囚われの身
――月夜さん。
その名前を口にした時、月夜さんの視線が、僕の瞳を射抜いた。まるでメドゥーサに睨まれたように、僕は固まってしまう。
僕の中に押し込めていた恋心が、飛び出そうとした。胸の中で、ガンガンと暴れまわる。
月夜さんが、笑顔を見せた。同席しているお客様に会釈する。そして、ゆっくりと立ち上がった。
信じられない気持ちで、僕はその様子を見ていた。
月夜さんが、真っすぐに歩みを進める。足を運ぶたびに、黒いドレスのスリットから、月夜さんの白い太ももが、チラチラと見えた。巻き上げた髪の毛に刺している銀色の髪飾りが、照明の光でキラキラと輝いている。
月夜さんが、ステージの上り口までやって来た。
僕はステップを降りる。月夜さんに向かって、僕はぎこちなく手を差し伸べた。
月夜さんが、僕の手を握る。小さくて、とても柔らかい。キュンと胸が締め付けられた。
その手を引き上げて、月夜さんをステージに導く。でも、僕は、自分がすべきことを完全に忘れていた。
ステージに上がった月夜さんが、意地悪そうに笑う。僕は、固まったままだ。
「緊張しているの?」
月夜さんに問い掛けられた。僕はやっと我に返る。
「モ、モデルを引き受けてくれて、ありがとうございます……あんまり綺麗だから……」
月夜さんが、僕の肩を叩いた。
「やだー、もー、口が上手いんだから……」
観客席から、笑いが起きる。
そのお陰で、自分が為すべきことを思い出した。観客席に向かって、月夜さんを紹介する。
「さて、二人目のジュエリーボックスの花は、月夜さんです。皆さん、盛大な拍手を宜しくお願いします」
ホールから、拍手が鳴り響く。
月夜さんをモデル用の椅子に導き、座らせた。黒服が、月夜さんにマイクを手渡す。
僕は、ステージの上を歩きながら、観客に向かって語りかけた。
「皆さんも、もうお分かりになったと思います。僕の似顔絵は、普通の似顔絵ではありません。モデルに、僕が語るドラマの主人公になって頂きます。ドラマの中では、何かしらのハプニングがあります。僕は、その時のモデルの表情を描かせて頂きます。さて、月夜さんには、どのようなハプニングが待ち受けているのでしょうか……」
意地悪そうな口ぶりで、お客様の関心を誘った。小さな含み笑いと、興味ある視線が僕に集まる。
先程の美智子さんの似顔絵の影響が、まだ生きていた。なんだか、とても楽しい。
「ジョージ君、手加減してよね……」
月夜さんが、剽軽な口ぶりで、僕のことを軽く睨んだ。お客様が、クスクスと笑っている。
月夜さんのタイミングの良い切り返しに、センスを感じた。だんだんと余裕が出てくる。似顔絵を描く前に、少し会話を楽しんでみようと思った。
「月夜さんにも、まず、質問に答えて頂きます……好きなタイプの男性を、僕に教えてください」
「好きなタイプ? それって、似顔絵に関係があるの?」
月夜さんが、怪訝そうな表情を浮かべた。
「いえ、ありません。僕の興味です」
男性のお客様の笑い声が、あちらこちらから聞こえた。
「何よそれ~」
月夜さんが呆れた顔をする。
僕は、ホールを指さした。
「でも、ほら。お客様も関心があるようですが」
月夜さんが、困ったような顔をする。渋々、手元のマイクを口に近づけた。
「そうねー、タイプっていうか、王子様のような男性かな。私のことを、守ってくれる頼りがいのある男性がいいなー。ちょっと、乙女チックだけど」
月夜さんの言葉から、王子という言葉が出てきた。僕は、頭の中にチェックを入れておく。
「僕なんか、いかがでしょうか?」
軽いジャブのつもりで、調子に乗って質問する。
「ジョージ君? 全然王子様じゃないわよ。初めて見たとき、あなたのこと、子犬だと思ったのよ。少しは成長したみたいだけど……」
僕は、ワザと情けない顔を観客に見せた。
「お客様の前で、盛大に振られてしまいました……」
クスクスとした笑い声が、ホールから沸き上がる。
僕の心は少し傷ついた。でも、お客様の反応で気を取り直す。
「先程の似顔絵で、ルパン三世の映画の話をさせていただきました。お客様の中で、今、上映中のカリオストロの城を観られた方はおられますか?」
会場から、数人の手が挙がる。皆さんはあまり知らないようだ。振り返ると、月夜さんも手を挙げていた。
「月夜さんは、カリオストロを観られたんですね」
「ええ、お友達と一緒に観てきたの。とっても、面白かった」
――お友達?
