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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年十一月
56/80

交換条件

 大阪に帰るために、日本海側を一直線に南下した。一日でも早く帰りたかったので、朝起きると、直ぐに出発する。食事は簡素なものにした。途中、スーパーを見つけて、食パン一斤とバナナを購入する。朝食と昼食は、自転車を漕ぎながら、それらを食べた。夕方まで、延々と走り続ける。夜はしっかりと栄養のあるものを摂取して、ウィスキーを嗜み、寝た。その様にして、一目散に大阪に帰ってくる。


 しかし、僕は何も行動が起こせずにいた。手段が見つからない。明美に会いに行くことも出来ず、天王寺公園で燻ぶっていた。

 そんな矢先に、小林君に声を掛けられる。その縁が発展して、杉山社長に会うことが出来た。これは、明美に繋がる細い糸だ。決して手放してはいけない。杉山社長の期待に応えることで、未来を掴みたい。


「描かないんですか?」


 美弥子さんが、不機嫌そうに僕を睨みつけた。僕は、現実に引き戻される。

 美弥子さんは、馬鹿にしたような目つきで僕のことを睨んでいた。僕に対する不信感が伝わってくる。


 ――悪くない。


 彼女は戦っている。美弥子さんの芯の強さの様なものを感じた。美術部の部長としての責任感、また美術を愛する矜持。そうした美弥子さんの人間としての強さに惹かれた。体制におもねらない反骨精神が、その瞳に凝縮されている。その時、僕の中のスイッチが押された。


「君を裸にしてあげる」


 美弥子さんが、激しく僕を睨んだ。同時に、僕の中から恍惚とした快感が湧き上がってくる。鉛筆に力を込めた。クロッキー帳に襲い掛かる。

 激しい美弥子さんの気性を表現したい。その為には、ありきたりな似顔絵では駄目だ。怒り狂ったように線を走らせる。今にも襲いかかろうとする猛獣のような美弥子さんをイメージした。ワザとデッサンに狂いを持たせて、怒りの表情を描き殴る。絵の中で美弥子さんは右手を突き出していた。中指が立てられている。


「ファッキュー!」


 美弥子さんの似顔絵を一気に描きあげた。まるで短距離走を走ったような息苦しさを感じる。息をすることを忘れていた。

 大きく息を吸いながら、出来上がった似顔絵を見つめる。美弥子さんの気性に当てられて、襲い掛かるように絵を描いてしまった。これまでに経験したことがない感覚だ。

 顔を上げる。美弥子さんに視線を向けた。美弥子さんは、僕の様子に驚いているようだった。


「もう、描けたんですか。凄い勢いでしたけど……」


「ええ。美弥子さんの激しさを表現しました」


 立ち上がり、クロッキー帳を差し出した。美弥子さんが受け取る。クロッキー帳に視線を落とした。


「えっ!」


 そう言ったきり、美弥子さんは黙ってしまった。食い入るようにしてクロッキー帳を見つめる。美弥子さんは黙ったままだった。話しかけるのが憚られるくらいに真剣な目つきだ。

 遠慮がちに、僕は美弥子さんに問いかける。


「どうかな? 笑いの要素は全くないけれど……」


 美弥子さんが、ゆっくりと顔を上げた。僕を見る目つきが変わっている。日本人形のような長い黒髪を左右に揺らしながら、歓喜の嬌声をあげた。


「めっちゃ凄い! って言うか格好ええし!」


 美弥子さんの強い眼差しが溶けて、可愛らしい女の子の瞳に変わった。かしこまった「ですます調」の話し方も、どこかに吹き飛んでしまう。


「あ、ありがとう」


 動揺している僕の腕を、美弥子さんが掴み強くゆすった。


「ジョージさん凄いです。感動しました。私、こんな絵が好きなんです~」


 美弥子さんの、あまりの変貌ぶりに驚いてしまった。


「美弥子さんて、意外とお茶目だったんだね」


 美弥子さんがハッと我に返った。背筋を伸ばして、ツンと澄ました表情を作る。動揺しながらも、僕を見つめた。


「コホン。素晴らしいと思います。ところで、ジョージさんに質問があるのですが?」


「ええ、どうぞ」


「わたし、こんな表情をしていましたか?」


 素直な質問だ。僕の絵は模写じゃない。僕は感じたように筆を運ぶ。モデルに笑って欲しかったら、僕は笑顔に描きかえてしまう。


「いや、していないよ。ただ、美弥子さんには、そんな表情が似合いそうだなって思ったから……」


「想像して描いたんですか……あの短時間に?」


「ええ、まー、そうなるかな」


 美弥子さんが、口を開けて僕を見つめた。


「凄い。本当に凄い……」


 感心している美弥子さんと話をしながら、僕は小林君と貴子さんのことを考えていた。

 小林君と貴子さんは仲良くなれた。しかし、貴子さんに対するイジメの問題はまだ解決していない。その事を考えると、手放しでは喜べなかった。

 

 ――彼女に相談してみようか?


