デビュー
桜の開花が告げられた昼下がり、大阪ミナミの戎橋周辺は、いつもと変わらない賑わいを見せていた。
押し寄せる人の波の中、泳ぐようにしてジュエリーボックスに足を運ぶ。裏口から店に入り、二階にある黒服の控室に向かった。
物置のような小さな部屋には、壁一面にスチール製の細長いロッカーが並べられている。僕に宛てがわれたロッカーを開いて、ユニフォームである燕尾服に着替えた。
ロッカー扉の裏にある小さな鏡を見つめる。首に巻いた蝶ネクタイを整えた。走ってきたせいで髪の毛が乱れている。櫛を取り出して、髪の毛を後ろに撫でつけた。
自分の表情が少し硬いような気がする。口を大きく開けた。
「あ・い・う・え・お」
顔の緊張をほぐす。鏡に映る自分に向かって、笑ってみた。
「ニ―」
その時、誰かが僕の肩を叩いた。
「何、変な顔をしてるんや?」
振り向くと、マコト先輩だった。
「えーと、笑顔の練習……です」
変なところを見られてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「なんで、そんなんに練習がいるんや。面白い奴やなー。それより観たぞ、テレビ。凄いな、お前」
テレビの話題を振られたのは、マコト先輩で何人目だろう。
出演させてもらった舞台劇が、昨晩、テレビで放映されたのだ。僕は仕事だったので、生憎と観ることは出来なかった。
仕事が終わり部屋に帰ると、夜中に茂から電話があった。今朝も、実家の父親から電話がかかってくる。父親の話では、実家にも僕のことで電話があったそうだ。テレビの影響の大きさを感じる。
「ええ、そうみたいですね」
「そうみたいって、自分のことやのに観てないんか?」
マコト先輩が、驚いた表情を浮かべる。
「昨日の夜は仕事でしたから」
「ああ、そうやな。それは、しゃーないな。けど、凄いぞ、お前。この調子やったら、舞台に上がるのも近いんとちゃうか」
「いやいや、まだまだですよ」
そんな返事をしながら、あの舞台の事を思い出していた。
あの時、圭吾に向かって咄嗟に言葉を発する。
「羨ましいか?」
僕の言葉に、圭吾が鋭く反応した。顔を歪ませ、僕を睨みつける。
僕はその似顔絵を描くことが出来た。
意図的に相手をイジルことで、反応を引っ張り出す。これは僕にとって、かなり刺激的な出来事だった。
――もう一度、試してみたい。
そんな気持ちが、僕の中に沸き起こっていた。
相手の表情を引き出し、さらに過剰に表現してオチに繋げる。これなら、僕の似顔絵で表現ができる。
あと僕に必要なことは、話の流れを作ること。つまり、フリだ。観客をその気にさせるフリが用意できれば、一つの笑いが完成する。でも、その為には経験が必要だった。
着替えが終わり控室を出る。先輩たちと一緒に、開店前の準備を始めた。ボックス席や、通路の掃除はもちろんのこと、おしぼりやアルコールのチェック、ホステスの出勤状況の確認など、押さえることは沢山ある。テキパキと仕事を進めた。朝礼の時間になる。
ステージの周りにホステスのお姉さんたちが集まり、僕たち黒服もその横に並んだ。
マネージャーのアキラ先輩が舞台に上がった。今日の予約状況を僕たちに伝える。木崎支配人が舞台に立った。マイクが手渡される。昨日の売り上げが発表された。売り上げに貢献したホステスの名前が順番に発表される。支配人が賛辞を送った。本来なら、ここで朝礼が終わる。
ところが、支配人が僕に視線を向けた。
「おい、ジョージ」
「はい」
「ちょっと、小耳に挟んだんだが……お前、テレビに出たそうやな」
突然のことで驚く。
「ええ、はい」
「どんな、番組や?」
「舞台劇です。実は、杉山社長の紹介で、チョイ役をお願いされました。それがテレビで放映されました。」
美智子さんが、声をあげた。
「私、ジョージ君の舞台を見てきました。大爆笑でしたよ」
すると、他のホステスも声をあげる。
「昨日、休みだったんで、私もテレビで見ました。ジョージ君の似顔絵、最高でした」
支配人が腕を組んだ。首を傾げて考え込む。
僕の心拍数が上がった。
――もしかして?
