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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年六月
26/80

友人

「それで、月夜ちゃんと大原美術館に行くことになったんか……」


「ああ、そうや」


 茂が、僕に笑いかけた。缶ビールを持ち上げて美味そうに飲む。僕も、釣られる様にして缶ビールに手を伸ばした。口に付ける。炭酸の刺激が、喉を駆け抜けていった。


 今日は、前田茂の部屋に遊びに来ていた。茂は、同じ大学の友人だ。僕が、ジュエリーボックスで仕事をするようになったのは、茂に勧められたからだ。

 茂は、ホステスの美智子さんと結婚する為にジュエリーを辞めた。辞めたとはいえ、茂はジュエリーボックスの事を良く知っている。そんな茂に、明美さんとデートをすることになった経緯について、話していた。ジュエリーボックスでは出来ない話も、茂となら気軽に出来る。僕にとっては、心強い味方だ。


「しかし、やめとけって忠告したのに、その月夜ちゃんと付き合い始めるとは、全く信じられへん。それ、本当の話か?」


「噓ちゃうよ。ただ、安達親分のこともあるから、大っぴらには付き合うことが出来んけど……」


「まー、そらそうやな。見つかったら、今度は殴られるだけでは済まへんで。それで、付き合い始めてから、どんなところに遊びに行ったんや?」


「いや、明美さんとは、まだ、一緒に遊びに行ったことがない」


 茂が、驚いた表情を浮かべる。


「えっ! 食事とかは?」


「まだ」


「ホンマの話か?」


「うん」


「おいおい。それは、付き合っているって言わんぞ。今の話からしたら、付き合い始めてから三か月は経ってる計算やろ」


「まあ、そうやな。でもな、怪我をしてから仕事に復帰するのに一ヶ月近くも掛かったんや。それに、仕事が始まったら始まったで、また忙しい。正直、それどころやなかったんや」


 茂が、額に手を当てた。


「言い訳ばっかりやな」


「そうは言うても……」


「それは、あまりにも月夜ちゃんが可哀想やで」


「可哀想って……」


「そら、そうやろう。好きな男が近くにいるのに、遊びにも連れて行ってくれない。俺やったら、速攻で別れるな」


「そんなこと言うなよ。だから、お前に相談に来ているわけやし」


「で、普段はどんな風に月夜ちゃんと関わってるんや?」


「仕事が終わったら、明美さんに必ず電話をしてる。俺の為に、わざわざ、自分の部屋に電話を引いてくれたんや」


「うーん」


 茂が、唸ってしまった。思い出したように、缶ビールに手を伸ばす。飲みながらも、何かを考えている様子だった。

 僕も同じようにビールを飲む。少し温くなっていた。


 茂が目を開ける。僕を見て、意地悪な表情を浮かべた。


「今度の大原美術館デートは、焦らし焦らし大焦らしデートやな」


 目を細めて茂を見つめる。


「なんやねん、大焦らしデートって……」


 茂が、唾を飛ばした。


「だって、そうやないか。折角、好きな彼氏が出来たのに、ずっとお預けやで。ご飯だけ見せられて、お預けを食らっている犬のようなもんやないか」


「犬って……」


「お前……ホテルで月夜ちゃんと二人っきりになったら、盛りのついた猫状態になるんちゃうか? ミャーミャー、ミャーミャー、鳴きまくって」


 不満気な表情で、茂を見つめる。


「変なこと言うなよ」


 茂が、いやらしそうに笑った」。


「お前……女とのやり方、知ってるんか?」


 顔が赤くなる。


「お、お前、偉そうに……」


 茂の指摘に、思わず横を向いてしまった。


「あれ? ジョージ君、何か変なリアクション」


 茂が、僕の事をジロジロと見つめる。


「何だよ……」


 茂の詮索するような目つきに、僕は目が合わせられない。


「は、はーん。そうか、そうか。これは俺の出番やな」


 目の前で、茂が立ち上がった。


「な、なんやねん!」


 茂を見上げる。


「ウォッホン。先生が、男と女のセックスについて解説をしてやろう。ジョージ君、ノートを取るように。まず、大事なことは、相手をその気にさせる事やな」


 茂は、先生になったつもりで講義を始めた。男と女の行為について、身振り手振りで説明を始める。酔いの勢いか、とても嬉しそうだ。僕を肴にして楽しんでいる。とてもじゃないが聞いていられなかった。

