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大人の交換日記2  作者: 安藤 強
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成就しない大人の恋愛物語

安泰の生活は人それぞれ価値観次第で大きく違う。又、それにより持たされる幸せもまちまちだ。

一見すると不逞な行為も、受け取る人間によっては、大切な事にさえなるのだ。この物語もそういう

価値観を描いた物だ。


「あの終わりました」

「はい、解りました、今行きます」

 祐樹が出て来た、そのまま寝室へ向かうのかと思っていたら、意に反して祐樹は再びリビングへ誘った。

「あの寝室では無いのですか?」

「あぁ、その前に、して欲しい事が有りまして、少しで良いですから、ピアノ聴かせて下さい、私の要望に有りましたよね」

「はい、そうでしたね、解りました」

 明子はそうだったと思い、これも仕事の内だ、しょうがない一曲適当に弾きますかと、承諾した。

 リビングに戻り、明子はピアノ前に座り、

準備をする。腕を伸ばし、手首を入念にグルグル回し、最後に指を揉み解す。

「あの何かリクエストは御座いますか?」

「いいえ、特にそんな事。・・・我が家は私以外音楽家ですが、私はてんで音楽には疎いので、曲を言われても解りません。何時も娘の弾く音色を聞いて満足している身ですから、貴方の得意な曲なら何でも良いです」

 明子はそう言われて、自分の得意な曲を披露する。弾いていてスタインウェイの弾き心地に自分もついうっとりして、何時もより長く弾いていた。その様を祐樹はソファーに座りゆっくりと眺めていた、そしてそこに美鈴と瑞樹が並んで座り、ピアノを弾いていた当時の事を思い出していた。ああ、この感じだ

そうだ、あの二人こうして並んで弾いていた、あの頃が懐かしい、祐樹はいつの間にか、

感傷的になっていた。そう忘れていた悲しみが、蘇って来ていた。駄目だ、これ以上聴いていると。忘れていた思いが祐樹の心を揺さぶった。何よりも明子の演奏が思いの外見事過ぎて、さらに祐樹の感情を揺り動かした。堪らずに祐樹の頬を涙が一筋流れた。

明子は弾きながら祐樹の異変に気が付いた、泣いている、私の演奏で涙している、別に悲壮感の有る曲では無い、単なる練習曲だ。それなのにこの人は何故に。涙する祐樹をほっておけずに明子は曲を弾くのを止めて、祐樹に駆け寄る。

「如何しました、何故に泣いているのですか、私の演奏お気に召さなかったですか?」

「いいえ、個人的な事なのです、どうか気になさらずに居て下さい」

「でもそんな、気にするなと言われても、気に成ります、私で良ければお話をお聞きしますが」

「そうですか」

 祐樹は話すか如何か迷った、所詮は金で、体を売る様な人だ、話しても良いのかと。

そう思う反面、今の演奏は確かだった、素人でもその腕の素晴らしさは理解出来た、だとしたら相当な努力家だろう、そんな人がいい加減な判断でこの仕事を選ぶ訳が無い、きっと何か事情が有り、この仕事を始めたに違いない。だとしたら、話しても、人の機微とか解ってくれそうだ。そう思うと祐樹は家族の事を話し出す。

「今年の夏に、ヨーロッパで飛行機事故が有りましたよね」

「はい、大ニュースでしたから覚えています、それが?」

 祐樹は俯いた、話すつもりで居たが、やはりすこし憚った、ここで話したら、きっと慰めを受けるだろう、でも女々し過ぎる。今日はその為にこの人に来て貰った訳では無い。

それなのに、情けない、涙してしまった自分に嫌気がさしていた。

「もう良いです、この先は止ましょう」

 明子は引けなかった、止めましょうと言われて、はいそうですか、とは行かない性格なのだ。この人は間違いなく助けがいる筈だ、

だとしたら、それは何なのかが知りたかった。

「私では役不足ですか、やはり体を売る様な女には、話したく無いですよね」

「そんな事、有りません、アカネさんの事をそんな卑しい人だとは思って居ません」

 祐樹は思案した。その目を明子の瞳に据えて見つめると、その奥底から何かを訴えているのが感じ取れた。あぁこの人なら、話しても大丈夫だ、きっと私の事を理解してくれる。祐樹の心は明子の優しさを受け止めた。

