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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
明美 一九八〇年三月
22/80

おかえり

 勲お兄さんが、私の上で動きを止めた。荒い息を吐きながら覆いかぶさってくる。お兄さんの胸や額から止めどなく汗が噴き出していた。お兄さんの汗が、私の胸と頬を濡らしていく。私は、堪らずに文句を言ってしまった。


「汗でベトベトする……ちょっと体を拭いてよ」


 勲お兄さんが、そんな私を見て笑う


「すまんな。もう少し、このままでいさせてくれ」


 お兄さんは、汗だくのまま私を強く抱きしめた。私の首筋に顔を埋める。そのまま、動こうとはしなかった。仕方がないので、私は布団に寝ころんだまま天井を見上げた。


 勲お兄さんが私を求めるときは、いつも料亭の松川を利用した。月に一度か二度、お酒を飲んだあと、行為に至る。


 初めの頃はそうでもなかったけれど、回数を重ねるごとに感じるということを知るようになった。


 ――いや、教えられたのかな。


 今も子宮の奥がジンジンと波打っているのが分かった。刺激されると、つい声を漏らしてしまう。


 私とお兄さんの関係は普通ではない。だけど、関係を重ねると「情」というもが育っていくことを知った。お兄さんへの情が、草木の根っ子のように私の心に絡み付いてくる。私に見せるお兄さんは、いつも幼くて、駄々っ子のようだった。そんなお兄さんのことが、なんだか可愛いと思えてしまう。


 両手を広げて、お兄さんの背中を抱きしめる。すると、お兄さんは顔をあげて、私を見つめた。私も、お兄さんを見つめる。お互いに唇を重ねた。暫く、そうしていた。


「汗を流してくる」


 顔を離すと、お兄さんが立ち上がった。汗で濡れている私の体が露になる。外気に触れて、ひんやりとした。


 でも、そんな事よりも、私の体が無防備に曝け出されたことが、恥ずかしい。情事の後の体を隠す為に、皺くちゃになった布団を引っ張った。そんな私を見下ろして、お兄さんが笑った。


「今更、恥ずかしがることもないやろ」


 お兄さんが、私の仕草にケチをつける。


「嫌なの」


 お兄さんは、分かっていない。私が頬を膨らませると、お兄さんは笑いながら部屋を出て行った。

 お兄さんを見送った後、私も浴衣を羽織ってお風呂に向かう。脱衣所で浴衣を脱ぎ、浴場の扉を開いた。洗面器で湯を掬い、勢いよく体にかける。行為の名残を、湯で流した。


 湯船につかると、ジョージ君のことが思い出された。たしか、今日だったと思う、ジョージ君が、木崎隆に連れられて売人に会いに行く日は。


 ――大丈夫だろうか?


 気になった。怪我をしなければいいけれど。

 ジョージ君を殴りつけて利用したお兄さんに対して、怒りの気持ちが湧いてきた。でも、私も何もできない。そんな自分のことを恨めしく思った。


 湯船から上がり、体を拭く。後ろめたい気持ちを引きずったまま、浴衣を羽織った。脱衣場を出て、部屋に向かう。襖を開けようとすると、お兄さんの怒鳴り声が聞こえてきた。


「馬鹿野郎!」


 ビクッと身体を震わせた。


 ――どうしたんだろう?


 部屋に入るのが怖かった。ゆっくりと襖を開ける。お兄さんが、受話器を叩きつけていた。電話は終わったようだ。


「明美。今から実家に帰るぞ」


 私は、恐る恐る尋ねた。


「どうしたの?」


「ちょっとしたトラブルや」


「トラ、ブル」


 胸騒ぎがする。


「使いにやらしたあの絵描きが、どうも刺されたみたいや」


「えっ!」


 両手を口に当てて驚いた。


「電話では、いま一つ状況がよく分からん。実家で手当を受けているそうや。お前も、早く着替えろ」


 心配していたことが、現実になった。ジョージ君の顔が思い浮かぶ。浴衣を脱ぎ、自分の服に着替えた。心臓がドキドキと鳴っている。


 ――ジョージ君!