 彼女は美術部の部長だし、正義感が強そうだ。また、間違ったことが許せない気性の強さを感じる。今回の小林君の問題についても、力になってくれるかもしれない。


「美弥子さん。ちょっと話があるんだけれど」


「何でしょうか?」


 美弥子さんが、嬉しそうに顔をあげた。


「ここでは話しにくいから、表に出ようか」


「分かりました」


 美弥子さんを連れて歩き出すと、杉山社長が僕を呼び止めた。


「おい、ジョージ」


 僕は、振り返る。


「はい。何でしょうか?」


 杉山社長が、目を丸くしている。


「ワシの目の前で、娘を口説くなよ」


 社長の勘違いに、吃驚した。


「ち、違うんですよ、社長」


「何が違うねん」


「美弥子さんには、そのー、び、美術部の部長としてですね、話があるんですよ」


 シドロモドロしている僕の態度に、美弥子さんが笑った。上目遣いに僕を見つめる。


「あら、私だったら口説かれても良いのよ」


 ――美弥子さん、話を拗らせないでくれ!


 僕は、心の中で悲鳴を上げた。僕は、杉山社長の背中に手を回す。


「じゃ、社長も一緒に来てください」


 二人を連れて美術室を出る。廊下には多くの学生や見学者が歩いていた。落ち着いて話をする場所がない。仕方がないので、窓枠に凭れかかりながら、これまでの顛末を二人に語った。

 小林君が描いた貴子さんの肖像画が、誰かに落書きされてしまったこと。その原因は、テニス部での貴子さんに対するイジメが起因していること。小林君がひどく取り乱したが、貴子さんの対応で今は落ち着いていること。

 一通りの説明が終わると、美弥子さんは怒気を含んだ声で呟いた。


「作品に落書きするなんて、許せない」


 僕も頷く。


「本当に許せない。ただ、心配しているのは、この問題がまだ解決していないってことなんだ。今後も、二人に対するイジメが続くと思うと……」


 僕の言葉に、美弥子さんが目を瞑った。腕を組み考え始める。

 この手のイジメの問題は、陰湿なうえに解決が難しい。美弥子さんに相談したところで、解決が出来るかどうかは分からない。


「ジョージさん」


「はい」


 美弥子さんが目を開けた。僕を見つめる。


「私なら、貴子さんの問題を解決することが出来ます」


「本当に!」


「ただし、解決する為には条件があります」


 美弥子さんが、すまし顔で僕を見つめた。美弥子さんの自信に満ちた表情に、つい引き込まれてしまう。


「条件って、どんな?」


 美弥子さんが、悪戯っぽく笑みを浮かべた。


「ジョージさんは、小林君と貴子さんの事を助けたいと、思っているんですよね」


「まあ、そうだね」


「小林君と貴子さんは私が責任を持って解決します。その交換条件として、ジョージさんは私の為に力を貸してください」


 頭を捻った。

 美術部員の問題なのに、何だか僕の為に美弥子さんが問題を解決してあげるという構図になっている。何と言うか、やり手の政治家みたいだ。

 ただ、美弥子さんは、素直に「力を貸してください」と言っている。そこはとても正直だ。


「そんな言い方をしなくても、僕で良ければ力になるよ」


「本当ですか! 嬉しい~」


 美弥子さんが、年相応な喜び方を見せる。


「ところで、僕は何をすれば良いのかな?」


「先ほどもお話ししましたが、現在、美術部は部員減で困っています。このままでは、来年の部の存続が危ぶまれます。だから、この文化祭で部員数増を目指したいと思います」


「なるほど。僕は、呼び込みでもするのかな? でも、形だけの部員は来てほしくないんだろう?」


「もちろんです。やる気がない部員なら来て欲しくありません。でも、美術に関心があるのなら話は別です。私が教育します」


「じゃ、僕は何を?」


「いま、やって頂いたことです。今日と明日、この美術室で似顔絵を描いてください。段取りは私が仕切ります」


「それくらいお安い御用だよ。僕が毎日していることだ。それよりも、気になるのは、イジメをどのように解決するのかが気になるんだけど」


 得意そうな表情で、美弥子さんが僕を見上げた。


「イジメの問題って、要は力関係でしょう。ジョージさんのお話では、貴子さんはテニス部に所属しているそうですね」


「ああ、小林君からはそう聞いている」


「女子テニス部の部長は私と幼馴染で、且つ私に逆らえないんです」


 僕は、眉をひそめた。


「逆らえない?」


「ええ。彼女、というかこの学校で私に逆らえる女子はあまりいないと思います。貴子さんのイジメについては、女子テニス部の部長に問題を解決して頂きます」


 美弥子さんを、見つめた。絶対の自信に裏付けされた彼女の凛とした姿には、全くの迷いがない。彼女の、この高校での存在感が気になった。


「ちょっと、聞いてみたいんだけど」


「ええ、何でしょうか」


「美弥子さんって、この高校のスケバンか何かなの?」


「アッハッハッハッ!」


 途端に美弥子さんが、高らかに笑い出した。可笑しくて仕方がないような笑いだった。目に涙を浮かべている。


「そんなに面白かったかな」


「面白いです。ご想像にお任せします。ただ、問題は必ず解決します。その事は安心してください」


「分かった。宜しくお願いします」


 美弥子さんの自信満々な姿に、妙に納得させられてしまった。その方法が、イジメの根本的な解決にはつながるとは思えない。でも、現在の貴子さんの環境は間違いなく改善されるだろう。

 今も似顔絵を描いている小林君と、モデルの貴子さんに視線を送った。


 ――良かったね。


 心の中でそう呟いた。

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