恩人
京子さんが、タオルを桶に浸した。引き上げて、ギュッと絞る。そのタオルを四角く広げると、ジョージ君の額にのせた。
京子さんが振り返り、私を見る。
「お嬢さん、後は私が看ておきますから、お仕事に行ってください」
確かに、いま私に出来ることは何もない。
昨晩、この安達家に担ぎ込まれた時、ジョージ君は軽口を叩けるくらいに元気だった。私もそんなジョージ君と一緒にいることが楽しくて、枕元で話をしていた。
ところが、今朝になると、殴られた影響からか、太ももの刺し傷が酷かったからなのか、熱を出して寝込んでしまった。息が荒い。
「ジョージ君、大丈夫かな?」
心配する私に、京子さんが微笑んだ。
「大丈夫ですよ。私がこの安達家に、何年いたと思っているんですか。喧嘩で担ぎ込まれた若い衆を、何人も看てきたんです。明日になれば、熱も引きますよ」
京子さんの言葉に、勇気づけられる。
「そうよね。京子さんが居てくれるもんね。じゃ、今から仕事に行ってくる。なるべく早くに帰ってくるからね」
「ええ、そうしてください。それにね……」
そこまで言ってから、京子さんがクスクスと笑う。声をひそめて私に囁いた。
「ジョージ君がいると、喜美代お姉さんの調子が良いんですよ。今朝から、ジョージ君のことが気になって仕方がないみたいです。不思議ですけど、これも愛の力でしょうか」
京子さんが、悪戯っぽく笑った。
――それはそれで、私にとっては何だか複雑な気持ちなんだけれど。
でも、最近の伯母様の回復は、紛れもなくジョージ君のお陰だ。私は、片目を瞑って納得することにした。
「じゃ、後はお願い。行ってくるね」
立ち上がると、私はセカンドバックを持って玄関に向かった。ヒールを履いて、玄関を出る。外は温かい日差しで溢れていた。両手を広げて、太陽の光を全身で受け止める。
――春になったんだな。
しみじみと感じた。そんな私の所に、木崎隆が駆け寄ってきた。
「お嬢さん、車を用意しています。乗って行かれますか?」
私は、木崎を睨みつける。
「昨日の今日で、忙しいんじゃないの。木崎……あんた、大変だったんでしょう?」
睨みつけたのに、木崎は嬉しそうな表情を浮かべた。自分の手柄が褒められていると、勘違いしているみたい。
「連中の処置は、若頭が仕切っています。俺は待機中です。しかし、あの男を泳がしたことで、あいつらの隠れ家を見つけることが出来たんです。これは、俺のファインプレーッてやつですかね」
自慢げに語る木崎を見て、イライラした。
――お前のせいで、ジョージ君が殴られたのよ!
でも、この木偶の坊には言えない。変に勘繰られたら、後が大変だ。私の気持ちを、この男に知られるわけにはいかない。
――こんな奴。無視よ、無視。
木崎の自慢話の途中で、私は歩き始めた。今日は、ジュエリーボックスまで歩くしかない。後ろから、木崎が叫んでいた。
「乗らないんですか。また、変な男に絡まれますよ。お嬢さん」
――お前に絡まれて困っているんだよ。
木崎が、後から付いてくる。構わずに、私はジュエリーボックスまで一心不乱に歩いた。店に到着すると、体中が汗ばんでいた。
――汗臭くないかな?
