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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年三月
17/80

カーチェイス

 舞台の直前までは、黒服の仕事を行った。馴染みのお客様からは、テレビのことで冷やかされる。各ボックス席にアルコールを運びながら、自分の集中力が異様に高まっているのを感じた。不思議なことに、これから舞台に上がるというのに緊張感は、さほど感じなかった。


 それよりも、いつものホールの風景が、何だか違う風景に見えるような気がする。

 どのボックス席に、アルコールが足りていないのか。どのボックス席に、ホステスが足りていないのか。なんだか見えるような気がするのだ。仲間の黒服がその事に気が付かないことが、気になって仕方がない。

 連携を取りながら対応していると、あっという間に時間がやって来た。マネージャーのアキラ先輩に挨拶をしてホールを退室する。足早に黒服の控室に向かった。


 控室に入り、鏡に映る自分の姿を見た。なにか変化が欲しい。上着を脱ぐことにする。黒服と同じ燕尾服では、紛らわしいと感じたからだ。ただ、カッターシャツにネクタイでは、あまりにもラフすぎる。黒いベストは着ておくことにした。


 似顔絵を描く道具として、細くて黒いマジックを手にする。この間の舞台で、僕はマジックの表現力に関心を持ってしまった。鉛筆に比べれば、難しい画材になる。影をつけることが出来ないし、細部を描き込むこともできない。

 でも、必要な線だけを選び出し、マジックだけで描きあげられた似顔絵は、モデルの特徴をより際立たせる面白さがあった。何よりシンプルだ。観客から笑いを取るためには、これくらいシンプルな方が分かり易いと思う。

 鏡を見つめた。


「あ・い・う・え・お」


 鏡に映っている自分の顔に向かって、大きな声で笑ってみる。緊張はしているけれど、臆してはいない。自分の頬を両手で叩きつける。


 バシッ!


「戦いの時や!」


 ロッカーの扉を閉めて、控室を出た。

 舞台袖の小部屋に到着する。椅子に座って出番の時を待つことにした。

 ホールからは、賑やかな客の話声や笑い声が聞こえてくる。さすがに、ちょっと緊張してきた。心臓が、駆け足で走り始める。少し喉が渇いた。マジックを握る僕の手が湿っている。


「フ――――」


 大きく深呼吸した。体から余分な力が抜けていく。

 突然決まったことだけれど、デビューがこのジュエリーボックスで良かった。気心の知れた仲間に見守られながら、舞台に上がることが出来る。

 天井を見上げた。舞台に上がった様子をイメージする。使えそうなネタについて、頭の中で思い描く。ぶっつけ本番だ。上手く出来るかどうか自信がない。最後は、僕の似顔絵で押し切ろう。


 ――大丈夫。俺は出来る。


 自分に強く言い聞かせた。


 人の気配がする。振り向くと、アキラ先輩だった。


「ジョージ、始めるぞ」


「はい。宜しくお願いします」


「立ってくれるか。ピンマイクを付ける」


 椅子から立ち上がる。ピンマイク本体を腰のベルトにセットして、コードの先にあるマイクをベストの襟に挟んだ。


「これで良いですか?」


「ああ。使い方は分かるな?」


「はい」


「椅子は、二脚やな。向きはどうする?」


「向かい合わせで、お願いします」


「分かった。まず、俺が舞台に出てお客様に挨拶をする。その時に、お前のことをお客様に紹介するから、合図をしたら出てきてくれ。そこからは、お前だけの世界や。頑張れよ」


「はい」


 僕から視線を外すと、アキラ先輩が舞台の反対側に手を振った。バンドマスターの板垣さんが、アキラ先輩の合図に頷く。

 すると、甘いジャズナンバーがフェードアウトしていった。


 パーン!


