練習
コンクリートで出来た白い建物を見上げる。二階建ての公民館だ。手元にある手書きのメモを見る。ここで間違いない。
今日、この公民館で舞台劇の最後の練習が行われる。杉山社長にお願いされた舞台のチョイ役に参加する為にやって来た。
本番は、この週末に開催される。社長の話では、予定していた役者が、急遽入院することになったそうだ。僕は、その代役になる。勝手が分からないので、とても不安だ。でも、舞台が経験できる。期待に胸が膨らんだ。
入り口のドアを押して、公民館に足を踏み入れる。コンクリート特有の冷気が僕を包み込んだ。誰もいない。奥に向かって声を掛けようとすると、廊下の先に一人の女性を見つけた。
「あのー、すみません」
その女性が、振り返る。
「何かしら」
女性が、僕に向かってきた。劇団の関係者だろうか。
「司プロダクションの杉山社長から紹介を受けた、寺沢譲治です」
その女性は、僕の言葉に少し考える素振りを見せた。
「杉山社長……あー、はいはい。聞いてるよ。君が若林君の代わりの子ね。私は、高木千尋。こっちに来て」
その千尋という女性は、パタパタと廊下の奥に向かって歩きだす。あっさりとした対応だ。僕もその後に続く。
綺麗な人だと思う。ただ、千尋さんからは、ちょっとミステリアスな雰囲気を感じた。ジュエリーボックスのお姉さん達とは、ちょっと違った空気感だ。
お姉さんたちは男を見ると媚を売る。でも、千尋さんからはそうした媚が感じられない。良く言えば真っすぐ。悪く言えば天然。僕なんか全く眼中になかった。どこか浮世離れしている。そんな千尋さんの雰囲気が、新鮮で面白いと思った。
千尋さんが、廊下の先の扉を開けて中に入る。僕もその後に続いた。
そこは、大きな会議室だった。長机は全て片付けられている。演劇の練習には十分な広さだ。部屋の真ん中に七人の男女が集まっている。
千尋さんが、このグループの中心人物らしき男に声を掛けた。
「飯田君、若林君の交代の子がやって来たよ。えーと、名前、なんだっけ?」
千尋さんが、僕を見る。
――えっ、憶えてくれていない。
ちょっとショックだった。僕は、その男の人に頭を下げて自己紹介をする。
「寺沢譲治と言います。杉山社長の紹介でやってきました。今回は、舞台に参加させて頂けると聞いています。宜しくお願いします」
中心人物の男性が、僕に歩み寄った。
「団長の飯田と言います、宜しく。今回は、すまないね。急なことをお願いして。ウチも、メンバーが限られているから、代役を杉山社長にお願いしたんだ」
千尋さんが割り込んでくる。
「ねえ、ジョージ君は舞台の経験はあるのかな?」
僕は首を横に振った。
「いえ、ありません。全くの素人です」
千尋さんが、明らかに残念そうな表情を浮かべる。
「そうなんだ。じゃ、なんで、杉山社長が君を推薦したの?」
なんだか気まずい。
僕は、呑気にも舞台の勉強させてもらおうと思っていた。ところが、彼たちは真剣だ。素人の僕を寄こされて、納得できるはずがない。僕の気持ちが萎えてしまう。少し、社長のことを恨めしく思った。
言い訳のように、僕は自分の経歴を説明する。
「今回の役は絵描きだと聞いています。僕は、芸大で油絵を専攻していました。杉山社長は、それで僕を推薦したんだと思います」
団長が、僕の話に頷いた。
「なるほど。はまり役を送り込むって、そういう意味だったんだ」
少しホッとする。ここは、やる気を見せないといけない。
「頑張ります。宜しくお願いします」
団長の飯田さんが、僕に微笑む。
「ジョージ君のシーンを説明するね」
舞台劇は、ヒロインの千尋さんと、ツッパリの圭吾が織りなす喜劇だった。千尋さんが大好きな圭吾は、なにかと千尋さんにアタックをする。しかし、いつも千尋さんに逃げられてしまうのだ。
僕が出るシーンは、千尋さんと圭吾がケンカをした後になる。画家として登場した僕は、千尋さんをモデルにしてキャンパスに絵を描く。そこにツッパリの圭吾が現れるのだ。嫉妬深い圭吾は、何かと僕に因縁をつける。ただ、僕の役に台詞はない。僕は、絵を描いて退場するだけでいい。物語の進行は、二人に任されていた。
団長の話に、男が割り込んできた。
