友人
「それで、月夜ちゃんと大原美術館に行くことになったんか……」
「ああ、そうや」
茂が、僕に笑いかけた。缶ビールを持ち上げて美味そうに飲む。僕も、釣られる様にして缶ビールに手を伸ばした。口に付ける。炭酸の刺激が、喉を駆け抜けていった。
今日は、前田茂の部屋に遊びに来ていた。茂は、同じ大学の友人だ。僕が、ジュエリーボックスで仕事をするようになったのは、茂に勧められたからだ。
茂は、ホステスの美智子さんと結婚する為にジュエリーを辞めた。辞めたとはいえ、茂はジュエリーボックスの事を良く知っている。そんな茂に、明美さんとデートをすることになった経緯について、話していた。ジュエリーボックスでは出来ない話も、茂となら気軽に出来る。僕にとっては、心強い味方だ。
「しかし、やめとけって忠告したのに、その月夜ちゃんと付き合い始めるとは、全く信じられへん。それ、本当の話か?」
「噓ちゃうよ。ただ、安達親分のこともあるから、大っぴらには付き合うことが出来んけど……」
「まー、そらそうやな。見つかったら、今度は殴られるだけでは済まへんで。それで、付き合い始めてから、どんなところに遊びに行ったんや?」
「いや、明美さんとは、まだ、一緒に遊びに行ったことがない」
茂が、驚いた表情を浮かべる。
「えっ! 食事とかは?」
「まだ」
「ホンマの話か?」
「うん」
「おいおい。それは、付き合っているって言わんぞ。今の話からしたら、付き合い始めてから三か月は経ってる計算やろ」
「まあ、そうやな。でもな、怪我をしてから仕事に復帰するのに一ヶ月近くも掛かったんや。それに、仕事が始まったら始まったで、また忙しい。正直、それどころやなかったんや」
茂が、額に手を当てた。
「言い訳ばっかりやな」
「そうは言うても……」
「それは、あまりにも月夜ちゃんが可哀想やで」
「可哀想って……」
「そら、そうやろう。好きな男が近くにいるのに、遊びにも連れて行ってくれない。俺やったら、速攻で別れるな」
「そんなこと言うなよ。だから、お前に相談に来ているわけやし」
「で、普段はどんな風に月夜ちゃんと関わってるんや?」
「仕事が終わったら、明美さんに必ず電話をしてる。俺の為に、わざわざ、自分の部屋に電話を引いてくれたんや」
「うーん」
茂が、唸ってしまった。思い出したように、缶ビールに手を伸ばす。飲みながらも、何かを考えている様子だった。
僕も同じようにビールを飲む。少し温くなっていた。
茂が目を開ける。僕を見て、意地悪な表情を浮かべた。
「今度の大原美術館デートは、焦らし焦らし大焦らしデートやな」
目を細めて茂を見つめる。
「なんやねん、大焦らしデートって……」
茂が、唾を飛ばした。
「だって、そうやないか。折角、好きな彼氏が出来たのに、ずっとお預けやで。ご飯だけ見せられて、お預けを食らっている犬のようなもんやないか」
「犬って……」
「お前……ホテルで月夜ちゃんと二人っきりになったら、盛りのついた猫状態になるんちゃうか? ミャーミャー、ミャーミャー、鳴きまくって」
不満気な表情で、茂を見つめる。
「変なこと言うなよ」
茂が、いやらしそうに笑った」。
「お前……女とのやり方、知ってるんか?」
顔が赤くなる。
「お、お前、偉そうに……」
茂の指摘に、思わず横を向いてしまった。
「あれ? ジョージ君、何か変なリアクション」
茂が、僕の事をジロジロと見つめる。
「何だよ……」
茂の詮索するような目つきに、僕は目が合わせられない。
「は、はーん。そうか、そうか。これは俺の出番やな」
目の前で、茂が立ち上がった。
「な、なんやねん!」
茂を見上げる。
「ウォッホン。先生が、男と女のセックスについて解説をしてやろう。ジョージ君、ノートを取るように。まず、大事なことは、相手をその気にさせる事やな」
