


「四迷師匠が……」


「お前、ここがどういう場所か、知っているか?」


「いえ、知りません」


 杉山社長が目を細める。


「安達の親分が、拳銃で撃たれた場所や」


「えっ!」


 自分の顔が青ざめるのが分かった。


「四迷師匠が、あえてこの店を選んだということは、もう試験が始まっているってことや。覚悟してかかれよ」


「はい」


「じゃ、先に入っておこうか」


 杉山社長が歩き出す。料亭松川の暖簾をくぐった。僕も、その後に続く。料亭に入ると、和服姿の女将が出迎えてくれた。


「あら、杉山社長はん、お久しぶり」


「今日は宜しく。後から四迷師匠がやって来るから、部屋に通してくれるか」


「あら、お師匠さんなら、もうお越しになられております」


 女将が、杉山社長を不思議そうに見上げる。


「なんやって!」


 社長が、驚いた声で叫んだ。


「いきなり、何ですのん……びっくりしますやん」


 女将の驚きを他所に、社長が青ざめる。


「ったく、あの人は……約束の時間には、早すぎるやろう……」


 社長が、忌々しく呟いた。僕を睨みつける。


「行くぞ、ジョージ。戦いや!」


 大きく息を吸って、僕は返事した。


「はい!」

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