金曜日
目が覚めた。いつもの朝、いつもの風景。この安達家で寝起きをするようになって、ほぼ一年になる。いつもなら、京子さんに起こされても、なかなか目が覚めない。「あと、もうちょっと」と布団に潜り込み、京子さんを困らせていた。
ところが、今日は目覚めが良い。清々しい朝だった。
懐かしむように部屋の中を見回す。視線の先に、黒電話が見えた。私は、昨晩のジョージとの電話を思い出す。
駆け落ちに向けて、今後の行動について私たちは確認し合った。
明日が、本番当日になる。待ち合わせは、新大阪駅に朝の九時に集合すると決めた。新幹線に乗り込み、東京に向かう。
待ち合わせに関して、ジョージが心配してくれた。
「やっぱり、なんば駅に集合しようか?」
「どうして? 新大阪でいいじゃない」
「だって、朝の地下鉄は満員だよ。前に、痴漢に遭ったらって心配していたから……」
「ううん。大丈夫」
ジョージの気持ちが嬉しい。だけど、私は断った。いつまでも、甘えてばかりではいけない。
――これからは、二人で力を合わせて生きていく。
そう決めたから。
ジョージは、今日はジュエリーに出勤しない。駆け落ちの為に、身の回りの始末に時間を充てるそうだ。
私は、安達家で生活をさせてもらっているから、ジョージのような手続きは必要ない。あるとすれば、喜美代伯母様や京子さんに、お別れの挨拶をしたい。でも、それは、出来ないけれど……。
安達家の遅い朝食が終わった。私は、自分の食器を持ってお台所に行く。洗い物をしている京子さんに、声を掛けた。
「お味噌汁、美味しかった……ねえ、この京子さん」
「何でしょうか?」
「京子さんのね、このお手製のお味噌、少し分けてもらってもいいかな?」
京子さんが、微笑む。
「宜しいですよ。何方かに差し上げるのですか?」
私は、はにかんだ。
「実はね……ジョージ君に食べてもらいたくて」
京子さんが、懐かしそうに目を細める。
「あら、左様でしたか。ジョージさんが……」
「きっと、喜ぶと思うの」
洗い物を止めると、京子さんは小さなタッパーにお味噌を詰めてくれた。
「この位で宜しいですか。タッパーは返さなくても良いと、ジョージさんにお伝え下さい」
京子さんからお味噌受け取る時、その手と一緒に、私は両手で包み込んだ。
「ありがとう、京子さん」
京子さんが、ニッコリと微笑んでくれた。
お台所を離れる。今度は、喜美代伯母様に会いに行く。居間でお茶を飲んでいた。
昨日、心斎橋に行った時、伯母様が大好きな月島屋の塩昆布を購入していた。その包みを持って、伯母様の横に立つ。伯母様が腰かけている椅子の背もたれに寄り掛かった。
「ね、伯母様、昨日、母さんに会ってきたの」
叔母様が、私を見上げた。
「あら、恵美子に! 元気にしていたかしら?」
「ええ、元気よ。伯母様と話をしたいって言っていたわ」
「そう、久しく会っていないね。あの子とは……」
伯母様が、懐かしそうに目を細める。
「その帰りにね、叔母様の大好きな塩昆布を買ってきたの。京子さんと食べてね」
塩昆布をテーブルの上に置いた。
「あらー、ありがとう。嬉しいわ。今日は食事が終わりましたから、明日にでも頂こうかしらね」
伯母様が笑った。私も笑顔を返す。
――でも、明日はもういない。
唇を一文字に結んだ。思わず、叔母様の背中を抱きしめてしまう。
「あら、明美さん……」
私は、優しい叔母様が大好きだ。
「いつも、ありがとう」
「どうしたの、いきなり……」
「ううん。何でもないの。ただ、こうしていたいだけ」
叔母様が、抱きしめている私の手を触った。
「私には、ぼんくらな息子が一人だけだったでしょう。貴女のことは、娘のように思っていましたよ」
嬉しくて叔母さんの頭に、私の頭をこすり付けた。
「大好き」
「あらあら、どうしたの」
叔母様が笑ってくれた。
居間を離れて、自分の部屋に戻る。便箋を用意して、机に向かった。
いつもなら、お客様宛にお礼状を書くのが私の日課になっている。でも、今日はお客様には書かない。個人的にお世話になった方々に、手紙を書く。
私は、誰にも相談せずに、ジョージと一緒にこの大阪を去る。急に居なくなって、誰もが吃驚するに違いない。
突然に居なくなる無礼を、口頭で伝えることは出来ない。だから、せめてもの償いとして手紙を書くことにしたのだ。
