実家
久々に実家に帰ってくる。篠田という表札が掛かっている建売住宅の一軒家を見上げた。
――懐かしい。
最後に敷居を跨いだのは、いつだったろうか……。
母さんから、帰ってこいとの連絡がある。理由は、彼氏だった康人のことだった。私が居なくなったことで、康人が私のことを探し始める。当然、実家にもやって来たのだ。しかし、母さんは、私たちの事情を知らない。
仕事が忙しいからと断っていたが、母さんからの電話があまりにもしつこい。つい、実家に立ち寄ることを約束してしまった。でも、帰ってはきたけれど、何となく気まずい。母さんに対するわだかまりが、まだ私の中で燻ぶっていた。
実家の門前で立ち尽くしていると、中からカレーの匂いが漂ってくる。つい鼻をヒクヒクとさせてしまった。
――お腹が空いた。
朝早くに部屋を出た私は、何も食べていなかった。昼ごはんにはまだ早い。実家に顔を出したら直ぐに帰るつもりだったけれど、空腹には勝てない。お昼ご飯くらいは実家で食べても良いかな……と思った。
「ただいまー」
呼び鈴も鳴らさず、玄関の扉をいきなり開けた。台所から母さんがやって来る。
「おかえり。早かったわね、久美子」
エプロン姿の母さんが、嬉しそうな顔をみせる。
「帰って来いって、うるさいから、早く帰ってきたのよ」
「そんな言い方はないでしょう……お茶を入れるから、さあ、上がりなさい」
台所と一緒になったリビングには、家族が集うテーブルがある。食事の時は、座る椅子が決まっていて、父さんと母さんは並んで座る。私と妹は二人に向き合うように座った。
ふと目をやると、そのテーブルの上に飲みかけの湯飲みが残されている。妹の貴子が座っている場所だ。
「あれ、貴子がいるの?」
母さんが、顔を曇らせた。小さな声で私に囁く。
「ここ最近、引き籠っていて高校に行かないのよ」
私も、小さな声で囁いた。
「何かあったの?」
「うーん。友人関係で何かあったみたいなんだけどね、言わないのよ。あんた、相談に乗ってやってくれない?」
私は、母さんの顔を見る。深い溜息を着いた。
――母さんでは無理だよなー。
私の時もそうだったけれど、何て言うか鈍感。良く言って天然。ちょっと想像力が足りないというか、ズレている。オロオロするばっかりで、母さんは何も出来ない人だ。可哀そうだけれど……。
「分かった。貴子に聞いてみる」
「そう、頼むね。それと、高田さんが心配していたわよ」
「ああ、康人ね」
「連絡がつかないって。あんた達お付き合いをしているんでしょう。連絡ぐらいしてあげたら?」
「母さん。康人とは別れたの」
母さんが、目を丸くする。
「まー、そうなの」
「だから、今度来たら、追い返して」
母さんが、私に真剣な目を向ける。
「そういう事は、自分の口でキチンと言いなさい」
私は母さんの顔を見た。ここぞとばかりに親らしい顔をしている。でも、本当のことは言えない。康人の所為で、私が覚せい剤に溺れたことを知ったら、かなり驚くだろう。
「分かった。私からも言っておく。でもね、母さんからもお願い。もう、康人には会いたくないの。本当に別れたの」
康人と別れたことを口に出してみて、少し寂しい気持ちになる。最近は、明美お姉さんと過ごしている時間が濃密過ぎて、康人の事を思い出すことがなかった。
私たちは仲が悪くて別れたわけではない。そもそも別れ話もしていなかった。けじめをつけていない自分に対して、何だか後ろめたいものを感じる。
母さんが、私の為にお茶を用意してくれた。湯飲みを手に取り、熱いお茶を口にする。香ばしい薫りが、私を包んだ。美味しい。私の中にある後ろめたさと一緒に飲み込んだ。
母さんが椅子に座る。私に語り掛けてきた。
「今晩は、どうするの? 泊っていくの?」
「どうしようかな~」
「お仕事は?」
「明日は休みだよ」
母さんには、私が百貨店の販売員の仕事を辞めたことを伝えていなかった。伝えるべきなんだろうけど、今はやめておく。あれこれと詮索されるのが面倒だったから。うっかり口を滑らさないように気を付けないといけない。
「じゃ、泊っていきなさいよ。あんたが好きな、クリームシチューを作ってあげるから」
「あっ、食べたい。ねえねえ、昨日はカレーだったの」
「ええ、そうよ」
「残ってる?」
「残っていますよ」
「お腹空いた~」
「はいはい、分かりましたよ」
母さんが椅子から立ち上がった。嬉しそうに台所に向かう。母さんに対しては、何かと偉そうな私だけど、母さんは嫌な素振りを見せない。やっぱり母親なんだと思う。
朝からカレーなんて、いつもの私ならきっと食べない。実家に帰ってきたことで、気持ちが穏やかになったからだろう。懐かしいカレーの味が美味しかった。
食べ終わったカレーの皿を持ち上げて、椅子から立ち上がる。流しに持っていった。
「貴子に会ってくる。部屋にいるんでしょう」
母さんが、悩まし気な目で私を見る。
「ええ、お願いします」
母さんが、私に頭を下げた。しかも、娘の私に「お願いします」だなんて……。何だか居心地が悪い。ただ、母さんが悩んでいることを強く感じた。
階段を上る。二階にある子供部屋は、今は貴子が一人で使っていた。部屋の前に立ちノックする。
コンコン。
「はい」
中から可愛い妹の声が返ってきた。
「貴子、入るよ」
引き戸を開けて部屋に入る。貴子は、ベッドに寝ころんで本を読んでいた。部屋の中を見回す。本棚には、相変わらず本がビッシリと並んでいた。
