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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
明美 一九八〇年三月
20/80

もしかして

 重い扉を開けて、ジョージ君が支配人室を出て行った。

 ジョージ君のうなだれた姿が目に焼き付いて離れない。

 勲お兄さんが、ジョージ君を殴った。傍に居ながら、私は何も出来なかった。胸が痛い。


 今日の舞台を思い出す。ジョージ君は、私に向かって手を差し伸べてくれた。


「僕の、モデルをなってくれませんか?」


 声を掛けられた時、私の心がパンと弾けた。ウキウキとした楽しい気持ちにさせられる。

 美智子お姉さんは、舞台の上で笑われた。舞台に出ると、私も笑われるかもしれない。


 ――祝儀代わりに、それも良いかな。


 なぜだか、心に余裕があった。

 ところが、舞台に上がりジョージ君との会話が弾んでいくと、私は気付かされてしまった。現在の、自分が置かれている立場というものを。


 勲お兄さんは、私のことを大事にしてくれる。でも、それは、玩具を手に入れた子供に似ていた。愛情はいつも一方通行。私の声が、お兄さんに全然届かないのだ。

 私が何か意見をしても。


「お前は、俺の言うことを聞いていたらええんや」


 いつもそればっかり。私は、お人形じゃない。


「そうだったのか」


 そんな風に振り向いてくれるだけで、良かったの。

 お兄さんにとって、私はただの愛人。そうかもしれない。それでも、私を見つけて欲しい。

 私の声が届かない。私にも声が届かない。私は孤独だった。

 これは、我儘なんだろうか。そんな心の叫びを胸に仕舞ったままの関係に、私は疲れ始めていた。


「どうか、この泥棒めに盗まれてやってください」


 ジョージ君のその言葉は、私の心の扉を、コンコンと叩いてくれた。私に優しく問いかけてくれる。その響きが、とても心地良かった。


 ――私を見つけてくれた!


 そう感じた。

 私に向かって、ジョージ君が丁寧にお辞儀をしてくれる。体を起こすと、私を見つめてくれた。

 私も、その瞳をじっと見つめ返す。それは、まるで、私に向かって手を差し伸べてくれる王子様のような気がした。


 ――ジョージ君と、心が繋がっている。


 その瞬間、私の胸がギュッと締め付けられた。そんなつもりはなかったのに、思わず涙が溢れ出してしまった。

 私は、心の中でジョージ君に向かってうなずく。


「私を盗んでください」


 嬉しかった。本当に嬉しかった。それなのに……。


 丸めてある紙片に、目を落とす。ジョージ君が描いてくれた私の似顔絵だ。

 ジョージ君に申し訳ない気持ちで、一杯になる。こんな私と関わってしまったばっかりに……。


 勲お兄さんの周辺は、最近、騒がしくなっている。対立する組との小競り合いだけではなかった。お金の匂いを嗅ぎつけた素性の分からない連中がウヨウヨとこの街に集まり、その締め付けに奔走しているのだ。お兄さんの中では、この街を守るという大義名分があるのだろう。私には良く分からないけれど。


