喧嘩
その頃、僕は北海道にいた。大阪を出発してから北へ北へと自転車を走らせた僕は、連絡船に乗り北海道に渡る。初めて訪れる北海道の大地は、本州とは全く違う景色をしていた。
本州の最北端、青森に至るまでの道のりは奥羽山脈に沿って国道が伸びている。奥羽山脈は深い森だった。高い木々が空を隠している。その隙間を縫うようにして、僕は自転車を走らせた。
ところが、北海道は空を遮るものがない。ただただ広かった。草原の中を、一本の道が真っすぐに伸びている。その先が見えないのだ。あまりにも広すぎて、走っても走っても景色に変化がない。前に進んでいるのかさえ疑ってしまう。北海道の大きさに、圧倒された。
地図を開き、北海道の岬や名所を確認しては現地に向かう。夏の北海道を、縦横無尽に走り回った。僕は、自分の足跡を地図に記していく。北海道が僕の足跡で囲まれていく様子が、ゲームのようで楽しかった。
グルっと一周して、再び札幌に帰ってくる。札幌は、大自然とは違い人間が生活する都市空間だ。広い道路の左右には建物が立ち並び、多くの人が行き交っている。久しぶりの街の空気が、なんだか懐かしかった。
自転車を札幌駅に向ける。駅は街の中心地にある。周囲はコンクリートで整備されていて、僕のような薄汚れた旅人が立ち寄るような場所ではない。ところが、駅に近づくと僕のような旅行客が目につき始めた。
北海道は強大な観光地ともいえるので、札幌に旅行客が集まることはさほど不思議なことではない。ただ、それら旅行客は、大きく二種類に分けることが出来た。一方は、北海道を楽しむためにやって来た観光客。もう一方は、移動手段を楽しむために北海道にやって来た旅人だ。
観光客の多くは、お金を使いホテルに泊まる。反対に、旅人の多くは、時間を使い移動を楽しむ。且つ、宿泊にはお金をかけない。そうした旅人のことを、現地ではみつばち族と呼んでいた。
みつばち族の多くは、移動にオートバイを使いツーリングを楽しむ。北海道という広大な大地を走り回るのに、オートバイは打って付けの移動手段だった。
しかし、移動手段はオートバイだけではない。僕のように自転車を走らせる者もいた。そうした旅人のことを、ライダーに因んでチャリダーと呼んでいた。徒歩の場合は、トホダーになる。
そうしたみつばち族が、まるで巣に戻る様にして札幌駅に集まっていた。目的は宿泊するためだ。みつばち族は、札幌駅の敷地内で堂々と寝袋に包まり一泊する。一人や二人ではない。夏の時期には、二十人三十人がそこかしこで寝転がっているのだ。
自転車があるので、僕は駅構外の道路わきに自分の場所を確保した。テントは張れないが、雨の心配はない。それに、札幌駅では、一夜を共にする仲間が沢山いた。面識はないけれど、お互いに旅人ということで妙な親近感を感じる。
隣近所の旅人と挨拶を交わした後、これまでの旅の出来事や情報を交換した。旅人のそうした情報は、実際に現地に訪れているだけに、非常に価値が高い。ついつい話が盛り上がる。
その時、近くで誰かが叫んだ。
「おーい、みんな聞いてくれ!」
声がする方に顔を向ける。一人の男が立っていた。奇妙な男だった。オレンジ色のスタジアムジャンパーがとても目立つ。でも、それ以上に目立つのはその男の頭だった。モヒカン刈りなのだ。