喜美代伯母様、京子さん、美智子さん、修お兄さん、それから勲お兄さん。こんな葉書で済ませれる誠意なんて、高が知れている。でも、それでも、書かずにはいられなかった。
一人一人に対して、気持ちを込めてお詫びを書く。それらの便箋を封筒に納めてセカンドバックに入れた。出勤する途中で投函することにする。
ジョージは、ジュエリーボックスを休む。だけど、私は休まない。最後まで仕事をしたかった。出勤したところで、大した償いにはならない。そんな事は分かっている。それでも、仕事をせずにはいられなかった。
鏡の中の自分を見つめた。ルージュを取り出して、紅を引く。さあ、出かけよう。
玄関から表に出る。いつものように、木崎隆が私を待っていた。
――そう言えば、お前もいたね。
空気は読めないし、女心が分からない。そんなお前に、私はいつも辛く当たってきた。それでも、従順な犬のように私に付き従ってくれる。
お前のこと、好きではなかったけれど、嫌いではなかったのよ。
「お嬢さん、お車をご用意しました。乗っていかれますか?」
私は、木崎隆を見つめた。いつもなら、きつく当たっていたと思う。でも、今日の私は違った。木崎隆に、素直に頭を下げる。
「ありがとう」
木崎隆が、不思議そうな顔をした。
「今日は素直なんですね」
私は、恥ずかしそうに笑った。
「そんな日もあるわよ。あのね、お願いがあるの」
「何でしょうか?」
「途中でポストがあったら停めてくれないかしら。便箋を投函したいの」
木崎隆が、後部座席のドアを開けてくれた。私が乗り込むと、ドアを閉めてくれる。運転席に乗り込んだ木崎隆が、アクセルを踏み込んだ。黒塗りのベンツが、滑らかに走り出す。
私は、窓の外を眺めた。長いようで、短い一年だった。あんなに嫌だったジュエリーの日々が、今では懐かしく思われる。
――もう一度やり直せるのなら。
ふと、そんなことを考える。
もっと、皆に優しく接していれば良かった。私には、もっと出来ることがあったはず。そんな後悔が湧き上がってきた。
でも、私は全てを捨てて、ジョージと一緒に東京に行く。
――出来ることはやった。もう、思い残すことはない。
自分に言い聞かせる。全ては、終わったのだ。
異変に気が付いた。いつもの町並みと違う。この道では、ジュエリーボックスには向かわない。私は、慌てて叫んだ。
「木崎、道が違う」
木崎隆はハンドルを握りながら、答えなかった。心の中が不安で一杯になる。私は、尚も声に出した。
「隆!」
私の叫びに、やっと、木崎隆が答える。
「親分の命令なんですよ。お嬢さんを、連れてこいって。それにね――」
木崎隆が、言葉を区切る。
「――駄目ですよ、あんな奴と遊んじゃ」
体中から力が抜けていった。言葉が出ない。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう。
心の中で、ジョージのことを思った。私だけじゃなくて、ジョージにも手が回っているのかもしれない。
今日、ジュエリーボックスに、ジョージが出勤しなくて良かった。それでも、危険なことには変わりがない。蛇のような連中だ。ジョージのことも、決して放ってはおかないはず。何とかして、ジョージと連絡を取りたい。危険なことを伝えたい。
車が減速を始めた。料亭の松川に車が到着する。店の前に、勲お兄さんが立っていた。
木崎隆が、運転席から飛び出す。後部座席のドアが開けられた。
不安に駆られながら、顔を上げる。勲お兄さんが私を見下ろしていた。口元は笑みを浮かべようとしている。でも、目は笑っていなかった。
「明美、美味しいもんでも食べようや」
勲お兄さんが、私に向かって手を差し伸ばす。観念して、その手を握った。立ち上がる私の腰に、お兄さんが手を回す。料亭の松川に向かって歩き始めた。これでは逃げることが出来ない。例え逃げたところで、すぐに捕まってしまうけれど……。
玄関で、ヒールを脱いだ。廊下を歩く。いつもの和室に向かって歩みを進めた。
車を降りてから、一言も発することが出来ない。お兄さんが怖かった。お兄さんと、どう接して良いのかが分からなかった。目を合わせられない。
――どうするつもりなのだろうか?