もしかすると美智子さんかもしれない。一緒に観てきたんだ。
「では、月夜さんにも、クラリスになって頂きます。映画を知らない方の為に、少し説明をいたします。お姫様であるクラリスは、高い塔の上に幽閉されたおりました。そのクラリスを、ルパン三世が助けに行きます。大泥棒のルパン三世の、今回の獲物はお姫様。実は、ルパン三世が、王子様になる物語なんです」
お客様が、僕の話に耳を傾けている。月夜さんを見て、呼びかけた。
「クラリス」
月夜さんが、不思議そうな顔をする。暫しの沈黙のあと、慌てて口を開いた。
「えっと、私のこと?」
僕は、月夜さんを真っすぐに見つめる。
「そうです。あなたはクラリスです」
クスクスと、客席から笑い声が起こった。話を続ける。
「クラリスは、ひどい女たらしの伯爵に掴まっていました。可哀そうなクラリスは、高い高い塔の上に幽閉されているのです。独りぼっちです。このままだとクラリスは、好きでもない伯爵と、強制的に結婚をさせられてしまうのです」
語りを止めた。ゆっくりと月夜さんを見つめる。暫しの沈黙の後、月夜さんに問いかけた。
「クラリス。伯爵と、結婚したいですか?」
「嫌よ」
月夜さんが即答する。ホールに視線を移し、僕は大きな声で叫んだ。
「でも、伯爵は絶対的な力を持っている。クラリスは逃げることが出来ません。結婚式のその時まで、塔の上で幽閉されたままなのだ――」
手を振り上げる。大きく叫んだ。
「――そこで、ルパンは!」
熱を帯びた僕の叫びに、月夜さんが「待った」をかけた。
「ちょっと待って! ジョージ君がルパンなの?」
僕は、冷静に答える。
「ええ、そういう設定ですが」
「頼りないルパン。ウフフッ」
月夜さんが、小さく笑う。
僕がルパンでは、イメージに合わないようだ。月夜さんの向いに座る。クロッキー帳を広げた。
――さて、どんな表情を描こうか?
お客様に、フリである物語の説明はした。しかし、オチのイメージが浮かばない。幽閉されたクラリスでは、笑いを取ることが難しいことに気が付いた。
――やばい!
少し焦った。このままでは、失敗する。
時間稼ぎのように、更に状況説明を続けた。
「アリ一匹も入り込めないような、鉄壁の警備網を潜り抜けて、ルパンは、塔に幽閉されたクラリスに会いに行きます。しかし、いかに大泥棒のルパンといえども、塔の上に幽閉されたクラリスを、直ぐに助け出すことは出来ません」
月夜さんを見た。この後の展開に期待している。真剣な眼差しだ。
なんだか、僕も熱くなってきた。喋くりが止まらない。
「権力でクラリスを閉じ込める伯爵と、そのクラリスを助けようとするルパン。ルパンが助け出さなければ、クラリスはどうなってしまうのか。ああ、可哀想なクラリス。映画の中で、ルパンは、クラリスに呼びかけます」
僕は勢いよく立ち上がった。両手を振り上げる。真剣な眼差しで、月夜さんを見つめた。
「私の獲物は、悪い魔法使いが、高~い塔の上にしまいこんだ宝物。どうか、この泥棒めに盗まれてやってください」
下手くそなルパンの口真似で、僕は映画のセリフを述べた。右手を胸に添えて、ゆっくりとお辞儀をする。
暫く間をとった。
ゆっくりと体を起こす。
月夜さんが、驚いたように僕の顔を見ていた。時間が止まったかのように、僕を見つめている。
その時、月夜さんの左目がウルウルと潤みだした。みるみる涙が溢れだす。涙が一粒、頬を伝って流れ落ちた。
その一粒に、美しい輝きを見た。僕の中の描きたいスイッチが入る。
――描きたい、描きたい、描きたい!
手元のマジックを見る。しかし、このマジックで、描き切れるだろうか。
もう一度、月夜さんを見つめる。
僕は、眩暈がしそうなくらい集中力を高めた。
マジックのキャップを開ける。
パチン
マジックを、クロッキー帳に落とす。緩やかにカーブさせて、月夜さんの輪郭を描いた。白い空白を強調させて、なるべく線を描き込まない。
涙を主役にするために、消えてしまいそうな月夜さんの似顔絵を優しく描く。
月夜さんを見つめる。
優しく微笑んでくれていた。僕も笑顔を返す。
月夜さんと繋がっているような感覚が、僕の中を駆け抜けた。
興奮しながら、スケッチブックに視線を戻す。
大切なのは、最後に描く、一粒の涙。
意を決して、美しい涙を、一気に描き切る。
僕は、立ち上がった。大きく右手を振り上げる。
「高い高い塔に幽閉されたクラリス。流石のルパンも、今はまだ、貴女を盗むことが出来ない。伯爵は、ルパンを追いかけて、もうすぐそこまで来ている。絶望に打ちひしがれるクラリスにとって、ルパンの言葉は、小さな希望となった」
天井を見上げた。目を瞑りクロッキー帳を抱きしめる。
大きく深呼吸をした。
目を開けて、ホールをゆっくりと見回す。
「いまは、これが精いっぱい」
一粒の涙を流す月夜さんの似顔絵を、ホールにいるお客様に見せつけた。
時間が止まったように、沈黙がホールを支配する。笑い声は起きなかった。
――すべったかな?
