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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
明美 一九八〇年六月
31/80

木曜日

 朝の九時。銀行の入り口に、紺色の制服を着た警備員が姿を現した。自動ドアの鍵を解除する。モーターの唸声とともにガラスの扉が両側に開いていった。

 店内に入ると、背広姿の銀行員が恭しく笑顔で迎えてくれる。サングラス越しに、それらの様子を確認したあと、セカンドバックを持って歩みを進めた。

 フロアの中央に設置された記入台に近づく。通帳を取り出し、残高を確認した。


 ――残高八百万円。


 この一年でよく貯めたと思う。今日、ジュエリーボックスに行けば、更に給料日だ。駆け落ちの為に百万円は、私が使うことにする。残りのお金は、全て母さん渡すつもりだ。勲お兄さんへの借金返済に充ててもらう。

 ボールペンを持ち、記入用紙に金額を書いた。


 手続きが終わった。通帳とお金が入った封筒を、セカンドバックに仕舞う。銀行を出て、地下鉄なんば駅に向かった。

 実家は本町にある。地下鉄に乗って、たった二駅。こんなに近いのに、実家にはほとんど帰っていなかった。今年のお正月に、挨拶をしたくらい。朝早くからの突然の帰宅に、母さんは、きっと驚くと思う。


 地下鉄本町駅を降りた。賑やかな心斎橋商店街の中を歩いて行く。

 見上げると、南北に長い商店街を覆うアーケードが見えた。振り返ると多くの人が、商店街を行き交っている。


 ――何だか懐かしい。


 これから大阪を飛び出して東京に行くから、そう感じるのかもしれない。子供の頃から慣れ親しんだ景色が、とても大切な宝物のように感じた。

 歩みを進めて、伊達呉服店の前に立つ。自分の実家なのに、何だかすごく緊張した。


「お嬢さん!」


 番頭の葛西さんが、店の中から飛び出してきた。


「あら、葛西さん」


「こない朝早くから、どないしはったんですか?」


「おはよう。ちょっとね、母さんに用事なの」


「そうですか。奥様は中に居られます。どうぞ、遠慮せずにお入りください」


 葛西さんが、私を店内に迎え入れてくれる。

 店の中は、鮮やかな色彩の着物がたくさん展示されていた。小さな頃から見てきた、慣れ親しんだ風景。大切なものが、ここにもあった。目を細めて、店内を見回してしまう。

 奥に進み、上がり口でヒールを脱いだ。居間に向かう。


「ただいま」


 元気に、襖を開けた。母さんは、足を崩してお茶を飲んでいた。湯飲みを持ったまま、動きを止める。目を丸くした。


「どうしたの、明美」


 来る途中で購入した三笠饅頭を、テーブルに置く。


「一緒に食べようよ」


 母さんの向いに座った。驚いている母さんを他所に、饅頭の包装紙を解き始める。母さんが、心配そうに私を見つめた。


「何かあったのかい?」


 そう言いながら、母さんが立ち上がった。私の為にお茶の用意を始めてくれる。

 私は、箱から三笠饅頭を取り出した。母さんの湯飲みの横にひとつ置く。


 ――なんて切り出そうかな。


 私の話を聞いたら、きっと、母さんは吃驚すると思う。

 セカンドバックを開いて、中から通帳と印鑑を取り出した。その通帳を手に持って、母さんが戻ってくるのを待つ。


 私の前にお茶が用意された。通帳は、私の膝の上に置いたまま。先にお茶を頂くことにした。湯飲みを持ち上げ、口に含む。香ばしい香りが広がった。


 ――美味しい。


 私の為に、上等なお茶っ葉を使ってくれている。気持ちが穏やかになった。

 実家は、居心地が良い。子供の頃に戻ってしまったみたい。