 そんな茂の講義を止めさせようと、口を挟む。


「違うねん、経験はあるよ、経験は。昔やけど……」


 両手で腰を掴むポーズをしながら、茂は腰を振っていた。僕の言葉に、中途半端に動きを止める。腰が突き出されたままだった。


「なんや、童貞やないんか。ジョージの為に、一から教えたろうと思ったのに……」


 ニヤニヤと笑いながら、茂が胡坐をかく。

 僕が黙っていると、茂が首を伸ばしてきた。僕の顔を覗き見る。


「なんだよ……」


「良かったか? セックスは?」


 僕は、眉をひそめる。


「まー、そうやな」


 僕の返答に、茂が怪訝な表情を浮かべた。


「なんや、煮え切らん返事やな。経験はあるんやろ?」


 茂から目を逸らすと、僕は俯いてしまう。


「いや、その……何て言うか、一歩手前まで」


「なんやねん。一歩手前って?」


 僕は、顔が真っ赤になるのを感じていた。話したくない、僕のトラウマ。でも、ここは、正直に話をしておいた方が良いような気がする。


「その、その時は、直前で、萎えてしまって……最後まで、出来んかった」


「それって、ジョージの初めてか?」


「うん」


 僕の返事を聞くなり、茂は腹を抱えて笑い出した。


「ヒー、ヒー、ヒー。ジョー……ジ。お、まえ……ヒー……」


 酷い奴だ。それは笑い過ぎだろう。僕の顔を見ると、また笑い出した。のた打ち回っている。

 僕は、眉間に皺を寄せて茂を睨みつける。


「茂……笑い過ぎ」


 ひとしきり笑い続けた茂が、目に涙を浮かべて僕を見た。


「ごめん、ごめん。ちょっと笑い過ぎた。でもな、セックスは場数や。悲しい初体験やったけど、そんなこともある。慣れるしかないんや」


「慣れか……」


 茂と目が合った。また、茂が笑い出そうとしている。


「ヒー、ヒー……」


 転がっている空き缶を掴むと、茂の奴に投げつけてやった。


「あほ!」


 笑いながら、茂は手で空き缶を防いだ。床に転がる。


 カラン、カラン。


 真面目な顔で、茂が僕を見つめた。


「あのな、ジョージ。上手くやろうと格好つけるから、アカンのや」


「どういうことや?」


「話を聞く限り、月夜ちゃんは、ええ娘やないか。途中で萎えてもええねん。そん時はな、優しく抱きしめたら、それでええねん」


「萎えてもええんか?」


「かまへん、かまへん。それでな、元気になってきたら……盛りのついた猫を、やったったらええねん」


 茂の言葉に、心が楽になるのを感じた。


「それで、ええんか?」


「それで、ええねん。焦ったらあかん。もしかして、悩んでいた?」


「まー、そうやな……悩んでた。ちょっと心配だった」


 茂が、優しそうな顔を僕に向ける。


「お前はな、優しすぎるねん。よー、そんなんで、ジュエリーで仕事が出来ているな。こっちが吃驚するわ」


 茂が立ち上がる。冷蔵庫にビールを取りに行った。


 茂の部屋を見回してみる。狭いワンルームマンションに住んでいるのに、部屋の中にサイクリング自転車が置かれていた。


 戻ってきた茂が、僕に缶ビールを差し出す。受け取ると、茂にその自転車のことについて尋ねてみた。


「なんで、部屋の中に自転車を置いているんや」


 茂が、そのサイクリング自転車に視線を向ける。


「外に置いていたら、盗まれてしまうんや。それは、ツーリング用の自転車や。高いんやで」


 そのサイクリング自転車を、観察してみる。ママチャリと比べてみると、明らかに違っていた。ハンドルが曲がりくねっている。ドロップハンドルというそうだ。タイヤは、ビックリするほど細くて、レバーを操作するだけで簡単に脱着が出来るようになっていた。


