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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
健太 一九八〇年九月
36/80

新人ホステス

 慌てて立ち上がろうとした。寝転んでいる場合じゃない。両手を付いて、上体を起こす。もつれる足を手で押さえた。月夜さんに挨拶をしなきゃいけない。


「お久しぶりです。月夜さん」


 サングラスを掛けていたから分からなかったが、あの月夜さんだ。


 ――憧れの月夜さん、美しすぎて眩暈がしそう。


 いや、本当に眩暈がした。足が踊る。これは頭を蹴られた後遺症だ。月夜さんに向かって、上体が傾く。


 ――しかたがない。これは不可抗力だ。月夜さんの胸の中に飛び込もう。


 その時、万力のような手が俺の腕を掴んだ。体を支えられる。朦朧としながら振り返ると、あの木崎隆だった。


「気をつけろ!」


「すんません」


 月夜さんが、そんな俺の顔を覗き込んできた。


「無理して立ち上がるからよ。ケンタ、唇から血が出てるよ」


 月夜さんが、心配そうな表情を浮かべてくれる。俺は、木崎に支えられながら、自分の口元を拭った。手の甲にベットリと赤い血が付く。


「ホンマや……」


「はい、これ」


 月夜さんが、俺にハンカチを差し出してくれた。俺は素直に受け取る。ただ、月夜さんのハンカチを俺の血で汚すなんて考えられない。俺は、悩ましげに月夜さんを見た。


「あのー、勿体なくて使えません」


「何言っているのよ、ただのハンカチじゃない」


「俺の血なんかで汚したら、使えなくなりますよ」


「良いわよ。ハンカチの、一枚や二枚くらい……」


 月夜さんが、俺に微笑んでくれた。その優しさに、体が震える。


 ――なんて良い人なんだ~。


「このハンカチ、俺が貰っても良いんですか?」


「好きにすれば」


「じゃ、家宝にさせてもらいます」


「家宝って、大げさな。ウフフッ」


 月夜さんが微笑んだ。素直に嬉しい。俺は、月夜さんのハンカチを持ち上げると、鼻を近づけた。目を瞑って、甘い香りを楽しむ。


「うーん、良い香り」


 ゴン!


 熊のような拳骨で、頭を小突かれた。


「イタッ!」


 思わず叫んでしまった。衝撃が、頭に響く。


 ――蹴られた頭なのに。


 振り返り、恨めしそうに木崎隆を見た。奴が俺を睨む。


「アホ!」


 そんな俺たちのやり取りを見て、月夜さんが笑った。


「アッハッハッ……冗談はそこまでにして。ケンタ、この後、ジュエリーボックスに行くよ。手当をしてあげる。それと――」


 月夜さんが、振り返る。隣の久美子さんを見た。


「――あなた、名前は?」


「篠田久美子です」


「久美子さんっていうのね。あなたも、今から私に付き合ってくれるかしら?」


「私もですか……」


「何か用事でもあるの?」


「いえ、そういうわけでは……」


「何も怖くないって、ちょっと事情が聞きたいだけなの」


「……そうですか。分かりました」


 久美子さんが、渋々頷いた。

月夜さんは、人相の悪い木崎隆にも声を掛ける。


「タカシ」


「へい、お嬢様」


「その男たちは、お前に任せるから、田崎組との関係を洗っておいて。詳しい事は、また後で聞かせてもらうから」


「へい、承知しました」


 驚いた。木崎隆が、月夜さんに使われている。


 ――どういうことだ?


 木崎隆は、仲間のヤクザたちに命令した。


「おい、そいつらを連れていけ」


 柄シャツの男と背広の男は、木崎隆たちに連れられて人込みの中へ消えていった。一体、どこに連れ去られるのだろう。少し、気になった。


「ケンタ、歩ける?」


 月夜さんが、俺に問いかけてきた。


「大丈夫です。それより……俺みたいな新人だった黒服まで覚えてくれて、本当に嬉しいです」


 嬉しさで頭を掻いていると、月夜さんが口元に笑みを浮かべた。


「私を、誰だと思っているの? ナンバーワンだったホステスよ。お客様の情報だけじゃなくて、お店のことも全部、私の頭の中には入っているの。あんたも、私を見習って、勉強しなさい」


 そう言って、俺にウインクをした。


 ――カッケー! マジ、カッケー!


