白黒写真
ブッブ――――!
車のクラクションの音で目が覚めた。
――今、何時だろう?
布団に潜りながら、私は壁に掛かっている時計を見る。まだ、朝の九時前だ。
窓の外からは、街が賑やかに活動を始めている音が聞こえた。車のクラクションだけではない。ガヤガヤとした人々の話声や、ガラガラと響き渡るシャッターを上げる音。
いつもなら、十時ごろに京子さんが、私を起こしに来てくれる。でも、早くに目が覚めてしまった。もう一度、布団に潜ろうとして、思い出した。
――ジョージ君が、家に来ている。
布団を勢いよく跳ねのけた。もう起きないといけない。立ち上がると、私は部屋を出て洗面台に向かった。
「ル、ルルー、ルー」
お台所から京子さんの鼻歌が聞こえてきた。挨拶をしようと思い、中を覗き込む。ひどく驚いた。なんと、喜美代伯母様が、京子さんと一緒に朝ご飯の支度をしていたのだ。
「お、おはようございます」
包丁を動かす手を止めて、京子さんが振り向いた。
「あら、おはようございます。お嬢様」
お台所に入り、喜美代伯母様に近づく。
「喜美代伯母様、おはようございます。今朝は、お早いんですね」
伯母様が、嬉しそうに私を見た。
「おはよう、明美さん。だって、正治さんに朝ご飯のご用意をしないと……」
この安達家で寝起きするようになってから、喜美代伯母様がお台所に立つ姿を、私は初めて見た。味噌を溶きながら、京子さんと同じように鼻歌まで歌っている。
昨日までの、目に輝きが無かった喜美代伯母様は、どこに行ったのだろう。
ジョージ君は、正治さんではない。でも、伯母様がそう思い込むだけで、ここまで元気になれるんだ。
――これって、奇跡?
驚きと同時に、私は伯母様に出鼻を挫かれた形になってしまった。だって、早起きをして、ジョージ君の為に朝ご飯の支度でも手伝おうと思っていたから。なんだか少し残念な気持ちになってしまう。
洗面台に向かい、蛇口を捻って顔を洗った。冷たい水で顔を洗うと、気持ちがちょっとスッキリした。
部屋に戻り、服を着替える。鏡台の前に座り、軽く化粧を始めた。鏡に映る自分の姿を見ながら、私は昨晩の出来事を思い出していた。
タクシーで帰って来た私たちは、少しお腹が空いていた。京子さんにお願いして、温かいおうどんを用意してもらう。
食事が終わると、ジョージ君が先にお風呂に入ることになった。ジョージ君がお風呂に入っている間、ジョージ君のことを思い浮かべる。うどんを食べながら、青く腫れた唇を痛そうに摩っていた。勲お兄さんが、ジョージ君を殴りつける様子が思い出される。心が痛かった。
京子さんにお願いして、軟膏を用意してもらう。ジョージ君がお風呂から上がった。
「ちょっと、そこに座りなさいよ」
私は、ダイニングテーブルの椅子に、ジョージ君を座らせた。
「あのー、何でしょうか?」
ジョージ君が、不安な表情を浮かべていた。一緒に食事をしたのに、まだ緊張しているみたい。
ジョージ君の隣に座った。顔を寄せる。ジョージ君は、突然のことで体を仰け反らせた。
「アッハッハ、逃げなくてもいいわよ」
笑いながら、私はジョージ君の唇を見つめる。
「いや、でも……」
ジョージ君は、私から目を逸らして固まった。
「青く腫れているね」
容器の蓋を開けた。人差し指で、軟膏を掬いあげる。ジョージ君の殴られた唇を見つめた。
ジョージ君が、恥ずかしそうに私を見つめる。私と視線が繋がった。なんだか私まで恥ずかしくなってくる。
ドキドキしながら、指を伸ばした。青くなったジョージ君の唇に、軟膏を優しく塗りつける。
ジョージ君が、目を瞬いていた。緊張しているジョージ君の姿が、とっても可愛い。
――何だろう、すごく新鮮で、すごく嬉しい。
私の胸が、キューッと締め付けられた。
その夜、ジョージ君は大広間で寝ることになる。着替えが無かったジョージ君の為に、衣類を用意したのは喜美代伯母様だ。
むかしお兄さん使っていた衣類を、押し入れから出してくる。一晩寝るだけなのに、ジョージ君にどの服を着せようか迷っていた。ジョージ君が服を着た後も、伯母様はジョージ君に何かと関わろうとしている。
――何なの、伯母様と私の関係は?
