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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
久美子 一九八〇年十一月
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気があるの?

 支度部屋でドレスを脱いだ。身体が軽くなる。軽くなったのは身体だけではない。今の私は、心も軽かった。

 これから、康人とアフターに出かける。酔っているせいだろうか。康人とこれから遊びに行くことが、とても楽しみになっていた。

 男を食ってやる。そんな風に自分に言い聞かせてきたけれど、私は弱い女だ。今日くらいは、重い心も脱ぎ捨てて、遊んでしまいたい。康人の甘い囁きに、私の中の情が揺れていた。

 ドアを開ける。支度部屋を出た。廊下を歩き始めると、ケンタが私の前に立ち塞がる。


「久美子」


 私は、顔をしかめた。悪事の現場を見つけられた様な、ザワザワとした罪悪感に包まれる。軽かった心が、急に重くなってきた。


「ここでは、その名前を呼ばないで」


 ケンタが険しい表情を見せる。


「あいつやろ? 久美子の彼氏だった奴」


 私は視線を逸らした。


「だから?」


 ケンタが食い下がる。


「やめとけ」


「仕事なの」


 ケンタが手を伸ばした。私の手を掴む。


「信用しちゃ駄目だ」


 私は、ケンタの手を振りほどいた。ヒステリックに叫ぶ。


「やめてよ! 何様のつもり」


 ケンタを睨みつけた。

 唇を噛みながら、ケンタが苦しそうな表情をする。暫く睨みあっていた。


「いいのか?」


 ケンタの問い掛けに、私は逃げた。ケンタに背を向けて、振り返らずに歩みを進める。ケンタは、それ以上は追いかけて来なかった。

 先程までのウキウキとした気持ちが潰される。ケンタが言いたいことは、分かっている。分かっているけれど……。


 ――今は、康人を放っておくことが出来ない。


 言い訳のように呟いた。康人を助けることが出来るのは私だけ。全部丸く収めるから、今は放っておいて欲しい。そんな風に思った。

 店のロビーで、康人を見つける。康人が嬉しそうに近づいて来た。私の横に立つと、自然に腕を絡めてくる。私も康人に腕を預けた。女の扱いに慣れている、そんな康人が好き。

 深夜のミナミは、妖しい光に満ちていた。赤色、青色、ピンク色。原色のネオン管の大合唱だ。男と女の欲望を、煽るかのように歌っている。熱に浮かされた人々が、果実を求めて彷徨っている。私も、その世界の住人だ。

 康人は、戎橋に向かって歩き出す。私も歩幅を合わせた。康人が、優しく語りかけてくる。


「踊りに行こうか?」


 康人の腕に凭れかかりながら、弾けるように叫んだ。


「行きたい! パーッと踊りたい気分」


 康人が微笑んだ。康人はいつも私をリードしてくれる。


 ――何だろう、この安心感。やっぱり康人だ。


 こうして一緒に歩いていると、昔の二人に戻ったような気持ちになった。ミナミの繁華街の人ごみをかき分けて、戎橋までやってくる。

 康人は、足を止めて道頓堀川を見つめた。私も横に並んで、同じように見つめる。黒いドブ川のような道頓堀川が、ネオンの光に照らされて、赤や青に染められていた。水面が揺れるたびに、それらの色がキラキラと輝く。まるで万華鏡のようだった。


「奇麗ね」


 私の言葉に、康人が微笑んだ。


「そうだね」


 康人が応えてくれる。何気ないやり取りだった。それなのに、これまでの付き合いの深さを感じる。

 水面を暫く眺めていた。康人が私の腰に手を回してくる。とても懐かしい感覚だ。私を包み込もうとする仕草が心地良い。康人の首筋に首を傾げた。

 康人が、私の顎を軽く持ち上げる。康人と視線が繋がった。私を見つめる目が甘い。私も康人を見つめた。

 時間が止まる。音が消えた。

 これまでの思い出が、次々とよみがえる。享楽に身を浸した楽しかった日々。

 康人は、それが至極当然だというように、私に顔を寄せてきた。

 私は、そのまま目を瞑ろうとした。瞑ろうとしたけれど……出来なかった。


「その男と別れて、私の元に来なさい」


 明美お姉さんの強い言葉が思い出される。それだけは、越えてはいけない一線に感じられた。私は、思わず顔を背けてしまう。康人は寂しそうに笑った。私は、その場に居た堪れなくなってしまう。


「早く、行こうよ……」


 下を向いて呟く。康人は、そんな私の手を取った。


「ごめん。行こうか」


 康人が、私の手を握り歩き始めた。私も、康人に歩幅を合わせる。


 ――やっぱり、来るんじゃなかった。


 足取りが重かった。中途半端な自分の態度が気に入らない。やっぱり突き放すべきだった。昔には戻れない。もう終わっていたんだ……。


 康人は、行きつけのディスコに私を連れて行った。私も良く知っている。扉を開けると、大音響の激しいビートが私を包んだ。音と光が激しく交じり合い、爆発を繰り返している。