「この自転車でツーリングに行ったりするんか」


「学生の頃はな。でも、最近は全然乗ってない」


「忙しいんか?」


「そうやな。結婚するために仕事を変えたから、こき使われまくりや」


「そうやったな。美智子さんと結婚か……」


「実はな、来月に正式に籍を入れるんや。それと同時に、和子さんと智子ちゃんと一緒に生活を始める」


「じゃ、引っ越しするんか?」


「ああ、この部屋じゃ、狭すぎるからな。だから、この自転車は手放すつもりや。荷物になるから。興味があるんやったら、お前にやるよ」


 茂のサイクリング自転車を、自分の部屋に持ってきた様子をイメージする。


「いや、俺も余裕はないなー。部屋の中に置いておかなアカンのやろ。無理やわ……でも、この自転車でツーリングしたら、楽しいやろうな」


 茂が、僕に笑顔を見せた。


「楽しいで」


「どこまで、走ったことあるんや?」


「そうやなー。俺が走ったんは、琵琶湖一周とか、紀伊半島一周やな。テントや寝袋も持っていくんや。野宿をするんやで」


「それは、楽しそうやな」


「楽しいけど、若いうちしか出来んわ。お前も、結婚する前に、出来るだけ遊んでおけよ」


 茂の「結婚」という言葉に、僕は大事なことを思い出した。


「そうや。結婚式はどうするんや?」


 茂が、天井を見上げた。


「結婚式はしない。俺はやってもええと思ってるねん。だけど、和子さんがやらないって」


「えっ、普通は、結婚式って、女の子の方がしたいんとちゃうんか?」


 茂が、首を横に振った。


「分かってないなー、ジョージ。和子さんは、自分が子持ちで年上なことを気にしているんや。俺は、そんなことは全然気にしてないけどな。それに、式でお金を掛けるんやったら、生活にお金を使った方がええって、言い張るねん。まー、現実的やな、その方が……」


 茂の言葉が、重い。地に根を張って生きている強さを感じた。それに比べると、僕なんか全くの子供だ。


「じゃ、俺からはお祝いだけさせてもらうわ」


「ありがとう」


 缶ビールに手を伸ばした。喉を潤しながら、僕と明美さんの場合を考えてみる。結婚どころか、僕たちはデートすら楽しんでいない。茂が指摘するように、これでは付き合っていることにはならない気がした。


 ――明美さんを喜ばせたい。


 そんな気持ちが、僕の中から湧き上がってきた。僕は現状に甘んじているだけで、茂のように戦いの舞台にすら上がっていない。どうすれば良いのだろう。


 物思いに耽っていると、茂が、真面目な顔で僕を見た。


「大原美術館は、いつ行くんや?」


「来週の火曜日に出発して水曜日に帰ってくる。明美さんと休みを合わせたんや」


「バレへんか?」


「大丈夫。上手くやる」


「そうか。バレたら最後やからな。その緊張感に燃え上がる気持ちは分かるけど、引き返すのなら、今やで」


 返事をせずに、僕はビールを飲んだ。茂は、更に続ける。


「これから、どうしていくつもりなのか。月夜ちゃんと付き合うんなら、どういう手を打っていくのか。考えるのは、ジョージ、お前やで」


 僕は、大きくため息をついた。


「……そうやな」


「このまま、ズルズル引っ張っていくだけなら……最後は破滅しかないで」


 茂のその言葉が、僕の頭をガツンと叩いた。


 明美さんと一緒に大原美術館に行くことは、絶対に曲げられない。明美さんとの初めてのデートだ。明美さんを喜ばせたい。笑顔になって欲しい。


 ただ、それと同時に、焦りに似た圧迫感を感じた。時限爆弾のカウントダウンのように、時間が削られていくような感覚だ。


 ――僕たちは、破滅に向かっているのか?


 このままでは、駄目なんだ。何とかしなくてはいけない。でも、どうすれば良いのだろう。打つ手が見えないことが、僕を憂鬱にさせた。

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