支配人が、マネージャーのアキラ先輩に尋ねる。
「今日のイベントは、チークタイムやったな」
「はい、そうです」
僕の心拍数が更に上がった。支配人が、僕を見る。
「ジョージ、舞台に上がるか?」
僕は、目を広げる。
「えっ! い、いつでしょうか?」
「今日や、当たり前やろ」
「今日……今日ですか。まだ、準備が出来ていないんですが」
木崎支配人が、冷たく僕を見下ろす。
「ここに来て、どれくらいになる」
「えっ、えっと、三か月ほどです」
「時間は十分にあった。その間に、テレビにも出た。十分やないか。それとも、やりたくないんか?」
首を横に振る。でも、即答が出来ない。
「でも、急すぎて……」
木崎支配人が、僕を睨みつけた。
「なら、今から考えろ。八時半までに、考えろ。まだ、四時間もあるやないか。その間に考えろ。時間があったからって、ええもんは出来ん。お笑いは、瞬発力や。失敗しても構わん。いや、むしろ失敗しろ。出来るな、ジョージ」
僕の心拍数が、一気に振り切った。口の中が、カラカラに乾いている。僕は、支配人を見上げたまま、固まってしまった。
――僕に出来るのか?
――今、答えるのか?
――いくら何でも、急すぎないか?
支配人は、面接の時から、いつも無茶ぶりが酷い。でも、これはチャンスだ。それは分かっている。後は、僕が決意するだけだ。
だけど、同時に、恐怖心も湧き上がってくる。僕の心の中で、理性と感情がぶつかり合って、目が回りそうだ。
――失敗してもいい。
支配人の言葉を思い出す。失敗してもいいんだ。その言葉が、決め手になる。僕は、拳を握り締めた。
「分かりました。やらせてください」
支配人が、満足そうに笑った。
「よく言った。それでええねん」
木崎支配人が、舞台の上からホステス達を見回した。
「そういう事や。デビューは、大体が失敗するもんや。ジョージのネタがちょっとでも面白かったら、ご祝儀に笑ったってくれ。アキラ、後は宜しく」
朝礼が終わった。皆がそれぞれの配置に向かう。アキラ先輩が駆け寄ってきた。
「お前、本当にやるんか?」
僕は、大きく息を吐き出した。
「ふー、かなり吃驚しました。でも、やってみます。イメージは出来ています」
アキラ先輩が、驚いた表情を浮かべる。
「そうか、任せるぞ……何か準備は必要か?」
「そうですね。椅子を二脚、ステージに用意して欲しいです。ピンマイクもお願いします。それと、似顔絵のモデルに、最初は美智子さんを指名するつもりです。モデルが舞台に上がったら、マイクを手渡して欲しいです。あと……音楽はお任せします」
「分かった。この後、黒服の仕事はどうする?」
「やります。なんだか、落ち着かなくて……三十分前になったら、舞台の準備に入ります」
「そうか、分かった。じゃ、頑張ってな」
先輩が立ち去る。今日がデビューの日になってしまった。覚悟を決めよう。芸のイメージは出来ている。タイトルも決めていた。
――その時、あなたは?
舞台の上で、一つのドラマを観客に紹介する。モデルには、そのドラマの主人公になってもらう。話が盛り上がったところで、その時の表情を似顔絵で表現するのだ。
似顔絵がオチになるから、表情は出来るだけ誇張したものが良いだろう。舞台での、圭吾の似顔絵の感触が思い出された。
ただ心配なのは、やったことがない。イメージしかなかった。
――ぶっつけ本番で上手くいくのか?
分からない。でも、やるしかない。失敗しても構わない。今の僕には経験が必要だ。
ホールを見回した。美智子さんを見つける。傍に駆け寄った。
「美智子さん」
美智子さんが振り向く。僕に向かって、両手を合わせた。申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめんね、ジョージ君。私の所為で大変なことになっちゃったね」
僕は、首を横に振る。
「いえ、その時が来たんです。それより、美智子さんにお願いがあります」
「なにかしら?」
「僕が声を掛けたら、舞台に上がってくれませんか」
美智子さんが驚いた。
「えっ、どういうこと?」
「僕の最初のモデルになって下さい。お願いします」
美智子さんが慌てた。
「えっ、えっ! 私なんかでいいの。何も出来ないよ」
「大丈夫です。僕が、リードします。自然に受け答えをしてくれれば大丈夫です」
「ジョージ君の頼みだし、良いわよ。でも、本当に何も出来ないよ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。
僕の芸は、オチに似顔絵を使うので、どうしてもモデルが必要になる。そのモデルと会話してフリを組み立てていくのだが、全てアドリブで対応しなければならない。正直な所、今はまだ自信がない。
気心が知れている美智子さんなら、僕もやり易い。受けてくれて、気持ちが楽になった。
先ずは、出だしを無事に乗り切ること。悩むのは、それからだ。