 ホールの中では、男女が狂ったように踊っていた。マグマのように交じり合い、火を噴いている。


 ――良かった。ムーディーな音楽じゃなくて。


 今は、甘い気分なんかじゃない。踊って踊って、何もかも忘れたかった。

 ドロドロに溶解しているホールに、私も飛び込む。ビートに合わせて踊り出した。康人が居ることも忘れて、音の波に体を任せる。私もマグマの一部になって溶けていった。

 どれくらい踊ったのだろう。額から汗が流れていた。


「喉が渇かないか」


 康人が、私に声を掛けた。


「うん、乾いた」


「ちょっと落ち着こうぜ」


「そうね」


 康人が店のスタッフを捕まえる。


「奥の部屋、使っていいか?」


 スタッフは、康人の顔を見て親し気に笑いかけた。


「高田さん、いらっしゃいませ。お友達が先に来て、もう使っておられますよ」


 康人が、私に笑いかける。手を伸ばした。私の手を掴み、強く引っ張った。


 ――康人の友達?


 瞬間、何のために奥の部屋を使っているのかを、私は思い出した。何て馬鹿なんだろう。すっかり忘れていた。康人が奥の部屋を理由は、一つしかない。


「行きたくない!」


 大きな声で叫んだ。でも、私の声は爆音でかき消される。手を振りほどこうとした。しかし、康人は私の腰に手を回す。男の強い力で、強引に部屋に連れていこうとした。


「助けて!」


 必死の形相で叫んだ。でも、誰も振りむいてくれない。みんな踊ることに必死だ。

 康人を睨みつける。いつもの優しい康人じゃなかった。康人が怖い。

 康人は、ホールで踊っている友達を見つけた。


「おい、リョウ。手伝ってくれ」


 リョウと呼ばれた男は、嬉しそうに近づいてくる。


「どうしたんですか?」


「久美子を、奥に連れて行く」


 リョウと呼ばれた男は、康人と同じように私の腰に手を回した。二人掛かりで、私を抑え込む。

 私は抵抗した。必死に抵抗した。でも、敵わない。

 ズルズルと引きずられる様にして、特別室に連れていかれる。部屋の扉が開かれた。中に連れ込まれる。


 バタン!


 扉が後ろで閉まった。

 特別室。ここは、上得意のお客だけに解放される部屋だ。ソファーが設置され、ゆっくりとお酒を飲むことが出来る。でも、康人たちの目的はお酒じゃなかった。この部屋に、懐かしい匂いが立ち込めている。クスリの匂いだ。店のスタッフも、そのことは知っている。でも、黙認されていた。

 部屋の中には、三人の男と二人の女が寛いでいた。私は良く知っている。康人の仲間達だ。女の一人は、だらしなくソファーに寝ころんでいる。スカートが捲り上がっているのに、直そうともしない。完全にラリッていた。

 部屋にいた男の一人が、懐かしそうに私に手を振る。


「久美子じゃないか」


 その男を無視して、私は康人に向き直る。大きな声で叫んだ。


「もう、帰る!」


 康人が、私を睨む。


「そんなこと言うなよ」


 更に叫んだ。


「やめてくれるって、言ったじゃない!」


 康人が眉間に皺を寄せる。投げやりに返事した。


「ああ、頑張ってやめるよ。頑張って……」


 康人がテーブルに近づく。クスリの道具が散乱していた。部屋の男たちに目くばせする。康人は、面倒くさそうに仲間たちに命令した。


「ちょっと、久美子を押さえておいてくれ」


 だらけた男たちが一斉に動き出す。私に飛び掛かって来た。後ろから羽交い絞めにされて、両手を掴まれる。抵抗しようにも、身動きが出来なかった。そのまま持ち上げられて、私はソファーに転がされる。私は大声で叫んだ。


「ヤメテ! 絶対に、イヤ――――!」


 手足をバタつかせる。服がはだけて、スカートが捲れた。下卑た笑いの男たちが、私を見下ろす。女たちも笑っていた。

 康人が、私に近づく。私の傍にしゃがみ込んだ。まるで物を見るような冷たい目つきで私を見つめる。掌で、私の頬を打った。


パン!


「静かにしろよ」


 恐怖に固まる。初めて見る康人の一面だ。息が止まる。康人との楽しかった思い出が、全て消し飛んだ。


「ううぅ」


 涙が溢れた。康人の顔が、涙でぼやける。本当に、私は馬鹿な女だ。


「久美子」


 康人が、私の名前を呼んだ。でも、康人の声がうまく聞こえない。どこか遠くから呼ばれているような、虚ろな感覚。


「ウウウッ。やめて、お願いだから……」


すすり泣きながら懇願する。


「いま、気持ち良くさせてやるからな」


 体から力が抜けた。


 バン!!


 その時、叩きつける大きな音が鳴り轟いた。特別室の扉が開け放たれている。私を押さえ付けていた男たちが振り返った。


 ケンタが立っていた。

 ケンタは、康人に向かってゆっくりと歩みを進める。部屋の誰もが、突然のことで呆気に取られていた。

 ケンタが、康人を見下ろす。大きく拳を振り上げた。

 康人は、私から手を離す。慌てたように両腕で顔を守ろうとした。

 ケンタは構わずに、拳を打ち下ろす。


 ゴキッ!