何事かと、周辺にいた旅人たちが一様に注目する。モヒカン男は、両手を振り上げて、更に続けた。
「どうか俺を助けて欲しい。大阪にいる女が、今すぐにでも子供を産みそうなんや。チャランポランな俺やけど、いま直ぐに大阪に帰りたい。女を安心させたいし、子供の顔が見たい。大阪までの旅費を、なんとか工面したいんや」
必死の叫びだった。モヒカン男の事情は分からない。しかし、大阪に帰りたいという気持ちは伝わってきた。しかし、だからといって、見も知らないモヒカン男にお金を貸す義理もない。誰もが対応しきれないでいた。そうした空気の中、モヒカン男は手に持っていたリュックサックを持ち上げる。
「そこでだ。貸してくれとは言わない。俺の荷物を買い取って欲しい。まずは俺の荷物を見てくれ」
モヒカン男はその場で荷物を広げ始めた。なんだか手慣れている。モヒカン男のリュックから、色々なキャンプ用品が飛び出してきた。男は一つ一つ丁寧に並べ始める。周りの視線がモヒカン男に集まった。
「ちょっと見てみないか?」
知り合ったばかりで意気投合していた旅人が、モヒカン男に興味を示す。僕を誘った。
「そうだな。面白そうだし」
二人して腰をあげた。他の旅人たちもモヒカン男のキャンプ用品に関心を示す。
「いらっしゃい。いらっしゃい。どうぞ見てくれよ」
モヒカン男は、見た目に反して愛嬌のある男だった。僕たちに視線を向けると、嬉しそうに手招きする。
キャンプ用品は一通り揃っていた。テントに寝袋、ストーブにランタン。それら商品を囲むようにして、十人ほどの旅人が集まった。モヒカン男は、それらのキャンプ用品が値打ちものだと熱心に訴える。
その中から調理をするためのストーブが真っ先に売れた。ガソリンを使うタイプで上級者向けになる。中古とは思えないほどに状態が良かった。値段はモヒカン男との交渉で決められるが、案外安いような気がした。
旅人たちは、実際にそれらのアイテムを使用しているので価値を知っている。他のキャンプ用品も、スムーズに買い手が見つかっていった。
僕も購入する。寝袋の中で使うインナーシーツと、モヒカン男が着ていたオレンジ色のスタジアムジャンパーだ。
九月も中旬を過ぎた頃から、北海道は急に寒くなる。その寒さ対策に、実は頭を悩ましていたのだ。なかなか良い買い物ができたと思う。
お金を手にしたモヒカン男が、札幌駅から消えた。集まっていた旅人たちもそれぞれに散っていく。僕も元の場所に戻っていった。
軽い食事を終えていた僕は、荷物の中からウィスキーを取り出す。蓋を開けて、そのまま一口飲んだ。燃える様な液体が、喉を焼きながら流れていく。強いアルコールの匂いが鼻を突き抜けていった。
――美味い。
寒さを感じるようになってから、毎晩、ウィスキーを嗜むのが習慣になっていた。身体が温まる。緩やかな酔いに心を委ねていった。
ブッブ―!
目の前でタクシーがクラクションを鳴らしている。街の喧騒が心地良かった。
――遠くまで来たな。
これまでの逃避行を振り返る。
大阪から逃げ出した僕は、本州を走り最北端の宗谷岬に到達した。最北端を過ぎてからは、景勝地を巡りながら北海道を一周する。行く当てのない旅ではあったけれど、札幌駅に帰ってきたことで、ゴールに到着したような達成感を感じていた。
――これから、どこに向かうのだろう?
