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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
明美 一九八〇年三月
23/80

恩人

 京子さんが、タオルを桶に浸した。引き上げて、ギュッと絞る。そのタオルを四角く広げると、ジョージ君の額にのせた。

 京子さんが振り返り、私を見る。


「お嬢さん、後は私が看ておきますから、お仕事に行ってください」


 確かに、いま私に出来ることは何もない。

 昨晩、この安達家に担ぎ込まれた時、ジョージ君は軽口を叩けるくらいに元気だった。私もそんなジョージ君と一緒にいることが楽しくて、枕元で話をしていた。

 ところが、今朝になると、殴られた影響からか、太ももの刺し傷が酷かったからなのか、熱を出して寝込んでしまった。息が荒い。


「ジョージ君、大丈夫かな?」


 心配する私に、京子さんが微笑んだ。


「大丈夫ですよ。私がこの安達家に、何年いたと思っているんですか。喧嘩で担ぎ込まれた若い衆を、何人も看てきたんです。明日になれば、熱も引きますよ」


 京子さんの言葉に、勇気づけられる。


「そうよね。京子さんが居てくれるもんね。じゃ、今から仕事に行ってくる。なるべく早くに帰ってくるからね」


「ええ、そうしてください。それにね……」


 そこまで言ってから、京子さんがクスクスと笑う。声をひそめて私に囁いた。


「ジョージ君がいると、喜美代お姉さんの調子が良いんですよ。今朝から、ジョージ君のことが気になって仕方がないみたいです。不思議ですけど、これも愛の力でしょうか」


 京子さんが、悪戯っぽく笑った。


 ――それはそれで、私にとっては何だか複雑な気持ちなんだけれど。


 でも、最近の伯母様の回復は、紛れもなくジョージ君のお陰だ。私は、片目を瞑って納得することにした。


「じゃ、後はお願い。行ってくるね」


 立ち上がると、私はセカンドバックを持って玄関に向かった。ヒールを履いて、玄関を出る。外は温かい日差しで溢れていた。両手を広げて、太陽の光を全身で受け止める。


 ――春になったんだな。


 しみじみと感じた。そんな私の所に、木崎隆が駆け寄ってきた。


「お嬢さん、車を用意しています。乗って行かれますか?」


 私は、木崎を睨みつける。


「昨日の今日で、忙しいんじゃないの。木崎……あんた、大変だったんでしょう?」


 睨みつけたのに、木崎は嬉しそうな表情を浮かべた。自分の手柄が褒められていると、勘違いしているみたい。


「連中の処置は、若頭が仕切っています。俺は待機中です。しかし、あの男を泳がしたことで、あいつらの隠れ家を見つけることが出来たんです。これは、俺のファインプレーッてやつですかね」


 自慢げに語る木崎を見て、イライラした。


 ――お前のせいで、ジョージ君が殴られたのよ!


 でも、この木偶の坊には言えない。変に勘繰られたら、後が大変だ。私の気持ちを、この男に知られるわけにはいかない。


 ――こんな奴。無視よ、無視。


 木崎の自慢話の途中で、私は歩き始めた。今日は、ジュエリーボックスまで歩くしかない。後ろから、木崎が叫んでいた。


「乗らないんですか。また、変な男に絡まれますよ。お嬢さん」


 ――お前に絡まれて困っているんだよ。


 木崎が、後から付いてくる。構わずに、私はジュエリーボックスまで一心不乱に歩いた。店に到着すると、体中が汗ばんでいた。


 ――汗臭くないかな?


 ちょっと気になる。歩いてきたことを、少し後悔した。支度部屋で手早く着替えを済ませる。私は支配人室に向かうことにした。ジョージ君の事を、修お兄さんに報告するためだ。鉄製の扉をノックする。