 ホールに、雷のような甲高いシンバルの音が響き渡った。それを合図にして、軽快なスイングジャズが始まる。

 ホールの空気が一変した。加速するメロディに、僕の感情も高ぶっていく。


 アキラ先輩が舞台に飛び出した。慣れた口調でお客様に挨拶を始める。

 大したものだ。ただの挨拶なのにお客が笑っている。この舞台で、毎日、司会を行っているアキラ先輩の力量を肌で感じた。その後ろでは、他の黒服によって椅子のセットも完了する。


「では、今日が初舞台であるジョージ君の登場です。盛大な拍手でお迎えください」


 クロッキー帳とマジックを持って、僕は舞台に飛び出した。照明が眩しい。思わず、目を瞑ってしまった。お客様やホステスのお姉さんたちが、拍手で迎えてくれる。

 舞台の真ん中に立った。アキラ先輩が僕の肩を叩き、退場していく。舞台は、僕一人だけになった。


 緊張の度合いが、一気に高まる。先程の余裕がどこかに消し飛んでしまった。頭の中が白くなる。

 お客様に向かって、深々とお辞儀する。心臓が暴れていた。上体を起こし、観客席を見つめた。なんだか、めまいがした。


「ご紹介に預かりました、ジョージと申します。初めての舞台で、かなり緊張しています。ちょっと深呼吸をしますね」


 両手を広げて、ラジオ体操のように大袈裟な深呼吸をした。

 ホールから、小さな笑い声が起きる。

 息を吐きながら、五感を研ぎ澄ました。観客の様子を感じ取ろうと努める。九束亭四迷師匠の言葉がよみがえってきた。


「毎回、同じ話をしているように見えるかもしれないが、場の空気というのはいつも違う。老若男女、様々な観客を相手に、毎回が真剣勝負なんだよ。客のね、心を覗きながら、間を奪い、笑わせているんだ」


 ――場の空気?

 ――間を奪う?


 僕には、まだ難しい。

 でも、今、この瞬間だけは、観客の視線がこの僕に向けられている。最初が肝心だ。


「ちょっと、落ち着きました。僕は、似顔絵師です。今日は、皆さまに僕の似顔絵を見て頂きます。似顔絵ですから、モデルが必要です。そこで、皆さまの中からモデルを募りたいと思うのですが……どなたか、我こそは、と志願される方はおられますか?」


 最初のモデルは美智子さんと決めている。だけど、僕の芸のスタイルを理解してもらう為に、ワザと振ってみた。案の定、誰も手が上がらないが、ここで動揺してはいけない。笑みを絶やさずに、ゆっくりとホールを見回した。


「誰も、おられませんね」


 美智子さんが、手を上げようか上げまいか、焦っている様子が見えた。その姿に、美智子さんの素直さを感じる。とても可愛い。でも、まだ指名はしない。


「突然、このようなお願いしても難しいですよね。この間、そこのひっかけ橋で、可愛らしい女の子を見つけました。友達を待っているのか、一人で退屈そうな様子だったんです。僕は、その女の子に声を掛けました……」