思わず、笑ってしまった。
「明美お嬢様、朝ご飯にしましょうか」
京子さんが、私を呼んだ。物思いに耽っていた私は、現実に引き戻される。
化粧台に座っていた私は、慌てて鏡を覗き込んだ。ちょっと化粧が強すぎたかもしれない。ジョージ君に、朝から気合の入った女みたいに思われるのも嫌だし……。
「お嬢様」
京子さんが、再度、私を呼んだ。
「はーい。いま行きます」
仕方なく立ち上がった。大きく深呼吸をして、部屋を出る。
居間に顔を出すと、ジョージ君は、もう席に付いていた。ジョージ君に微笑みかける。
「おはよう、ジョージ君」
「おはようございます」
ジョージ君が、畏まっている。
「良く眠れた?」
「ええ、いつの間にかぐっすりと寝てしまいました」
昨日のことがあったので心配だったけれど、なんだか元気そうだ。
「あら、案外、タフじゃない? 親分さんの実家なのに」
ちょっと意地悪く言ってみる。ジョージ君は、困ったような表情を浮かべた。彼の隣に座る。ジョージ君が、私の方に体を向けた。頭を下げる。
「あのー、昨日から色々とありがとうございました」
「いいのよ。伯母様を助けて頂いたし、お互い様よ」
「それから……」
なんだかジョージ君が言い難そうにしている。
「どうしたの?」
ジョージ君が、私を見た。
「月夜さんのことを、明美さんって呼んでもいいですか?」
私は、笑顔になる。
「ええ、明美でいいよ。ただ、ジュエリーボックスでは、月夜って呼んでね」
「ええ、分かりました」
「それとね、ジョージ君」
「なんでしょうか?」
「私もお願いがあるんだけれど」
「ええ、何でしょうか?」
「私に敬語を使うのは、やめて欲しいな」
「あっ!」
「お店でのため口は、ちょっと困るけれど、この家に居るときくらいは、敬語を使われるのは、ちょっと嫌なの」
私の提案に、ジョージ君が目をパチパチとさせた。
「分かりまし……分かった」
言い難そうにしている。そんなジョージ君を見て、私は笑ってしまった。とても素直な子だと思う。
ジョージ君との、この距離感が何だか気持ちがいい。私の中の悪戯な気持ちがくすぐられてしまう。とても楽しい。一緒にいて気を使わないって、とっても楽だと思った。
「今日は、めざしと玉子焼きとお味噌汁ですよ」
京子さんが、食卓に朝ご飯を並べていく。
喜美代伯母様と京子さんは、そんなにも年が変わらない。伯母様の方が少しお姉さんになる。
京子さんは、先代の伯父さんの時から、この家でお手伝いをしてくれている。ある意味、安達家の母のような存在だ。伯母様や私の面倒をみるだけではない。離れ屋で生活している、子飼いのヤクザのお世話もしていた。
喜美代伯母様が元気だったころは、伯母様がこの家の事を考えていた。でも今は、京子さんがこの家を仕切っている。安達家にとって、京子さんはなくてはならない存在だった。
「このお味噌汁、美味しいですね」
ジョージ君が、感嘆の声を漏らした。そんな彼を見て、京子さんが嬉しそうに微笑む。
「嬉しいわ、このお味噌は私が仕込んでいるのよ」
ジョージ君が、京子さんに人懐っこい笑顔を向ける。
「へー、そうなんですか。本当に美味しいです。おかわりを頂いてもいいですか」
ジョージ君の催促に、京子さんが嬉しそうに立ち上がった。彼からお椀を受け取って、嬉しそうにお味噌汁をよそう。
「長い間、女だけの食事でしたでしょう。ジョージさんがいると、なんだか張り合いが出ます。たくさん食べてくださいね」
「はい」
ジョージ君が、京子さんからお椀を受け取った。美味しそうに食べている。いつもの静かな朝食が、今日だけは賑やかだ。
朝食が終わると、ジョージ君が喜美代伯母様に尋ねた。
「あの〜、喜美代さん」
「はい、何でしょうか?」
名前を呼ばれて、伯母様が嬉しそうに微笑む。
「僕のことを、正治さんって呼んでいましたが、どなたなのか、お聞きしても宜しいでしょうか?」
ジョージ君の質問に、私も関心を示した。
「そうそう、私も聞いてみたかったの」
伯母様が、嬉しそうに微笑む。少し悪戯っぽい表情で、私を見た。
「ここだけの、秘密にしてね」
私は、強く頷いた。伯母様がどのような話を始めるのか、期待に胸が膨らむ。
「正治さんはね、私の初恋の人なの」
――わー、伯母様の恋話だ!
