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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
健太 一九八〇年九月
41/80

悪阻

「ケンタさん。どうぞ、こちらですよ」


 京子さんに導かれた俺は、安達家の居間に案内された。居間には大きなテーブルが真ん中にある。月夜さんと久美子、それから貫禄があるお婆さんが椅子に座っていた。

 大島紬を着たその人は姿勢が正しい。対峙しただけで襟を正したくなる威圧感を感じた。この人が、安達親分の母親なんだろう。


「今日は、俺まで招いて頂き、ありがとうございます」


 家の主らしきそのお婆さんに、俺は恭しく頭を下げた。


「よろしいのよ。ゆっくりしていってね」


 柔和な笑顔で俺を迎えてくれた。ホッとする。実を言うと、本宅に招かれての食事に、俺は少しばかり緊張をしていた。この家に、親分が居ないことは分かっている。それでもヤクザ家業の本拠地だ。


「男の人とのお食事なんて、ジョージさん以来ね」


 そのお婆さんが、京子さんに笑顔で呟いた。


 ――ジョージさん!


 驚いた。先輩も、ここで食事をしたことがあるんだ。

 思わず、俺は月夜さんに視線を向ける。月夜さんは俺と目が合うと、ギロッと俺を睨んだ。


「ケンタ。さっさと終わらせるって言ったのに、どういう事よ!」


 月夜さんが怒っている。


「すみません。木崎さんに捕まってしまって……」


「言い訳はやめてよね。皆が待たされたんだから」


 京子さんが、仲裁に入る。


「まあまあ、それくらいにして。お食事にしましょうか」


 京子さんに導かれて、俺もテーブルの前に座った。俺の目の前に久美子が座っている。疲れた感じはあったけれども、風呂に入ってサッパリしたようだ。どこかしら表情が優しくなっている。


「久美子、体調はどうや?」


 久美子に優しく声をかける。


「うん、ありがとう。今日一日、ゆっくりと休めたから、とても楽になったよ」


 俺たちのやり取りを見て、月夜さんが悪戯っぽく笑った。


「あらー、久美子って、もう呼び捨ての仲なの?」


 月夜さんのツッコミに、少し慌てる。


「ほら、一緒に戦ってきた戦友というか何というか……」


 月夜さんは、俺の言葉には耳を貸さず、久美子の耳元に囁きかける。


「久美子、大丈夫だった? もしかして、ケンタに何か変なことをされたんじゃないの?」


 月夜さんが、意地悪そうな視線を俺に向ける。久美子は、両手で顔を覆った。俯いてしまう。


「……もうお嫁に行けない」


 久美子は、ワザとらしく泣くような仕草を見せた。


「おい、おい」


 俺は慌てて、声を出した。


 ――確かに、お前の裸は上から下まで見たけれど。


 月夜さんが、労わる様にして久美子を抱きしめた。すると、久美子のやつ、指の隙間から俺を覗いて、笑い出した。


「うふふ」


 ――やれやれ、どうも、俺は遊ばれているようだ。


 俺は、久美子に向かって、唇を尖らせて見せた。そしたら、あいつ、俺に向かって、チロッと舌を出しやがる。


 ――コノヤロー。


 まー、久美子のやつが元気そうだから、良しとするか。


 ――嫁くらい、俺がもらってやるよ。


 そんなことを考えている自分に気が付いて、苦笑した。俺らしくない。


 それにしても、月夜さんと久美子が、かなり仲良くなっていることに驚いた。

 そりゃ、久美子にとっては、月夜さんは恩人ではある。ただ、なんだかそれ以上の親密さを感じたのは気のせいだろうか……。


「さあ、皆さん、お食事にしましょうか」


 台所から出てきた京子さんは、お盆にお料理を載せてやってきた。月夜さんが立ち上がる。京子さんのお手伝いをしようとした。しかし、それを久美子が制する。


「お姉さんは座ってて、私がしますから」


 月夜さんが、椅子に座り直す。久美子は、京子さんと一緒にお料理の皿をテーブルに並べていった。


 ――ん?