 表に出ると、車が回されていた。お兄さんと一緒に後ろの座席に乗り込む。ドアが閉じられ、車が走り出した。お兄さんが、状況について運転手の若い衆に質問する。でも、その若い衆は何も知らなかった。


「くそっ!」


 お兄さんが、前の座席を蹴飛ばした。そのまま無口になる。


 安達家の実家に車が到着した。車のドアを開けると、お兄さんはイライラしながら大股で歩いていく。私も、小走りでその後を追いかけた。

 玄関に入り、大広間に向かう。部屋の真ん中に布団が敷かれ、怪我をしたジョージ君が寝かされていた。その周りに、若頭をはじめ若い衆が取り囲んでいる。京子さんの姿も見えた。

 安達家と懇意な高橋医院の院長先生が、立ち上がる。ジョージ君の手当てが終わったようだった。勲お兄さんが、院長先生に近寄る。


「すんまへんな、先生。こんな夜更けに」


 院長先生が、お兄さんを一瞥した。


「仕事やからな、深夜でもかまへんけど、切った張ったは大概にしときや。あんたの親父さんのように、死んでからでは遅いんやで」


 そんな院長先生に向かって、お兄さんは鼻で笑う。


「分かった、分かった。心に留めておきます。それでどうですか? そいつの容態は」


「処置は終わったよ。命に別条はない。顔面をかなり殴られているが、骨折はない。青タンはほっておくしかないな。それよりも太ももに、深いナイフの刺し傷がある。抗生物質を用意したから、飲ませるように。もし、酷くなるようなら、ワシに連絡をすること。歩けるようになるまでは、少し時間が掛かるだろうね。まあ、安静にすることじゃ」


 先生の言葉に、胸が塞がれる。布団に寝かされているジョージ君を見た。頭に包帯が巻かれている。怯えた目で私達を見ていた。私は枕元に腰を下ろして、ジョージ君の頭をそっと撫でてあげる。


「そうですか、先生。ありがとうございます」


 お兄さんが、先生に頭を下げる。院長先生は診療用のカバンを持ち上げた。

 透かさず、お兄さんは部屋にいた若頭に目配せをした。その若頭は背広の内ポケットから封筒を取り出すと、院長先生に手渡した。その封筒を受け取ると、先生はカバンの中に無造作に突っ込む。お兄さんは、また、先生に頭を下げた。


「今後も宜しくお願いします」


「うむ」


 お兄さんが、車を運転してきた若い衆に命令する。


「おい、先生をお送りしろ」


 すると、院長先生がお兄さんの言葉を遮った。


「いいよ、私は歩いて帰るから。後は適当にやっておく」


 先生は、振り返りもせず帰っていった。大広間が静寂に包まれる。お兄さんは、若頭を睨みつけた。


「詳しく説明してくれ」


 ジョージ君を囮にした計画は、売人との接触までは上手くいった。ところが、ヤクの事を全くの知らないジョージ君は、その売人に怪しまれてしまう。売人は仲間と一緒に、ジョージ君を車に押し込めて連れ去ろうとした。


 その様子を、木崎隆が隠れて見ていた。機転を利かした木崎隆は、そのまま売人を泳がすことにする。尾行したことで、相手の隠れ家を特定することが出来た。その後、仲間を連れた木崎隆は、隠れ家を強襲する。売人仲間を根こそぎ捕まえた。しかし、捕まっていたジョージ君は、既に拷問を受けた後だった。


