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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
博幸 一九八〇年十一月
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文化祭

 天王寺公園でジョージさんと別れた後、僕は貴子の肖像画の作成を開始した。文化祭まで時間が無い。学校の授業がもどかしかった。学校が終わると一目散に自宅に帰る。制作作業に集中した。

 イメージは出来ている。怪人二十面相の話をしてくれた小学五年生の貴子だ。ポーズは、怪人二十面相の本を両手に持ち、足を崩して座っている。上目遣いに見上げている貴子を、見下ろすようなアングルで構図を整えた。

 肖像画の貴子は、僕に向かって語りかけているので、少し唇が開いている。その唇が、今回のテーマだ。僕は、その唇を丁寧に描く。可愛くて、卑猥で、ぷっくりと膨れたその唇に、自分の唇を合わせたくなる。そんなドラマを意識した。


 十一月八日土曜日、文化祭当日。肖像画が完成した。

 徹夜の疲れも忘れて、幼い貴子を見つめる。全てを出し切った。我ながら良く描けたと思う。

 家族が起き出した。母さんが朝食の準備を始める。僕は服を脱ぎ、シャワーを浴びることにした。徹夜の疲れが洗い流されていくようで、気持ちが良い。不思議と眠気はなかった。というより、気が漲っていた。

 貴子の肖像画は完成した。しかし、本当の戦いはこれからだ。落ち着いている場合じゃない。

 制服を着こみ、朝食を済ませた。貴子の肖像画を梱包する。いよいよ出発だ。

 玄関を開けると、冷たい風が吹き込んできた。見上げると、青い空が広がっている。大きく深呼吸した。爽涼な空気が、僕の肺に流れ込んでくる。

 予告状の最後に、「貴子を迎えに行く」と僕は追記した。隣の篠田家を見上げる。歩みを進めた。

 不思議と緊張感はなかった。絵を描き切ったことによる自信の所為かもしれない。人差し指を伸ばして、呼び鈴を押した。


 ピンポーン!


 篠田家に呼び鈴の音が鳴り響く。


「はーい」


 家の中から、貴子の声が聞こえた。

 見えはしないけれど、貴子が家の中で慌てふためいている様子が目に浮かんだ。身だしなみを気にして、鏡とにらめっこをしているのだろうか。自然と笑みが零れる。

 貴子が、玄関にやって来た。扉の向こうで、靴を履いている。もう間もなく、その扉が開けられるだろう。

 その時、小学五年生の貴子が思い出された。僕に語り掛けてくる。


「泣いているの?」

「ねえ、何を盗んだの?」

「格好良い泥棒は、犯行の前に予告状を書くのよ」


 カチャリ。


 玄関の扉が開かれた。紺色のブレザーを着た貴子が姿を見せる。恥ずかしがっているのか、俯いていて顔が見えなかった。僕は、そんな貴子に声を掛ける。


「おはよう」


 貴子が顔を上げた。長い髪の毛が、貴子の顔に掛かっている。


「おはよう」


 軽やかな声で僕に挨拶をしながら、貴子が髪の毛をかき上げる。貴子の視線が僕と合わさった。僕は目を逸らさない。慈しむように貴子を見つめた。

 小学五年生の頃の面影を残しつつ、貴子は一人の大人の女性として成長していた。背丈は、僕の方が高い。


「ちょっと早かったかも」


「ううん。良いのよ。私も出かける準備は出来ていたから……それより、どうなのよ?」


「どうって?」


 貴子が、悪戯っぽく僕を見つめる。


「私を盗めそうなの?」


 僕は、自信たっぷりに頷いた。


「狙った獲物は逃がさない」


 その瞬間、僕と貴子は大声で笑った。静かな朝をかき乱すようにして、腹を抱えて笑う。その笑いが、小学五年生からの僕たちの空白を、全て消し飛ばしてしまった。

 僕は手を差し出した。貴子が歩み寄る。僕は、貴子の手を握りしめた。そのまま貴子を家の外に連れ出す。


 ――夢にまで見た瞬間だ!


 学校までの道程を、僕たちは手を繋いで歩いた。指先から、貴子を感じる。この手を放したくない。僕たちは、歩きながら小さな頃の思い出話を懐かしんだ。

 僕は、貴子を揶揄ってみる。


「貴子は、真っ黒で男の子のようだったね」


 貴子が、悪戯っぽく笑った。


「ヒロ君も、うずくまってメソメソと泣いていたじゃない」


 貴子との、そんな言葉のやり取りが気持ち良い。お互いに笑い合った。

 時間を忘れたように会話を楽しむ。学校に到着した。貴子が僕を見つめる。


「ねえ、ヒロ君」


「なに?」


「美術室には、十一時に行ったら良いのよね?」


「うん。準備して待っている」


「その絵なんでしょう」


 僕は、梱包している貴子の絵を持ち上げて見せる。


「そう。この中に、もう貴子を盗んである」


「ふーん。不細工に描いていたら、怒るからね」


 怒ると言いながら、貴子が笑った。僕にむかって小さく手を振る。


「じゃ、また後で」


 恥ずかしいのか、逃げるようにして校舎の中に消えていった。そんな貴子の後ろ姿を見送る。

 一人になった。上履きに穿き替えて美術室に向かう。貴子の肖像画を、先に展示しようと思ったからだ。そんな僕の背中に、誰かが体当たりをしてきた。


 ドン!