今後の行き先が見えなかった。どうすべきかも分からない。根無し草の様な自身の境遇に不安感を憶えた。
お金は、まだ十分にある。ジュエリーボックス時代に貯えたお金が、郵便局に預けたままだ。なんなら、このまま日本一周を目指したってかまわない。でも、逃げ続けることに、僕は疲れ始めていた。
なんだか明美の声が聞きたかった。一週間ほど明美に電話をしていない。いま頃、僕からの電話を心待ちにしているだろう。
財布を見る。小銭が無かった。
立ち上がり自動販売機に向かう。千円札を入れて、温かいコーヒーのボタンを押した。
ガコン。
缶コーヒーと一緒に、お釣りが落ちてくる。その小銭を掴んで、駅の構内にある公衆電話に向かった。歩きながら、コーヒーを一口飲む。甘い。折角の酔いが醒めてしまいそうだ。
公衆電話に凭れかかり、受話器を手に取る。手の中にある百円玉を縦長のスリットに次々と滑り込ませた。明美の番号をダイアルする。直ぐにつながった。
「もしもし」
「もしもし、久しぶりね。なかなか電話をくれなかったけれど」
「ごめん。電話が無いような自然の中ばっかりにいたから……」
「ふーん。それに、今日は遅いのね。もう十時よ。いつもだったら夕方ごろに掛けてくるのに」
「いつもは、テントを張る前に電話をしていたから」
「どういうこと?」
「公衆電話って街中にしかないだろう。僕がテントを張る場所は人が住んでいない場所だったりするから、張ってからでは電話が出来ないんだ」
「なるほどね。今日は違うの?」
「うん。今は札幌駅にいる」
「あら、街中じゃない。ホテルにでも泊まるの?」
「ううん。札幌駅の軒先を借りて野宿する」
「えー! 浮浪者に間違われるよ」
「大丈夫だよ。実は、僕みたいに駅で寝る人は沢山いるんだ。ざっと見回しただけでも二十人は居るよ」
「えー、信じられない。そんな所でよく寝られるわね」
「まあね。慣れたから」
「ふーん。まー良いけど。それよりも、ちゃんと食べているの?」
明美が心配そうに、僕のことを気遣ってくれる。
カシャン。
電話機の中から、百円玉が落ちる音がした。長距離電話のせいで、落ちるスピードが速い。あまり長電話は出来ないなと心の隅で感じた。
「何とかね。街が少ないから、食料品のストックはなるべく自転車に積んでおくようにしている」
「毎日、ご飯を作っているんだよね。考えられない。私だったら絶対に生きていけないと思うな」
「いや、案外なんとかなるもんだよ。それにね、僕のような旅人って飛び出してみると結構いるもんなんだ」
「でも、女性は少ないんじゃない?」
「そうだな~、確かに少ない。でも、いるよ」
「ジョージみたいに、自転車に乗っているの?」
「えっとね。凄い男女のカップルがいたよ」
「カップル?」
「日本最北端の宗谷岬から、南に百キロくらいの所を走っていた時のことなんだけどね」
「うん」
「その辺りって何もないんだ。見渡す限り荒地か草原しかない。左手には大きな海が広がっていてね、正に日本の最果てなんだ」
「何だか、寂しそうなところね」
「でも、素晴らしいよ。その日は晴れていてね、真っ青な空の下、道だけが真っすぐに北に向かって伸びているんだ。その先にね、歩いている二人の姿を見つけた」
「歩いている! そんなところで?」
「うん。旅人だってことは一目で分かった。二人とも日に焼けて真っ黒になっていた。僕はね、どこから来たんですかって、尋ねてみた」
「何処から来ていたの?」
「当ててみてよ」
「うーん。大阪かな? 分からない」
カシャン。
次々と、百円玉が落ちていく。
「実はね、沖縄なんだ。しかも、二人は歩いて日本を縦断していたんだ。考えられる? 僕は自転車だから、そこから宗谷岬まで一日で走り切ることができる。だけど、歩きなら三日は掛かるんじゃないかな」
「へー、色んな人がいるのね」
「ついさっきも、面白い人に出会ったよ」
「どんな人?」
「まずね、身なりが凄いんだ。オレンジ色のジャンバーを着ていてね、かなり派手なんだ。でもね、それよりも目立つのが頭なんだ」
「えーと。スキンヘッドとか?」
「惜しい……答えは、モヒカン」
「モヒカンって何?」
「頭の中心だけ髪の毛を残して、左右はそり落としているんだ。鶏のトサカみたいな髪型」
「えー、何それ! アハハッ」