ちょっと気になる。歩いてきたことを、少し後悔した。支度部屋で手早く着替えを済ませる。私は支配人室に向かうことにした。ジョージ君の事を、修お兄さんに報告するためだ。鉄製の扉をノックする。
「どうぞ」
部屋の中から、修お兄さんの声が返ってくる。扉を開けて中に入った。お兄さんは、事務机に広げられた書類から目を離す。
「月夜か……昨日は大変やったそうやな。聞いているよ」
「そうなのよ」
部屋に入り、応接のソファーに腰を下ろした。修お兄さんも立ち上がり、向かいのソファーに腰を下ろす。
「ジョージのやつ、怪我をしたんだって?」
私は、眉をしかめる。
「そうなのよ。殴られた上に、足も怪我したの。今は安達家で寝込んでいるわ。当分は、出勤出来ないと思う」
「そうか、それはちょっと痛いな……」
そう返した修お兄さんのことを、私は珍しそうに見つめた。
「あら、意外ね。修お兄さんって、ジョージ君に対する評価が高かったんだ」
お兄さんが、腕を組む。天井を見上げた。
「うーん……ジョージはな、眼が良いんや。周りが良く見えている。それが画家の特徴なのか、そら分からんけどな」
「目が良い?」
私の問いかけに、お兄さんが頷く。
「黒服の仕事って、お客様や女の子の要求を素早く察知することが必要やろ? ジョージは、それが見えているんや。大体の奴は、目先のことしか見えていない。ホール全体で人の動きが見えているのは、アキラとジョージくらいやな。そういう意味で、アイツは安心して任せられるんや」
「へー」
「それにな、いざという時は、舞台に上がらせることも出来る。俺にとっては、トランプのジョーカーみたいな使いやすさがあるんや」
そう言って、お兄さんが微笑んだ。
「ふーん、そうなんだ」
――やるじゃない、ジョージ君。修お兄さんに、そこまで言わせるなんて。
「ただ、あいつは優しすぎるから、人の上に立つのは難しいと思うな。俺のような優秀なリーダーに導かれてこそ、才能が開花できるっちゅうもんや」
お兄さんが、一人納得している。
――自分で言うか?
お兄さんにツッコミたかったけれど、妙に納得した。
「――ところで、今日は何か用事か?」
話しの流れを変えるように、お兄さんが問いかけてきた。
私は、昨日までの一連の出来事が気になっている。だから、修お兄さんに聞いてみたかったのだ。
「女の私には関係がないって言われそうだけど。勲お兄さんたちは、今、どんなことに巻き込まれているのか知りたくて――」
修お兄さんが難しい顔をした。私は、慌てたように、話を続ける。
「――ほら、えーと、昨日、安達家で聞いたの。隆君が捕まえた売人のケツ持ちが、田崎組だって。それに、勲お兄さんが言っていたわ。西岡のオジキに相談しなきゃいけないとか……」
上目遣いに、修お兄さんの様子を窺った。
修お兄さんが、小さなため息をつく。
「月夜ちゃんは、親分の傍にいるから、そら気にはなるわな」
お兄さんが、悪戯っぽく笑った。
「俺たちの世界は、上下関係で成り立っているんや。一番上が神戸にある本家。今、その本家でトップにいるお方が、西岡組長。安達親分は、その西岡組長と親子の盃を交わしているんや。ところが、今回のトラブルに出てきた田崎組長も、同じように西岡組長とは盃を交わしている。立場で言えば、同じや。その田崎組長が、どうしてか、俺たちのシマを荒しにきた」
「このシマのシノギを奪いに来たってことよね。でも、それじゃ、争いになるじゃない?」
修お兄さんが頷く。
「俺は、この店の支配人やし、今回の問題に直接は関与していない。けどな、ヤクザは知っている。ヤクザは、人の生き血を啜るような人種や。田崎組は、ヤクを販売するルートを開拓したがっている。このミナミが魅力的なんやろうな」
「そんなの……黙っているわけにはいかないよね?」
「もちろん、黙っているわけにはいかない。大体、西岡組長は、麻薬の撲滅を謳っているんや。そうした中での、ヤクの売買や。許されるわけがない。こんな俺達の世界でも、筋の通らんことは、絶対に許されん」
「そう言えば喜美代伯母様も、勲お兄さんに向かって言っていたよ。本家に筋を通したのかって……」
「そうやろ、姐さんなら……ん?」
首をひねって、修お兄さんが私を見た。
「姐さん……いや喜美代さんが、そう言ったの?」
「ええ、まあ」
「調子が悪いって聞いていたから……」
私は、何て説明しようか少し迷ったけれど、適当に胡麻化すことにした。
