まおのもり
「いい加減しつっこいなあ! あたしがこっちって言ったらこっちなの!」
「地図見てぇぇぇぇ! お願いだから現在地確認してぇぇぇぇ!」
深い深い森の中、うねる枝を張り巡らせた暗緑の木々に遮られ、天空から降り注ぐ金色の光は地に届かない。
昼日中でも闇に包まれ、動物ですら方角を見失うと言われているこの地で、彼女らは先刻から数時間もの間彷徨い歩いていた。
ぶっちゃけ迷子である。
彼女らは、双子の姉弟。父母からは真緒と直緒と名付けられた。
真面目で素直で、いつまでも一緒にいられるようにと、願いを込めて。
しかし、その願いは叶えることはできなかった。
叶わない、願いだった。
だから、二人は逃げ出した。
二人でならば、逃げ切れると思ったから。
しかし、どこをどう間違えたのか、双子は迷いの森に足を踏み入れてしまい、逃げることも帰ることもできなくなってしまった。
「地図なんて、現在地が解らなければ意味ないじゃない。見たって無駄よ」
「コンパスとかは!? 持ってないの!?」
「あんたが持ってくると思ってたんだけど」
「人任せ!? 他力本願!? 誰のためにこんなことしたと思ってんの!?」
直緒の叫びが、虚しく木々の間に谺する。
不気味な鳥の鳴き声が、遠くの枝の上から聞こえた。
真緒は肩から下げた大きな巾着の紐をぎゅっと握り締め、隣に立って必死に地図を広げている直緒に目を向けた。
「あたしのためでしょ。知ってるわよ」
眉間に寄せた皴と、尖らせた口が真緒の心情を表しているようで、直緒はバサバサと地図を引っ繰り返す手を止めた。
「あ……ごめん。別に真緒のせいだなんて思ってないから……」
直緒は双子の姉に擦り寄って、その手を重ねる。
昔から、機嫌をとるときには、こうやって手を繋いで歩いた。
こうやって、身体の一部が繋がっているとほっとする。
本当ならば全部繋がっていたいのだが、それは不可能な話だ。
直緒は真緒と手を繋いだまま歩き始める。
「このまま歩いて、どこに行くのかな?」
「知らないわよ。地図見たら?」
ざくざく、下生えを踏む足音ばかりが聞こえる。
直緒の言葉は、あっさりと真緒に切り捨てられた。
直緒は真緒とそっくり同じように、眉を寄せて口を尖らせる。
容姿は似ていないし性格も正反対だが、動作だけはまったく同じだった。
口を尖らせて拗ねる癖も、不安なときに何かを握り締める癖も、コピーしたようにまったく一緒。
踏み出す足も同時に出して、立ち止まるタイミングまでぴたり同じだ。
双子の前には、一軒の家が建っていた。
どう見ても廃屋。人が住んでいる気配もない。
「なんでこんな所に家があるんだろ?」
「丁度良いじゃない。中で休みましょ」
「ええ!? それはマズくない?」
こんな森の奥に一軒家。しかも家人はいなくなって久しい様子だ。
そのような家に入るなど、とても怖くてできない。
しかし真緒は直緒を置いて家の中に入ってしまった。
この姉のこういった行動力が、常にトラブルの基となっているというのに、一向に改善される気配はない。
気付けば真緒は、家の窓から顔を覗かせて手を振っていた。
「何してんの? 早く来なさいよ!」
直緒は上向いて枝の絡み合う空を見つめ、諦めの多分に入り交じった溜め息と共に、がっくりと肩を落として視線を地に向けた。
昔から、姉には逆らえないのだ。
直緒が恐る恐る家の中に入ると、内部は驚く程整っていた。
ボロボロだった外壁とは違い、暖色系の壁紙は染み一つなく、床は磨き上げたようにピカピカだ。
ソファーもベッドも綺麗に整えられ、ゴミ一つ落ちていない。
