予告状
トントントン。
目が覚める。布団に包まりながら、貴子を抱きしめていた。耳を澄ませる。
トントントン。
――何の音だろう?
分かった。包丁がまな板を叩く音だ。規則正しい、その音のリズムは小さな頃から聞いてきた、母さんのリズムだ。
天然で頼りない人だけど、物心が付いた頃から母さんは全然変わらない。いつも私たちの為に早起きをして、朝食の支度を始める。
そう言えば、母さんが家事をすることで愚痴を言ったのを聞いたことがない。私たち姉妹にとっては、いつでも太陽のように明るい母さんだった。もし私だったら、文句を言っているに違いない。
何だか、母さんと話がしたくなった。横で眠っている貴子を起こさないように気を付ける。そっと布団から抜け出した。時計を見る。朝の七時を指していた。
「おはよう、母さん」
母さんが、包丁の手を止めてこちらに振り向く。
「おはよう、早いのね」
「久しぶりに早く寝たから、早く起きちゃった」
「朝食は、もう少し待ってね」
忙しそうに母さんが動き回る。私は何か手伝えることがないか見回してみた。
「ねえ、母さん。ご飯、お供えしようか」
母さんが、驚いた表情を浮かべる。ゆっくりと微笑んだ。
「じゃあ、お願いしようかな」
私は、炊き立てのご飯を器に盛りつけた。仏壇に持っていきお供えをする。手を合わせた。小さな頃から、母親からよくお願いされていた習慣だ。
「お供えしてきたよ」
「ありがとう」
母さんが嬉しそうに笑った。何だか、私も嬉しくなる。
「母さんは、いつも朝が早いね」
私は、何となく問い掛けてみた。母さんが笑う。
「あんたが帰ってきているのに、ゆっくりは出来ないでしょう」
私の言葉の意図が伝わっていない。そんなところは、いつもの母さんだ。
「だから、今日だけじゃなくて、私が小さな頃から、いつも朝が早かったねって言っているの」
母さんは、不思議そうな顔をする。ゆっくりと笑った。
「なに変なこと言っているの。当たり前の事じゃない」
その時、母さんの言葉に、大きな愛情を感じた。損とか得とかそんなことではなく、母さんにとっては当たり前の事なんだ。
「私のことを分かってくれない」
母さんに向かって、私は、いつも叫んでいた。
でも、心を開いていなかったのは、私の方なんだ。母さんは、いつも私を包んでくれている。私は、なんだか新しいこと発見をしたような、驚きに包まれてしまった。
――家に帰って来て良かった。
台所に立つ母さんの背中を見ながら、素直にそう思った。
父さんが起きてくる。貴子も起きてきた。家族四人で朝食を食べる。
ご飯を食べながら、私は小さな子供に返っていた。父さんと母さんは、いつも私のことを見ている。私は、この両親の娘なんだ。
十一月三日の月曜日は文化の日だった。世間では、三連休の最終日になる。私も仕事が連休になった。初めの一日は実家に帰り、次の日は明美さんに会いに行こうと考えていた。でも、二日目の今日も実家でゆっくりとしている。なんだか篠田家の娘を満喫したくなったからだ。
実家には何もない。退屈だけど、落ち着くことが出来た。午前中は家の中でゴロゴロと寝ころんでいた。気怠くて気持ちが良い。戦士にも休息は必要なのだ。
夢見心地でウトウトとしていると、家の呼び鈴が鳴った。
ピンポーン。
――どうせ、母さんが出るだろう。
ピンポーン。
――母さんも父さんも居ないのかな?
一階から人の気配が感じられない。誰も玄関に向かわなかった。仕方がないので、私は、ゆっくりと立ち上がる。
「はーい」
大きな声で返事した。階段を下りて、玄関に向かう。少し朦朧としていた。
――もしかして、康人かも?
そんな思いに駆られて、急に目が覚めた。玄関の覗き穴から、表を確認する。小さな丸いレンズの先に、可愛らしい男の子が立っていた。
――誰だろう?
