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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年三月
19/80

ひっかけ橋

 重い扉をアキラ先輩が開けた。僕は支配人室に通される。支配人と目が合った。事務机に両肘をついて、難しい顔をしている。


 右手の簡単な応接スペースに、視線を移した。月夜さんと一緒に、僕を睨みつけたあのお客さんがソファーに座っている。その後ろには、戎橋で出会ったヤクザ者の木崎が厳めしい顔をして立っていた。茂の情報によれば、支配人の弟になるらしい。支配人が、口を開く。


「ジョージ君、今日はご苦労だった。素晴らしい舞台だったよ。ただ……」


 絞り出すような声で、支配人が僕に労いの言葉をかけてくれた。ところが、ソファーに座っていた男が支配人の言葉を遮った。


「もう、ええ」


 男が立ち上がった。鋭い目つきで僕を睨み、筋肉質な体躯を揺すって近づいてくる。存在するだけで、人を威圧するようなオーラを放っていた。


「おまえ、人の女でなに遊んどるんじゃ!」


 叫ぶや否や、男が右腕を大きく振りかぶった。

 咄嗟に、僕は両手で顔を守ろうとする。でも、僕の動作よりも、その男の拳が早かった。

 僕の頬に衝撃が走る。突き抜けて行った。


 ゴキッ!


 目の前の視界が大きくぶれる。膝の力が抜けた。糸が切れた人形のように、体が崩れ落ちる。

 床に寝そべっていた。何が起こったのか、直ぐに理解が出来ない。


 ――今、殴られたのか?


 両手を付いて、顔を上げた。床に赤い染みが出来ている。僕から流れた血だった。

 頬に痛みが走る。口の中から血が溢れ出していた。鉄の味がする。


「やめて! 私の目の前で、暴力はやめて」


 月夜さんが、大きな声で叫んだ。

 月夜さんが、その男を睨む。両手の拳を握りしめて、戦慄いていた。

 男は、目を細めて月夜さんを見つめる。


「分かった、分かった。もう、手荒なことはせん」


 月夜さんにそう言うと、男が僕の横にしゃがみ込んだ。


「おい、お前」


 髪の毛を掴まれる。男は強引に自分の方に向かせた。男と目が合う。


「なめた真似をしてると、承知せえへんぞ!」


 男の手に力が入る。そのまま、勢いよく床に叩きつけられた。


 ゴン!