 康人の顔が歪んだ。床に崩れ落ちる。


「ヒ――!」


 康人が悲鳴をあげた。

 ケンタは、倒れ込んでいる康人に馬乗りになる。また拳を振り上げた。容赦なく拳を叩き込む。ゆっくりと確実に、二発三発と、拳を振り下ろしていく。殴られるたびに、康人の鼻が歪み、唇から赤い血が飛び散った。


「やめてくれ!」


 康人が、堪え切れずに叫んだ。

 その声に、私を押さえ付けていた男たちが正気に返る。慌てて立ち上がると、テーブルにあるビールの空き瓶を手に取った。ケンタに、殴りかかろうとする。


「お前ら!」


 ケンタの一喝で、男たちの動きが止まった。ケンタがゆっくりと立ち上がる。胸を張った。大きな声で啖呵を切る。


「俺は、このミナミを根城にする安達組の工藤や。文句があるんなら相手になってやる」


 部屋にいる男たちを、ケンタは一人ずつ睨みつけていった。男たちは、睨みつけられるたびに、視線を逸らす。空き瓶を掴んでいた男も手を離した。


「久美子は連れて行く。金輪際、久美子には近寄るなよ」


 誰も、返事が出来ない。ケンタは、床に転がっている康人を睨みつけた。


「こら! お前――」


 一呼吸おいた。


「――分かったんか!!」


 ケンタの恫喝で、部屋が震えた。康人が、恐怖に怯える。


「は、はい。分かりました」


 ケンタが、私に視線を向けた。


「行くぞ!」


 ケンタが、手を伸ばす。私の腕を掴んだ。

 ソファに転がされていた私は、慌ててはだけていた服とスカートを直す。立ち上がった。

 ケンタに引っ張られながら、振り返る。康人が床に這いつくばりながら、私を見上げていた。


 ――さようなら。


 心の中で別れを告げて、私はディスコを後にした。


 ケンタは、歩みを止めなかった。一言も話さずに、私をグイグイと引っ張っていく。ミナミは深夜でも人の波が切れない。流れる人たちにぶつかりそうになりながらも、足を進めた。

 戎橋にやって来る。ビルに囲まれアーケードに遮られていた空が、急に開けた。電飾のネオンが煌々と瞬いている。巨大なグリコの看板が、空を走っていた。

 その時、私は躓いてしまう。


「キャッ!」


 小さな叫び声をあげた。

 ケンタが足を止める。私はそんなケンタに凭れかかった。ケンタの逞しい腕が、私を支える。


「大丈夫か?」


 ケンタが、心配そうに私を見つめた。

 少し前屈みになっていた私は、ケンタに掴まりながら顔を上げる。ケンタを見つめ返した。

 康人たちに襲われた時、「もう駄目だ」と諦めてしまった。そんな私をケンタが助けてくれる。


 ――ずっと、私のことを見ていてくれた。


 ワザと冷たく接していたのに、驚きで一杯だった。ケンタという存在が急に大きくなる。

 考えてみれば、この戎橋で初めて出会った時、ケンタは私を助けようとしてくれた。クスリを抜くときも世話になったし、部屋を見つける時も世話になった。ケンタは、いつも私のことを心配してくれる。

 私は、明美お姉さんばかりを見ていて、ケンタの事は考えないようにしていた。でも、ケンタは違う。

 その事に気が付いた時、私の胸が苦しくなった。身体の中心が大きく膨れ上がる。私の中から何かが飛び出そうと暴れはじめた。

 いま、伝えなければいけない。


「ケンタ、歩くのが早い」


「スマン」


 私の口から飛び出したのは、ただの文句だった。ケンタが、難しそうな表情を浮かべる。

 ケンタを見つめながら、唇を噛む。素直じゃない自分に腹がたった。伝えたいことは、そんな事じゃない。


「何よ、安達組の工藤って!」


 又しても、ケンタを責めた。もう後戻りが出来ない。一体、何をやっているんだろう。

 ケンタが、面倒くさそうに呟いた。


「ケンカにはハッタリが必要なんだよ……それに、俺たちって全く無関係ってことでもないだろう」


「まあ、そうだけど……あ、ありがとうね。助けに来てくれて」


 取って付けたように、ケンタにお礼の言葉を述べた。間の悪さに腹が立つ。どうして、素直になれないんだろう……。

 そんな私を、ケンタが鼻で笑った。


「あのなー、久美子。もっと男を選べよ……ここにも良い男がいるだろう?」


 ケンタが胸を張った。真面目な顔でポーズを決めている。

 そんなケンタの素振りに、思わず噴き出してしまった。


「プッ! クククッ」


「あっ、笑ったな」


 ケンタが唇を尖らせる。そんなケンタに、私は強気で尋ねた。


「……もしかして、私に気があるんじゃないの?」


 ケンタが頭に手をやる。頭を掻きながら、困ったような表情で私から視線を外した。


「あるに……決まっているだろう」


 私は、嬉しくてケンタに抱きついた。


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