 心が震えた。憧れの月夜さん、貴女、最高です。俺、あなたに付いて行きます。

 両手を握り締めて感動していると、月夜さんは久美子さんを連れて、もう歩き始めていた。


 ――置いてかないでくださいよ!


 俺は、慌ててその後を追いかけた。


 折角の休日だったのに、今日もジュエリーボックスにやって来た。裏口から中に入る。

 月夜さんは、誰に気兼ねすることもなく階段を上っていった。どこに行くつもりだろう。

 ホールでは、朝礼が行われていた。スピーカーから、アキラ先輩の声が聞こえる。今日のスケジュールについて説明しているところだった。

 階段を上がり切ると、月夜さんは真っすぐに支配人室に向かった。ノックもせずにドアを開ける。俺は驚いて、月夜さんに尋ねてしまった。


「月夜さん、勝手に入って、良いんですか?」


「何を気にしているのよ。ここは、私の部屋みたいなもんよ。二人ともそのソファーに座りなさい」


 俺は、支配人室にある応接セットのソファーに座った。久美子さんも向かいのソファーに座る。月夜さんは、棚から救急セットの箱を取り出した。真っすぐに歩いて来て、俺の横に座る。


 ――マジで!


 それだけで俺の胸の中が、ゾワゾワと高鳴った。

 ナンパの達人の俺が、気圧されている。月夜さんは、かなりの大物だ。釣りあげたい。マジで仲良くなりたい。出来ることなら、このまま押し倒したいくらいだ。

 でも、それは危険過ぎる。月夜さんを口説くと、ヤクザに目を付けられる。チャンスだというのに、手が出せない。おあずけを食らった犬状態だ。


 ――苦しい。


 月夜さんが、脱脂綿を消毒液で湿らせる。俺の顔を見た。

 その細い指を、すっと伸ばす。俺の唇を拭いてくれた。

 献身的なその仕草に、俺の心が鷲掴みにされる。


 ――駄目だ!


 胸が熱い。久々に感じるトキメキだ。

 消毒液が傷口に触り、ジリジリと痛い。でも、その痛みすらも気持ち良く感じてしまう。俺の中から、何かが目覚めそうだ。

 傷口の血をキレイに吹き上げると、今度は、軟膏を人差し指に付ける。直接、俺の唇に触れてくれた。

 月夜さんの指先が、横に動く。それに合わせて俺の唇が、ヌルヌルと形を変えた。

 そんな月夜さんを見つめる。俺の唇を、真剣に見つめていた。

 頭の中が蕩けていく……。


 ――アカン! 惚れるしかないやろう。


 付き合うことが出来ないのに、この仕打ち。


 ――これって、もしかして罰ゲーム?


 そんなことを考えていると、処置が終わった。

 月夜さんが立ち上がる。救急セットの箱を元の場所に戻しにいった。

 名残惜しそうに、その後姿を追いかける。

 戻ってきた。また俺の横に座る。月夜さんの体温を感じた。


 ――どうしよう、この幸せ。


「久美子さんって、言ったわね」


 俺の気持ちとは裏腹に、月夜さんが、久美子さんに問いかける。


「はい」


「大変だったわね」


「助けて頂きありがとうございました」


 久美子さんが、月夜さんに頭を下げる。


 ――俺は?


 とは言えない。

 無様に失神してしまった姿を思い出す。

 月夜さんは、単刀直入に問いただした。


「どうして、あの男たちに追いかけられていたのか、私に教えてくれないかしら?」


 久美子さんが、難しそうな顔をする。


「助けて頂きましたが、その理由までは……すみません。話したくありません」


 俯いてしまった。月夜さんは、そんな久美子さんを見て小さなため息をつく。


「ごめんね。偉そうに言ってしまって」


「いえ」


 それっきり話が途切れた。沈黙が続く。

 そんな二人の様子を見ながら、俺も聞いてみたい思いに駆られていた。

 俺が気絶した後、どうして月夜さんや木崎隆が現れたんだ。しかも、月夜さんは、久美子さんを追いかけていた男たちに用事があったようだ。

 