「そのモヒカン男がね、駅に集まっている旅人に向かって叫ぶんだ。コケコッコーって」
「アッハッハッハッ! 可笑しい。本当のこと、それ?」
「アハハ、本当はね。集まれーって、僕たちを招集したんだ」
「どうして?」
「お金を作るため。モヒカン男は、大阪に帰るために旅費が必要だったんだ」
「お金……もしかして、たかられたの?」
「ううん。僕も初めは警戒したんだけど、違った。モヒカン男も旅人でね、自分の荷物を売ってお金にしたかったんだ」
「ジョージは買ったの?」
「うん、買ったよ。寒くなってきたから、そのモヒカン男が着ていたオレンジ色のジャンパーと寝るときに使う毛布みたいなのを買ったんだ」
「へー、オレンジ色のジャンパーを買ったんだ。いま着ているの?」
「うん、着ているよ。暖かい」
「想像できない。ジョージがオレンジ色なんて。アッハッハッ」
明美が笑った。
カシャン。
それと同時に、また百円玉が落ちる。
「そんなに面白いかな……いっそのこと、僕もモヒカン頭になってみようか」
「アッハッハッ。やめてよ~。絶対に似合わないから」
「そうかな~」
「ところで、そのモヒカン男はどうして大阪に帰りたかったの?」
「実はね、モヒカン男には彼女がいて大阪に住んでいるんだ。その彼女がね、もう直ぐ子供が生まれるみたいで……だから焦っていたんだ」
「えっ! 子供……」
「うん。そうなんだ。早く大阪に帰りたくて仕方がないって感じだったよ」
「そう……」
「どうしたの? 急に元気が無くなったみたいだけど」
「ううん。何でもない」
「何でもないって……返って気になるんだけど」
「あのね、ジョージ」
「なに?」
「もし、ジョージならどうする?」
「何が?」
「何がって、ほら、子供が生まれるって聞いたら?」
「ああ、その話。そりゃ、飛んで帰るよ。ただ、今は困るかな。逃げている最中だし」
「そうよね……」
「どうしたの? 子供が欲しいの?」
「えっ! まー、そりゃねー」
「ごめんな。明美の傍にいてやれなくて」
「……」
「どうしたの? 黙ってしまって」
「あのね、ジョージ」
「うん、何?」
「このままではいけないと思うの」
「まあな」
「帰ってこれない?」
「えっ! 大阪に?」
「うん」
「そりゃ帰りたいけど、まだ流石にヤバいだろう。まだ、安達組は僕のことを探しているだろうし……」
「分かってる。でも、ジョージに会いたい」
「うーん。僕も明美に会いたいけど、今は無理だよ」
「……じゃ、聞くけど……ジョージは私との関係……どうしたいと思っているの?」
「どうって、いきなり言われても……」
「私はね、ジョージと家庭を築きたい、今もそう思っているの」
「ぼ、僕もだよ」
「じゃ、行動に起こして! 私に会いに来てよ!」
「明美こそ、無茶言うなよ。僕は、今は無理だって言っているだけだろう」
「今が無理なら、いつなら大丈夫なの。行動に起こさなかったら何も始まらないよ」
「だから、僕は……」
明美が、強い口調で叫んだ。
「意気地なし!」
思わず僕も叫んでしまう。
「な、な、何だよそれ! 馬鹿にするな!」
プツッ!
ツーツー。
唐突に電話が切れてしまった。
僕は慌てて財布を取り出す。小銭を探した。しかし、小銭がない。千円札を取り出して自販機で両替をしようとした。でも、やめた。
いま電話をしたところで、先程の喧嘩の続きを繰り返すだけだ。しかし、意気地なしって、何だよ。少し、腹が立つ。
――明日にしよう。
そんな風に思った。でも、これがいけなかった。引き伸ばした一日が、二日になり三日になった。やっと電話をしたけれど、また明美とケンカをしてしまう。明美と僕の間に、深い溝を感じた。
どんなことでも分かり合えていたはずなのに、今の僕は明美のことが分からない。感じることができなかった。
現実の世界で生きている明美と、自転車で逃げ出しているだけの僕。言いようのない焦燥感に駆られた。
公衆電話を見つけても、だんだんと電話をする頻度が減っていく。明美のことを考えない日はなかった。でも、電話をするのが怖い。このまま終わってしまうのだろうか……。
――このままではいけない。
大阪に帰ることを決意した。
安達組に見つかれば、きっとタダでは済まないだろう。もしかすると、殺されるかもしれない。でも、電話ではもう埒が明かない。会いに行かなければ。