茂は、先生になったつもりで講義を始めた。男と女の行為について、身振り手振りで説明を始める。酔いの勢いか、とても嬉しそうだ。僕を肴にして楽しんでいる。とてもじゃないが聞いていられなかった。
そんな茂の講義を止めさせようと、口を挟む。
「違うねん、経験はあるよ、経験は。昔やけど……」
両手で腰を掴むポーズをしながら、茂は腰を振っていた。僕の言葉に、中途半端に動きを止める。腰が突き出されたままだった。
「なんや、童貞やないんか。ジョージの為に、一から教えたろうと思ったのに……」
ニヤニヤと笑いながら、茂が胡坐をかく。
僕が黙っていると、茂が首を伸ばしてきた。僕の顔を覗き見る。
「なんだよ……」
「良かったか? セックスは?」
僕は、眉をひそめる。
「まー、そうやな」
僕の返答に、茂が怪訝な表情を浮かべた。
「なんや、煮え切らん返事やな。経験はあるんやろ?」
茂から目を逸らすと、僕は俯いてしまう。
「いや、その……何て言うか、一歩手前まで」
「なんやねん。一歩手前って?」
僕は、顔が真っ赤になるのを感じていた。話したくない、僕のトラウマ。でも、ここは、正直に話をしておいた方が良いような気がする。
「その、その時は、直前で、萎えてしまって……最後まで、出来んかった」
「それって、ジョージの初めてか?」
「うん」
僕の返事を聞くなり、茂は腹を抱えて笑い出した。
「ヒー、ヒー、ヒー。ジョー……ジ。お、まえ……ヒー……」
酷い奴だ。それは笑い過ぎだろう。僕の顔を見ると、また笑い出した。のた打ち回っている。
僕は、眉間に皺を寄せて茂を睨みつける。
「茂……笑い過ぎ」
ひとしきり笑い続けた茂が、目に涙を浮かべて僕を見た。
「ごめん、ごめん。ちょっと笑い過ぎた。でもな、セックスは場数や。悲しい初体験やったけど、そんなこともある。慣れるしかないんや」
「慣れか……」
茂と目が合った。また、茂が笑い出そうとしている。
「ヒー、ヒー……」
転がっている空き缶を掴むと、茂の奴に投げつけてやった。
「あほ!」
笑いながら、茂は手で空き缶を防いだ。床に転がる。
カラン、カラン。
真面目な顔で、茂が僕を見つめた。
「あのな、ジョージ。上手くやろうと格好つけるから、アカンのや」
「どういうことや?」
「話を聞く限り、月夜ちゃんは、ええ娘やないか。途中で萎えてもええねん。そん時はな、優しく抱きしめたら、それでええねん」
「萎えてもええんか?」
「かまへん、かまへん。それでな、元気になってきたら……盛りのついた猫を、やったったらええねん」
茂の言葉に、心が楽になるのを感じた。
「それで、ええんか?」
「それで、ええねん。焦ったらあかん。もしかして、悩んでいた?」
「まー、そうやな……悩んでた。ちょっと心配だった」
茂が、優しそうな顔を僕に向ける。
「お前はな、優しすぎるねん。よー、そんなんで、ジュエリーで仕事が出来ているな。こっちが吃驚するわ」
茂が立ち上がる。冷蔵庫にビールを取りに行った。
茂の部屋を見回してみる。狭いワンルームマンションに住んでいるのに、部屋の中にサイクリング自転車が置かれていた。
戻ってきた茂が、僕に缶ビールを差し出す。受け取ると、茂にその自転車のことについて尋ねてみた。
「なんで、部屋の中に自転車を置いているんや」
茂が、そのサイクリング自転車に視線を向ける。
「外に置いていたら、盗まれてしまうんや。それは、ツーリング用の自転車や。高いんやで」
そのサイクリング自転車を、観察してみる。ママチャリと比べてみると、明らかに違っていた。ハンドルが曲がりくねっている。ドロップハンドルというそうだ。タイヤは、ビックリするほど細くて、レバーを操作するだけで簡単に脱着が出来るようになっていた。