 変な感じがした。久美子のやつ、案外と元気じゃないか……じゃなくて。何かが変だ。

 ただ、その理由が、俺にも良く分からない。

 テーブルには、美味しそうな料理が並べられた。どれも旨そうだ。


 ふろふき大根

 イワシの煮付け梅肉風味

 冷奴

 お漬物

 お味噌汁


 京子さんが、エプロンを外して、椅子に座る。


「どんなお料理にしようか迷ったんですが、消化の良いものにしました」


 久美子が、嬉しそうな声をあげる。


「とっても美味しそうです」


 京子さんが微笑んだ。


「久美子さん。無理せず、体とよく相談をして食べてくださいね」


「はい。ありがとうございます。こう見えて、お腹がペコペコなんです」


 久美子が、京子さんに笑顔で答える。

 俺もお腹がペコペコだ。普段は適当に食事を済ませていたので、京子さんの料理が輝いて見える。俺は、元気よく手を合わせた。


「いただきます!」


 まず最初に、イワシを箸でつまんだ。口に運ぶ。上品な薄味だ。よく火を通したのか、骨まで柔らかくなっている。イワシの身は綿のようにフワフワで、梅の香りが口の中に広がった。嬉しくて、京子さんを見つめる。


「京子さん、このイワシ、絶品です。骨までガツガツいけますね」


 京子さんが、手で口を隠して上品に笑う。


「オホホホ、嬉しいわ。遠慮なく、お代わりをしてね」


 楽しい団欒とは、こんな食事の席のことを言うのだろう。食事もさることながら、会話も楽しかった。

 俺は調子に乗って、久美子を助けようとした時の話を披露する。特に、相手に蹴られて気絶してしまったことを、面白おかしく聞かせてやると、皆が大笑いした。


 しかし、この食事の席で、少し気になったことがある。月夜さんの食事だ。俺たちとは、ちょっと違っていたのだ。

 ふろふき大根には、味噌が載っていなかったし、あんなに美味しいのにイワシは食べなかった。それに、月夜さんだけ、みそ汁ではなくて、すまし汁だった。白ご飯も、ほとんど食べていない。


 ――ダイエットだろうか?


 何となく違和感が拭えなかった。


 食事が終わる。京子さんと久美子が忙しく動き、お皿が片づけられた。家の主である安達のお婆ちゃんは、俺たちに労いの言葉を掛けると直ぐに退室した。京子さんも、俺たちにお茶を用意すると、遠慮をしたのか退室する。居間は、月夜さんと、久美子と、俺の三人だけになった。

 お茶を飲みながら、取り留めない話で時間が過ぎていく。話題が一段落した頃、月夜さんが、久美子に問い掛けた。


「ねえ、久美子」


「はい。お姉さん」


「言いたくないかもしれないけれど、久美子にクスリを勧めたのが誰か、私に教えてくれないかしら?」


 久美子は、少し考える仕草を見せた。

 そりゃそうだろう。自分の暗い過去なんて、誰にでも話せるもんじゃない。ただ、久美子は語り出す。月夜さんに対する信頼が、とても強いことを感じた。


 久美子に、覚せい剤を勧めたのは、久美子の彼氏だった。

 その男は、高校テニス部の三年上の先輩で、学生時分は彼との交流は無かった。高校を卒業した久美子は、百貨店の販売員として就職する。

 久美子が所属していたテニス部は、OB会がとても活発だった。年に一回、定期的にクラブの同窓会が行われる。この同窓会に出席したことで、久美子はその先輩と知り合った。


 先輩は、高級寝具を販売する仕事をしていた。かなりの高収入だったようで、羽振りが良い。遊びがとても派手で、週末になると必ず繁華街に繰り出した。身に着けるものは全てブランドで固めている。久美子に対して、とても優しかった。その大人な態度に久美子は憧れたようだった。


 しかし、彼には問題があった。彼は遊び仲間と一緒に、クスリに手を出していたのだ。久美子もそれが行けないことは分かっている。ただ、クラブの後輩から、彼の彼女に昇格した時、久美子も同じようにクスリに手を出すようになった。クスリが、彼との絆へと変化したのだ。