愛する妹は、本を読むのが大好きだ。特に推理物に興味があるみたい。小学生の頃は、怪人二十面相シリーズを読んでいた。最近はアガサ・クリスティが好きらしい。貴子は、凝り性な性格だ。一つのことにのめり込むと、どっぷりと浸かってしまう。これだけの推理小説を読んだなんて驚きだ。
私は中学生の頃からテニス部に所属していた。どちらかというと本よりも運動が好きで、テニスもそこそこ強い。クラブの部長も務めていた。そんな私に憧れた貴子は、中学生になるとテニス部に入部する。
貴子は、テニスに関しても凝り性だった。中学生の時は、大阪大会で準決勝まで勝ち進む。大したもんだ。ちょっと性格が暗いところがあるけれど、姉の私よりずっと出来が良い自慢の妹なのだ。その貴子が、学校に行かなくなった。何があったんだろう……。
「お姉ちゃん、お帰り」
私は、悪戯っぽく笑うと、貴子に飛びついた。
「この不良娘――」
うつ伏せになっている貴子のお尻の辺りに座り込む。脇腹を掴み、ワサワサと揉みまくった。
「アッハッハッ、やめて、お姉ちゃん」
貴子は、読んでいた本を投げ出して、暴れまくった。
――何て可愛いんだろう。我が妹ながら、あんたには癒される。
貴子は面白い様に反応した。ただ、ちょっとやり過ぎたかもしれない。手を止めると、貴子は両肘で上半身を起こしたまま、うな垂れた。ゼーゼーと息をしている。
「ごめん。やり過ぎちゃった」
貴子の横に寝そべって顔を見る。貴子は涙目で私を睨みつけてきた。そんな貴子の頭を撫でてやりながら、貴子を抱きしめる。貴子は、素直に抱かれてくれた。
どれくらい抱きしめ合っていただろう。貴子は、私の腕の中で泣いていた。声を殺して泣いている。そんな貴子がいじらしくて、泣かせるに任せた。
「お姉ちゃん、久しぶりだね」
貴子が、最初に口を開いた。
「ごめんねー。こう見えて、大人は忙しいのよ」
「なんだか、お姉ちゃん綺麗になったよ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね~」
貴子が、私を見つめる。このタイミングで貴子に問いかけた。
「何があったのよ。男にでも振られたの?」
「そんなんじゃないよ」
貴子は、また私の胸に顔を埋めた。私は、貴子の背中を優しく撫でてあげる。暫くそうしていると、学校に行かなくなった理由を話してくれた。
事件は、秋のテニス大会で起きた。
高校一年生になった貴子は、軟式から硬式に変わってもテニス部で活躍する。ところが、クラブにはそんな貴子のことを快く思わない女子のグループが存在していた。ある時、そのグループの一人と衝突する。それ以降、貴子はクラブ内でイジメの対象になってしまったのだ。
貴子の私物が、時々無くなる。そんなことが繰り返された。貴子に近づく友達がいない。クラブ内で孤立していく。テニス部の顧問に相談してみたが、解決には至らなかった。
それでも、クラブの練習は欠かさない。強くなろうとした。大会に出場して試合に勝つことが、貴子の存在を証明することにもなったからだ。
そんな貴子のことを応援してくれる男子生徒がいた。貴子は、その男子生徒にお願いする。試合だけは集中したかった。その日だけでも、私を守って欲しいと。しかし、その貴子のお願いが事件を引き起こした。
大会当日、貴子は試合に全力で取り組み、優勝することが出来た。しかし、その大会の裏では、暴力事件が発生する。その男子生徒が、首謀者の女子生徒を殴ったのだ。大会終了後、貴子はその事を知る。
貴子は自身の優勝が、男子生徒の犠牲の上に成り立っていたことに、大きな罪の意識を感じた。それ以来、学校に行けなくなってしまったのだ。
姉として、妹に掛けてやる言葉が見つからなかった。理不尽な困難というのは、誰の身にも降りかかる。晴れの日に、急に雨に見舞われるようなものだ。
イジメをする方が悪い。それは当然だが、相手と対立したからといって、問題は解決しない。更に問題が大きくなることもある。解決は容易ではなかった。
自分が蒔いた種とはいえ、クスリに手を出した私はヤクザに追われることになる。追いつめられ、最悪の事態に発展するところだった。ただ、私は運が良かった。明美お姉さんに出会えたからだ。本当に感謝している。
妹の貴子にも、サポートしてくれるような存在が欲しかった。相談には乗れるが、私に出来ることは限られている。無力な自分に苛立ちを感じた。
「辛かったね」
貴子を強く抱きしめる。何もできないけれど、貴子に話をした。覚せい剤で苦しんでいた私の話を。
高校生の貴子に語るには、あまりにも汚い大人の話だった。もしかすると、ただの私の愚痴になったのかもしれない。でも、話し出したら止まらなくなってしまった。
康人のこと、借金のこと、体を売る一歩手前だったこと。あの時の私は、最悪の状況に追い込まれていた。
逃げ出した時、ケンタに出合ったこと、明美お姉さんが救い出してくれたこと、仕事を辞めてホステスになったこと。新しい道が開けた私は、更なる高みを目指して、いま戦っていた。
「格好良いことは言えないけれど、それでも、貴子には負けて欲しくない。私も戦っている。まだ、母さんには内緒だけど、今、ホステスとして仕事をすることに、生き甲斐を感じているの」
私の腕の中で、貴子がコクリと頷いた。私を見つめる。
「今晩は、どうするの?」
「実家で泊まることにする。少し狭いけど、一緒に寝ようよ」
貴子がニコリと笑ってくれた。