「実はあれに、私以外の家族三人が乗っていました」

「それって、じゃあ」

「そう、帰って来ないのです、もう二度と、

今日はおろか、ずっと帰って来ないのです」

 祐樹はそうこぼすと、又新たな涙を流す、

忘れていた事が明子の演奏をする様を見ていて、思い出してしまったのだと吐露する。

「御免なさい、泣いて申し訳無い、無様な姿をお見せして、本当にすいません」 

 明子は何も言い返せないでいた、先程まで思っていた勝手な自分の思い込みが恥ずかしくて、堪らなかった。でも何とかして祐樹を元気つけようと、抱き寄せ体を摩る。

「すいません、私も事情を知らずに、迂闊に演奏したから」

「いいえ、頼んだのは私です、貴方は何も悪く無い、どうぞ気になさらずに」

「でも」

「いいのです」

 祐樹は涙を拭うと立ち上がり、明子を自分に向かわせる。

「何だか今日はもうアカネさんを抱く事は、遠慮しようかと思います、これでお開きにしませんか」

「でも、それではお金頂けません」

「いいんです、貴方の演奏が聴けて、それで充分です」

 気丈に話す祐樹の姿に明子は母性本能が芽生え、このまま一人にして置かれなくなる。今帰る訳には行かない、せめて私がこの人を元気付けて上げたい、私の体で良いなら今日だけは、この人に奉仕して上げたいと強く思う。

「私が。私の方がご奉仕したいのです、私では不満ですか、私の様な年増では、奥様の代わりは務まりませんか」

「代わりだなんて、とんでもない、自分の今までの人生で、アカネさん程のお綺麗な方にお会いするなんて、滅多に有る事では有りませんでしたから」

「だったら、何も遠慮はいりません、お金で

買われて来ましたが、今日は誠心誠意、心を込めて近藤様の為にご奉仕します。ですから、何もせずとか言わないで下さい」

 明子の真剣な眼差しを見て、祐樹の心に男の性が蘇って来た。祐樹は明子と寝室へ向かい、そこで激しく絡み始める。その姿は寂しさを紛らわす為に、何かに当たっている様にも見えた。祐樹が激しく攻める程に明子も激しく答えた。

明子にはこんなに激しいセックスは初めてだった。夫の文彦は淡泊で淡々とこなすタイプだったから、祐樹の攻めは明子にとっては新鮮だった。何よりも、祐樹の引き締まった体と、逞しい男の紋章が明子の体を捉えた。{こんな事初めて、こんなにも体が溶けそうな行為は経験が無い}明子は自分が奉仕すると言っていたのに、気が付けば己が奉仕されていた、嫌、奉仕させていたのだ。祐樹も明子に請われるままに更に激しく攻め立てていた。祐樹の攻めが激しさの頂点に来て明子はそこから意識が飛んでしまった。そして行為が終わり明子は陶酔している自分に気づく、{何て凄い行為なのだろう、あぁ、心は文彦の物だが、体は、祐樹だ}そんな事を思い、うっとりしていた。少しの間、無言の時間が過ぎて、祐樹が明子を抱き寄せる。

「あの、少し聞いても良いですか」

「はい、話せる事なら答えます」

「どうして君の様な人が、この仕事を始めたの」

 明子は真実を話そうか迷うが、祐樹の身の上を知った自分だ、隠し事はしたく無いと思い、ここに至る経緯を滔々と話した。

「そうだったのか、それで、家族の為に。嫌、子供達の夢の為にですか」

 祐樹は思っていた。一番に心を捉えたのは、明子の子供達に対する愛情だった。子供の夢の為になら、何も厭わない、自分の体を売る事も躊躇わない、その心意気に感動すらしていたのだ。

「今日アカネさんが此処へ来たのは単なる偶然では無いですね」

「え?どうして」 

 明子に向き直してその顔を手で撫でながら、

自分の思いの丈を伝えて来た。

「普段私は決して買春などしない、今までしたことが無い。それなのに今回は如何してか弟の甘言に乗ってしまった、そしてアカネさんが此処へ来た。そのアカネさんには奇しくも私の娘と息子と同じ志を持った子供が居て、

しかも同い年です。その子供達が今お金に困っている。こんな偶然ありますか、これはきっと神様が私に支援しろと言っているに違い有りません」

「支援ですか?」

「そうです、私に出来る事が有れば、そう、専属契約を結んでくれませんか。そうすれば、

アカネさんは安泰ですよね、そうしてくれれば、私は自分の子供にして遣れなかった事、

アカネさんの子供達にして遣れます。如何ですか、駄目ですか、私にアカネさんの子供達の、成長のお手伝いさせて貰えませんか」

 明子にとってはこの上ない申し出だ、この人ならば、きっと私の事情を理解して、あれこれ無理難題は言わないだろう。決まった派遣先に成れば時間も読みやすくなる。何よりサクラが一番に喜ぶ筈だ。

「私で良ければ、でも本当に私で良いのですか」

「いいも何も、私にも夢を持たせて下さい。お話から旦那さんの事を愛しているのは解ります。私は決してアカネさんの家庭を壊す気など有りません。あくまでもアカネさんと子供達の為ですから、ね、どうですか」