貴子の彼氏かもしれない。そんな事を考えながら、ノブに手を掛ける。玄関を開けた。
「どちら様でしょうか?」
男の子が、ハニカミながら私を見た。年の頃は、たぶん貴子と同じくらい。痩せ型で、身長は私よりずっと高い。サラサラとした前髪が眉毛にかかり、風が吹いたのか、少し揺れた。
「あのー、隣の小林です。貴子さんはご在宅でしょうか?」
――あー、何だか見覚えがある。小林さん家のヒロ君だ。
私が憶えているヒロ君は、まだ小学生だった。それにしても、大きくなった。貴子と同い年だから、高校一年生になる。
ヒロ君がまだ小学生だった頃に、家に遊びに来たことがある。貴子と二人っきりで部屋にいたのだ。視線を落とす。二人は手を握り合っていた。
私の中に悪戯心が芽生える。揶揄ってしまった。
「なるほど。ヒロ君も男の子だもんねー。女の子に興味があるんだ」
あの時、ヒロ君は顔を真っ赤にさせて逃げ出した。相当に恥ずかしかったのだろう。今思えば、悪いことをした。
「ちょっと待ってね。貴子に聞いてみるけど……あの子、出てくるかな?」
一旦、玄関の扉を閉めた。私は階段を駆け上がっていく。部屋に入ると、貴子が私に向かって、両手を交差させた。バッテンの合図だ。私は、小さな声で貴子に囁く。
「隣のヒロ君が、あんたに会いに来ているのよ」
貴子は、眉間に皺を寄せると、困った顔で私を見上げる。
「お姉ちゃん、お願い。私、誰とも会いたくないの。もう少し、ゆっくりさせて欲しい」
「そう、分かった。じゃ、断わるよ」
私は、階段を下りた。サンダルに足を入れて、玄関を開ける。
「ヒロ君、ごめんね。貴子、誰とも会いたくないって」
ヒロ君が、寂しそうな表情を浮かべた。私は、玄関の扉を締めようとする。すると、ヒロ君が思いつめたように口を開いた。
「あのー、貴子さんに、これを渡してくれませんか?」
私は、ヒロ君から一通の封筒を受け取る。
「貴子に、これを渡せばいいのね」
――これって、ラブレターじゃない!
私の中で、甘いトキメキが沸き上がった。
――青い。青すぎる!
ヒロ君。
君、とっても最高。忘れかけていた青い想いを、この私に感じさせてくれるなんて……思わず悶絶しそうになった。
二人の恋のドラマを、最高の特等席で見ている私。ちょっと、どうしよう……ひとりで興奮してしまった。
そんなことを考えていると、ヒロ君が二階にいる貴子に向かって、大きな声で叫んだ。
「貴子! お姉さんに予告状を渡したから、必ず読んでね。絶対だよ。文化祭は、必ず、来るんだよ」
――予告状?
ラブレターではないってことかしら。先程までの、トキメイていた私のテンションが急速に下がっていく。
ヒロ君は、私を見ると、ぎこちなくお辞儀をした。踵を返す。顔を真っ赤にさせながら隣りの自宅に帰っていった。
私は、手の中にある封筒を見つめる。「篠田貴子様へ」と書いてあった。でも、予告状とは、書いていない。でも、ヒロ君はこれを予告状と言っていた。
私は、不思議な気持ちのまま階段を上がる。貴子に、その予告状を差し出した。
「はい、あんたに予告状」
不思議そうな顔をして、貴子がその予告状を受け取る。封筒は、しっかりとノリで封をしていた。貴子は、はさみで丁寧に開く。中から便箋を取り出した。
篠田 貴子殿
突然の申し入れをおゆるしください。閉じこもったままの貴女を、私はちょうだいする決心をいたしました。来る十一月八日、ミナミ高校で行われる文化祭に参上いたします。場所は、美術室。時間は十一時。私の挑戦を受けてみますか。盗まれない自信がおありなら、どうぞ私の前に立ってみなさい。貴女はきっとあっと驚くことでしょう。追伸、朝、迎えに行きますよ。
怪人二十面相
予告状を読むと、貴子はクスクスと笑い出した。小さな声で呟く。
「あの、バカ」
貴子は、その便箋をもう一度きれいに封筒に入れた。勉強机に仕舞ってしまう。
二人にしか分からない、その暗号めいた予告状のことが、私は凄く気になった。
「ねえ、貴子。何なの、予告状って?」
貴子が、私を見て微笑む。
「ナイショ」
「えー、教えてよ。気になるじゃない」
「ナイショ」
「ねえ、アンタたち付き合ってんの?」
「ナイショ」
貴子がベッドに移動した。布団に包まって、顔を隠してしまう。
私が、何を問い掛けても「ナイショ」しか言わなかった。昨日の落ち込んだ貴子に比べると、元気になったから良いんだけど……。
――何なのよ、予告状って!