「最近ね、伯母様の調子が良いの」
「そうなんや。それは良かった。姐さんが言うように、本家に筋を通すことは、とても重要や。事を構えるための、大義名分になるからな」
「大義名分?」
お兄さんが、大きく頷く。
「同じ喧嘩であっても、後からの理由付けはかなり弱い。大義名分を持って事を構えた喧嘩の方が有利なんや。賛同する味方も付きやすい。でもな、そんなことは安達親分も十分に分かっているよ。今回の事を利用して、田崎の親分を反対に食ってやろうとしている」
「出来るの?」
修お兄さんが、ニンマリと笑う。
「やるしかない。でも、切った張ったの揉め事は、一番最後や。そない心配せんでも良いよ。最初に手を出してきたんはあいつらや。まずは、その落とし前を付けさせる為に、親分は動いている。そういうことや」
「ふーん」
勲お兄さんのことを、まるで自分の事のように嬉しそうに語っている。まるで、修お兄さんの自慢話のようだ。
修お兄さんは、勲お兄さんから酷く殴られることもあるのに……。
「ねえ」
「なに?」
「お兄さんは、こんなヤクザな世界から逃げ出したいとは思わないの?」
修お兄さんが、驚いたような顔を私に向ける。そして、笑った。
「確かに。なんでこんな世界で頑張っているんやろうな……」
修お兄さんが、ソファーに体重を凭せ掛けた。天井を見上げる。暫く黙ってしまった。
よく見ると、お兄さんが何かを懐かしむようにして、ニヤニヤと笑っていた。
「どうしたの、ひとりで笑ったりして……」
私を一瞥すると、お兄さんは大きく深呼吸をした。少し照れている。
「俺はな、このジュエリーボックスが大好きや。右肩下がりのこんなキャバレー家業やけど、ホステスの女の子も黒服の男の子も、俺が守ってやるって気概で仕事をしている。でもな、それは安達の親分も同じなんや」
「同じ?」
お兄さんが、ソファーから身を起こした。私を真顔で見る。
「親分はな、このミナミが大好きなんや。誰かが目を光らせておかないと、ミナミの街が腐ってしまう。それを、体を張って守りたいだけなんや」
「そうなの?」
「そうや。それに……」
「それに?」
「俺は、親分には恩がある。その恩を返すためなら、何でも協力したい。そう思っているんや」
修お兄さんが、私から視線を外す。少しはにかんだ。言葉を続ける。
「昔、月夜ちゃんのところで、世話になっていたやろう」
澄ました表情で、修お兄さんを見る。
「そうね。お兄ちゃんに抱きしめられたけど」
お兄さんが、困った顔をする。
「その話はやめようよ。もう、時効や」
私は、悪戯っぽく見つめる。
「ふーん。分かった。もう言わない。それで?」
修お兄さんが、小さな息を吐く。話を続けた。
「あの後な、昔の仲間に引っ張られて、学生運動に傾倒していったんや」
「学生運動?」
「ああ、かなり過激な組織でな。資本主義をぶっ潰すためなら、破壊工作も厭わなかったんや」
「聞いたことある」
「その組織でな、拳銃が必要になった」
私は、目を丸くする。
「拳銃?」
「うん。その拳銃を用意をして欲しいって、隆に頼んだんや。ほら、あいつ、ヤクザやったから……」
「それで、用意してもらったの?」
「ああ、用意してもらった。ところが、その頃の俺は、組織の過激さに付いていけなくなっていたんや。特に、内ゲバが酷くてな。本当に嫌だった。身内同士で争いをするんや。仲間の一人が同じ仲間に殺されたとき、俺は組織を抜けようとした。ところが――」
お兄さんが、大きなため息をつく。
「――それを、仲間は許さなかった。実家にまで乗り込んできて、俺は捕まったんや。監禁された俺は、裏切り者って罵られながら、執拗なリンチを受けた」
「酷い……でも、助かったんだよね」
「ああ。そんな俺を助けてくれたのが、まだ若かった安達親分や。あの時の親分、格好良かった。救われたって、思ったよ。それからや、俺と親分の関係は」
「ふーん。そうなんだ」
修お兄さんが、悩ましげな眼で私を見る。
「月夜ちゃんを見ると羨ましいと思うんや。親分が、心を許している人やから」
お兄さんが、私から視線を逸らした。
「そんなことないよ」
修お兄さんが、寂しそうに笑う。
「さて、話が長くなった。仕事をしようか」
お兄さんが立ち上がる。デスクに向かって歩き始めた。
釣られるようにして、私も立ち上がる。
修お兄さんの私に対する寂しそうな笑いが、少し気になった。




