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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
健太 一九八〇年九月
39/80

介護

 目が覚めた。

 昨日は、夜遅くまで久美子と話をした。出会って間もないのに、昔から知っているような既視感に襲われる。お互いに見捨ててしまった過去を打ち明けあった所為で、二人の距離が近づいたからだろうか。


 ――俺は、久美子のことが好きなのだろうか?


 美人だし、俺と気が合う。やっぱり好きなんだと思う。

 ただ、これまでに感じてきた「好き」とは、何だか違うような気がした。


 ――守ってやりたい。


 久美子の傷ついた過去を知ったからだとは思うが、そんな気持ちにさせられる。


 俺は、女が好きだ。趣味のようにナンパを繰り返してきた。ナンパっていうのは口説いている時が一番楽しい。まるでゲームを攻略するようなもんだ。なびかない女が俺の手の中に落ちる時、達成感を感じる。最高の瞬間だ。そしてゲームが終了する。


 ところが、女のゲームはここから始まる。デート、食事、セックス。俺と遊ぶ為のプランを、女は楽しそうにチラつかせる。甘える姿は可愛いが、俺を縛ろうとするのはやめて欲しい。

 正直言うと、女と付き合うことはとても面倒だと感じていた。俺が、男として、いや人間として最低なのは分かっている。だけど、俺は自由でいたかった。


 ところが、久美子は違った。俺の方が、寄り添いたい気持ちにさせられている。これは、俺にとって初めての感覚だ。

 昨晩は、時間を忘れて久美子と話をした。もっともっと、久美子のことを知りたい。女に対して、そんな風に思ったのは初めてのことだった。


 日付が変わる頃、俺は眠気に襲われる。五時間近く、飽きもせず話をしたなんて学生以来だ。しかし、流石に俺も疲れていた。久美子との話の途中で、つい欠伸をしてしまう。久美子が笑った。


「もう、寝たら」


 俺は、欠伸を噛みしめる。


「ごめん。なんや眠くなってきた。久美子はどうする?」


「私は眠たくない」


 久美子に悪いと思ったが、俺はベッドに横になる。そのまま直ぐに、寝てしまった。


 窓から光が射し込んでいる。朝が来たようだ。ベッドをまさぐってみたが久美子がいない。俺はベッドから起き上がる。振り返ると、窓の下で三角座りをしている久美子を見つけた。


「おはよう」


 久美子から返事が返ってこない。何だか様子がおかしかった。

 俺は立ち上がり、久美子に歩み寄る。気軽にその肩を触ろうとした。ところが、久美子が俺の手を弾いた。


「触らないで!」


 久美子の反応に驚いた。唖然として見つめる。


 ――機嫌が悪いのか?


 久美子は、俺が寝ている間、ずっと起きていたに違いない。眼のふちにクマが出来ている。目は開かれたまま、ずっと向かいの扉を凝視していた。

 京子さんの言葉を思い出す。


「覚せい剤の影響で、たぶん寝ることが出来なくなります」


 久美子の戦いが始まっていることを理解する。京子さんは、「水だけはしっかりと飲ませてあげてください」とも言っていた。俺の役割を果たさなければならない。

 洗面台に向かった。蛇口を捻りコップに水を入れる。そのコップを久美子に差し出した。


「久美子。水でも飲んでおけよ」


 しかし、久美子は受け取ってくれない――というよりも、反応がなかった。

 昨日は俺の半身のように感じていのに、今は、久美子のことが分からない。


 ――同じ久美子なのか?


 不安に駆られた。

 仕方がないので、久美子が座り込むその足元に、水の入ったコップを置いた。

 久美子の隣に、俺も腰を下ろすことにする。壁に凭れ掛かった。足を前に投げ出す。


 俺だけが寝ていることに、久美子は腹を立てたのかもしれない。自分だけが眠れないというのは、とても辛かっただろう。しかも、一晩中それが続いたのだ。

 想像するだけで、俺は憂鬱になってしまう。寝るという自然な行為なのに、今の久美子に対しては罪なことだと感じてしまった。


 久美子の隣で、時間が過ぎていくのを待った。しかし、全然時間が進まない。腕時計を見る。さっきも見たばっかりだ。まだ、五分しか経っていない。


 ――時間って、こんなにも進むのが遅かったか?