京子さんも、驚いて伯母様の顔を見た。
「あらまー、お姉さんのそんな話、私も初めて聞きますよ。少しお持ちくださいね。話の前に、お茶を用意しますからね」
立ち上がると、京子さんはお茶の用意を始めた。その間、喜美代伯母様は、宙を見つめている。正治さんのことを思い出しているのだろう。
テーブルにお茶が並べられた。喜美代伯母様が、穏やかに語り始める。
「私がね、まだ、十八だった頃のことなの。正治さんはカメラ屋の息子でね、私より、二つ年上だった……」
伯母様が懐かしそうに眼を細める。
正治さんは、若い頃の伯母様をモデルにして、よく写真を撮っていたそうだ。お互いの両親も二人の仲を認めていた。伯母様は、将来は正治さんと結婚することを微塵も疑ってはいなかった。
ところが、伯母様が二十歳になった頃に、太平洋戦争が始まった。正治さんは国の命令で招集され、中国へ渡ることになる。叔母様は、正治さんが無事に日本に帰ってこられるように祈り続けたが、その願いは叶わず、帰らぬ人となってしまった。
伯母様が、ジョージ君を見つめる。
「昨日、貴方と出会った時ね、正治さんが帰ってきたって、私は本当にそう思ったの。嬉しくて嬉しくて、あの時は涙が止まらなかったわ」
伯母様が立ち上がる。
「どうされました?」
伯母さまが、ゆっくりと笑う。
「良かったら、若い頃の私の写真を見てみる?」
「見たい!」
私は即答で、返事した。
居間を出て、伯母様が自室に向かう。暫くするとスチール製の四角い箱を、手に持って帰って来た。テーブルの上に置いて、その蓋を開ける。
中には大小様々な写真が何葉も仕舞われていた。時代を感じさせる、それらの写真は全て白黒で、写真の中で若い頃の伯母様が幸せそうに微笑んでいた。
「伯母様、とっても綺麗よ」
写真を手に取って、一葉ずつ眺めていく。その内の一葉を手にしたとき、驚きの声をあげた。
「あっ!」
二人で写っている写真の男性が、ジョージ君にそっくりだったのだ。
「この方が、正治さん?」
「そうよ」
伯母様が、微笑んだ。
「本当にそっくり……」
ジョージ君も、興味津々でその写真を眺める。
その時、ジョージ君が伯母様を見て、頭を下げた。
「あの、お願いがあるのですが」
「何かしら?」
「色鉛筆か、クレパスみたいなものは、ありませんか?」
伯母さまが不思議そうな表情を浮かべる。
「色鉛筆?」
京子さんが、その問いに答えた。
「色鉛筆でしたら、お坊ちゃんが子供の頃に使っていたものが仕舞ってあります」
京子さんが居間から出ていく。色鉛筆のセットを持って、直ぐに帰ってきた。ジョージ君が、その色鉛筆を受け取る。
「一晩、泊めて頂きありがとうございます。お礼に、僕に喜美代さんの似顔絵を描かせてもらえないでしょうか?」
ジョージ君の提案に、私は心が弾んだ。
「伯母様、ジョージ君は絵がとっても上手なのよ。きっと素敵な伯母様を描いてくれるわ」
伯母様が、はにかんだ。
「似顔絵って言っても、もう、私はお婆ちゃんよ」
そう言いながらも、伯母様はジョージ君の似顔絵のモデルになることを承諾した。
ジョージ君は、似顔絵を描く前に画材の準備を始める。色鉛筆は、全ての色がキレイに削られた。そうした作業を見守りながら、伯母様がジョージ君に不安そうに質問をする。
「私は、どのようなポーズをしたら良いのかしら」
ジョージ君が、微笑んだ。
「そのままでお願いします。それよりも、正治さんとの思い出話を、もう少し聞かせてもらえませんか。その話を聞きながら、似顔絵を描いてみたいです。昔を懐かしむ、喜美代さんの笑顔は、とっても素敵ですよ」
ジョージ君の言葉に、伯母様は恥ずかしそうに顔を赤らめた。ジョージ君が、クロッキー帳を開く。私はジョージ君の後ろに椅子を運び、彼が描く絵を観察することにした。
ジョージ君は、慣れた手つきで簡単な当たりを付ける。サラサラと伯母様の輪郭を描いていった。舞台の時とは違って、ジョージ君は少し考え込みながら、丁寧に鉛筆を走らせていく。一体どんなことを考えているのだろうか。
伯母様は、正治さんとの思い出をポツリポツリと語った。そうした昔話に、京子さんが懐かしんで相槌を打つ。二人にしか分からない、昔の話題で盛り上がった。
京子さんが声をあげて笑うと、それに釣られて、喜美代伯母様も楽しそうに笑う。そんな二人の様子を、ジョージ君はじっくりと観察していた。
ジョージ君の細い指が器用に動くたびに、真っ白だったクロッキー帳に、伯母様の似顔絵が描かれていく。ただの線だったものが、命を吹き込まれたように生き生きと輝きだした。まるで魔法のようだ。見ていて、とても楽しい。
ところが、私は段々と驚きはじめた。目を大きくして、クロッキー帳を眺める。描かれていく喜美代伯母様は、確かに伯母様に間違いない。ただ……。
――若過ぎる!