「ジョージ君。圭吾は俺ね、ヨロシク」
圭吾に、頭を下げる。
「宜しくお願いします」
無邪気そうな青年だ。多分、年齢は僕とあまり変わらない。団長が話を続けた。
「簡単な役なんだ。気楽で良いよ。絵は、予め用意をしている。ジョージ君は、その絵を観客に見せた後、圭吾に追われるようにして退場する。ただね、いま思いついたんだけど、芸大出身の君なら、舞台で直接絵を描いたら、面白いかもしれないね」
絵を描けると聞いて、心が浮き立った。
「絵を描いても良いんですか?」
「うん、良いよ。その方がリアルだし、ただ、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「絵の内容は、君に任せる。実はね、上手くても下手でも構わないんだ。下手なら、とことん下手は方がいい。その方が面白いからね」
「はー、なるほど」
「お願いっていうのは、その絵を出来るだけ素早く完成させて欲しい。それから、観客席からも分かるように、分かり易くて大きな絵が欲しいんだ。」
「出来ると思います」
「それからね、その絵はマジック一本で描いて欲しいんだ。出来るかな。もし無理なら、予め絵を用意する方向でも、僕は構わないんだけどね」
――マジック、一本。
目を大きく広げた。団長が、不安そうに僕を見る。
「マジックじゃ難しいかな? 無理にとは言わないよ」
僕は、首を横に振る。
「面白そうです。是非、僕に絵を描かせて下さい」
団長は、僕のやる気に微笑んだ。
「じゃ、練習に入る前に、一度、君の実力を見せて欲しいな。実際に千尋ちゃんを描いてみようか」
「分かりました。道具はありますか?」
団員の人達が、僕の為にイーゼルを設置してくれた。そこにキャンパスを凭せ掛ける。キャンパスには画用紙が張り付けられていた。これなら何度でも使用ができる。団長が、僕に細いマジックを差し出した。
「今回は、これでお願いするね。大切なことは、速さだからね」
僕は、笑顔を返す。
「大丈夫です」
僕は視線を動かした。モデルになる千尋さんを見る。少し不機嫌そうだ。
「綺麗に描いてよね。でも、本当に大丈夫?」
どうも、心配されているようだ。
「ええ、頑張ります」
僕は、手の中の油性マジックを見つめた。画材としては、初めて使う道具だ。やり直しがきかない道具。これは一発で、線を決めないといけない。後から消せないだけではなく、ためらうと、マジックは滲んでしまう。なんだか、真剣勝負に立ち会う侍になったような気分だ。
目を瞑り、意識を集中した。頭の中で、絵の全体像を想像する。全てを描き込んでいたのでは、分かり易くて綺麗な絵は描けない。マジック一本だから、線の取捨選択が必要だ。表す線、表さない線。全体の大雑把なイメージを、頭の中で先に作り上げた。
これは、面白い勝負だ。やりがいがある。自然に笑みが零れた。
目を開ける。千尋さんを見つめた。肩にかかる長くて黒い髪の毛。すらりとした手足。特徴的なのは、愛嬌のある、その大きな目だ。クリクリとした悪戯な目は、いつも面白いことを探しているような輝きがあった。
でも、その好奇心は、まだ、僕に向けられていない。僕は、千尋さんの視線を、好奇心の矛先を、僕に向かせたいと思った。
「千尋さんの、好きなものって何ですか?」
千尋さんが、眉をひそめた。
「突然なによ。なんで、そんなことを聞くの?」
「モデルである千尋さんのことが知りたいからです」
千尋さんは、馬鹿にしたように笑った。
「見たものを描くだけなのに、そんな事、必要かしら?」
僕は、困ったように頭を掻いた。
「……あの、千尋さんは演じるために、役のことを色々と想像したりするんじゃないんですか?」
「まー、そうね。役者だもの」
「僕も一緒です。僕は、表面的なものだけではなく、モデルから滲み出る美しさも掬い取りたい。そう思って絵を描いています」
「へー、生意気ね。あなた」
千尋さんが、僕のことを睨んだ。
「いえいえ、真剣なだけです」
僕は、真っすぐに千尋さんを見つめ返す。暫しの沈黙が訪れた。
根負けしたのか、千尋さんが吐息を漏らす。天井を見上げると、小さな声で呟いた。
「そうね……タックンかな?」
――タックン?