「ねえ、月夜さん」


「何かしら」


「どうして、あの場にいたんですか?」


 俺の質問に乗っかるようにして、久美子さんも尋ねる。


「良ければ、私も理由が知りたいです。教えて頂けませんか?」


「そうよね。一方的で悪かったわ――」


 月夜さんが、微笑む。


「――私の顔に見覚えがないかしら」


 久美子さんが、首を横に振った。


「いえ」


「二か月前、この地域を占めている安達組の組長が拳銃で撃たれたの」


「あっ!」


 久美子さんが、小さく叫ぶ。

 月夜さんの正体に、気が付いたようだ。


「貴女を追いかけていたのは、その組長を撃った田崎組の関係者だと思うの。違うかしら?」


 久美子さんが、月夜さんの顔をじっくりと見つめた。


「田崎組かどうかは分かりませんが、あの男達は闇金業者です。私はそこで多額のお金を借りていました」


「借りた理由は?」


 月夜さんの問い掛けに、久美子さんが詰まった。


「それは、その――」


「大丈夫。私は、貴女の味方よ。あんな奴らに追われたままでは嫌でしょう」


 久美子さんが頷く。


「ええ。その……覚せい剤です」


 驚いた。しかし、月夜さんは表情を変えなかった。


「ごめんね。言い難いことを喋らせてしまって……」


「いえ、そんな――」


 久美子さんが、小さなため息をつく。話を続けた。


「――初めは、遊びだったんです。友達からの紹介で始めたんです。でも、気が付いたら、止められなくなってしまって……」


「それで、闇金に?」


「はい。お金を借りました。その闇金も、友達から紹介されました」


「貴女が、闇金に追いかけられていたのは、どうして?」


 久美子さんが、目に涙を浮かべる。


「それは、その……私に体で返せって言いだして。ウッウッ……」


 俯くと、久美子さんは泣き出してしまった。

 その様子を見て、月夜さんが立ち上がる。久美子さんの隣に座った。その肩に手を掛けて囁く。


「ごめんね」


 久美子さんは、泣きながら首を横に振った。

 月夜さんがそんな久美子さんを抱きしめる。久美子さんは、月夜さんに体を預けて、更に泣いた。


 カチャ。


 その時、支配人室のドアが開いた。支配人が怪訝そうな顔で入ってくる。


「なんや、女の泣き声が聞こえると思ったら、月夜か。吃驚するやないか……どうしたんや、その娘」


 吃驚したと言いながらも、支配人は、月夜さんが部屋にいた事については全然驚かなかった。さすが、元ナンバーワンホステス。出入り自由なんだ……。


「実はね……」


 月夜さんは、今日あった出来事を支配人に説明し始める。支配人は俺の隣に座った。

 月夜さんは木崎隆と一緒に、ミナミの取り締まりに動いていた。田崎組の下部組織が薬物の取引を、このミナミで行っていたからだ。

 取引の現場を押さえる為に、ターゲットを尾行していた。すると、戎橋でトラブルが始まる。その相手が俺だったので、鎮圧に動いたわけだ。

 結果的には、被害者である久美子さんから証言を得られ、ターゲットも捕獲する。収穫は、あったというわけだ。


「なるほど、状況は分かった。それで、ケンタも一緒にいるわけか」


「あのね、お願いがあるんだけど――」


 月夜さんが、支配人に向かって両手を合わせた。


「なんや、お前がお願いって……」


 支配人が、少し嫌そうな顔をする。


「この久美子ちゃんを、ジュエリーボックスで使って欲しいの」


 久美子さんが驚いた。


「えっ! 私ですか?」


 月夜さんが、久美子さんの目を見つめる。


「あなた、仕事は何をしているの?」


「百貨店の販売員です」


 月夜さんが、考える素振りをする。


「多分……そこではもう仕事が出来ないよ。アイツらに、もう職場を押さえられていると思うから」


 久美子さんが、頷く。


「実は、もう……」


「そうでしょう。なら、ここで仕事をして借金を返しなさいよ。差し当たって、金持ちでダンディなこの支配人が、あんたの借金を肩代わりしてくれるから、安心すると良いわ」


 支配人が、呆れた表情を浮かべる。