 ゆっくりとお茶だけを楽しんだ。母さんが、そんな私を見つめている。

 湯飲みを置いた。膝の上から通帳を取り出す。卓袱台の上に載せた。そのまま母さんの方に滑らせる。


「これ」


 母さんが、眉間に皺を寄せた。その通帳を見つめる。


「あなたの通帳じゃない。どうしたの?」


「これを使って、勲お兄さんの借金を返して欲しい」


 母さんが、険しい顔を向ける。私の通帳を触ろうとしない。


「ちゃんと理由を説明してちょうだい。勲さんに何かされたのかい?」


 母さんが、怒っている。なんだか話すのが怖くなってきた。

 私は汗ばむ手を握りしめながら、これまでの勲お兄さんとの経緯を説明した。お兄さんの話が終わると、今度はジョージの話をした。ジョージと一緒に、東京に駆け落ちをする約束をしたことも話した。

 話をしながら、段々と目頭が熱くなってきた。堰を切って涙が溢れる。

 母さんは、私の話を聞きながら、一言も口を挟まない。険しい顔を崩さないまま、全てを聞いてくれた。私の話が終わると、母さんが大きなため息をついた。


「あんたに苦労をさせたね。本当に悪かったと思っている。ごめんよ」


 母さんが頭を下げた。頭を下げたまま、なかなか上げようとしない。母さんも泣いていた。そんな姿を見て、私も更に泣いた。

 しばらくして、母さんが顔を上げる。キッパリとこう言った。


「この通帳は受け取りません」


 私は、驚いて、母さんを見た。


「でも、勲お兄さんとの借金が……」


「父さんのこともあったし、店のこともあった。あの時は、勲さんには世話になったよ。でもね、それとこれとは別だよ。娘を良いようにされて、黙っているわけにはいかない。金のことをグダグダと言うんなら、この店を畳んだっていいんだよ!」


 母さんが、強く叫んだ。口をへの字に曲げる。私は俯いてしまった。

 暫しの沈黙の後、今度は、母さんが、不安そうに私を見つめた。


「それより、そのジョージって子と、本当に東京に行くのかい? アテもないのに」


 私は、コクリと頷いた。母さんが、また、ため息をつく。


「ヤクザ相手だし、身を隠す意味でも、その方が良いのかもしれないね……」


 力なくそう言った。

 また、沈黙が続く。思い出したように、母さんが呟いた。


「姉さんが元気だったら、もっと相談に乗ってくれたんだけど……」


 顔を上げた。母さんを見つめる。


「喜美代伯母様、今は元気よ」


 母さんが、不思議そうに私を見た。


「物忘れが激しい上に、徘徊するって言っていたじゃない」


「ねえ、母さん……正治さんて、憶えている?」


「憶えているよ。なんで、あんたが知っているの、正治さんのこと?」


 私は、ジョージと喜美代伯母様の出会から話をした。ジョージが正治さんにそっくりなこと。ジョージが伯母様の似顔絵を描いたこと。ジョージが怪我をした時、伯母様がその療養に力を尽くしたこと。順を追って説明した。


「……それでね、一時的だとは思うんだけど、伯母様がとっても元気になったの」


 母さんが不思議そうに眉を寄せた。


「本当の話かい? 奇跡みたいな話だね……じゃ、久しぶりに、姉さんに電話でもしてみようか」


 気が早い母さんが、立ち上がろうとした。私は慌てて、母さんを止める。


「ちょっと待って! 私が大阪を出るまでは、そっとしておいて欲しいの。勲お兄さんにバレるかもしれないから……」


 母さんは、浮かした腰をまた下げた。


「そうかい。あんたがそう言うのなら、姉さんへの電話は、今度にするよ……ところでさ、落ち着いてからで良いから、一度、そのジョージ君を連れてきなさいよ。あんたの話を聞いていたら、まるで魔法使いみたいに聞こえてくるよ」