勢いで月夜さんを描いたけれど、笑えるような要素はどこにもない。
描きたい気持ちのままに、僕は素直にマジックを走らせてしまった。ちょっと迂闊だったかもしれない。
パチパチパチ!
その時、小さな拍手が聞こえた。それを合図にして、釣られるようにして、あちこちで拍手が起きた。
――えっ!
僕はホールを見回した。お客様が喜んでいる。笑いに出来なかったのに、お客様が喜んでいる。
確かな手ごたえを感じた。僕はマジックを握り締める。このようなオチでも良いんだ。
月夜さんに歩み寄る。手を差し伸べて立ち上がらせた。
「月夜さん、モデルになって頂き、ありがとうございました」
月夜さんが照れている。はにかみながら、僕を見た。
「私こそ、ありがとう。また、私を盗んでくれるかしら」
月夜さんの言葉に、僕の胸がときめいた。
「喜んで!」
ガッツポーズをした。月夜さんに喜んでもらえたことが、とても嬉しい。このまま体が弾けてしまいそうだ。
「喜び過ぎよ」
月夜さんが、口に手を当てて笑った。
クロッキー帳から、月夜さんの似顔絵を切り離す。
「月夜さん。記念にこの絵を貰ってください」
月夜さんが、似顔絵を受け取った。
「ありがとう。大事にする」
両手を広げて、僕はホールのお客さんを見回した。
「囚われのクラリスを演じてくれた月夜さんに、盛大な拍手をお願いします」
大きな拍手が鳴り響いた。二人で手を繋ぎ、観客に向かってお辞儀する。更に、拍手が鳴り響いた。
月夜さんは、僕に会釈をすると、ステージを下りていく。僕は、名残惜しそうに月夜さんの後姿を見送った。
月夜さんがいたボックス席に視線を向ける。その時、そこのお客さんと目が合った。
その瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。お客さんが、僕を睨んでいたからだ。しかも、尋常じゃないくらいの鋭い目つきで。僕は、慌てて目を逸らしてしまった。
――どういうこと?
その視線が心に突き刺さった。
その後もモデルを指名して、似顔絵を描き続けた。初舞台としては、大成功だったと思う。気心が知れたお姉さんたちが協力してくれたお陰だ。とても嬉しい。
一時間ほどのステージが終わった。お客様の大きな拍手に見送られながら、僕は舞台を後にする。
舞台袖にあるパイプ椅子に座った。ドッと疲れが押し寄せてくる。
今から黒服の仕事に戻らなきゃいけないと思うと、ちょっと憂鬱になった。
アキラ先輩が、舞台袖に入ってくる。僕は、アキラ先輩に笑顔を向けた。
「なんとか、最後までやり切ることが出来ました」
アキラ先輩の、労いの言葉を期待した。ところが、そんな雰囲気ではなかった。
「まずいよ、ジョージ」
いつもクールなアキラ先輩が、難しい顔をしている。
「何がですか? 舞台は上手くいったと思うのですが……」
「舞台は、良かった。正直、ここまでやるとは思っていなかった。ただ……」
「ただ?」
アキラ先輩が、言い難そうにする。
「月夜ちゃんは、モデルに指名してはいけなかったんだよ――」
僕の脳裏に、茂の言葉が蘇る。アキラ先輩が、更に続けた。
「――月夜ちゃんは、安達親分の親戚なんや」
僕の背筋に悪寒が走る。
「でも、モデルにしただけで、何も悪いことはしていませんよ」
「ああ、していない。お前は悪くない。それでも、安達親分は気分を悪くされている」
「安達親分?」
「ああ、この店のオーナーで、月夜ちゃんは、今……親分の女や」
僕は、口を開ける。
「おんな……」
「とにかく、今から支配人の部屋まで一緒に来てくれ」
慌てて、アキラ先輩を見た。
「ど、どうするんですか?」
「ひたすら、謝れ。理不尽でも、謝れ。絶対に口答えはするなよ」
先程の疲れも何もかも吹き飛んでしまった。僕の心が、恐怖に包まれる。
――そんなアホな。
――行きたくない。
――絶対に嫌や。
そんな僕の気持ちは無視されて、僕は支配人室に連れて行かれた。ドアの前に立つと、アキラ先輩がノックをする。
「アキラです」
「入ってくれ」
支配人の声に力がなかった。