 話を聞いた月夜さんが、久美子に問いかける。


「その彼とは、今後、どうしたいの?」


 久美子が大きく息を吸った。


「分からない。でも、彼のこと――嫌いではないです。今でも」


 俺から視線を外す。久美子が俯いてしまった。

 俺は、そんな久美子にイライラが隠せない。つい、強い口調で尋ねてしまった。


「久美子がクスリの為に借金をしている時、その男は何かしてくれたのか?」


 久美子が、俺を見る。


「うーん。でも、借金は私の問題だし……」


 久美子は考え込んだまま、それ以上、言葉が続かない。そんな男にまだ未練を残している久美子に、俺は言ってやった。


「そんな奴とは、別れろ!――話を聞いていたら、ただの軽薄な男やないか」


 久美子が、俺を睨みつける。


「彼氏でもないアンタに、そんなこと言われたくない……調子に乗らないで!」


 久美子が、怒りの目を俺に向けた。

 俺は、唖然とする。久美子のことを助けようとしなかった男に、なぜ、そこまで固執するのか分からなかった。

 俺と久美子のやり取りに、月夜さんが口を挟む。


「久美子。ケンタに言われたから、腹が立つのは分かるけど、その男と別れるのは私も賛成よ」


 月夜さんの強い口調に、久美子は不安そうな表情で見つめ返した。


「でも……」


「久美子、良く聞いてね。折角、禁断症状に打ち勝ったのに、その男と一緒にいたら、また覚せい剤を始めることになるよ――」


 久美子は、何も言い返せなかった。月夜さんが、冷たい視線を送る。


「――それでも良いの?」


 久美子がうな垂れる。

 月夜さんが、立ち上がった。久美子の後ろに立つ。左手で、久美子の肩を優しく掴むと、右手で久美子の長い髪の毛で遊び始める。


「私は、あなたをナンバーワンを張れるようなホステスに育て上げたいの……でもね、クスリを止めれないんなら、この話は無しよ」


 久美子さんが、目をしかめた。

 月夜さんの右手は、動きを止めない。久美子の髪の毛で遊ぶことに飽きると、今度は久美子の右耳で遊び始めた。お人形さんで遊ぶ女の子のように、月夜さんは楽しそうに右手を動かす。気のせいか、久美子の顔が緩んでいく。


「私は、初めて会った時から、貴女なら最高のホステスになれると感じた」


 久美子が、大きく目を開いた。

 月夜さんの右手は、右耳の裏側から流れるように顎の下の方へ滑っていく。今度は久美子の首を優しく掴み、猫をあやすように顎の下を摩り始めた。久美子は、顔を捩ると、潤んだ瞳で月夜さんを見上げる。


「もう一度言うわ。その男と別れて、私の元に来なさい」


 月夜さんは、久美子のことを冷たく見下ろした。


「はい」


 久美子が、か細い声で返事をする。

 月夜さんが微笑んだ。久美子の頭を優しく撫でる。


「よく言ったわ。じゃ、これからの話をしましょう」


 月夜さんは、自分が座っていた椅子に戻った。

 久美子は、何だか物足りなさそうな視線を、月夜さんに送る。

 それらの一連のやり取りを見ながら、俺はこの場に居て良いのか、困ってしまった。


 ――何なんだ、これは。俺は、何を見せられたんだ。


「ケンタ」


 月夜さんの一言で、俺は我に返った。


「は、はい」


「久美子と相談をして、久美子の新しい部屋を探してくれない?」


「えっ!」


 俺と久美子が、二人して月夜さんを見た。

 月夜さんは、久美子を真っすぐに見据える。


「今の部屋では、もう、生活は出来ないわ。その彼氏とやらが部屋にやって来るでしょう。完全に、新しい部屋から出発をしなさい。今までの人間関係からは、スッパリと縁を切るの。分かった?」


 月夜さんの押しの強い言葉に、久美子はゆっくりと頷いた。


「分かりました」


「引っ越しに関する、資金は私が用意します。新しい部屋の契約については、ケンタ、お願いね」


 俺は、強く頷いた。


「任せてください」


「それから――」


 月夜さんが、テーブルの上にあった紙切れに数字を書きつける。


「――ケンタ。これが私の電話番号。これから私と連携を取ること。部屋のことで進展があったら、ここに電話をして」


 俺は、月夜さんから直通の電話番号を受け取る。番号の横には、伊達明美と書いてあった。


「初めて知りました。お名前は、明美さんなんですね」


 月夜さんが、クスっと笑う。


「明美よ。宜しくね」


 明美さんが、久美子を見る。


「ケンタが部屋を見つけてくるまでの間は、療養のつもりで、この家でゆっくりとしたらいいわ」


「ありがとうございます」


 久美子の言葉を聞くと、明美さんは急に椅子に深く凭れた。深いため息をつく。


「ちょっと、疲れたわ……」


 久美子が、明美さんに心配そうな表情を向ける。


「お姉さん、体に障ります。もう、休みませんか?」


 明美さんが、久美子を見上げた。


「ええ、そうしようかしら」


 久美子が立ち上がる。明美さんが立ち上がるのを支えた。


 ――えっ! 反対じゃないの?


 これから療養する久美子が、明美さんを支えていた。何故なんだろう?


「ケンタ、ごめん。先に、休ませてもらうね」


 俺は、慌てて口を開く。


「いえ、今日は、ありがとうございました。俺も、これでお暇させて頂きます」


「そう、ありがとう。明日、私に電話をちょうだいね」


 明美さんが、俺に片目を瞑ってみせる。

 俺が居間から出ると、明美さんと久美子が玄関まで見送りに来てくれた。俺は、頭を下げて安達家を後にする。

 帰る道中で、明美さんの体調が気になった。かなり調子が悪いのかもしれない。早く元気になって欲しいと思った。

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