「よっ! 小林」


 ぶつかってきたのは、同じクラスの岸本だった。思わず絵を落としそうになる。岸本を睨みつける。


「いきなり何だよ! 落とすところだっただろう」


 僕は、貴子の絵を大事に抱える。


「ごめん、ごめん。それよりも、どういうことやねん」


 岸本が、ニヤニヤと笑っていた。何を言いたいのかは、分かっている。でも、そんな岸本を一瞥すると、何も言わずに僕は歩き出した。

 ところが、岸本が付いて来る。歩調を合わせて、僕に語りかけてきた。


「おいおい、見てたで。何で、お前が篠田さんと一緒に登校しているんや」


 岸本を無視して歩き続ける。


「お前も知ってるやろ。篠田さんのこと」


 僕に顔を寄せてきた。僕にだけ聞こえる小さな声で囁やく。


「今、ハブられているねんで」


 僕は足を止める。岸本を睨みつけた。


「岸本には、関係ないだろう!」


 僕はまた歩き出した。でも、岸本は付いて来る。この状況を面白がっていた。


「なあ、なあ、教室に向かわんと、どこに行くんや」


「美術室」


「ふーん」


 相変わらず、岸本は付いて来る。美術室に到着した。室内には美術部員の作品が展示されている。

 僕は、手に持っていた絵を開梱した。今朝、描きあげたばかりの貴子の肖像画が姿を現す。空いているスペースに、その肖像画を設置した。

 岸本が、僕の隣にやってくる。貴子の肖像画をマジマジと眺めた。


「なあ、小林。これ、お前が描いたんか?」


「ああ」


「良く描けているな」


 首を横に向けて、岸本を見た。しつこい奴だけど、褒められると悪い気はしない。


「ありがとう」


「この絵の女の子って、もしかして篠田さん?」


 僕は、頷いてみせる。


「ああ」


「へー、やるな小林。凄いじゃないか!」


 感心している岸本を残して、僕は美術室を出た。岸本が、慌てて追いかけてくる。隣で、僕の絵を更に褒めてくれた。

 そんな岸本を無視して、僕は教室に向かう。何でもない素振りを見せているけれど、実のところ喜びに浸っていた。誰かに自分の絵を評価される事が、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

 美術の先生は褒めてくれる。でも、そうした教育的なことではなくて、岸本は素直に感心していた。その事が嬉しい。

 教室に到着する。先生がやってくるまでは、自由時間みたいなものだ。岸本は、僕から離れ他の友達と合流する。耳をそばだてていると、僕の絵を話題にしていた。やっぱり悪い気はしない。

 でも、あまり褒められすぎるのも、少し居心地が悪かった。


 キーンコーンカーンコーン。


 チャイムの音と共に、担任の先生が教室にやってくる。クラスの生徒たちが先生に注目した。今日から始まる文化祭について、先生が説明を始める。

 僕たちのクラスは、文化祭でタコ焼きを販売することになっていた。その作業を、クラスの生徒は交代で当たらなければならない。

 僕の担当は、今日の午後に割り振られていた。だから、それ以外は自由になる。ただ、僕は美術部員なので、クラブにも顔をだす必要があった。

 美術部は作品を展示するだけなので、文化祭当日は基本的にやることがない。強いてあげれば受付くらいだろう。だけど、僕には大きな任務が二つあった。

 一つは、予告状通りに貴子を盗むこと。それと、ジョージさんだ。

貴子は、十一時に美術室にやって来る。ジョージさんは、十時に会う約束をした。時間的には、ジョージさんの方が早い。

 ジョージさんは勝手が分からないので、僕が正門まで迎えに行くことになっていた。流石に、浮浪者の恰好ではやってこないとは思う。ただ、あのヒゲモジャだ。目立つに決まっている。僕が傍についていないと、周りから不審がられるだろう。

 担任の先生の話が終わった。タコ焼きの販売を午前中に担当している生徒以外は、自由になる。僕は、美術室に向かった。


 美術部は、小さなクラブだ。女子の先輩が二人と、一年生が僕を含めて三人。総勢五名になる。その上、僕以外の一年生は幽霊部員という有り様だ。クラブの存続も危うい弱小クラブになる。


 美術室に到着した。誰も居ない。伽藍としていた。学校中が文化祭の熱気で騒がしくなっているのに、この美術室だけが、取り残されたように静謐を守っている。

 僕は、自分が描いた絵に近づいた。徹夜で描きあげた貴子の肖像画を見つめる。貴子は、この絵を見て、どのような気持ちになるのだろうか。喜んでくれるだろうか……少しばかり不安になる。