 この腕時計が壊れているのかと疑ってしまう。

 久美子を見た。相変わらず、扉を凝視したまま動かない。俺はため息をつく。伸ばしていた足を曲げて、胡座をかいた。のろのろと時間が過ぎていく。


 ガラガラ。


 玄関の引き戸が開く音が聞こえた。きっと月夜さんだ。立ち上がり、扉に向かう。

 扉の向こうから、月夜さんが呼びかける。


「おはよう」


「おはようございます」


「どう? 久美子の様子は」


「まだ、始まったばかりだと思いますが、ちょっと辛そうです」


「ケンタはどうなの?」


「俺は、大丈夫です。昨晩は休むことが出来ました」


「そう、頑張ってね。食事を持ってきたの……ただね、鍵を忘れちゃった」


「あら、月夜さんの美しいお顔を拝顔したかったのに」


「馬鹿――下から食事を滑らせるから、取ってくれる」


「はい。ありがとうございます」


 扉の下から、お盆に盛られたおにぎりとお漬物が出てきた。


「じゃあ、また来るね」


 月夜さんが帰っていった。俺は、腰をかがめてそのお盆を持ち上げる。久美子の所に戻った。


「おにぎり、食べられるか?」


 相変わらず反応がなかった。

 久美子の前にしゃがみ込む。おにぎりをひとつ手にとって差し出した。久美子はおにぎりを受け取ってくれた。でも、視線は扉を見据えたまま。俺を見ようともしない。


「食べた方がいいよ。体力勝負だし」


 久美子は、おにぎりを両手で持つと、口元に運んだ。端っこをかじる。顎を動かして、ゆっくりと食べ始めた。食べながらも、扉から視線を外さない。

 何にせよ、久美子が食事を摂り始めたのは良いことだ。久美子の横に、俺も同じように座る。おにぎりに手を伸ばした。


「美味いな、このおにぎり」


 ワザと大げさに、そう言ってみる。久美子の反応を誘うためだ。しかし、久美子からの反応はない。何だか途方に暮れてしまう。

 仕方がないので、俺も扉を見つめた。同じようにして、おにぎりを食べる。


「あの扉の穴から、私を見ているの」


 突然、久美子が喋り始めた。


「見ているって……何が?」


「私の、赤ちゃん」


「えっ!」


 俺は、扉の穴を見つめる。特に変わった様子はなかった。


「赤ちゃんがね、怒っているの」


「怒っている?」


「眠るとね、あの子が私の中に帰ってこようとするの。だからね、見張っているの、私」


 久美子が、扉の穴を睨みつける。


 ――久美子には見えているんだ。その赤ちゃんが。


 俺は、久美子を見つめた。久美子は、自分が抱えている罪の意識と戦っている。そのことに、思いを馳せた。久美子のことが、どうしようもなく愛おしい。


 ――何なんだこの気持ちは!


 久美子のことを考えると、胸が痛かった。


「久美子……」


 久美子に寄り添いたくて手を伸ばした。三角座りをしている久美子の膝の上に、手を載せる。


「責めないで!」


 突然、久美子が叫んだ。

 驚いた俺は、慌てて手をどける。横にいる久美子の顔を見た。扉を凝視したその目から、みるみる涙が溢れ出してくる。


「あなたは、もう死んだの。あたしが殺したの」


 俺は、呆然としながら久美子を見ていた。


「もう出てこないで、私を見ないで」


 涙を流しながら、久美子はギュッと唇を噛みしめる。

 見ていられなかった。胸が苦しい。何だか久美子の悲しさみたいなものが、俺の中に流れ込んでくる。俺は、久美子の肩を抱こうとして手を伸ばした。

 すると、俺の動作よりも早く、久美子が手を振り上げた。手に持っていた食べかけのおにぎりを、扉に向かって投げつける。しかし、そのおにぎりは小さく弧を描くと、床に落ちた。転がりながらバラけていく。白かったおにぎりは床のホコリに塗れて、黒く汚れた。