 明子は祐樹の申し出を快諾した。それからはアレコレ細かい事、決め事を話し合った。

働く日時や、条件などだ。

「では、週に4日、月火木金にお伺いする、で、良いですか」

「はい、でも体のご奉仕は金曜日だけで良いです、後の3日は本当に家政婦だけの仕事で良いですよ」

「え、でもそれじゃあ」

「私はそんなに飢えていませんし。仕事も有ります、ですからそれで良いのです。でもちゃんとお金は正規の値段お払いしますから、その点はご安心を」

「それで本当に良いのですか」

「はい、時間が余ったら、ピアノ自由に使って下さい、思う存分弾いてあげて下さい、でないとあのピアノも寂しいですから」

 何て良い条件だろう、アレを、スタインウェイを自由に弾ける。明子は何かお返しが出来ないかと思いを巡らせる、そうだ、この際だから、信頼している証として、本名を名乗ろう、そしてその名で呼んで貰おうと思い立った。

「あとそれと、そのアカネさん、もういいです、本名で呼んで下さい、明子でいいです、本名は野口明子です、ですからそれで」

「え!でも、それでは、身元の事とか、会社にとやかく言われませんか」

「大丈夫です、近藤様は別です」

 明子にニコリと返されて、祐樹も満更でない表情だ。そう来たらと祐樹も返した。

「だったらその近藤様も止めましょう、祐樹で良いですから」

「それは、流石に失礼では」

「関係有りません、祐樹で、良いです、ね!

了解して下さい」

「はい」

 祐樹は笑って納得させた。

明子は祐樹に心から感謝した、こんなにも気前が良くて、人当たりの良い人で良かったと、そして自分の境遇に賛同してくれた事を。もう一つ大切な事が有る、それは自分に初めて女の喜びを、本当の快楽を味合わせてくれた事だ。


 帰りの道で明子は祐樹との件をサクラに報告していた、電話の向こうでサクラが喜んでいる様が想像出来た。これで安泰だ、嫌な客を取る事も無い、何より定期的に通える事が

一番大事だ。子供達の事を思うと、やはり定時で帰る事が大事だ。5時に上がれば、家には6時頃には戻れる、午前中に家事を済ませて夕食の準備をしておけば、帰って直ぐに夕食の支度も出来る、明子は今の自分の立場に安堵した。

  

 次の日の土曜日、祐樹は祐二と清水とでゴルフをプレーしていた。昨日の事が有り、祐樹は何時もよりも生きいきとした様子だった。

何かを掴んだ事が傍目にも解った。何をしてもウキウキした行動をする祐樹を認めて、祐二が、何が有ったかを昼の休憩の時に問いただす。

「兄貴やけに今日は弾んでいるじゃないか、 昨日何か有ったのかよ?」

「昨日?うんそうだな、とりあえずお前に感謝しているよ」

「俺に感謝?」

 と言われて、祐二は何のことだと考える、

あ!と思い出した様子だ。

「兄貴!さては、利用しましたか。で、どうだったの?と聞く迄ないか、その顔と今日の

行動みていると、相当良かったと見えるが」

「良かった?うんそうだな、あっちの方も最高だったけど、それよりも、生きてく希望と言うか、そうだな、夢が又持てたのだよ」

 何々と聞き耳を立てる祐二に対して、仕方なく事の成り行きを話す。

「本当かよ!そんな偶然が有るのかよ」

「あぁ本当だよ、上が姉、18、ピアノ専攻で、下が弟15、バイオリン専攻だよ、母親は立川音大で子供は後輩だ、まるで家の家庭みたいだろう、まあ我が家は浅草学園だけどな。同じ学校と言う処まで同じなんだよ。凄いだろう。偶然ではなくて何か縁を感じていてな、ほっとけないのだよ、夢を持つ困った子供の事が」

「解るよ、その気持ち、兄貴は弱いからな、その夢を持つ子供に。でもあんまり深入りするなよ、所詮は買春する女なんだぜ」

 祐二のこの言葉に祐樹は立腹する。

「おい、あの人は特別なんだよ、したくて買春している訳では無い、家族の為なんだよ、簡単に買春で終わりにしないでくれよ」

「おぉ、そんなに怒るなよ、悪い、謝るよ」

「解れば良いのだ、そういう事だ」


 日曜日の午後に明子は家族で姉の咲子の見舞いに来ていた。今後の治療計画を主治医から直接話してもらい、一通りの説明を受けていると、咲子は幾ばくか不安の表情をしていた。主治医が出て行くと、明子と二人で話がしたいのでと文彦に伝えると、文彦は了承して、子供達を連れて出て行った。