「そいつらは、どうしてる?」


「全員、隣りの離れ屋で監禁しています。タカシの話では、アイツ等のケツ持ちは田崎組だということです」


 勲お兄さんが、薄気味悪く笑った。


「そうか、予想通りやな。これは西岡のオジキに相談せなあかんな……」


 お兄さんが、若頭を見る。


「岡崎」


 若頭が、お兄さんに近づく。


「はい」


「そいつらの背後関係を、洗いざらい吐かせておけよ。でも、やり過ぎて、殺したらあかんぞ。あとの処理が面倒やからな」


 そう言って、お兄さんが笑った。


「分かりました」


「俺も、後から行く」


 若頭が頭を下げる。若い衆を連れて大広間から出て行った。お兄さんは、布団に寝かされているジョージ君の横にしゃがみ込む。


「今回は、災難やったのー」


 ジョージ君は、怯えながら首を振った。


「でもな、お前のお陰で、えらい収穫や。チャラのつもりやったが、これは貸しが出来てしもうたのー」


 お兄さんが、嬉しそうに笑った。立ち上がり、ジョージ君を見下ろす。


「その傷が癒えるまで、この家でゆっくりしたらええ」


 お兄さんが、部屋の中で一部始終を見ていた京子さんに視線を向ける。


「というわけで、京子さん、この若造を宜しく頼んます」


 京子さんが、お兄さんを睨む。


「もちろんですよ。それよりも、お坊ちゃん。高橋先生も言っていましたけど、程ほどにして下さいよ」


 お兄さんが、楽しそうに笑う。


「この家に居たら、この俺がお坊ちゃん扱いやからな……俺も、退散するわ」


 踵を返して、大広間を出て行く。見送りの為に、私はお兄さんを追いかけた。

 途中、居間に差し掛かったところで、椅子に座っている喜美代伯母様を、お兄さんが見つけた。お兄さんが、居間に入り右手を上げる。


「よっ、お袋。騒がしくてすまんかったの」


 喜美代伯母様が立ち上がった。お兄さんの傍まで歩み寄った。鋭い目つきで、お兄さんを見上げる。


「なぁ、あんた。今回のこと、本家に筋を通したんか?」


 お兄さんが、驚いた表情を浮かべた。


「お袋、元気になったんか?」


 伯母様が、お兄さんを睨みつける。低い声で呟いた。


「質問しているのは、あたしや」


 お兄さんが怯む。


「ああ、そうやな。分かってる、これからや」


 伯母様のドスの効いた声が、さらに続いた。


「筋を通してから動かんと、周りが敵だらけになるで。順番を間違えたらアカンよ」


「おお」


 お兄さんが、喜美代伯母様に吞まれていた。


「早く行き、あんたの大雑把なところが心配や」


「分かった。じゃあな、お袋」


 慌てたように、お兄さんが玄関から出ていく。隣りの離れ屋に向かった。

 騒がしい男連中が居なくなったお陰で、安達家に静寂が訪れる。喜美代伯母様は、元いた椅子に座り込むと、頭を抱えた。少し疲れているようだった。


「大丈夫? 伯母様」


 喜美代伯母様が、私を見上げる。


「こういう稼業だからね、覚悟は出来ている。でもね、力尽くで進んでいこうとする、あの子が心配なんだよ」


 伯母様が、弱気な声を漏らした。私は、そんな伯母様に掛ける言葉が見つからない。


「ちょっと、ジョージ君の様子を見てくるね」


 居間を後にして、大広間に向かった。襖を開けて中に入る。京子さんがジョージ君に語りかけていた。


「顔が腫れているけれど、食事は取れそうかい?」


 ジョージ君が、京子さんに訴える。


「何か、食べさせて下さい。朝に、餡パンを一つ食べたっきりなんです。もうお腹がペコペコで……」


 包帯を巻かれているジョージ君が、情けない声で訴えた。そんなジョージ君を見て、私はクスクスと笑ってしまう。


「お帰り……案外、元気そうじゃない?」


 ジョージ君が、困った表情で私を見た。


「元気じゃないですよ。あいつら、僕のことを容赦なく殴りつけて……」


 ジョージ君には悪いけれど、こんな風にジョージ君と絡めるのがとても楽しい。


「大変だったね。足も刺されたんだって」


 ジョージ君が顔を赤らめた。


「それは、刺されたっていうか、刺したっていうか……」


 ジョージ君のおかしな返答に、私は眉をひそめる。


「どういうこと?」


 難しそうな表情で、ジョージ君が私を見上げる。


「木崎さん達が、事務所に殴り込んできた時、僕も戦わなくちゃいけないって思ったんです。机の上に相手のナイフがあったから、それを握って……でも、混乱の中で、逃げ回っている時に転んでしまって……」


「転んでしまって?」


「そしたら、ナイフが足に刺さってしまって……」


 ジョージ君の話に、私は噴き出してしまった。


「アッハッハッハッ……」


 ジョージ君が、顔を曇らせる。


「笑い事じゃないですよ……あっ、笑い事じゃないぜ」


 思い出したように、ジョージ君が敬語をやめた。返って、変に言い回しになる。そんなジョージ君を見て、私は更に笑った。


「アッハッハッハッ……」


「笑い過ぎですよ」


 ジョージ君が、困った顔をしている。


「だって、だって、ジョージ君、面白過ぎるよ。あなた、最高。君の名誉の為に、このことは秘密にしてあげるね」


 ジョージ君にウインクをしてあげた。

 恥ずかしそうに、ジョージ君が俯く。

 兎に角、ジョージ君がこの家に帰ってきたことが、私には、とっても嬉しかった。

 今日も、明日も、明後日も。ジョージ君の為に、私は傍に居てあげようと思った。

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