「ア――――!」


 久美子が、大声で叫んだ。今度は、狂ったように両手を振り回し始める。傍に置いていたコップが倒れて、床に水たまりができた。俺は、暴れる久美子を取り押さえる。


「久美子!」


 尚も、久美子は暴れようとした。


「見ないで! 見ないで――――!」


 久美子が半狂乱になっている。


「俺がおるやろ。俺を見ろ――」


 両手で久美子の顔を挟み込む。強引に俺の方に向かせた。久美子と目が合う。大きな声で名前を叫んだ。


「久美子!」


 やっと、久美子が俺を見てくれた。初めて俺の存在に気が付いたように、驚いた表情を浮かべる。


「ケン、タ……」


 久美子が俺の名前を呼んだ。

 俺は優しい声で語りかける。


「ああ、ケンタや。安心しろ。俺が傍におるやろ」


 久美子が正気に戻ったようだ。少し安心する。大人しくなった久美子が、俺から視線を外した。手でお尻のあたりを触っている。顔を歪めた。


「ケンタ」


 久美子が俺を呼んだ。


「なんや?」


「お尻が濡れてる」


「ああ、コップの水やな。悪い。俺がそこに置いたんや」


 ベッドの下にある雑巾を手にした。久美子に手渡す。久美子は座りながらお尻を拭いた。


「ねえ、ケンタ」


 拭き終わった雑巾を手にしながら、久美子が俺を見上げる。俺は雑巾を受け取るために、手を差し出した。


「雑巾、貸せよ」


久美子が、小さな声で呟いた。


「立たせて、トイレに行きたい」


 雑巾を受け取った俺は、そのまま久美子を立たせてやった。久美子が、ヨロヨロと立ち上がる。座り続けていた影響で足腰が痛いようだ。

 歩き始めると、直ぐに久美子がよろめいた。俺に寄り掛かる。そんな久美子を支えながら、部屋にあるトイレまで連れて行った。久美子が中に入る。


 その間、俺は部屋の掃除をした。タオルを手にして、濡れた床と散らばったおにぎりの処理を始める。濡れた床は雑巾で拭いた。落ちたおにぎりは、タオルで包み込む。汚れ物は全て扉の下の穴から放り出した。

 少し気になったので、俺は床に這いつくばる。その穴を覗いてみた。しかし、外の廊下が見えるだけで、赤ちゃんの姿は見えなかった。


 ガチャリ。


 トイレの扉が開いた。中から久美子が出てくる。


「だいぶ調子が悪そうやな」


 久美子に近づいて、その手を取った。支えてやる。ベッドに腰かけた久美子は、背中で呼吸をしていた。かなり辛そうに見える。

 久美子が、俺を見上げた。


「ねえ、お水をちょうだい」


「分かった」


 洗面台に向かい、コップに水を入れる。戻ってきて、そのコップを久美子に差し出した。俺からコップを受け取ると、久美子は一気に飲み干す。かなり喉が渇いていたようだ。


「お代わりは、いるか?」


「ありがとう、でも大丈夫」


 俺は、空になったコップを久美子から受け取る。


「疲れただろう。横になれよ」


 久美子に、優しい目を向けた。


「うん、そうする」


 ベッドに横たわる久美子に、俺は毛布を掛けてやる。毛布に潜り込むと、久美子は手を伸ばしてきた。


「ケンタ、手を繋いで欲しい」


「ああ、良いよ」


 俺は、久美子の手を握る。


「グルグルとめまいがするの。横になるとね、地の底に引きずり込まれそうなの……怖い。なんだか、この世から消えてしまいそう――」


 久美子が、すがる様にして俺の手を握る。俺は、久美子の手を強く握り返した。

 久美子が、さらに呟く。


「――まだ見えるの、私の赤ちゃんが」


「扉の穴か?」


「ううん。今は、天井の隅から見ているわ」


 久美子の視線にそって、俺もその天井の隅を見た。やはり何も見えない。


「幻だよ」


 そう呟いた。

 俺の存在を確かめるようにして、久美子が手を握り返してくる。禁断症状の感覚は分からないが、症状は段々と悪くなっていた。

 俺は、久美子に語りかける。


「眠れるか? 目を瞑れよ。俺は、傍に居るから」


 俺の言葉に、久美子が頷いた。目を閉じる。暫くすると、小さな寝息を立て始めた。どうやら安心したようだ。

 実際のところ、久美子はかなり我慢していたと思う。見かけの派手さとは違って、とても真面目な子だ。

 久美子は、午前中は毛布に包まりながらベッドの上で過ごした。寝ながら、時々、独り言を呟く。何を言っているのか良く分からなかったが、誰かに対して非難めいたことを口にしていた。

 もしかすると、久美子に子供を堕させた男かもしれない。もし、この場に居たのなら、俺はそいつを殴ってしまうだろう。そんな事を考えながら、俺は、ベッドに凭れかかったまま寝てしまった。


「もう、嫌なの!」


 ウトウトしていた俺は、久美子が叫ぶ声で目が覚めた。

 ベッドで寝ていたはずの久美子が、俺の横に立っている。俺は久美子を見上げた。

 様子がおかしい。俺を見る目がおかしかった。目は大きく開かれている。ところが、瞳孔が動いていない。俺を見据える久美子の眼は、人間のそれではなかった。無機質なカメラのように固定されている。まるで、人形のようだ。