 美術室の中を見回した。先輩たちの絵や僕の絵が他にも展示されている。僕の作品は、比較的落ち着いたものが多い。それに対して、部長の絵は攻撃的だった。何と言うか、インパクトが強い。捻っているというか、遊び心が強いのだ。原色を大胆に使って、太いタッチで殴るようにして筆を運んでいる。僕には無い感性だ。とても憧れる。


 ジョージさんとの待ち合わせの時間まで、美術室でゆっくりと過ごした。チラホラとやって来る見学者の相手をしながら、貴子の事を考える。

 今朝の登校時間は、とても幸せな時間だった。まさか貴子とこんなにも仲良くなれるなんて思いもしなかった。十一時に貴子がやってくるけれど、もう盗んだのも同然だろう。心がウキウキと跳ねまわった。

 もし、ジョージさんが僕の背中を押していなければ、僕と貴子はずっと平行線のままだったと思う。だから、ジョージさんにとても感謝している。迎えに行ったら、まずはお礼を言いたい。


 時計を見る。十分前だ。僕は美術室を後にする。

 校舎の中は、文化祭の熱気に包まれていた。生徒だけでなく、外部からの来客も増えている。廊下は歩くのも大変なくらいに混雑していた。運営側の生徒は客の呼び込みに必死だ。そうした熱気に当てられて、何だかめまいがする。

 人混みをかき分けながら、やっと正門にたどり着いた。キョロキョロと辺りを見回す。ヒゲモジャのジョージさんが見当たらない。

 門柱に凭れかかりながら、しばらく待つことにした。次々と来訪者が、学校の門を通り抜けていく。ところが、待ち合わせの時間になってもジョージさんの姿が見当たらない。


 ――どうしたんだろう?


 不安になる。その時、一人のお兄さんが僕に向かって手を振った。


「ごめん、ごめん。ちょっと遅れたかな」


 そのお兄さんは、背格好は僕と大して変わらない。長い髪の毛をオールバックにして後ろで束ねていた。顎髭が生えていて、綺麗に切りそろえてある。服はカジュアルにまとめられていて、清潔感が漂っていた。年齢は若そうに見えるけれど、顎髭があるせいで分かりにくい。二十代か三十代か判別がつかなかった。


 ――もしかして?


 そのお兄さんがジョージさんだと理解するのに、少し時間が掛かった。


「えっ! ジョージさんですか?」


 そのお兄さんが、ニッコリと笑う。


「流石に、浮浪者の格好ではまずいからね」


 ジョージさんが、目の前で戯けてみせた。

 とても格好良い。嬉しくなって、僕はジョージさんに飛びついた。


「よく来てくれました。とても嬉しいです」


「その様子では、納得のいく絵が描けたようだね」


「はい。今朝まで掛かりました」


 ジョージさんが、喜んでいる僕の肩に手を掛ける。


「頑張ったね」


「その、あ、ありがとうございます。ジョージさんに出会えて、本当に良かったです」


 ウキウキとした気持ちに包まれながら、ジョージさんの背中を押した。校舎に案内する。美術室まで歩きながら、僕は絵を描き上げるまでの経緯をジョージさんに語った。ジョージさんは、嬉しそうに僕の話を聞いてくれる。

 ジョージさんとの出会いがなかったら、今日の僕はなかった。ジョージさんに対する感謝の気持が溢れてくる。胸が熱くなった。貴子の肖像画を早く見て欲しかった。僕の歩みが、自然と早くなる。美術室までやって来た。


「ここが、美術室です」


 ジョージさんを美術室に案内する。

 すれ違うようにして、生徒の一群が教室から出てきた。クスクスと笑っている。


 ――どうしたんだろう?


 美術室に展示している作品に笑う要素はない。不思議な気持ちに包まれながら、ジョージさんと一緒に美術室に入る。

 逸る気持ちが抑えきれなくて、貴子の肖像画に向かって走っていった。


「こっちです、こっち」


 手招きして、ジョージさんを急かす。早く見て欲しかった。満面の笑みで、貴子の肖像画を見る。


「えっ!」


 驚きで、小さく叫んでしまった。僕の時間が凍りつく。理解が出来なかった。


 ――どうして?

 ――なぜ?

 ――だれが?


 呆然としながら、貴子の肖像画を見つめた。マグマにも似た熱い塊が、僕の中から湧き上がってくる。頭の中が、怒りで沸騰しそうだった。大きな声で叫ぶ。


「誰が、こんなことをしたんだ!」


 徹夜で仕上げた貴子の肖像画に、

 怪人二十面相の本を膝の上に置いて、僕を見上げている貴子に、

 誰かが、悪戯書きをしていた。

 幼い貴子の鼻の下に、黒いチョビヒゲが、汚らしく……。

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