 その時、支配人の黒電話が鳴りだした。修お兄さんが受話器を持ち上げる。何度か頷いた後、私を見た。


「月夜ちゃん、野崎京子さんから電話や。喜美代さんが、交番で保護されているそうや」


 私は、驚いて立ち上がった。勲お兄さんが、眉間に皺を寄せて私を見る。デスクに近づくと、私は修お兄さんからその受話器を受け取った。


「もしもし、京子さん?」


「お嬢さん、すみません。本当に、すみません」


 京子さんの、頭を下げる姿が目に浮かぶ。


「謝らないで、京子さん。伯母様は見つかったんでしょう」


「ええ、戎橋の交番から連絡がありました」


「そう、分かったわ。もう遅いし、京子さんは休んでちょうだい。私が迎えに行くから」


 手短に話を済ませて、私は電話を切った。勲お兄さんが、心配そうな表情で私に問いかける。


「お袋、また逃げ出したんか?」


「ええ、そうみたい。最近は、落ち着いていたんだけど……。今、そこの交番で保護されているそうだから、私、迎えに行ってくる」


「そうか、悪いな。頼む」


 支配人室を出て、重い扉を閉める。大きく息を吐いた。

 喜美代伯母様には悪いけれど、良いタイミングだったと思う。男たちがあれこれと画策し合っているあの部屋から抜け出すことが出来て、正直、ホッとしていた。


 支度部屋に行くと、智子ちゃんが壁際のソファーの上で寝ていた。美智子さんの仕事が終わるのを、宿題をしながらいつもここで待っているのだ。寝顔がとても可愛い。風邪をひかないように、私はタオルケットを掛けてあげた。


 智子ちゃんが起きないように注意しながら、髪飾りやドレスを脱いでいく。着替えが終わると、赤いコートを羽織り、セカンドバックを手に持った。


 もう一方の手で、ジョージ君が描いてくれた私の似顔絵抱える。私の胸がほんのりと温かくなった。ちょっと嬉しい。

 この絵を、自分の部屋に飾るとしたら、額縁が必要なことに気が付いた。


 ――そうだ、今度、額縁を買いに行こう。


 そんなことを考えただけで、鬱積した気持ちが霧散した。楽しくなってくる。

 ウキウキとした気持ちで支度部屋を後にした。ジュエリーボックスの裏口から外に出る。足早に、戎橋にある交番に向かった。


 終電が近いというのに、この辺りはまだまだ人が多い。そんな人ごみの中を泳ぎながら、ジョージ君のことを想った。


 ――私に、何か出来ることはないかしら。


 あんまり目立つことをすると、また勲お兄さんが嫉妬に狂うだろう。ジョージ君が殴られるのは、もう嫌だ。でも、何かお返しがしたい。

 そんな事を考えていると、すぐに戎橋に到着した。南側にある交番に向かう。


「すみません」


 交番の扉を開けた。


「喜美代の身内のものです」


 交番の中に入り驚いた。ジョージ君が、私を見ている。しかも、喜美代伯母様の肩を抱いて座っていた。私は、両手を口に当てて驚いてしまう。


「どうしたの、ジョージ君」


 ジョージ君も、驚いた顔で私を見つめ返した。喜美代伯母様と私を見比べる。


「月夜さんのお母さまですか?」


 ジョージ君の驚いた顔に、クスッと笑ってしまう。


「……違うよ」


 そう返した後、先程の一件を思い出した。言葉を濁しながら伝える。


「その……オーナーのお母さま」


 この交番のお巡りさんは、伯母様の素性は知っている。でも、世間体もあるし、安達という名前は敢えて使わなかった。

 それでも、ジョージ君には伝わった。少し怯えたような顔つきになる。やっぱり、仕方がないよね。


「えっと、ジョージ君が伯母様を見つけてくれたの?」


「ええ、そこの戎橋で倒れていたので、この交番まで連れてきたんです」


「そうだったんだ。ジョージ君、ありがとう」


 ジョージ君のことを考えて交番までやってきたら、そのジョージ君がいた。ちょっと吃驚。伯母様は、ジョージ君にもたれ掛かって寝ていた。


 調子が悪くなってからの伯母様は、色んなことを忘れるようになった。会話をしていても、よく話がかみ合わない。ご飯を食べたばっかりなのに、またご飯を食べようとすることもあった。

 だからと言って、何でもかんでも忘れているわけではない。昔のことは、よく覚えていた。妹である私のお母さんの思い出話を、まるで昨日の出来事のように、私に語ってくれる。


 伯母さまの症状が物忘れくらいなら、笑って済ませることが出来た。でも、昨年末くらいから、時々、家を飛び出して徘徊するようになる。お手伝いの京子さんも、気を付けてはいた。でも、伯母様を縛り付けておくわけにもいかない。この交番にも、何度かお世話になっていた。


 寝ている伯母様に近寄る。その肩を揺すった。


「伯母様。喜美代伯母様」


 ジョージ君の胸から、顔を上げる。伯母様が、私を見た。


「あら、明美ちゃん。どうしたの?」


 驚いた。症状が悪くない。伯母様の反応が、自然で明瞭だった。

 隣にいるジョージ君を、伯母様が見つめる。


「良かった。また居なくなってしまったのかと思った……正治さん」


 ――正治さん?