「明子さん、無理していない、弟から聞いたけど、仕事代わったのよね、私が原因でそこまでしてくれて、有難いのだけど、心配で」

「お姉さんは何も心配しないで下さい、私は無理な事などしていませんから」

「でも、家政婦でしょ、それにピアノの講師までするのでしょう、貴方の手首は大事無いの」

「それも心配無いです、子供に教えるので、

負担も軽いのですから」

「でもそれで、それ程賃金が良いなんて、私には信じられなくて、そういう資格が有ると

そんなにも優遇されるの?」

 咲子の顔には明らかに不安な心が感じられた、本当の事は言えないが、今はその不安を打ち消そうと、努めて冷静に伝えた。

「私は、そうラッキーでした、友人が賃金の交渉とかしてくれて、それで得た待遇ですから」

「そう、それなら、本当にそうなら、私の心配も杞憂でしたね」

「心配って?」

 明子は黙って自分を見つめて来る、咲子の視線に何かを探っているように感じた。

「実は、こんな事思ってしまって、気分を悪くしないでね、さっきも言った通りに私の勝手な思い込みだから・・・でもやっぱり止めとく、貴方の気分を害したく無いから」

「そこまで言われると気に成ります、遠慮せずに聞いて下さい」

 明子に急かされて、咲子は未だ迷ってはいたが、決意を固めて質問した。

「思ったのは、まさか明子さん、体を売る仕事をしているのではと、でないとそんな高額の仕事、中々有りはしない。もしそうなら私の為にそんな事と思ってしまって」

 咲子の言葉に一瞬だが、明子は心が凍り付く。女同士、咲子に何か直感を感じさせたのか、悟られまいと思い、明子は能天気に答える。

「まさか、姉さん、やだ、流石に私そこ迄はしませんよ、幾ら何でもそこまでは」

「そうよね、御免、だから気分を害さないでねと言ったの、本当に失礼な事考えて、申し訳ないね」

 咲子は心底謝った、明子は上手く誤魔化せたと安心していたが、咲子のその目は明子の動揺を感じていた。


 その夜に普段淡泊で夫婦の営みに、無頓着な文彦が明子に久々に体を求めて来た。以前なら躊躇なくそれに答えていた明子だが、祐樹との関係で女の快楽を知ってしまった今、

文彦からの誘いに、少しの遠慮感が有った、それが態度に出てしまう。

「え?」

 一瞬だけ、手を出して制ししようとした。

 拒まれる事が初めての文彦は不思議顔になる。

「如何した?何か有ったのか?」

 その時に明子の脳裏にサクラの助言が思い浮かぶ。曰く{不倫を疑われる最大の要因は、夫からの求めに応じない事、これをするとほぼ間違いなく、夫に疑念を沸かせる事になるから、風邪か、怪我でも無い限り、夫からの求めには絶対に拒否厳禁}だった。そうだ思い出した、ここは拒否してはいけない。

「明日も仕事が有るからと、そう思ったのだけど、久ぶりだからしようよ」

「何だ、そうか、嫌なら止めとくか?」

「嫌だなんて、もう焦らさないで、早く!」

 明子にせがまれて、文彦は何時ものペースで抱き始めた。明子は何とか切り抜けてほっとする。

行為の間明子はついつい祐樹と比べてしまう。此方の気持ちも考えて、何処が良いかを探り当て、そこを根気よく攻めてくれる祐樹に対して、淡泊でそもそも行為自体が余り得意では無い文彦は、淡々と自分勝手に体を撫で廻すだけ、正直言って明子は少しも気持ち良く無かった。以前ならこれでも満足していたが、祐樹との行為を知ってしまった今は、どうしてもそれと比較してしまった。それでも明子は精一杯感じている様を演じた、演じている間も、頭の中は祐樹のとの行為を思い出していた{あぁ、ここはあの人なら、

こう攻めてくれたな。違うの、そうじゃないの、もっと奥よ}とあれこれ思いだしてもいた。行為が終わり、一息ついた。

「おい、何だか今日は変だったな」

「何が?」

「何だか心此処に有らずの様だったぞ」

 ドキッとした、拙い、悟られている、明子は機転を利かせた。

「バレた?御免、吐露すると、今日夕食外で済ませたから、明日のお弁当の仕込みして無くて、それを如何するか考えていたの。姉さんの処へ急に行ったでしょ、だから何も用意して無くて、そうだと思い出してしまって、御免ね」

「そうだったか、それなら急に行こうと言った俺が原因か、御免な、気が付かず」

 明子はやれやれと心を宥める、次回体を乞われたら、祐樹の事を思い出すのは厳禁だ、何か不満が有ってもそれだけは守る事を教訓とする。これで安心して床に着ける。


 翌日の月曜日、明子は足取り軽く駅からの道を歩いて来た。門に着き、教えられた電子ロックの番号を入力して扉を開けて、新居の玄関も同じ様に開けて中に入る。リビングに来ると、ソファーテーブルに何やらノートが置いて有った。

「何?このノート、この前に来た時には無かったな」

手に取ると、見出しには大きな字で(大人の交換日記)と書かれていた。

「やだ、あの人、こんな事始めたいの?意外と子供じみた処が有るのね」

そう思う気持ちも有るが、明子は自分の中学生の頃を思い出して、あの頃の新鮮な気持ちを感じていた。

「そうね、大人の交換日記、いいかも」

ページを開くと、最初の稿に祐樹からの日記が書かれていた。

{お早う!今日からいよいよ、専属のお仕事だね、至らない私ですが、宜しくお願いします。始めに、二人の事に関して、最低限のルールを決めたいと思います。

その1・私は旦那様の事を尊重したい、ですので、私は貴方の事、明子さんの事はさん付けで呼びたいと思います。呼び捨ては旦那様に失礼かと思いますから、ですのでお互いにさん付けで呼び合いましょう。