 鈍い音が鳴り響く。目の前に火花が飛んだ。激痛が走る。


「やめてって、言っているでしょう」


 月夜さんが、泣きそうな声で叫んだ。


「はいはい。分かったよ」


 男が、立ち上がった。僕から離れていく。体重を乗せて、ソファーにどっかりと座り込んだ。

 背広の内ポケットに手を滑り込ませると、ハイライトと印刷されたタバコを取り出す。中から一本抜き取った。

 横に立っていた木崎が、慣れた手つきでライターを差し出す。

 男が、タバコに火を付けた。燻らせる。


「フ――――」


 青い煙が吐き出された。


「修」


 何事もなかったかのように、男が支配人を呼び捨てにする。


「はい、親分」


 ――ああ、そうなのか。この人が、あの安達親分なんだ。


 床に倒れたまま、僕はその人の存在を知った。


「あいつ等の、動きはどうなってる?」


「奴らが、このミナミでヤクをバラ撒いているのは確かです。しかし、その窓口になる人物は、まだ特定できていません」


 安達親分が、目を細める。


「あいつら、俺のシマで好き勝手しよってからに……」


 安達親分は、支配人の弟である木崎隆に顔を向ける。


「おい、タカシ」


「へい」


 真剣な顔で、木崎が安達親分を見る。


「この前、その窓口と接触出来るって、言うてなかったか?」


 木崎が神妙な顔をする。


「すんまへん、親分。あんまり生意気なことを言うもんやから、つい、カッとなってしまって……」


「カッとなって、それで、どないしたんや?」


「その~、睨みをきかしたら、逃げられてしまいました」


 安達親分が、小さな溜息をつく。木崎を睨みつけた。


「おい、タカシ。俺の目の前に、その不細工な顔を突き出せ」


「ヘイ」


 安達親分の前に立つと、木崎は素直に顔を差し出した。

 親分が、大きく振りかぶる。力の限りに木崎さんの顔を殴った。

 その衝撃で顔がブレる。

 しかし、何事もなかったかのように顔を上げた。


「スンマヘン」


 木崎は、悪びれることもなく謝った。


「硬ったいのー、お前の頭は……」


 安達親分は、殴った手を摩りながら文句を言った。小さな溜息をつく。木崎に問いかけた。


「……で、この後はどうするんや?」


 木崎は鷹揚に構えると、現状を説明した。


「窓口との接点は、まだ失っておりません。ただ、俺は、顔が割れてしまいました。他の人間で、再度、接触をした方がええと思います」


 安達親分が天井を見つめた。考える素振りを見せる。


「どんな段取りで、接触するんや?」


「アイツ等の客を、押さえています。トルコ嬢です。その女を通じて、新しい客を紹介するということで、再度、接触することが出来ます」


 安達親分は、グルリと首を回した。僕に視線を向ける。


「おい、そこに転がっている絵描き」


 僕は、ビクッと体を震わせた。身体を起こす。でも、親分の顔を見ることが出来なかった。


「は、はい」


「聞いていたやろ? お前、一緒に行ってこい」


 驚いた。思わず、親分の顔を見てしまう。目が合った。

 安達親分が僕を睨みつける。


「隆と一緒に行って、そのヤクの売人に会ってこい。お前は餌や。接触が出来たら、後は隆がやってくれる。簡単な仕事や。それで、今日のことは、チャラや」


 僕は目を開いて、親分を見る。


「僕がですが?」


 親分が、拳を握った。僕を睨みつける。


「二度言わせるな」


 顔が青ざめた。頭を下げる。


「……分かりました」


 そう答えるしかなかった。


 話がまとまると、木崎は支配人の机に歩み寄る。黒電話の受話器を持ち上げた。ダイアルを回す。繋がった。


「おう、安達組の木崎や。店長おるか?」


 受話器を耳に当てながら、暫く待つ。


「おう、店長か。どうや景気は?」


 電話の主と話を始めた。。


「そうか。まー、しっかり気張りいや。何かあったら、いつでも言うてくるんやで。力になるからな。それでな、お前んとこにエリカっていう嬢がおるやろ」


「ちょっとな、売人を探している。俺らのシマを荒している奴がおるんや」


「大丈夫や、女の子を危ない目にはあわさん。奴らを捕まえたら、ギッタギタにするから、そこは心配せんでええ」


「今日は、おらんのか。今度の出勤日はいつや?」


「分かった。今度の土曜日やな。その日に、ちょっとお邪魔するで」


「大丈夫やって、心配するな。お前も、他の奴らに大きい顔されていたら困るやろ……分かったな」


 木崎隆が、受話器を下ろした。ソファーに歩み寄り、安達親分に内容を報告する。


「今度の土曜日に、エリカって女に会ってきます。その流れで、きっちりと奴らのガラを抑えてきます」


「今度はヘタ打つなよ」


「はい」


 木崎隆が頭を下げる。体を起こすと、僕の方に振り向いた。


「おい、お前の名前は?」


 僕は、木崎を見上げた。


「寺沢譲治です」


 木崎が、不敵に笑う。


「ジョージか、俺は木崎隆や。今度の土曜日は、俺と一緒に行くからな」