頭の中で、それが何を意味するものなのかが、僕には想像ができなかった。千尋さんに尋ねる。
「あの……タックンってなんですか?」
僕のことを鼻で笑いながらも、千尋さんが嬉しそうな表情を見せた。
「あのね、家で飼っている三毛猫なの。メスなんだけどね、タックンなの。可愛いのよ」
千尋さんは、三毛猫のタックンを抱きしめるポーズをとった。初めて見せる、千尋さんの優しい笑顔。まるで、聖母マリアのように慈愛に満ちていた。とても美しい。
僕の中のスイッチが押された。
マジックのキャップを取って、僕はキャンパスに黒い線を走らせる。
タックンを抱きしめる、優しい千尋さんを表現するために、丸さを意識した。不必要と思われる線は大胆に切り捨てて、最小限の線で最大の効果を狙った。優しく見つめる目元を繊細に描き切る。口の左下にある特徴的なほくろを、最後に一点、チョンと黒く表した。
僕の後ろで、団長の飯田さんが感嘆の声を漏らす。
「へー、なるほど。杉山社長が君を押すわけだ……」
千尋さんが、団長の言葉に眉を顰めた。興味を持ったのか、こちらに駆け寄ってくる。キャンパスを覗き込んだ。
「えっ、これ、わたし?」
キャンパスを両手で掴んだ。
「どうでしょうか?」
恐る恐る、千尋さんに尋ねてみる。
「すごーい、凄いじゃないの。私、こんな表情をしていたかな?」
吐息が漏れた。ホッとする。
「ええ、タックンに対する愛情を、僕は感じましたよ」
「でも、ちょっと盛り過ぎじゃない。これじゃ、マリア様みたいよ……この絵、欲しい。ねえ、いいかな?」
千尋さんが、駄々っ子のように僕の肩を揺すった。目がキラキラと輝いている。やっと、僕に関心を持ってもらえたようだ。千尋さんに笑顔を向ける。
「ええ、いいですよ。記念に差し上げます」
練習前の腕試しで充実感を感じた。ところが、ツッパリ役の圭吾が、不機嫌そうに文句を言う。
「団長、もうそろそろ、練習に入りましょうよ。こんなことばっかりしていると時間が無くなりますよ」
「おお、そうだな。じゃ、最初っから通しでリハーサルを始めようか。ジョージ君の出番は、まだ先だから、そこで待機しておいて」
ツッパリ役の圭吾の言葉に、攻撃的な意思を感じた。でも、小さな事に気持ちを引っ張られたら駄目だ。自分に言い聞かせる。
舞台劇の内容は、ショートコントをいくつも繋ぎ合わせたような喜劇だった。例えるなら、四コマ漫画を連続で見せられているようなものだ。全編を通して、ツッパリの圭吾とヒロインの千尋さんの恋愛の駆け引きがテーマになっている。二人のドタバタが、確かに面白い。
稽古を見ながら笑っていると、僕の横に団員の男の子がやって来た。
「僕、純也、ヨロシク。もうそろそろ、ジョージ君の出番だよ」
「はい、頑張ります」
「本番の話は聞いてる?」
「いえ、まだ、何も」
「当日は、公開録画されるんだ」
「公開録画?」
純也さんが笑う。
「要は、テレビで放映されるってことだよ」
驚いて、振り返る。
「そうなんですか!」
純也さんは、自慢げに語る。
「杉山社長の後ろ盾で、やっと俺たちにもチャンスが回ってきたんだよ」
「それは、凄いですね。そんな、舞台に、僕がひょっこり現れても良かったんでしょうか?」
「なに言ってるんだよ。さっきの絵、凄かったじゃないか。当日は期待しているよ」
僕の出番がやって来た。立ち位置や、追い払われて舞台から退散するタイミングを説明される。舞台に出て、僕は千尋さんの絵を描くだけで良い。その絵を圭吾に貶されて、追い払われる。台詞はない。兎に角、僕は絵を描けば良い。僕が登場するシーンの練習が始まった。
舞台の左袖から、僕と千尋さんが登場する。先を歩く千尋さんは、楽しそうにスカートを広げてクルリと回った。僕はその後姿を追いかける。千尋さんが振り返った。