2・万全を期す為にお互いの連絡はこの日記のみにしましょう。スマホなどの通信機器を使うのは、証拠を残す原因です、もとより、本来は個人的に連絡など不要の筈ですから。3・二人での外出も厳禁にしましょう。これもそうですね、家政婦と雇い主が二人で何処かへ遊びに行っていたら変ですよね。

4・何か不平不満が有れば、その時は必ず相談する事。夫婦でも雇用関係でもこれは当たり前の事と思います、ですので遠慮せずに言いたい事は申し付けて下さい。

5・雇用関係を終わらせる時は必ず事前に相談する事。これはお互いにです、急な申し出は対応しかねますよね。

6・その他気が付いた事、なんでも良いですから、ここに書いて下さい。私は何よりも、

明子さんの子供達の成長記録を望んでいます、

書ける事が有れば、些細な事何でも書いて下さい。

                 以上

追伸 お仕事が終わり、何もする事が無い時

は庭でも旧家でも、好きな処でお過ごし下さい。それでは今週の金曜日にお会い出来ることを楽しみにしております。

               祐樹より


 短い文章だが、読んでいて明子は心がジワリと温かくなった。想像以上に純粋な方なのだな。最初の出会いからすると、今の展開は予想外だった。こんなにも恵まれて良いのかと、明子は少しかしこまる。暫し感謝の気持ち思いながら一気に気合を入れる。

「そうだ、仕事、仕事!掃除しないと」

 明子は制服に着替えて、段取り良く仕事をこなす。洗濯は不要でも、広い家だ、掃除しがいが有る、くまなく落ち度は無いか点検してから、夕食の支度に入る、駅前のスーパーにて購入した食材で、祐樹の好みと聞いたおかずを造り、冷蔵庫に入れる。翌日の朝食の準備も怠らない。完璧だ、後は時間が来る迄

は、ピアノを弾いて過ごし、切の良い時に日記の記入に取り掛かる。

{おかえりなさいませ。日記の件書かれている内容、了承しました。何よりも、こんなにも素敵な連絡方法を思い付く祐樹さんの純粋な心に感銘しました。

至らないのは私の方かと存じます、祐樹さん程、多岐に渡り気が付く方、滅多にお目にかかれません。

子供達の事、何でも良ければ書かせて貰います。早速ですが、昨日下の子が外食時に生意気にも、私に向かって{お母さん、最近仕事大変だから、良い物食べなよ}と言って来て、誰がお金出しているのかと、思いましたが、子供なりの気遣いなのですね、笑って{ハイ、ハイ、有難う}と言ってやりました。  

こんな事聞いても何て事無いですかね、詰まらない話で申し訳無いです。

それと仕事の事、お掃除は恙なく済ませました、お食事は冷蔵庫に夕食用意してあります、ちゃんと残さず完食をして下さいね、栄養管理も仕事の内ですから。

朝食も用意してあります、札付いているので解りますね。それでは、今日一日お疲れ様です。私も金曜日を楽しみにしております。

                  以上

明子より

 簡単な文章では有るが、明子なりに気持ちを込めてこう書いて、それをテーブルに乗せて家を後にした。


 午後7時、祐樹が仕事を終えて帰宅して来た、顔をソファーテーブルに向けると、日記が目立つ形で置いて有った。良かったちゃんと日記を書いてくれた様だ、祐樹は何が書いて有るか、読むのが楽しみで、直ぐに手を出そうとするが、待てよ、楽しみは後だ、先ずは風呂に入ってから、それからにしようと我慢した。