テーブルの上には小さなランプと、花瓶が一つ。
花瓶には、森でよく見かけた白い花が飾ってあった。
「ねえ、変だよ。誰もいないのに、なんでこんなに綺麗にされてるの?」
「猟師さんの休憩所とかなんじゃないの? きっと最近まで誰かいたのよ」
直緒は不安げな声を隠そうともしないが、姉はまるで気にしていない。
その大雑把な性格が、直緒には羨ましくもあり、改善してほしい最大の欠点でもあった。
こんなに怪しい家を見て、何故そのような発想が生まれるのか。
双子という最も近しい存在でありながら、直緒には姉の思考が解らない。
「あ、見て。食べ物もある」
キッチンにいる真緒が、嬉しそうに笑うのが聞こえる。
そこにあったのは、今朝切り捌いたばかりの、肉の塊だった。
干物にでもするつもりだったのか、幾つかは小分けにされて干されている。
いよいよ直緒は怖くなり、真緒の手を引いた。
「ねえ、やっぱりおかしいよ。なんで誰もいないのに、こんなものが置いてあるの?」
「猟師さんが捌いたんじゃないの? たぶん、今も狩りに行ってるのよ。帰ってきたら、分けてもらえるように頼んでみましょ」
どこまでも大雑把な姉は、弟の手を振り払い正体不明の肉を皿に乗せる。
二人で食べるにはやや多めの量を取り分けて、テーブルの上に置いた。
直緒は姉の姿を見つめ、自分の服の裾をきつく握り締める。
「ねえ、もう行こうよ! 勝手にそんなことしたら、怒られるよ!」
直緒はいつまでも肉の前から離れない姉の手を、思い切り引っ張った。
焦れたように足を踏み鳴らし、その度に直緒の短い黒髪が揺れる。
真緒はようやく振り向いて、直緒の黒い瞳を覗き込んだ。
「そんなに恐いの?」
直緒の瞳に映った真緒が、クスクス笑いながら小首を傾げる。
直緒とは似ても似つかない、真っ白な長い髪が揺れた。
真緒の口から赤い舌がちろりと覗き、唇を舐め上げる。
「ねえ、そんなに恐いの?」
再度問う真緒の目が、黄色く鈍い光を放つ。
直緒は、知らず知らず溢れた冷や汗が頬を伝うことにも気付かず、真緒の瞳を凝視していた。
わずかな振動を手の先に感じる。
一瞬、真緒が震えているのかと思ったが、自分が震えているだけだった。
「なんで、ここがこんなに綺麗なのか、気にしてたわね。教えてあげましょうか?」
真緒は口角を持ち上げ、ぞっとする程に美しい微笑みを浮かべた。
「ここ、あたしの隠れ家なの」
直緒は目を見開き、咄嗟に真緒の手を離して後退りするが、逆に真緒から手を掴まれてしまい無理だった。
真緒は微笑みを浮かべたままで話を続ける。
真緒は、夜毎家を抜け出しては、ここで獣を狩っていた。
自分の欲を抑えるためだ。
そうでもしないと、この衝動を抑えられなかったのだ。
――喰 い た い――
真緒の白磁のような細い指が、直緒の頬を撫でる。
「ね、直緒。あたしと、一つになりましょ?」
「お、お姉ちゃん……」
「あんたを、食べてあげる」
人間の女の腹に宿った、鬼の赤子。
同じ日に、同じ女から生まれたのは、白い髪の鬼児と、黒い髪の男児だった。
真緒の鋭い牙が、日に焼けた直緒の首筋に噛り付く。
鬼の女児は、その身に流れる鬼の血と 人の血の争いを見つめてきた。
ある日は人の血が勝り、ある日は鬼の血が勝る。
鬼の血が騒ぐときは、こうして獲物を狩ってその血肉を喰らった。
唇を赤く染めて、真緒は静かに微笑んだ。
「あたしたち、ようやく一つになれたのね」
その手に最愛の弟の首を抱き、真っ赤に染まった鬼女は狂ったように笑い続ける。
いつしか、人々は口を揃えて噂するようになった。
この森には、人を喰らう魔王が棲むと。
END