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逃げるしかないだろう  作者: だるっぱ
譲治 一九八〇年三月
13/80

笑い

 ジュエリーボックスにやってきて、三ヶ月が過ぎる。年を超えて、季節は冬から春になった。

 三月は、節目の時期になる。確定申告の締め切りから解放され、卒業式や引っ越しといったイベントを迎え、世間が切り替わる。だからなのか、ジュエリーボックスはいつにも増して大盛況だった。

 幾つかのボックス席では、会社仲間と思われるグループが杯を交わしている。春からの人事の話で盛り上がっていた。会社組織内の再編や移動に伴い、出会いと別れのドラマが、そこかしこで交わされているのだろう。


  コノサカズキヲ受ケテクレ

  ドウゾナミナミツガシテオクレ

  ハナニアラシノタトエモアルゾ

  「サヨナラ」ダケガ人生ダ


 大好きな、井伏鱒二の「勧酒」を口遊む。


 ――人生に別れは付き物だ。


 独り悦に耽っていると、後ろから頭を叩かれた。


「こらこら、なに、ボーッとしているんや」


 振り返ると、マネージャーのアキラ先輩が立っていた。素直に頭を下げる。


「すみません」


「ジョージ、お前に指名や」


「えっ、僕にですか?」


「杉山社長だよ。最近、あの社長に気に入られているみたいやな」


「ええ、そうなんです。僕を呼んでは、ホステスの裸を描かせようとするんですけどね」


 アキラ先輩が、鼻で笑った。


「ほんまに、エロ親父やな。お金は落としてくれる上客やから、かまへんけど。ジョージ、クロッキー帳を持っていけよ」


「はい、分かりました」


 ボックス席に向かうと、美智子さんが社長の相手をしている。僕を見つけて、手を振ってくれた。僕は、笑顔で歩み寄る。

 杉山社長に僕を紹介してくれたのは、美智子さんだった。入社以来、何かとお世話になっている。面倒見が良くて、とても優しい人だ。


「いらっしゃいませ、杉山社長。ご指名、ありがとうございます」


 社長に頭を下げた。


「待っていたぞ。まー、座れ、座れ」


 社長に向かい合うようにして腰を下ろす。


「また、裸の絵を描くんですか?」


 悪戯っぽく社長に問いかけた。すると、隣りの美智子さんが、自分の胸を隠すような仕草を見せる。


「えー、やだー。もしかして、また私の裸なの……」


 美智子さんのオーバーな反応に、杉山社長が笑った。


「ガッハッハッ。この間はオッパイを見たからな。今度はお尻とかどうや……」


 杉山社長の視線が、美智子さんの丸いお尻に注がれる。


「もー、社長のエッチ。私なんかより、もっと若くて可愛い子がいるじゃないですか。そうそう、今度は月夜ちゃんを指名しよか、って言ってましたよ。社長」


 美智子さんの言葉を、社長が面白がった。


「月夜か……悪くはないな。しかしな、ワシはもっとバカで愛嬌がある女が好きなんや」


 美智子さんが、社長の言葉に少し拗ねた表情を浮かべる。


「……じゃぁ、私はバカっていうこと?」


 美智子さんの言葉に、社長がニヤリと笑った。


「ちゃうがな。美智子はバカみたいに愛嬌があるってことやがな。ガッハッハッ!」


 大声で笑いながら、社長は美智子さんの腰に手を回す。お尻を触った。


「んもー。どさくさに紛れて……」


 文句を言いつつも、美智子さんは杉山社長にしな垂れかかる。


「最近の月夜は、女として一皮剥けた感じやな。別嬪なうえに、なんや余裕が出てきよった。ただ、あいつはなー、イジリ難いところがあるんや。プライドが高いからな……」


 ――そう言えばそうだ。


 社長の話を聞きながら、僕もそう思った。始めて出会った頃の月夜さんは、どこか無理をしている感じがした。僕の手元にある、睨んでいる月夜さんの似顔絵なんか、まさにその証拠だ。どこかで折れてしまいそうな危うさを感じた。

 ところが、最近の月夜さんからは、余裕を感じる。そんなことを考えながら、クローキー帳を開いた。

 そんな僕に、杉山社長が視線を向ける。


「ジョージ、今日は美智子の絵やないねん。お前に用があったんや」


 僕は眉を寄せた。両手で自分の身体を抱きしめる。


「あの……僕の裸ですか?」


 おずおずと聞いてみた。


「ちゃうがな。ガッハッハッハッ!」


 自分の膝を叩きながら、社長は転がりそうなくらいに笑った。


「えっ、違うんですか?」


 社長の目から涙が出ている。意味が分からない。


「ヒー、ヒー。お前のボケ、最高やな。死ぬかと思ったで」


 笑いが落ち着くと、杉山社長はテーブルの上に手を伸ばす。水割りを掴んだ。一気に飲み干してしまう。ソファーにもたれ掛かかり、僕を見つめた。


「用があるっていうのは、お前に相談したいことがあったんや」


 首を傾げる。


「相談ですか?」


 社長が頷いた。


「そうや。お前、舞台に興味はあるか?」


 目を開いて社長を見る。


「舞台……ですか。興味というよりも、支配人からは舞台に上がれって言われています。ただ、僕の似顔絵で、どうすればお客さんを笑わせることが出来るのか、よく分かりません。知らんぷりも出来ませんし、困っていたところです」