風呂に入り、うたた寝をして、ハット成って風呂から出て、着替えを済ませて、

リビングに来る、楽しみの日記に目を通す、

「何々、ふん、ふん」

読んでいるその顔に生きていると言うか、生気というか、そういう気持ちが満ちて来ているのが解った。

何でも無い事、こんな子供じみた事が人に力を与えてくれるのかと、祐樹はしみじみ感じていた。

「そうか、生意気ね、そうだ、友則も結構な事言っていたな。子供ってそうなのだ、この時期は生意気な事を言うのだ」

 自分の事を当て嵌めて、思い出すだけで、それだけで祐樹は充分に幸せをかみしめる事が出来た。祐樹は指示された冷蔵庫の食事をレンジで温めて、一人食事をする。

「有難い、手の込んだ料理を自宅で食べるのは久しぶりだ」

 一口頬張ると明子の腕前の良さが解る、

「成程これは、美味い!」

 あのピアノの腕といい、この料理の出来栄えといい、明子の拘りが感じられた。これだけでも祐樹は充実感で満たされていた。


 翌日、明子は祐樹からの日記を読んでいた、{ルールの件、了承頂き光栄です。

子供達の事、大変ありがとうございます。そうです、些細な事で良いのです、あれで私は充分幸せを感じました、これからもお願いします。

お食事の事、存分に堪能しました、お料理大変お上手ですね、今夜の食事も楽しみにしております。

                  以上

               祐樹より

 良かった、あんな些細な子供の事でも、祐樹ならば、喜んでくれる。食事も満足しているようだ、ならば、もっと頑張ろう。明子は更に気合が入った。


 木曜日も明子は何時もと変わりなく仕事をこなした、日記も書き終えて明日の事を思い浮かべると笑みが零れる。

「あ、嫌だ、明日抱かれる事を楽しみにしている」

こんな事を思う事は今までに無い事だ、水商売の時に買春した時は、心は勿論、体も何も感じ無かった。文彦に抱かれて初めて幸福感に浸れた、それで満足していた。正直、性行為に対して自分も冷めていた。でも祐樹に先週抱かれて、初めて快楽を知って、その心地よさに明子は虜に成っていた。

「あの感覚、恍惚感、思い出すだけで、体が

火照るな」

そんな自分が恥ずかしく思うが、衝動は抑

えられなかった。

 

金曜日に成り、明子の足取りは普段にも増して早く運び、あっと言う間に祐樹宅に着いていた。未だ祐樹は帰っておらず、明子はリビングのソファーに座り、祐樹の帰りを心待ちにしていた。その時、家電が鳴る。出て良いか迷ったが、家政婦と伝えれば問題無いと判断して、明子は受話器を取る。電話の主は祐樹だった。

「あー良かった、出てくれた、私です」

「はい、祐樹さん?如何しましたか?」

「御免、実は急用で、今日は自宅に戻れなくて。会うの、楽しみにしていたのだけど、今日は普段通りに仕事して、そのまま帰って下さい、本当にすまない」

 期待していた分明子の落胆は大きかった。

「そうですか、残念です」

 急に声のトーンが下がる明子。

「来週は必ず、絶対です」

「いいのです、お仕事なら仕方有りません、

気になさらずに」

 電話を切り、頭を項垂れて{はー}とため息をする。仕方ない今日は諦めて、楽しみは来週に。明子は気持ちを切り替え、思い直し、やるべき事を終わらせて、最後に日記を書いた。

そうだ春奈の事、来月に演奏会が有る、もしかしたら見に来たいかもしれない、望むのなら是非にお招きしたい。明子は躊躇いなくそう思う。


 翌週は気持ちも新たに出勤した。何時ものスーパーで買い物を済ませる、もう既に慣れた段取りだ。今日の日記には何が書いて有るだろう、それも明子の楽しみに成っていた、

初めは子供っぽいと半分冷めていたが、どうした事か、自分も何が書いて有るか期待する様に成るなんて、思ってもいなかった。

明子はリビングに入り日記を開く。

{おはよう、先週金曜日は急な用事で申し訳無い、その分夕食は美味しく頂きました、完食です、足らないくらいだったかな。

春奈さんの事、ピアノの演奏会が有るのですね、お知らせ頂き有難い、出来れば拝聴させて貰いたい。日はずらしますから、その辺は心配為さらずに。会場の場所と日時を教えて下さい、チケットも手配を宜しく。それと、今週末は必ずお会いできますので。

                  以上

               祐樹より

 あぁ今週は会える、抱かれるのだと思うと、

明子の体はそれを思うだけで、ウズウズしだす、私はこんなにも淫らな女だったのか。最近の自分のこの体の急変化には、正直自分も驚いていた。知らずに今まで生きて来た事が、幸いしたのか、それとも損をしてきたのか、明子は自分に問い詰める

「私は本当の私は、何方の私が本当の私?」

激しい行為を好むのか、淡泊で単なる受精行為で満足するか。この頃から少しずつ、その事が気には成り出していた。でもそれも直ぐに頭の隅に行ってしまう、そんな事真剣に考える事でも無いだろうと。


 金曜日に成り、明子はやっと祐樹に会えると思うと、電車の中で笑みが出てしまう。車窓に移る自分の顔に気が付いて、思わず恥ずかしくなる。こんな気持ちはいつ以来だろう、

誰かに会う事に対して、こんなにも楽しさと、期待感に溢れるのは。そうだ、文彦に最初にデートに誘われて以来か、そう思うと随分昔の事に思えた。あれから20年近く経つのか、早いものだ、時間が過ぎるのはあっと言う間だ。この年に成りこんなに新鮮な気持ちを感じられる何て、私は贅沢者だと思っていた。