 行きたくはないが、従うしかない。僕は頭を下げた。


「分かりました。木崎さん」


「まー、そんなに気を落とすなや。悪いことばっかりでもないで。そうや、そのエリカっていうトルコ譲を紹介しちゃる。シャブ中やけどな。ガッハッハッハッ!」


 木崎は、大きな声で笑った。


 ジュエリーボックスの黒服として仕事に来たはずなのに、舞台に上がるようになった。それだけでも驚きなのに、今度はヤクザの仕事だ。身辺が慌ただしくなる。


 ヤクの売人探しの打ち合わせが終わると、僕は帰宅して良いことになった。まだ、ジュエリーボックスは営業していたが、支配人が僕に気を使ってくれたのだ。


 身支度を済ませて、裏口から出る。

 路地裏では、酔っぱらいの男たちが、くだを巻きながら重い足を引きずっていた。

 そんな連中を横目に見ながら、なんば駅の方へと歩みを進める。いつもなら、タクシーで帰るのだが、今日はチケットがない。地下鉄で帰るしかなかった。


 それにしても、なんて一日だったんだ。初舞台を無事に終えたと思ったら、安達親分に殴られてしまった。

 頬を撫でる。当分、痛みは引きそうにない。


 ――月夜さんに関わるのは、やっぱり難しいな。


 ときめいた気持ちを抑え込む。

 人混みに揉まれながら戎橋までやって来た。この橋は、地元では、ひっかけ橋と呼ばれている。


 ――男が女をひっかける。


 つまり、ナンパ橋というわけだ。でも、見方を変えると、人と人が出会う橋と捉えることも出来る。


 目の前で和服姿の女性が、男とぶつかった。バランスを崩して倒れ込んでしまう。


「ババァ、邪魔なんだよ」


 男は酔っているのか、千鳥足でその場を立ち去っていく。

 僕は、その女性に駆け寄った。肩を支えて抱き起こす。


「大丈夫ですか?」


 倒れた女性は、お婆ちゃんだった。

 身に着けている着物は、暗い灰色の大島紬。それだけで豊かな暮らしをしていることを感じさせた。老齢ではあるが、端正な顔立ちをしている。若い頃はさぞ美しかったのだろうと想像することが出来た。

 その老婆が僕を見た時、驚きの表情を浮かべた。硬直したように、僕の顔をじっと見つめる。


「正治さん」


 僕は、驚いた。


「いえいえ、僕は譲治です。人違いだと思いますよ」


 その老婆には、僕の言葉が全然届いていないようだ。目に涙を浮かべると、今度は僕に抱きついてきた。


「どうして、今まで連絡をくれなかったんですか」


 そう言ったきり、体を小さくして泣き始めた。

 僕は、困ってしまう。泣いている老婆を立たせて、辺りを見回した。南側に交番が見える。そこに老婆を連れて行くことにした。


「あのー、すみません」


 交番のドアを開けて声をかけた。事務机に座っているお巡りさんが、手を止めて僕の顔を見る。


「何かありましたか?」


 親切そうなお巡りさんだ。僕は、お巡りさんに事情を説明する。お巡りさんは、その老婆を見るなり、声をあげた。


「喜美代さんじゃないか。またかね……君、そこにパイプ椅子があるから、そこに座っててくれるか」


 お巡りさんは、机上の黒電話に手を伸ばした。ダイヤルを回し始める。電話が繋がった。


「野崎さんかね。また喜美代さんが徘徊しているよ。いま、戎橋交番で保護しているから、迎えに来てくれるかい?」


 電話を切ると、そのお巡りさんが近寄って来た。喜美代さんに話しかける。


「喜美代さん、今からお迎えが来るからね。駄目だよ、こう何度も何度も家を抜け出しては」


 怖がっているのか、喜美代さんが僕に強くしがみついた。僕は、どうしたら良いのか分からない。その警察官に問いかけた。


「あのー、僕は帰ってもいいのでしょうか?」


「いいよ。だけど、喜美代さんに、えらい懐かれちゃってるじゃない。迎えの人が来るまでは、そのまま傍に居てあげたらどうかな」


「はー」


 中途半端に頷くと、お巡りさんは元いた場所に戻っていった。中断していた事務仕事を始める。


 ――このままだと終電には間に合わないな。


 帰れなくなった場合のことを考えないといけない。本当に、今日はなんて日なんだ。


 喜美代さんは、怯えたように僕に抱きついていた。

 僕は何だか可哀想になり、喜美代さんの肩を抱いてあげた。すると、喜美代さんは嬉しそうに首を傾げてくる。

 悪い気はしない。

 暫くすると、安心したのか喜美代さんの体から力が抜けた。寝息を立て始める。疲れていたのだろう。

 しかし、これでは帰ることが出来ない。観念した。僕は喜美代さんが倒れないように強く抱きしめてあげる。


 ――それにしても、正治って誰だろう。


 そんなことを考えながら、僕は交番で三十分ほど待たされた。


「すみません」


 女の声がした。誰か交番に訪ねてきたようだ。


「喜美代の身内のものです」


 交番の入り口を見る。驚きで体が硬直した。

 交番に訪れたのは、なんと月夜さんだったのだ。

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