――ジョージとのことを、問い詰めるつもりなのだろうか?
怒りに駆られているお兄さんの行動が分からない。不安に苛まれながら、和室に到着した。襖が開けられる。その時、部屋の隅に黒電話を見つけた。
――これだ!
心の中で叫んだ。
ここに、ジョージと連絡を取ることが出来る手段があった。どうにかして、あの電話を使って、ジョージに今の危機を伝えたい。
覚悟を決めた。
襖が閉められる。二人っきりになった。私は、勲お兄さんに抱きつく。お兄さんの胸に、顔を埋めた。
「どうしたんや?」
突然の行動に、お兄さんが驚いた。
私は、拗ねたように呟く。
「怒っているの?」
「当たり前やろ! お前と約束したから我慢してるけどな。いま、ここで、お前を張り倒したいくらいなんや」
強い力で、お兄さんが私の両肩を掴んだ。私を揺する。
でも私は、その力に負けないくらいの強さで叫んだ。
「でも、お兄さんも酷い!」
お兄さんが首を傾げる。
「なんでや?」
顔を上げる。お兄さんを睨みつけた。
「もっと、私を大事にしてよ。私は、いつも都合の良い女じゃない。そんなの、嫌なの!」
お兄さんを強く非難した。お兄さんが言葉に詰まる。怒りの矛先を逸らした。
今度は、甘えた声でお兄さんを誘う。
「お願い。もっと大事にして欲しいの。もっともっと愛して欲しいの」
目に涙を浮かべて、訴えた。お兄さんを見つめる。お兄さんの表情が和らいだ。
「明美……」
絞り出すようにして、お兄さんが私の名前を口にする。
私は、お兄さんから瞳を外さない。ここが勝負だと感じたから。
無言で、お兄さんを誘う。目に媚を含ませて、お兄さんを見つめた。時間がゆっくりと流れる。
私は、お兄さんが折れるのを待った。悪いのは私じゃない。悪いのはお兄さん。そう認識させなければいけなかった。
――じれったい。早くしなさいよ。
お兄さんが、私を抱きしめる。お兄さんの顔が、私に近づいてきた。
――やっと目を瞑ることが出来る。
私も唇を突き出した。お兄さんが私に唇を重ねる。お兄さんに強く抱きしめられた。
勲お兄さんは、仲居に命令して、先にふとんを敷かせた。
私だって、こんな中途半端な時間からお酒なんか飲みたくない。
用意が整う。お兄さんは、強引に私の服を脱がせようとした。でも、私は、お兄さんの手を捕まえる。
「焦っちゃだめ。まだ明るいのよ」
お兄さんの目の前で、私はブラウスのボタンをゆっくりと外した。外しながら、お兄さんに流し目を送る。
「良い子ね」
お兄さんは素直だった。いつもと違う展開に興奮している。
いつもなら、お兄さんが私をリードした。でも、今日は違う。私がお兄さんをリードする。
お兄さんが、私の胸に顔を埋める。駄々っ子の子供をあやす様に、お兄さんの頭を撫でてあげた。気持ちよさそうに、私に抱きついて来る。
私が、大きな心でお兄さんを包めば包むほど、お兄さんはどんどんと子供になっていった。泣きじゃくる子供のように、私を求めた。
動きを止めたお兄さんが、私に覆い被さってくる。気持ち良さそうに、私を抱きしめた。私は、天井を見上げながら、お兄さんに語りかける。
「汗を流したいわ。その後で、美味しいお酒を飲みましょうよ」
お兄さんが、顔を上げた。
「そうやな。酒でも飲むか」
素直なお兄さんにキスをした。お兄さんが微笑んでくれる。布団から這い出ると、お兄さんが浴衣を羽織った。部屋から出て行く。その後姿を見送った。
――今だわ!