 久美子が、両手を振り上げる。奇声を発するように、叫んだ。


「クスリをちょうだい!」


 両手を振り下ろすと、俺に掴みかかってきた。久美子の力は、思ったよりも強い。細い腕から、どうしてそんな力が出るのか不思議だった。

 それでも、男の俺に敵うわけではない。ベッドの上に押さえ込んだ。動けなくなった久美子が、俺に懇願する。


「お願い、クスリをちょうだい」


 叫びながら、泣いている。そんな久美子が哀れだった。心が痛い。俺に押さえ込まれながら、久美子は手足をバタつかせた。

 すると、今度は怒りはじめる。


「コノヤロー、離せ! 何さらすんじゃー! コラ、離せ――!」


 暴れている久美子に覆いかぶさる。いつまで続くのだろう……彼女のことが可哀そうでならない。


「バカヤロ――! 死んでしまえ――!」


 その時、久美子が俺の首筋に嚙みついた。


「痛ッ!」


 思わず、飛びのいてしまった。俺はベッドの下に転げ落ちる。


 ドサッ!


 そんな俺に、久美子が襲い掛かる。床に仰向けになっている俺に、覆いかぶさってきた。

 俺は、久美子の嚙みつきを警戒する。久美子を引きはがそうとした。

 ところが、久美子は既に力尽きていた。壊れた人形の様に、力なく俺に覆いかぶさり、ゼーゼーと息を切らしている。そのままの姿で、俺に懇願した。


「もう、耐えられないの。お願いだから……クスリをちょうだい……」


 俺の上で、久美子が泣いていた。俺の顔に、久美子の涙が落ちてくる。

 久美子は、もう限界だった。暴れたせいで、力を使い果たしている。動くことが出来なかった。

 俺は、体を起こした。疲れ果てた久美子を抱き上げる。また、ベッドに寝かせてあげた。

 荒い息を繰り返しながら、久美子は虚ろな瞳で天井を見上げる。全身から、汗が止めどなく噴き出していた。俺は、久美子に問いかける。


「水を飲むか?」


「欲しい……」


 久美子が、苦しそうに呟いた。

 俺は洗面台に向かう。新しい水を用意した。戻ってきた俺は、水を飲ませる為に、久美子の上半身を起こす。口元にコップを近づけた。

久美子は貪るようにして水を飲む。

 飲み終えると、俺にお代わりを要求した。久美子からコップを受け取り、また水を用意する。久美子にコップを差し出した。

 久美子が、ゴクゴクと水を飲む。沢山の水が、胸の上に零れ落ちた。でも、久美子は、そんなことは全然気にしない。よっぽど喉が渇いていたようだ。


 渇きが癒えると、久美子はベッドに倒れ込んだ。ところが、なんだか様子がおかしい。久美子は、ブルブルと体を震わせていた。

 体が濡れている。零れてしまったコップの水だけではない。全身から汗が噴き出していたのだ。着ている服が黒く変色していく。


「……寒い」


 久美子が呻いた。

 部屋の中は暑いくらいなのに、久美子が寒がっている。久美子の額に手をやった。熱がある。迷ったが、これは着替えさせないといけない。


「このままじゃいけないから、服を脱がせるよ」


 久美子は返事をしない。体を丸めて震えたままだ。

 久美子のブラウスに手を掛ける。前ボタンを一つずつ外していった。前立てを広げて、久美子の腕を抜き取る。久美子は抵抗しなかった。ブラウスを脱がしてしまう。久美子の白い上半身が露になった。

 次に、スカートに手を掛ける。ホックを外し、ゆっくりと引き下ろしていった。日に焼けていない久美子の白い足が、スラリと投げ出される。力が入らないのか、久美子はされるがままだった。

 下着姿の久美子が、ベッドに横たわる。綺麗な曲線を描いていた。胸のふくらみを頂点として、滑らかな起伏が足に向かって続いている。俺は目を奪われた。


「寒い!」


 久美子が、非難の声をあげた。俺は、慌ててタオルを手にする。

 額からも、首筋からも、汗が止めどなく噴き出していた。先程の、俺との取っ組み合いで症状を悪くしたのだろう。久美子の身体を拭いていると、タオルが汗を吸って重くなった。

 久美子のブラジャーが、少し邪魔だった。タオルが引っかかってしまう。汗で濡れているので、ブラジャーも取ることにした。久美子の可愛らしい膨らみが顔を出す。汗かコップの水か分からないけれど、濡れてキラキラと光っていた。