玄関に着き明子はドアを開ける、すると既に祐樹はリビングに待っていた。

明子は持っていた荷物をソファーに投げ、コートも脱ぎ捨て、祐樹に抱き着く。

「あぁ、会いたかった、抱いて直ぐに抱いて、

仕事は後で良いでしょう、お願い」

明子の積極的な態度に、祐樹はキスをして、

答える。

「ああ、良いとも、そうしましょう、私も待ち焦がれていました」

 祐樹は明子と寝室に行き、服を脱がしにかかる。明子も祐樹の服を脱がす、お互いに慌てている。

裸体になり、二人は溜まっていた物が一気に出る。前戯を終えたら、祐樹は明子の中に入る、祐樹の紋章を体で受け止めた明子はもう既に、恍惚状態だった。

それから明子は殆ど記憶が無かった、最初の時と同じく意識が飛んでしまっていた。事が済んだ事と、自分が満足した事だけは解ったが、行為中の事が全く思い出せない、それ位に明子は興奮していたらしい。

「あれ、やだ、私いったい、どうしたの?済んだの?」

 明子の以外過ぎる問いに祐樹は呆気に取られていた。

「何?記憶無いの?」

「祐樹さんを受け入れた事は覚えているの、

でもその先からが解らないの、私、ちゃんと答えていたの?」

「答えるも何も、初めての時の倍は激しかったよ、私もツイツイ興奮して、その分激しく攻めました、明子さん喜んでいたよ」

「やだ、喜んで?倍も激しく?」

 明子は顔が赤くなり、両手で覆って隠す。

その手を祐樹は掴み、嫌がる明子の顔を見つめる。

「恥ずかしいのかな?」

「はい、とても。だって、こんな経験初めてだから、祐樹さんに抱かれてからなの、こんなに成るなんて。以前の時と比べたら、考えられないの、だからとても恥ずかしい」

「恥ずかしい事有りませんよ、私は嬉しかった、明子さんがあんなにも喜んでくれて、嫁もあれ程喜んではくれませんでした、男として光栄この上ありません」

「そうですか、そう言って下さると、安心します。でも、私の本当の姿かも、ですね」

「本当の姿なら、それを見られた私は幸運ですね。私が真の明子さんを呼び起こしたのかな」

 祐樹は明子の頭を抱き寄せて、その香りを吸い込む、良い匂いがした。

「そうだ、日記に書いて有った、娘さん、春奈ちゃんの事。チケットお願いしますね、被らない日で」

「それが、春奈の演奏は一回きりなの、だから別日での鑑賞は出来ないの」

 それを聞き、祐樹は落胆した。

「そうですか、残念です、それならば今回は

諦めましょう」

「待って、折角だから、来て頂戴」

「でもそれでは、気まずい事になりませんか、もし当日お会いしたら」

 心配そうな祐樹を見る明子、何か策が有る様だ。

「大丈夫、当日もし顔を合わせても、お互い無視しましょう、決して目を合わさない、何が有っても。コンタクトを厳禁にすれば、誰にも怪しまれません」

「そんな、それで良いのですか、私は構いませんよ、もしそれで良いのなら」

「はい、私もそれで問題無です、その作戦で行きましょう」


 1月の第3週の週末、3日間に亘、瑞樹の学年の合同発表会が催された。この年に卒業する生徒限定で毎年開催される、この学校の伝統行事だ。会場は近くに有る文化会館。

毎年の事だから、会場はそれを楽しみにしている常連のお客さんや、出演する生徒の家族でごった返していた。


 祐樹は愛車のポルシェを運転して会場の駐車場へ入って来た、端の方へ停めて、キーレスのボタンを押してロックする、ポケットにそのまま入れるが、途中で思い直した

「そうだ、席に座ってポケットから落とすといけないな」

祐樹は明子に貰ったキーケースにポルシェの鍵をはめ込める。

「あれ、閉まらないな、まあ良いか、落としたら、あれこれ着いていれば、大きな音がして、解るだろう」

 仕事で着ているスーツと違い、普段着はゆとりの有る服が好みの祐樹は、上は緩めのピーコートに下はカーゴパンツを履いていた、多少、嵩張るキーケースも太ももに有るポケットなら、難なく収納出来る為、祐樹はそこに仕舞う。

「さてと、それでは会場に行きますか」

 フロアに入ると、既に人が溢れていた。彼方此方でこれから演奏するであろう、衣装を着た学生を、その家族達が取り囲み談笑している、久しぶりに見る光景だ。

「あぁ、そうだ、この景色だ、俺が見たかったのは」

心待ちにしていた物を見られて感激していた。演奏が始まるまで今しばらく時間が有るので、正面の入り口近くのコーヒーショップに入り、フロアを見渡せる席に着きコーヒーを啜る。何気に辺りを見回すと、その先の視線に明子家族の姿を発見した。

「あ!あそこに、明子さん、あれが旦那さんか、小太りで人の良さそうな顔しているな。春奈ちゃんは明子さんそっくりの美人だ、如何してどうして、これは将来楽しみだな。浩二君は?あらまあ、この子も明子さんに似ているな、家族四人仲が良さそうだ」