どう見ても、先程の白黒写真に写っていた二十歳の頃の喜美代伯母様なのだ。しかも、色鉛筆で着色されて、それは、まるで、生きているような温かみが感じられた。
似顔絵を描くジョージ君の横顔を、私は驚きの目で見つめる。一心不乱に描き続けるジョージ君に、目を奪われた。
長いまつ毛に縁どられた瞳が透き通っている。とても綺麗だ。伯母様を見つめるときに、目を細く閉じる。その仕草が、とてもセクシーだと思った。
私の胸が、強く締め付けられる。
手に持っていた鉛筆を、ジョージ君はダイニングテーブルに置いた。描き上げた喜美代伯母様の似顔絵をしばらく見つめる。ジョージ君は伯母様に微笑みかけた。
「出来ました。ちょっと工夫して描きました。気に入って頂けると嬉しいのですが……」
クロッキー帳から、その似顔絵を切り取る。ジョージ君が立ち上がった。伯母様に近寄り、その似顔絵を伯母様に差し出す。
喜美代伯母様が、その絵を受け取った。
「まぁ」
伯母様が、目を大きく広げて驚いた。横から、京子さんもその絵を見る。口に手を当てて呟いた。
「あらー、若い頃の喜美代さんじゃない。とっても綺麗……」
伯母様は、声が出なかった。暫くその絵を眺めていた。顔を上げる。優しい目でジョージ君を見つめた。
「正治さんの、写真のモデルになったような気分よ」
そう言った途端、伯母様の目が潤みはじめた。頬に涙が零れる。伯母様が、ギュッと目を瞑った。顔がくしゃくしゃに崩れる。絞り出すようにして呟いた。
「正治さん……」
ダイニングテーブルに手をつくと、伯母様はオイオイと泣き始めてしまった。あんまり激しく泣くものだから、京子さんが伯母様を抱きしめる。その背中を優しく撫でた。伯母様は、京子さんに抱きつくと、更に声をあげて泣き続けた。
私は、呆気に取られているジョージ君の肩をポンポンと叩いた。
「ジョージ君、ありがとう。後は、京子さんにお任せしましょう」
私に促される様にして立ち上がる。伯母様に向かって、ジョージ君が深々と頭を下げた。
「喜美代さん、一晩、泊めて頂きありがとうございました。京子さん、お味噌汁、本当に美味しかったです」
京子さんが、ジョージ君を見上げた。
「また、遊びにいらっしゃい」
伯母様も、顔を上げてジョージ君を見た。見た途端に、また、激しく泣き出してしまう。
そんな二人を残して、私はジョージ君の手を引っ張った。居間を後にする。
廊下を歩きながら、ジョージ君に問いかけた。
「ねえ、この後は、どうするの?」
「このまま、帰るよ」
足が止まった。寂しい気持ちが込み上げて来る。
「無理を言って、ごめんね。でも、この家に来てくれて嬉しかった。ジョージ君のお陰で、伯母様、とても楽しそうだったよ」
ジョージ君が、居間の方に振り返った。
「でも、最後は泣かしてしまったから、何だか申し訳ないような」
「いいのよ。ジョージ君のお陰で、伯母様は元気になれたんだから。また、遊びに来たら――」
言葉の途中で、最大の障害を思い出した。ジョージ君から視線を逸らす。残りの言葉を口にした。
「――とは言っても、勲お兄さんが問題ね」
お兄さんの名前に、ジョージ君が少し怯えた。沈黙が流れる。
私は、慌てて言葉を繋げた。
「まー、でも、今日は、本当にありがとう。ジョージ君が来てくれて、私も嬉しかったのよ」
「僕も、楽しかった。喜美代さん達に会うことも出来たし。また、遊びに来れるかは、分からないけれど……」
ジョージ君が、寂しそうに笑う。
「……そうよね」
また、言葉が途切れてしまった。
――今日は、もうお別れなんだ。
そう思うと、寂しさが一層込み上げてきた。そんな気持ちを振り切るようにして、ジョージ君に笑顔を見せる。
「ちょっと表を見てくるね。私が合図をしたら、素早く帰るのよ」
サンダルを履いて、表に出た。隣の離れ屋周辺に、人影がないか確認する。振り返り、ジョージ君に合図した。
「今のうちよ」
「ありがとう、明美さん」
ジョージ君は、振り向かずに走っていった。その背中を見つめる。
「盗まれちゃったかな」
思わず呟いてしまった。