私は飛び起きた。
部屋の隅にある黒電話に飛びつく。ダイヤルを回す手が、とても焦れったい。木崎隆たちがジョージを見つけていないか、それだけが心配だった。祈るような気持ちで、受話器を握りしめる。
カチ。
繋がった。
「もしもし、私」
「明美か?」
ジョージの長閑な声が聞こえる。
「ジョージ、時間がないの。そこから逃げて」
「どうしたんや?」
「バレたの、私達のこと」
「えっ!」
「時間が無いの。明日、新大阪で九時」
「分かった。新大阪で九時」
「切るね」
ガチャ。
受話器を下ろした。全身から冷汗が流れだす。
――良かった、ジョージと繋がった。
ジョージさえ捕まらなければ、後は何とかなる。後は、明日の朝、ジョージと落ち合うだけだ。
全身から力が抜けた。風呂場に行くために立ち上がる。よろめきながら部屋を出た。
湯船につかる前に、身体を洗う。勲お兄さんの全て消し去るようにして、丁寧に洗い流した。
浴衣を羽織り、部屋に戻る。既に、食事の用意が出来ていた。お兄さんは、胡座をかいて待っている。私はお兄さんの横に座った。徳利を持ち上げる。お兄さんは、嬉しそうにお猪口を差し出した。
勲お兄さんとのお酒は、とても楽しかった。天神祭で金魚掬いをした時みたいに、優しく気遣ってくれる。
それだけに、私の心は痛かった。笑いながら、「ごめんなさい。さようなら」と何度言ったか分からない。
勲お兄さん、あなたも私にとって大切な人でした。
ご機嫌なお兄さんを支えながら、部屋から出る。帰るには少し早かった。でも、私が無理を言ったのだ。
「今日は帰りたい。少し疲れたみたい」
勲お兄さんは、素直に頷いてくれた。
玄関でヒールを履いて、お兄さんと一緒に表に出る。表には、いつもの黒いベンツが停まっていた。木崎隆が駆け寄ってきて、後部座席のドアを開けてくれる。
その時、一人の男が、叫び声をあげて走ってきた。
私は、声のする方向に顔を向ける。
男は、目を大きく見開いて顔を歪ませていた。
その男の手には、黒い物が握られている。
パン!
乾いた音が鳴り響いた。
聞き慣れないその音は、
打ち上げ花火ほどの迫力はないけれど、
シャンパンのコルクが飛び出す音よりも大きかった。
パン!
続けて、また、その音が鳴った。
木崎隆が、声を張り上げて、
その男に走り寄っていく。
全てがスローモーションで、
何をどう理解して良いのかが分からない。
木崎隆の拳が、その男の顔面を捉えた時、
私の体に重いものが倒れ掛かってきた。
勲お兄さんだ。
私はお兄さんと一緒に、倒れ込む。
慌てて起き上がろうとした。
ヌルッとした温かいものが、私の手に触れる。
その手を、目の前にかざした。
私の手が、赤く染まっていた。
「キャ――――――!」
私は、大声で叫んだ。
勲お兄さんの体を見る。
お腹のあたりが赤く染まっていた。
手で押さえても、押さえても、流れ出る血が止まらない。
「お兄さん、お兄さん」
泣きながら叫んだ。何度も何度も、その血を止めようとした。