 その胸にタオルをあてる。汗を拭く為に滑らせた。胸の谷間をタオルが通り過ぎていく。形の良い膨らみが、タオルに押されて変形した。

 そんな俺のことを、久美子が横目に見る。非難の目ではなかった。気怠そうに笑って、また目を瞑った。ゼーゼーと呼吸が荒い。

 全身の汗を拭き終えた俺は、用意してくれた浴衣を取り出した。久美子に着せてやることにする。

 久美子の体は、力が抜けていた。軟体動物のように柔らかい。そして、重い。浴衣を着せるのに、かなり苦労した。

 浴衣に着替えた久美子が、またベッドに横たわる。毛布を掛けてあげた。

 俺は、久美子の頭を撫でてあげる。


「お疲れさん。俺は傍にいるからな」


 久美子が、ゆっくりと頷いた。

 日が落ちる。辺りは暗くなった。久美子は、食事を摂ろうとしない。それよりも、喉の渇きを訴えた。その度に、俺は水を飲ませてやった。

 久美子は、相変わらず「クスリが欲しい」と訴える。きっと、かなり苦しいはずだ。

 でも、一人で起き上がることは出来なかった。発熱が影響しているが、それだけではない。久美子は昨日から食事を摂っていない。多分、起き上がるだけの体力が、もう残っていないと思う。


 夜も更けた頃、臭いで気が付く。久美子がお漏らしをしていた。

 迂闊だった。あれだけ水を飲めば、トイレくらい行きたくなるだろう。その事に気が回らなかった。


 俺は、久美子に掛けていた毛布を引きはがす。尿の匂いが立ち込めた。苦しいながらも、久美子が恥ずかしそうな表情を浮かべる。


「ごめん。また、脱がすね。新しい浴衣に変えよう」


 苦しがる久美子の体を動かす。久美子の浴衣に手を掛けて、また脱がした。

 今回は、下着も脱いでもらう。タオルを手にして体を拭いてあげた。二回目ということもあったが、久美子は俺にされるがままだった。

 介護を素直に行っている自分の事が、とても不思議だった。以前の俺なら考えられないことだ。


 ――タケへの罪滅ぼし。


 最初の動機はそんなものだった。しかし、今の俺は、そんなことも考えていない。


 ――久美子が好きだから?


 なんだかそれもちょっと違う気がする。

 久美子のことが好きというのは間違いない。ただそれは、学生の頃に感じた好いた惚れたの感情とは、違う気がする。

 久美子のことが放っておけない。見ているだけで、苦しいのだ。他人に対して、こんな感情になったのは初めてのことだった。


 久美子を、再びベッドに寝かせる。毛布を掛けてあげた。ただ、久美子が寒さで震えている。


 ――どうしようか。


 その時、久美子が手を伸ばした。俺の手を握ろうとする。

 久美子の小さな手を握りながら、俺もベッドに横になった。久美子を後ろから抱きしめる。震えていた久美子が、急に大人しくなった。安心していることが、久美子の背中から伝わってくる。

 俺自身も、なんだか気分が良かった。フワフワと満たされたような感覚が胸の中に広がっていく。二つのブロックが合わさるように、久美子を抱きしめた。隙間なく合わさっている。暫くそうしていると、俺は寝てしまった。


「おはよう」


 久美子の声で、目が覚めた。

 今の状況を整理するのに、少し時間が掛かる。俺は、久美子と向き合うようにして寝ていたからだ。久美子の顔が目の前にある。だんだんと昨夜までのことが思い出された。


「ケンタ」


 久美子が、俺を呼んだ。俺は、慌てて返事をする。


「お、おはよう」


 久美子が、俺を見つめる。


「水が飲みたい」


 久美子の顔を見つめる。少しやつれたが、正気の顔をしていた。昨日のように、俺を襲う心配はなさそうだ。

 俺は、ベッドから起き上がる前に、久美子に軽くキスをする。これまでに何度もキスをしてきたかのような自然なキスだ。久美子も普通に俺を受け入れる。

 ベッドから抜け出して、俺は洗面台に向かった。コップに水を入れる。ベッドに戻り、久美子の上体を起こした。久美子の身体を支えながら、水を飲ませてやる。久美子は体を震わせながら、ゆっくりと水を飲んだ。


「……ああ、美味しい」


 久美子が感嘆の声を零した。

 水を飲み干すと、久美子が扉の方に顔を向ける。俺も扉の方に視線を向けた。扉の下の取り出し口に、おにぎりが乗せられたお盆が用意されていた。俺は、そのお盆を取りに行く。ベッドに戻ると、久美子の横に腰かけた。


「おにぎり、食べられるか?」


「うん。お腹が空いた」


 おにぎりを一つ取ってやる。久美子に差し出した。

 久美子は、おにぎりを両手で掴む。おにぎりを見つめた。端っこを齧る。


「…………美味しい」


 嬉しそうな久美子を見て、俺は微笑んだ。

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