「絵描きさん、私を綺麗に描いてね。お願いよ」
僕は、持っていたイーゼルとキャンパスをセットする。その間、千尋さんは、圭吾に対する不満を観客に向かって吐き出した。
「あんな奴、知らない」
本当はツッパリの圭吾の事が好きなのに、強がって見せている。そんな千尋さんを見ながら、僕の手は既に動いていた。千尋さんが僕に語りかける。
「絵描きさん。どんな、ポーズが良いかしら?」
「出来ました」
千尋さんが、目を丸くした。
「ええー、うそー」
千尋さんは、本当に驚いていた。演技ではなかった。団員達が、そんな千尋さんの様子を見て笑った。僕は、少し優越感に浸る。
千尋さんが僕に歩み寄った。出来上がった絵を覗き込む。
「すごーい、とってもキレイよ。ありがとう」
千尋さんが、笑顔になる。僕の肩に両手を添えて、僕を見つめた。演技ではなくて本当に喜んでいる。そんな千尋さんの目を、僕もじっと見つめた。
そこに、怒りに燃えたツッパリの圭吾が登場する。
「こらこら、そこで何をしているんや。千尋、そいつは誰や?」
千尋さんは、すまし顔で圭吾を見る。
「あなたに用はないでしょう。私は、絵を描いてもらっているの。モデルよ、モ・デ・ル」
圭吾は、怒った表情でズカズカと近づいて来る。僕の絵を見た。
「なんや、こんな絵」
千尋さんが描かれたキャンパスを圭吾が掴んだ。観客席に見せつける。
「下手くそー、って言いたいところやけど、まあまあやな」
団長が、クスッと笑った。圭吾が、僕を睨みつける。
「お前は千尋の何なんや。とにかく、帰れ帰れ、ここから出て行け。お前に、用はないんじゃ」
圭吾が、僕を舞台の袖に追い払う。僕は、ツッパリが怖い振りをして、頭を抱えて逃げていく。その時、圭吾が叫んだ。
「何じゃ、こんな絵」
画用紙を引きはがす音が聞こえた……かと思うと、僕の身体に軽いものがぶつけられた。その軽いものが、足元に落ちる。丸められた画用紙だった。
圭吾は、キャンパスに張り付けられていた僕の絵を丸めて、僕に投げつけたのだった。
「えっ!」
思わず声が出た。無残な姿になった僕の絵を見つめる。
舞台の説明で、そんな演技の話は聞いていなかった。腹を立てそうになったけれど、ここは我慢をする。もしかすると、舞台上の演出に必要なのかもしれない。
ところが、千尋さんが声をあげた。
「圭吾! いくら何でも、それはやり過ぎよ」
圭吾は、悪びれることなく反論する。
「そうかな。リアルさを追求したら、あれくらいやってもええやろ」
「リアルにも限度があるわ。あれじゃ、ジョージ君が可哀そう」
千尋さんが、圭吾を睨みつける。
「舞台上では、ジョージは俺の恋敵や。一発殴ってもええくらいの相手なんやで」
圭吾は、千尋さんから視線を外した。
「でも、私たちの舞台は喜劇よ。そこまでやったら、笑えない」
団長の飯田さんが仲裁に入る。
「圭吾。今回は、お前が悪い。やりすぎや」
圭吾が、団長を見る。不貞腐れた。
「へい、へい。私が悪うございました」
その後、練習は続行された。一つのトラブルに振り回されることなく、真剣に取り組んでいる。さすがプロを目指す団員たちだ。その熱意には感心する。でも、僕の中に、大きなわだかまりが残った。
――あの野郎!
あの圭吾という男が気に入らない。
あいつは千尋さんのことが好きなんだろう。嫌がらせは、その嫉妬の所為に違いない。舞台の上で、恋愛感情までリアルに表現されたんじゃ、こちらも堪ったもんじゃない。何か仕返しをしてやらないと、僕の気持ちが治まらなかった。
――どうしてくれよう?
練習を見守りながら、僕はそんなことばかりを考えていた。