「この自転車でツーリングに行ったりするんか」
「学生の頃はな。でも、最近は全然乗ってない」
「忙しいんか?」
「そうやな。結婚するために仕事を変えたから、こき使われまくりや」
「そうやったな。美智子さんと結婚か……」
「実はな、来月に正式に籍を入れるんや。それと同時に、和子さんと智子ちゃんと一緒に生活を始める」
「じゃ、引っ越しするんか?」
「ああ、この部屋じゃ、狭すぎるからな。だから、この自転車は手放すつもりや。荷物になるから。興味があるんやったら、お前にやるよ」
茂のサイクリング自転車を、自分の部屋に持ってきた様子をイメージする。
「いや、俺も余裕はないなー。部屋の中に置いておかなアカンのやろ。無理やわ……でも、この自転車でツーリングしたら、楽しいやろうな」
茂が、僕に笑顔を見せた。
「楽しいで」
「どこまで、走ったことあるんや?」
「そうやなー。俺が走ったんは、琵琶湖一周とか、紀伊半島一周やな。テントや寝袋も持っていくんや。野宿をするんやで」
「それは、楽しそうやな」
「楽しいけど、若いうちしか出来んわ。お前も、結婚する前に、出来るだけ遊んでおけよ」
茂の「結婚」という言葉に、僕は大事なことを思い出した。
「そうや。結婚式はどうするんや?」
茂が、天井を見上げた。
「結婚式はしない。俺はやってもええと思ってるねん。だけど、和子さんがやらないって」
「えっ、普通は、結婚式って、女の子の方がしたいんとちゃうんか?」
茂が、首を横に振った。
「分かってないなー、ジョージ。和子さんは、自分が子持ちで年上なことを気にしているんや。俺は、そんなことは全然気にしてないけどな。それに、式でお金を掛けるんやったら、生活にお金を使った方がええって、言い張るねん。まー、現実的やな、その方が……」
茂の言葉が、重い。地に根を張って生きている強さを感じた。それに比べると、僕なんか全くの子供だ。
「じゃ、俺からはお祝いだけさせてもらうわ」
「ありがとう」
缶ビールに手を伸ばした。喉を潤しながら、僕と明美さんの場合を考えてみる。結婚どころか、僕たちはデートすら楽しんでいない。茂が指摘するように、これでは付き合っていることにはならない気がした。
――明美さんを喜ばせたい。
そんな気持ちが、僕の中から湧き上がってきた。僕は現状に甘んじているだけで、茂のように戦いの舞台にすら上がっていない。どうすれば良いのだろう。
物思いに耽っていると、茂が、真面目な顔で僕を見た。
「大原美術館は、いつ行くんや?」
「来週の火曜日に出発して水曜日に帰ってくる。明美さんと休みを合わせたんや」
「バレへんか?」
「大丈夫。上手くやる」
「そうか。バレたら最後やからな。その緊張感に燃え上がる気持ちは分かるけど、引き返すのなら、今やで」
返事をせずに、僕はビールを飲んだ。茂は、更に続ける。
「これから、どうしていくつもりなのか。月夜ちゃんと付き合うんなら、どういう手を打っていくのか。考えるのは、ジョージ、お前やで」
僕は、大きくため息をついた。
「……そうやな」
「このまま、ズルズル引っ張っていくだけなら……最後は破滅しかないで」
茂のその言葉が、僕の頭をガツンと叩いた。
明美さんと一緒に大原美術館に行くことは、絶対に曲げられない。明美さんとの初めてのデートだ。明美さんを喜ばせたい。笑顔になって欲しい。
ただ、それと同時に、焦りに似た圧迫感を感じた。時限爆弾のカウントダウンのように、時間が削られていくような感覚だ。
――僕たちは、破滅に向かっているのか?
このままでは、駄目なんだ。何とかしなくてはいけない。でも、どうすれば良いのだろう。打つ手が見えないことが、僕を憂鬱にさせた。