 間を置いた。ゆっくりと観客の様子を見る。少しは、興味を持ってくれているような気がした。


「僕の、似顔絵のモデルになって下さいって」


 観客に向かって、肩をすぼめて、残念そうな様子を見せる。


「でもね、その女の子から、『新手のナンパなの?』って疑われてしまいました。似顔絵を描く人種は、泥棒と同じで少し警戒されるのかもしれません」


 観客の反応は弱いと感じた。それでも、まだ耳を傾けてくれている。

 僕は、両手を広げてホールを包み込むような仕草をした。


「このホールには、美しいお姉さまたちが、それこそ花束のように集まっておられます。中には、棘のある美しいバラも潜んでいるようですが……」


 ホールから、小さな笑い声が聞こえた。少し嬉しい。


「今日は、そんなお姉さま達にモデルをお願いしたいと思います。準備は宜しいですか。断らないで下さいね。では、最初に……」


 美智子さんに、視線を向ける。緊張しているのか背筋が伸びていた。僕と目が合う。


「美智子さん」


「は、はい」


 美智子さんが緊張している。そんな美智子さんを見ていると、何だか、僕の緊張が解けてきた。更には、美智子さんを揶揄ってみたい、そんな悪戯心まで芽生えてくる。


「僕のモデルになって下さい。宜しくお願いいたします」


 右手を胸に当てて、僕は丁寧にお辞儀をした。

 美智子さんが、立ち上がる。


「では、こちらのステージまで、どうぞ、お越しください」


 大きな動作で、美智子さんに向かって右手を差し出した。

 美智子さんが、舞台に向かって歩き出す。少し恥ずかしそうにしていた。

 僕は舞台から少し降りて、美智子さんの手を握る。舞台の上までエスコートした。美智子さんの横に立ち、観客席に紹介する。


「ご紹介いたします。ジュエリーボックスの美しい花、美智子さんです。盛大な拍手をお願い致します」


 お客様やホステスのお姉さんたちが、大きな拍手で迎えてくれた。


「では、美智子さん。そちらの椅子に座って頂けるでしょうか」


 ステージに設置されている上手の椅子に美智子さんを案内する。黒服が駆け寄り、美智子さんにマイクが手渡された。

 美智子さんは顔を真っ赤にしている。助けを求める様な目を僕に向けていた。


「緊張していますか?」


 僕の問い掛けに、美智子さんが泣きそうな顔になる。


「緊張しています」


 美智子さんはマイクを使うことを忘れている。僕は笑顔で指摘した。


「美智子さん」


「はい?」


「喋るときは、マイクを使ってくださいね」


「えっ、あっ、ごめんなさい」


 ホールから、笑い声があがった。


「今日は、モデルを受けて頂き、ありがとうございます。モデルの経験はございますか?」


 美智子さんが、マイクを握り締めた。


「ボックス席では、いつもジョージ君に描かれているけど、こんな舞台は初めてよ」


「ボックス席って、あの裸の似顔絵ですか?」


 観客席から、笑い声が起きる。


「ちょっと、裸って言わないでー」


 更に、笑い声が大きくなった。


「すみません。美智子さんが余りにも緊張しているので揶揄ってみました」


「意地悪なんだから……。ところで、どうしたら良いの。モデルッて、座っているだけでいいのよね」


「座っているだけで構いませんよ。ただ……」


 僕は、美智子さんの顔を覗き込む。悪戯っぽく笑った。


「何よ、ジョージ君。怖いよ」


 可愛い人だ。直ぐに、反応してくれる。


「似顔絵を描く前に、美智子さんに質問をしたいと思います」


「質問……それくらいなら」


「貴女が苦手なものを、僕に教えて頂けないでしょうか?」


 美智子さんが、目を丸くした。


「私の……それって、似顔絵に関係があるの?」


「ええ、大いにあります」


美智子さんが、考える素振りを見せた。


「そうねー、車かな。ちょっと恥ずかしいんだけど、車に乗ると、直ぐに酔ってしまうの」


 美智子さんの言葉に、僕は想像を巡らす。

 最近、上映されたアニメ映画を思い出した。ルパン三世のカリオストロの城だ。ヒロインであるクラリスの登場シーンで、カーチェイスが繰り広げられる。

 話題として、使ってみることにした。


「この間、映画館に行きまして、ルパン三世の映画を観たのですが……」


 美智子さんが、僕の言葉に反応した。


「あっ、知ってる。カリオストロの城のことでしょう」


 僕は、美智子さんの言葉に驚く。


「知っているんですか?」


「ええ、映画館に見に行ったのよ」


「それは、話が早いなー。劇中では、お姫様のクラリスが車を運転しています。そのクラリスを、賊が襲いかかりますね」


「ええ、そうね」


 僕は、美智子さんを見つめる。少し、間を作った。


「では、美智子さん。今から、貴方はクラリスです」


「えっ、私が?」


 美智子さんが、驚いた表情を浮かべる。


「クラリスである貴女は、賊から逃げるために、車を運転している」


 クロッキー帳をハンドル代わりにして、僕は車を運転する真似をした。


「それがハンドルなの……おっかしい~」


 クロッキー帳で、美智子さんが笑う。幾分リラックスしてきたようだ。


「賊の車は、貴方の直ぐ後ろまでやって来ている。

 美智子さん、貴女はアクセルを踏みしめる。車は唸りを上げてスピードを上げた。

 逃げる、逃げる、逃げる。

 危ない!