 杉山社長が、少し考えるような素振りを見せた。


「笑いか……。まー、ワシのお願いは、そんな高度なもんやない。ちょい役のエキストラや」


「エキストラ?」


「そうや。わしの仕事が映像制作会社なのは知っとるやろ。今度、舞台劇があるんや。その絵描きの役を探してる」


「絵描きですか?」


「そうや、お前にぴったりやないか」


「でも、役者なんですよね」


「簡単な役でな、台詞はないんや。絵描きとして舞台に出て、不良に追い払われる。たったそれだけのシーンや。素人にベレー帽を被せとくだけでもええくらいなんや。どうや、折角やから、お前、出てみるか?」


 僕は、腕を組んだ。難しくはなさそうだ。それに、ちょい役とはいえ、観衆に晒される舞台を経験することが出来る。これはまたとないチャンスだ。


「やってみたいです。何か、勉強が出来そうな気がします。宜しくお願いします」


 僕が頭を下げると、社長が微笑んだ。


「そうか、そう言ってくれると助かる。ワシのポジションは、何でも屋やねん。テレビにこき使わればっかりや。人の手配は、ワシの本来の仕事やないんねんけどな」


「大変そうですね」


 社長が笑った。手を伸ばすと、また水割りを飲む。


「ところで、お前。ゆくゆくは、舞台に上がるつもりなんか?」


 社長の言葉に、僕は頷いた。


「できれば」


「笑いに興味があるんか?」


「ええ、興味があります。黒服をしながら、要望があれば、ここで似顔絵を描かせてもらっています。だけど、それを笑いにどう繋げれば良いのか、悩んでいます」


 社長が、身を乗り出した。


「笑いの基本て、何か分かるか?」


「基本ですか? いえ、考えた事はありません」


 社長が、悪戯っぽく笑う。


「笑いはな、フリとオチや」


「フリとオチ……ですか」


 社長が頷いた。


「オチで笑わせるということは、感覚で分かると思う。しかしな、本当に大事なんは、フリの方なんや」


 ――フリ?


 社長の話に、僕も身を乗り出した。


「人はな、常識が覆された時に笑うんや。そんなことないやろーって」


 僕は大きく頷く。社長は更に続けた。


「例えばな、歩いていた人が、バナナの皮を踏んでこけたとする。普通はな、歩いている人は何もなければ、そのまま歩き続けるもんや。人は常識として、そう認識している。そこに、バナナの皮というイレギュラーが発生した。目の前で人がこける。これが、常識が覆される瞬間や。この時に、人は笑うんや。笑いの基本的なプロセスはそういうもんや」


「なるほど」


 杉山社長の話に、僕は何度も頷く。


「この店で似顔絵を描いてきて、どんな笑いがあった?」


 これまでの出来事を、思い浮かべてみた。


「九束亭四迷師匠の席でのことなんですが、美智子さんの裸を描いたときに、師匠が美智子さんの乳首を黒く塗ろうとして、大笑いしたことがあります」


「四迷師匠かー、流石やな。それは、ええ例や――」


 社長は、言葉を探しているのか、少し考え込む。


「――例えばな、お前が似顔絵を描こうとする行為は、フリになるんや。お客さんに、これから似顔絵を描くことを理解してもらう。このフリの段階で、お前の世界観を確立して、お客さんと認識の共有を行う。つまり、これが常識を作るということや。それに対して、師匠が取った行為は、その常識を覆す行いや。ただの似顔絵を超えて、乳首を黒く塗るというオチで笑わせたんや」


「なるほど、言われてみれば」


「フリはな、なるべくシンプルで、分かり易い方がええ。説明が多いと、なんやよう分からんようになるからな。似顔絵を描くための物語を、お前が観客に提供して、みんなをその気にさせる。そこに予想外の似顔絵で、オチを作る。このパターンを、もっともっと追及していけば、何か出来そうやぞ。特に、ジョージ。お前は絵が上手い。観客がそのオチを分かっていたとしても、その絵の技術で納得させることも出来る。案外、面白いかもしれんぞ」


「うーん」


 腕を組み、僕は唸ってしまう。

 社長の話で、頭の中が沸騰しそうなくらいにグルグルと渦巻いていた。

 今まで、笑いのメカニズムなんて考えたこともない。それこそ雲をつかむような思いだった。ところが、今の話で僕の頭の中に一筋の光が見える。雲に晴れ間が見え始めたのだ。


「ワシの講義は、ここまでや。酒がなくなった。美智子、ボトルを入れてくれ」


「キャー、嬉しい」


 美智子さんが、売上アップの注文に笑顔を見せた。

 僕は、黒服の仕事をしなければいけない。杉山社長に頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました」


「何かつかめたか?」


「はい。何か、見えてきたような気がします」


「そうか、それは良かった」


「では、ご注文のボトルをご用意します」


 立ち上がった。ボックス席を離れる。

 何だか足取りが軽かった。気持ちが高揚している。それこそ、走り出したいような気持に駆られていた。

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