 ――だれ?


 私は、ジョージ君の顔を見た。ジョージ君も困ったような顔を私に向ける。


「僕も、良く分からないんです」


 ジョージ君が、喜美代伯母様に向き直った。伯母様に語りかける。


「あの、僕は譲治です。貴女が言う、正治さんではないです」


 喜美代伯母様が、悲しそうな顔をする。


「そうよね、分かっている。貴方が正治さんでないことは……」


 伯母様が、ジョージ君から体を離す。寂しそうに俯いてしまった。

 私は、お巡りさんに声を掛ける。身元を引き受ける為の手続きを、先に済ませることにした。

 事務的な手続きを済ませて、最後にサインをする。伯母様に歩み寄った。


「じゃ、伯母様。帰りましょうか」


 伯母様が立ち上がろうとする。そんな伯母様を、ジョージ君が支えてくれた。交番を出ると、雨が降り出していた。

 私は、伯母様に問いかける。


「表通りで、タクシーを捕まえますね。ジョージ君はどうする? 一緒に乗っていこうよ」


 ジョージ君が、驚いた声をあげた。


「えっ、良いんですか?」


「良いわよ」


 伯母様が、ジョージ君を見つめた。少し恥ずかしそうに声を掛ける。


「あの、お礼と言っては何ですけれど。もう遅いですし、今日は私の家にお泊りになりませんか?」


 ジョージ君が驚いた。


「いや、そんなわけにはいきません」


 伯母様の提案に大賛成だった。ジョージ君とこのまま別れてしまうのは、とても寂しい。

 私は、強引にジョージ君の腕を掴んだ。


「そうよ、折角だから、泊っていきなさいよ。伯母様も、そう言ってくれていることだし」


 タクシーを捕まえると、遠慮するジョージ君を無理やりタクシーに押し込んだ。私たち三人を乗せたタクシーが、安達家の実家に向かう。ジョージ君は、タクシーの中でひどく緊張していた。

 ジョージ君が、私を見る。言い難そうにしながら尋ねてきた。


「あの~、ご自宅ということは、親分さんもご在宅なのでしょうか?」


 質問を聞いて、ジョージ君が不安がる理由が分かった。そりゃそうよね。自分のことを、殴りつけた親分がいる実家に、喜んで行けるわけがない。


「大丈夫よ。実家には、勲お兄さんは居ないの。お兄さんは、奥さんと一緒にマンションで暮らしているから。ただ、同じ敷地の離れ屋では子分たちが寝起きしているけどね」


 私の説明で、ジョージ君の緊張が幾分和らいだ。


 雨が降る中、タクシーが走っていく。

 窓の外を見ながら、ジョージ君に何をしてあげようか、考えてみた。考えるだけで、楽しくなる私がいた。何だろう、この気持ち。勲お兄さんには、全く感じなかった気持ちだ。


 ――もしかして。


 そう思ったけれど、それ以上は考えないようにした。けど、やっぱり考えてしまう。駄目だ。これでは堂々巡りだ。


 窓ガラスを叩きつける雨粒を見つめた。雨粒が形を変えながら、進行方向とは反対側に向かって、ガラス窓を伝って流れていく。

 私は、自分に笑いかけた。

 どんなものでも、変化はしていく。変わらないものなんてない。


 ――きっと、なるようになるわ。


 そう思った。

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