表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
久美子 一九八〇年十一月
44/80

予告状


 トントントン。


 目が覚める。布団に包まりながら、貴子を抱きしめていた。耳を澄ませる。


 トントントン。


 ――何の音だろう?


 分かった。包丁がまな板を叩く音だ。規則正しい、その音のリズムは小さな頃から聞いてきた、母さんのリズムだ。

 天然で頼りない人だけど、物心が付いた頃から母さんは全然変わらない。いつも私たちの為に早起きをして、朝食の支度を始める。

 そう言えば、母さんが家事をすることで愚痴を言ったのを聞いたことがない。私たち姉妹にとっては、いつでも太陽のように明るい母さんだった。もし私だったら、文句を言っているに違いない。

 何だか、母さんと話がしたくなった。横で眠っている貴子を起こさないように気を付ける。そっと布団から抜け出した。時計を見る。朝の七時を指していた。


「おはよう、母さん」


 母さんが、包丁の手を止めてこちらに振り向く。


「おはよう、早いのね」


「久しぶりに早く寝たから、早く起きちゃった」


「朝食は、もう少し待ってね」


 忙しそうに母さんが動き回る。私は何か手伝えることがないか見回してみた。


「ねえ、母さん。ご飯、お供えしようか」


 母さんが、驚いた表情を浮かべる。ゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、お願いしようかな」


 私は、炊き立てのご飯を器に盛りつけた。仏壇に持っていきお供えをする。手を合わせた。小さな頃から、母親からよくお願いされていた習慣だ。


「お供えしてきたよ」


「ありがとう」


 母さんが嬉しそうに笑った。何だか、私も嬉しくなる。


「母さんは、いつも朝が早いね」


 私は、何となく問い掛けてみた。母さんが笑う。


「あんたが帰ってきているのに、ゆっくりは出来ないでしょう」


 私の言葉の意図が伝わっていない。そんなところは、いつもの母さんだ。


「だから、今日だけじゃなくて、私が小さな頃から、いつも朝が早かったねって言っているの」


 母さんは、不思議そうな顔をする。ゆっくりと笑った。


「なに変なこと言っているの。当たり前の事じゃない」


 その時、母さんの言葉に、大きな愛情を感じた。損とか得とかそんなことではなく、母さんにとっては当たり前の事なんだ。


「私のことを分かってくれない」


 母さんに向かって、私は、いつも叫んでいた。

 でも、心を開いていなかったのは、私の方なんだ。母さんは、いつも私を包んでくれている。私は、なんだか新しいこと発見をしたような、驚きに包まれてしまった。


 ――家に帰って来て良かった。


 台所に立つ母さんの背中を見ながら、素直にそう思った。

 父さんが起きてくる。貴子も起きてきた。家族四人で朝食を食べる。

 ご飯を食べながら、私は小さな子供に返っていた。父さんと母さんは、いつも私のことを見ている。私は、この両親の娘なんだ。


 十一月三日の月曜日は文化の日だった。世間では、三連休の最終日になる。私も仕事が連休になった。初めの一日は実家に帰り、次の日は明美さんに会いに行こうと考えていた。でも、二日目の今日も実家でゆっくりとしている。なんだか篠田家の娘を満喫したくなったからだ。

 実家には何もない。退屈だけど、落ち着くことが出来た。午前中は家の中でゴロゴロと寝ころんでいた。気怠くて気持ちが良い。戦士にも休息は必要なのだ。

 夢見心地でウトウトとしていると、家の呼び鈴が鳴った。


 ピンポーン。


 ――どうせ、母さんが出るだろう。


 ピンポーン。


 ――母さんも父さんも居ないのかな?


 一階から人の気配が感じられない。誰も玄関に向かわなかった。仕方がないので、私は、ゆっくりと立ち上がる。


「はーい」


 大きな声で返事した。階段を下りて、玄関に向かう。少し朦朧としていた。


 ――もしかして、康人かも?


 そんな思いに駆られて、急に目が覚めた。玄関の覗き穴から、表を確認する。小さな丸いレンズの先に、可愛らしい男の子が立っていた。


 ――誰だろう?