 ――魔法使い。


 母さんの言葉に笑った。私まで、ジョージが魔法使いのような気がしてきた。

 その後も、色々と母さんと話をした。とっても伸びやかな気持ちになる。やっぱり母さんだ。話をして良かった。


「ありがとう。じぁ、帰るね」


 母さんは、卓袱台の上の通帳を私に返した。


「あんたが稼いだお金だよ。大事に使いなさい。私達のことは心配いらないからね。大丈夫、ちゃんとやっていくから。大体ね、借金が怖くて商売をやってられるかってんだよ」


 母さんの威勢の良い啖呵に、私は頷いた。


「分かった」


 母さんが、私に歩み寄った。私の事を強く抱きしめる。


「ちょっとした旅行のつもりで、東京に行ったら良いよ。勲さんのことは、こちらでなんとかする。くれぐれも無理をするんじゃないよ」


 抱きしめられながら、私は何度も頷いた。


 結局、お金は受け取ってくれなかった。でも、晴れ晴れとした気持ちで、実家を後にすることが出来る。引き出したお金は、二度手間になってしまったけれど、また預け直した。

 安達家に戻ると、出勤する時間が迫っていた。慌てて身支度を始める。

 ヒールを穿いて表に出ると、いつもの如く、木崎隆が玄関で待っていた。


「お嬢さん、今日はどうされますか?」


 木崎隆に視線を向ける。私とジョージのことについて勘付かれていないか、少し気になった。少し悩んだけれど、今は不審な行動は控えた方がいい。素直に、木崎の言葉に従うことにした。


「送ってちょうだい」


 車に乗り込む。木崎は、ゆっくりとアクセルを踏み車を走らせた。

 車を運転しながら、阪神タイガースの話や、競馬の話を私に振ってくる。


 ――そんな話で私が喜ぶと思っている、コイツの頭の中を一度見てみたい。


 そんな事を考えていると、急に話題を変えてきた。


「お嬢さん、お友達との旅行は楽しかったんですかい?」


 ドキリとした。


「何で、あんたに言わなきゃならないのよ」


 私の言葉に、それっきり、木崎は話をしなくなった。

 車がジュエリーボックスに到着する。不安な気持ちを胸に抱きながら、車を降りた。木崎隆に勘付かれていたのか、結局のところ、よく分からなかった。


「ありがとう」


 視線を木崎隆に向けた。笑顔を浮かべている。ホッとした。多分、大丈夫だと思う。私は、ジュエリーボックスの扉を開けて、中に入っていった。


 支度部屋に行き、ドレスに着替える。朝礼に参加する為にフロアに向かった。

 いつもと同じ景色、いつもと同じ日常。嫌いだったジュエリーボックスでの毎日だったけれど、もう直ぐ、この景色が見れないと思うと、少し感傷的になった。ここにも大切なものがあった。


 横を見ると、美智子お姉さんがいた。私の色々な話を聞いてもらった。ジョージと一緒に東京に行く話も、お姉さんに聞いて欲しい。でも、今は話せない。いや、話せないどころか、美智子お姉さんとも、もう直ぐ会えなくなる。

 ジョージと駆け落ちをすることに、後悔はない。でも、そうすることで、大切な人々と別れてしまう現実を、身に染みて感じた。

 しかも、決別するのは、美智子お姉さんだけではない。振り向くと、ホステスの美咲ちゃんも、葵ちゃんも、洋子ちゃんも、黒服のアキラ君も、マコト君も、バンマスの板垣さんも、支配人の修お兄さんも。

 そして、そして、勲お兄さんとも決別してしまう。

 みんなが居たから、私は月夜としてやってこれた。新しい発見でもしたように、その事実を噛みしめる。これを感謝と言わずして、なんと呼べばいいのだろう。

 心の中で、私は皆にありがとうと言った。


 朝礼が終わる。私達はお客様をお迎えするために、ゲートに向かった。ゲートから、マコト君が大きな声で叫んだ。


「月夜さん。ご予約の毎朝放送の山田様が来られました」


 私は大きな声で答える。


「はい」


 力強く、一歩を踏み出す。胸を張って、大きく両手を広げた。山田様をお迎えする。


「山田様、今日も来てくれて嬉しい」


 夜の宴が、始まった。

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