「どうぞ」


 部屋の中から、修お兄さんの声が返ってくる。扉を開けて中に入った。お兄さんは、事務机に広げられた書類から目を離す。


「月夜か……昨日は大変やったそうやな。聞いているよ」


「そうなのよ」


 部屋に入り、応接のソファーに腰を下ろした。修お兄さんも立ち上がり、向かいのソファーに腰を下ろす。


「ジョージのやつ、怪我をしたんだって?」


 私は、眉をしかめる。


「そうなのよ。殴られた上に、足も怪我したの。今は安達家で寝込んでいるわ。当分は、出勤出来ないと思う」


「そうか、それはちょっと痛いな……」


 そう返した修お兄さんのことを、私は珍しそうに見つめた。


「あら、意外ね。修お兄さんって、ジョージ君に対する評価が高かったんだ」


 お兄さんが、腕を組む。天井を見上げた。


「うーん……ジョージはな、眼が良いんや。周りが良く見えている。それが画家の特徴なのか、そら分からんけどな」


「目が良い?」


 私の問いかけに、お兄さんが頷く。


「黒服の仕事って、お客様や女の子の要求を素早く察知することが必要やろ? ジョージは、それが見えているんや。大体の奴は、目先のことしか見えていない。ホール全体で人の動きが見えているのは、アキラとジョージくらいやな。そういう意味で、アイツは安心して任せられるんや」


「へー」


「それにな、いざという時は、舞台に上がらせることも出来る。俺にとっては、トランプのジョーカーみたいな使いやすさがあるんや」


 そう言って、お兄さんが微笑んだ。


「ふーん、そうなんだ」


 ――やるじゃない、ジョージ君。修お兄さんに、そこまで言わせるなんて。


「ただ、あいつは優しすぎるから、人の上に立つのは難しいと思うな。俺のような優秀なリーダーに導かれてこそ、才能が開花できるっちゅうもんや」


 お兄さんが、一人納得している。


 ――自分で言うか?


 お兄さんにツッコミたかったけれど、妙に納得した。


「――ところで、今日は何か用事か?」


 話しの流れを変えるように、お兄さんが問いかけてきた。

 私は、昨日までの一連の出来事が気になっている。だから、修お兄さんに聞いてみたかったのだ。


「女の私には関係がないって言われそうだけど。勲お兄さんたちは、今、どんなことに巻き込まれているのか知りたくて――」


 修お兄さんが難しい顔をした。私は、慌てたように、話を続ける。


「――ほら、えーと、昨日、安達家で聞いたの。隆君が捕まえた売人のケツ持ちが、田崎組だって。それに、勲お兄さんが言っていたわ。西岡のオジキに相談しなきゃいけないとか……」


 上目遣いに、修お兄さんの様子を窺った。

 修お兄さんが、小さなため息をつく。


「月夜ちゃんは、親分の傍にいるから、そら気にはなるわな」


 お兄さんが、悪戯っぽく笑った。


「俺たちの世界は、上下関係で成り立っているんや。一番上が神戸にある本家。今、その本家でトップにいるお方が、西岡組長。安達親分は、その西岡組長と親子の盃を交わしているんや。ところが、今回のトラブルに出てきた田崎組長も、同じように西岡組長とは盃を交わしている。立場で言えば、同じや。その田崎組長が、どうしてか、俺たちのシマを荒しにきた」


「このシマのシノギを奪いに来たってことよね。でも、それじゃ、争いになるじゃない?」


 修お兄さんが頷く。


「俺は、この店の支配人やし、今回の問題に直接は関与していない。けどな、ヤクザは知っている。ヤクザは、人の生き血を啜るような人種や。田崎組は、ヤクを販売するルートを開拓したがっている。このミナミが魅力的なんやろうな」


「そんなの……黙っているわけにはいかないよね?」


「もちろん、黙っているわけにはいかない。大体、西岡組長は、麻薬の撲滅を謳っているんや。そうした中での、ヤクの売買や。許されるわけがない。こんな俺達の世界でも、筋の通らんことは、絶対に許されん」


「そう言えば喜美代伯母様も、勲お兄さんに向かって言っていたよ。本家に筋を通したのかって……」


「そうやろ、姐さんなら……ん?」


 首をひねって、修お兄さんが私を見た。


「姐さん……いや喜美代さんが、そう言ったの?」


「ええ、まあ」


「調子が悪いって聞いていたから……」


 私は、何て説明しようか少し迷ったけれど、適当に胡麻化すことにした。


「最近ね、伯母様の調子が良いの」


「そうなんや。それは良かった。姐さんが言うように、本家に筋を通すことは、とても重要や。事を構えるための、大義名分になるからな」


「大義名分?」


 お兄さんが、大きく頷く。


「同じ喧嘩であっても、後からの理由付けはかなり弱い。大義名分を持って事を構えた喧嘩の方が有利なんや。賛同する味方も付きやすい。でもな、そんなことは安達親分も十分に分かっているよ。今回の事を利用して、田崎の親分を反対に食ってやろうとしている」