「おいおい、月夜。勝手に話を進めるなよ……」


 月夜さんが、支配人に流し目を送った。


「あら、私の頼みを聞いてくれないの? お兄さん」


 驚いた。いつもは怖い支配人が、月夜さんにタジタジだ。


「そうは言うてもな……」


 月夜さんが、渋る支配人に悪戯な笑みを浮かべる。


「この子、センスがあると思うよ。美人だし客商売が好きそうだし。仕事が出来なくなった私の代わりに、人気ホステスに育てたらいいのよ」


 支配人が両手を上げて、降参した。


「分かった、分かった。お前がそこまで言うのなら、その娘を引き受けよう――久美子君、それで良いか?」


 久美子さんが、月夜さんにもたれ掛かった。シクシクと泣き始める。


「ありがとうございます。頑張ります」


 支配人が、呆れて口を開いた。


「おいおい、雇用するのは俺だよ。俺にお礼を言ってくれよ」


 久美子さんが、慌てて顔をあげる。支配人に泣き顔のまま頭を下げた。


「頑張ります。よ、宜しくお願いいたします」


 そんな久美子さんの背中を、月夜さんは優しく撫でた。なんだか俺も嬉しくなる。


「良かったですね、久美子さん。俺、この店で黒服をやってるケンタです。宜しくお願いします」


「はい、宜しくお願いします」


 俺たちのそんなやり取りが終わると、支配人が月夜さんに語りかけた。少し難しい表情を浮かべている。


「それよりな、月夜」


「なに?」


「隆を使って、コソコソと動いているやろう」


「コソコソって、何か問題でも?」


「危ないから、ヤクザごっこはやめとけ。もう直ぐ安達親分が退院される。もう、ええやろう」


「嫌よ」


「なんでや。お前に出来ることなんて、高が知れている」


 月夜さんが、支配人を睨んだ。


「お兄さんには、分からないわ。私の気持ちなんて。私はね、色んなものを奪われたの。許せるものですか」


「それでも、相手はヤクザやぞ」


「分かっている。だからよ」


 支配人が、深いため息をついた。


「頑固な奴や……それとな、前から聞きたかったんやが」


 月夜さんが、不機嫌そうに支配人を睨む。


「何よ!」


「ジョージとは、連絡を取っているんやろ?」


 月夜さんが固まった。暫く沈黙が続く。月夜さんがプイッと横を向いた。


「知らないわ、あんな奴」


「そうか」


 支配人が、首を横に振りながら立ち上がった。ソファーから離れて事務机に向かう。仕事を始めた。

 月夜さんは、久美子さんに向き合う。今後のことについて話をはじめた。俺だけ、蚊帳の外だった。

 突然決まったことなのに、久美子さんはかなりやる気になっていた。仕事をする上での、心構えや注意点を、月夜さんに尋ねている。月夜さんも、そんな久美子さんの真剣な姿に気を良くしていた。

 俺から見ても、久美子さんは良いホステスになるだろうと思った。ホステスっていうのは、容姿も大切だが、それ以上に接客が出来ないといけない。お喋りが好きなだけでも駄目だ。

 月夜さんが楽しそうに語っているのは、久美子さんが話を引き出しているからだ。会話の運び方にセンスを感じる。傍から見ながら、そんな事を感じた。

 二人の話が、一段落する。思い出した様に、月夜さんが俺を見た。


「そうそう、ケンタ」


「はい」


「色々あったけど、今日のことはジュエリーでは内緒にしてよね。久美子さんの事もベラベラと喋ったら駄目よ」


「分かってます。俺も、もう関係者ですからね。月夜さんの為なら、何でも力になりますよ」


「ありがとう。そう言ってくれると、とても助かるわ」


「俺を、月夜さんの犬だと思ってください」


「犬って、何よ。何か芸でもしてくれるわけ?」


 俺は、透かさず両手を胸に持ってきて、ぶらりと垂らした。


「チンチン」


「何よそれ……ウフフ」


 月夜さんが笑ってくれた。これは嬉しい。


「ワン、ワンワン!」


 犬の鳴きまねをしたら、月夜さんが、更に笑ってくれた。

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