 対向車がやってきた。

 間一髪で車をかわしたものの、次に、曲がり角がやってくる。

 右に曲がる。

 そして、左に曲がる。

 ここは、崖の上だ。

 ハンドル操作を誤ると、貴方は、崖の下に、真っ逆さまだ!」


 一気に、まくし立てた。息が苦しい。大きく息を吸い込んだ。美智子さんを見ると、表情が少し引きつっていた。


「ジョージ君。その話を聞くだけで、なんだか、車に酔いそうなんだけど……」


 ゆっくりと歩きながら、下手に設置されている椅子に座る。美智子さんと向き合った。クロッキー帳を開く。目の前の美智子さんが、不安そうな表情を浮かべていた。


「美智子さん、お願いがあるのですが」


「何かしら?」


「口を、大きく開けてみてください」


「いま、開けるの」


「ええ、お願いします」


 美智子さんが、恥ずかそうにしながら、大きく口を開けた。本当に、素直な人だ。

 車に酔った美智子さんを、僕は思い描く。素早く、マジックを走らせた。

 流石に、話ながらでは上手くマジックが扱えない。輪郭だけを描いて、話を続ける。


「逃げるクラリス。その時、目の前に大きなトレーラーが迫ってきた。貴女はハンドルを切って、そのトレーラーを避けた」


 美智子さんが車に酔っている表情を、想像する。

 笑いに繋げるためには表情を誇張しなければいけない。

 出来るだけ大袈裟に、出来るだけ大胆に、意外性のある表情を描きたい。

 車酔いが酷くて、口からもどしている様子は、少しやり過ぎだろうか。いや、それくらい振り切った方が、観客のウケはいいはずだ。


「咄嗟の出来事に貴女は、気を失ってしまった。映画カリオストロの城では、この後、貴女は、ルパン三世に助けられます」


 少し間を置いた。観客席を見回す。


「その時の、貴女の表情は……これだ!」


 美智子さんの似顔絵を、ホールの観客に見せつけた。

 沈黙が訪れる。僕は固唾を吞んだ。

 僕のクロッキー帳に、観客の視線が集中する。


「ワッハッハッハッ!」


 ホールから大きな笑い声が、沸き起こった。

 クロッキー帳の中の美智子さんは、虚ろな目をしながら、大きな口を開けていた。更には、お腹の中の内容物まで吐き出している。

 でも、その表情は、何処か恍惚としていて、妖艶な色気を醸し出していた。


「キャー、嫌だ。そんな、恥ずかしい顔を見せないで!」


 美智子さんが、手を伸ばす。僕が持つクロッキー帳を取り上げようとした。

 でも、悪戯っぽく笑いながら、美智子さんをかわした。

 美智子さんの慌てる姿に、観客がまた笑う。最初の手応えとしては、上々の出来だった。


 美智子さんに歩み寄る。手を差し伸べて、椅子から立ち上がらせた。

 困ったような顔をしながら、美智子さんがはにかんだ。

 美智子さんに、僕は深々とお辞儀する。


「モデルになって頂き、ありがとうございます。この似顔絵は、記念に持って帰って下さい。少し意地悪な絵になりましたが、とっても色っぽいと思いますよ」


 ホールから、優しい笑い声が沸き上がる。

 顔を赤らめながら、美智子さんは口元を手で隠した。


「ありがとう、でいいのかな。ジョージ君は、私のことを直ぐに揶揄うんだから……」


 拗ねた表情で、美智子さんが似顔絵を受け取る。

 僕は、観客に呼びかけた。


「モデルを引き受けてくれた美智子さんに、盛大な拍手をお願いいたします」


 ホールから、力強い拍手が鳴り響いた。美智子さんは、仲間のホステスのお姉さん達に、揶揄われながら帰っていく。

 そんな美智子さんの様子を見ながら、僕は次のモデルを探し始めた。観客の温度は上がってきている。何とか、この流れを引っ張っていきたい。


 ゆっくりと、視線を流していく。僕と目が合おうとすると、慌てて目を逸らすお姉さんもいた。そうした中、一人の女性に目が止まる。あの月夜さんだ。


 初めてこのジュエリーボックスに面接に来た時のことを思い出す。

 ひっかけ橋で、言い寄ってくる輩に対して、月夜さんは冷たい視線で睨み返していた。

 なんだかとても懐かしい。あれから三か月も経ってしまった。

 月夜さんへの恋心はやめとけって、茂に忠告されたこともある。

 そんなことが脳裏にかすめつつも、僕は自然と呼びかけていた。


「月夜さん、僕のモデルになってくれませんか?」

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