 貴子の彼氏かもしれない。そんな事を考えながら、ノブに手を掛ける。玄関を開けた。


「どちら様でしょうか?」


 男の子が、ハニカミながら私を見た。年の頃は、たぶん貴子と同じくらい。痩せ型で、身長は私よりずっと高い。サラサラとした前髪が眉毛にかかり、風が吹いたのか、少し揺れた。


「あのー、隣の小林です。貴子さんはご在宅でしょうか?」


 ――あー、何だか見覚えがある。小林さん家のヒロ君だ。


 私が憶えているヒロ君は、まだ小学生だった。それにしても、大きくなった。貴子と同い年だから、高校一年生になる。

 ヒロ君がまだ小学生だった頃に、家に遊びに来たことがある。貴子と二人っきりで部屋にいたのだ。視線を落とす。二人は手を握り合っていた。

 私の中に悪戯心が芽生える。揶揄ってしまった。


「なるほど。ヒロ君も男の子だもんねー。女の子に興味があるんだ」


 あの時、ヒロ君は顔を真っ赤にさせて逃げ出した。相当に恥ずかしかったのだろう。今思えば、悪いことをした。


「ちょっと待ってね。貴子に聞いてみるけど……あの子、出てくるかな?」


 一旦、玄関の扉を閉めた。私は階段を駆け上がっていく。部屋に入ると、貴子が私に向かって、両手を交差させた。バッテンの合図だ。私は、小さな声で貴子に囁く。


「隣のヒロ君が、あんたに会いに来ているのよ」


 貴子は、眉間に皺を寄せると、困った顔で私を見上げる。


「お姉ちゃん、お願い。私、誰とも会いたくないの。もう少し、ゆっくりさせて欲しい」


「そう、分かった。じゃ、断わるよ」


 私は、階段を下りた。サンダルに足を入れて、玄関を開ける。


「ヒロ君、ごめんね。貴子、誰とも会いたくないって」


 ヒロ君が、寂しそうな表情を浮かべた。私は、玄関の扉を締めようとする。すると、ヒロ君が思いつめたように口を開いた。


「あのー、貴子さんに、これを渡してくれませんか?」


 私は、ヒロ君から一通の封筒を受け取る。


「貴子に、これを渡せばいいのね」


 ――これって、ラブレターじゃない!


 私の中で、甘いトキメキが沸き上がった。


 ――青い。青すぎる!


 ヒロ君。

 君、とっても最高。忘れかけていた青い想いを、この私に感じさせてくれるなんて……思わず悶絶しそうになった。

 二人の恋のドラマを、最高の特等席で見ている私。ちょっと、どうしよう……ひとりで興奮してしまった。

 そんなことを考えていると、ヒロ君が二階にいる貴子に向かって、大きな声で叫んだ。


「貴子! お姉さんに予告状を渡したから、必ず読んでね。絶対だよ。文化祭は、必ず、来るんだよ」


 ――予告状?


 ラブレターではないってことかしら。先程までの、トキメイていた私のテンションが急速に下がっていく。

 ヒロ君は、私を見ると、ぎこちなくお辞儀をした。踵を返す。顔を真っ赤にさせながら隣りの自宅に帰っていった。

 私は、手の中にある封筒を見つめる。「篠田貴子様へ」と書いてあった。でも、予告状とは、書いていない。でも、ヒロ君はこれを予告状と言っていた。

 私は、不思議な気持ちのまま階段を上がる。貴子に、その予告状を差し出した。


「はい、あんたに予告状」


 不思議そうな顔をして、貴子がその予告状を受け取る。封筒は、しっかりとノリで封をしていた。貴子は、はさみで丁寧に開く。中から便箋を取り出した。


篠田 貴子殿


 突然の申し入れをおゆるしください。閉じこもったままの貴女を、私はちょうだいする決心をいたしました。来る十一月八日、ミナミ高校で行われる文化祭に参上いたします。場所は、美術室。時間は十一時。私の挑戦を受けてみますか。盗まれない自信がおありなら、どうぞ私の前に立ってみなさい。貴女はきっとあっと驚くことでしょう。追伸、朝、迎えに行きますよ。


怪人二十面相


 予告状を読むと、貴子はクスクスと笑い出した。小さな声で呟く。


「あの、バカ」


 貴子は、その便箋をもう一度きれいに封筒に入れた。勉強机に仕舞ってしまう。

 二人にしか分からない、その暗号めいた予告状のことが、私は凄く気になった。


「ねえ、貴子。何なの、予告状って?」


 貴子が、私を見て微笑む。


「ナイショ」


「えー、教えてよ。気になるじゃない」


「ナイショ」


「ねえ、アンタたち付き合ってんの?」


「ナイショ」


 貴子がベッドに移動した。布団に包まって、顔を隠してしまう。

 私が、何を問い掛けても「ナイショ」しか言わなかった。昨日の落ち込んだ貴子に比べると、元気になったから良いんだけど……。


 ――何なのよ、予告状って!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