「出来るの?」


 修お兄さんが、ニンマリと笑う。


「やるしかない。でも、切った張ったの揉め事は、一番最後や。そない心配せんでも良いよ。最初に手を出してきたんはあいつらや。まずは、その落とし前を付けさせる為に、親分は動いている。そういうことや」


「ふーん」


 勲お兄さんのことを、まるで自分の事のように嬉しそうに語っている。まるで、修お兄さんの自慢話のようだ。

 修お兄さんは、勲お兄さんから酷く殴られることもあるのに……。


「ねえ」


「なに?」


「お兄さんは、こんなヤクザな世界から逃げ出したいとは思わないの?」


 修お兄さんが、驚いたような顔を私に向ける。そして、笑った。


「確かに。なんでこんな世界で頑張っているんやろうな……」


 修お兄さんが、ソファーに体重を凭せ掛けた。天井を見上げる。暫く黙ってしまった。

 よく見ると、お兄さんが何かを懐かしむようにして、ニヤニヤと笑っていた。


「どうしたの、ひとりで笑ったりして……」


 私を一瞥すると、お兄さんは大きく深呼吸をした。少し照れている。


「俺はな、このジュエリーボックスが大好きや。右肩下がりのこんなキャバレー家業やけど、ホステスの女の子も黒服の男の子も、俺が守ってやるって気概で仕事をしている。でもな、それは安達の親分も同じなんや」


「同じ?」


 お兄さんが、ソファーから身を起こした。私を真顔で見る。


「親分はな、このミナミが大好きなんや。誰かが目を光らせておかないと、ミナミの街が腐ってしまう。それを、体を張って守りたいだけなんや」


「そうなの?」


「そうや。それに……」


「それに?」


「俺は、親分には恩がある。その恩を返すためなら、何でも協力したい。そう思っているんや」


 修お兄さんが、私から視線を外す。少しはにかんだ。言葉を続ける。


「昔、月夜ちゃんのところで、世話になっていたやろう」


 澄ました表情で、修お兄さんを見る。


「そうね。お兄ちゃんに抱きしめられたけど」


 お兄さんが、困った顔をする。


「その話はやめようよ。もう、時効や」


 私は、悪戯っぽく見つめる。


「ふーん。分かった。もう言わない。それで?」


 修お兄さんが、小さな息を吐く。話を続けた。


「あの後な、昔の仲間に引っ張られて、学生運動に傾倒していったんや」


「学生運動?」


「ああ、かなり過激な組織でな。資本主義をぶっ潰すためなら、破壊工作も厭わなかったんや」


「聞いたことある」


「その組織でな、拳銃が必要になった」


 私は、目を丸くする。


「拳銃?」


「うん。その拳銃を用意をして欲しいって、隆に頼んだんや。ほら、あいつ、ヤクザやったから……」


「それで、用意してもらったの?」


「ああ、用意してもらった。ところが、その頃の俺は、組織の過激さに付いていけなくなっていたんや。特に、内ゲバが酷くてな。本当に嫌だった。身内同士で争いをするんや。仲間の一人が同じ仲間に殺されたとき、俺は組織を抜けようとした。ところが――」


 お兄さんが、大きなため息をつく。


「――それを、仲間は許さなかった。実家にまで乗り込んできて、俺は捕まったんや。監禁された俺は、裏切り者って罵られながら、執拗なリンチを受けた」


「酷い……でも、助かったんだよね」


「ああ。そんな俺を助けてくれたのが、まだ若かった安達親分や。あの時の親分、格好良かった。救われたって、思ったよ。それからや、俺と親分の関係は」


「ふーん。そうなんだ」


 修お兄さんが、悩ましげな眼で私を見る。


「月夜ちゃんを見ると羨ましいと思うんや。親分が、心を許している人やから」


 お兄さんが、私から視線を逸らした。


「そんなことないよ」


 修お兄さんが、寂しそうに笑う。


「さて、話が長くなった。仕事をしようか」


 お兄さんが立ち上がる。デスクに向かって歩き始めた。

 釣られるようにして、私も立ち上がる。

 修お兄さんの私に対する寂しそうな笑いが、少し気になった。

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