明子達を見ながらそんな事を呟いていた。そして段々と祐樹はその姿形を自分の家族に置き換えて見ていた{あぁ、懐かしい、あの頃が、そう去年の今頃はこうして家族と居たんだ、あの微笑ましい家族と同様に、何て尊いんだ}自分と重ね合わせて、明子家族に対する思いを強めて行く{大切な家族だ、あの子供達、お父さんとお母さんを、大好きそうじゃないか。こんな良い家族、不幸になんてさせない、絶対に、幸せに成って貰わないと、そう、自分に出来る事で何とか成るなら}祐樹は心の中で思っていた。

そろそろだろうと腕時計に視線を向ける、後少しで開始時間だ。そうだ、入場前にトイレを済ませておくかと、席を立ち、トイレに向かった。

立便座で用を足して、洗面台の前に立ち、カーゴパンツのポケットからハンカチを取り出すと、一緒にキーケースが付いて来た、面倒だからそれを洗面台の鏡の前に置き手を洗う。

手を拭って居る時に後から、何と文彦が入って来るのが、鏡越しに確認出来た。特に焦る必要も無いが、祐樹は何故か慌ててしまう。手を拭うとキーケースを置きっぱなしにして、トイレを出て行ってしまった。後から用を足した文彦が残されたキーケースに気が付く。

「あら?前の人、あの人の忘れ物か」

 文彦はキーケースを手に取ると、それを持って自分の席へと向かった。席に着く成り

キーケースを明子に見せる。

「これ、トイレで忘れ物、時間が無いから持って来たけど、後で警備室へ届けないと」

 文彦が手にするキーケースを見て明子は、{あ!}と成る、その異変に文彦が気づく。

「何だ?見覚えでも有るのか?」

 見覚えが有るも何も、その特徴的な馬の鞍の形のキーケース、それにはみ出たポルシェの鍵は、紛れもなく祐樹の物だ。明子は悟られては困ると、又、機転を利かせる。

「いいえ、ポルシェよねこのロゴ、初めて見るから、こんな形をしているのかと、そう思ったの、だって家に有った車の鍵と全然違うのだもの」

 文彦は成程なと、ポルシェの鍵を見る。

「そうだな、カッコイイし、鍵だけでも高そうだな!これきっと内の学校の生徒のお金持ちの親御さんの物だろう。まあ内の学校はお金持ち沢山いるからな」

「そうね、それ、私が後で届けるよ」

「いいよ、俺が見つけたのだから、俺が届けておくから」

 文彦は責任感が強い、自分で見つけた物だから自分で届けたいのだろう。でも、これは明子が何とかしたかった、明子は強引に文彦からキーケースを取り上げる。

「こういう面倒な事は女に任せなさい、貴方は終わったら春奈を迎えに行って来て、私が警備室へ届けるから、ね」

「そうか、お前がそう言うならそうするか」

 文彦が引いてくれた。明子は少しでも祐樹の顔が見られると思うと嬉しかった。

会場で会うのは厳禁と決めていたが、これは非常事態だ。祐樹も今回は大目に見てくれるだろう。


 演奏が始まった、祐樹は今か今かと春奈の出番を待っていた。漸く春奈の出番が来た、

その姿に見惚れていた、まるで我が子を見ている様な気分に浸れた。春奈の演奏が始まると、その演目の曲が何なのかは気にもしないで、只々その演奏に聴き惚れていた。何でも良い、どんな曲でも構わない、自分の娘で見られない事、出来無かった事を、今春奈が祐樹に味合わせてくれているのだ。祐樹はこの上ない幸福感に包まれた、今日ここに来られた事を心の底から楽しんだ。

 

 演奏会が終わり、祐樹は駐車場に来ていた。

未だ楽しみに浸っているのが解る程、顔はにこやかだった。カーゴパンツのポケットに手を入れると、そこに有るべきキーケースが無いことに気が付く。

「あれ、変だな」

違うポケットに入れたかと、その他のポケットを彼方此方探るが、何処にも無い事が確認出来た。

{どうした?何時落とした、何処だ、会場で、席に?嫌、コーヒーショップで?あの後にトイレに行った、そうだトイレだ!手を洗っていたら旦那さんが入って来た、慌てて出てしまった、あの時だ!}

祐樹は気が付き、取って返そうと振り向くと、そこにはキーケースを祐樹の顔前に下げて、笑っている明子が立っていた。

「もう!慌てん坊さんなんだから」

 満面の笑みを浮かべて明子がキーケースを揺らしていた。

「あれ、明子さん、良いの?見られると困るのでは」

「此処なら大丈夫、誰も見ていない。旦那がね、持って来たのよ、このキーケース。トイレで忘れたでしょう?」

「そうみたいだ。手を洗っている時に、旦那さんが入って来たから、急いで出てしまいました。旦那さんには面識無いから、慌てる必要も無いのに、何だか居たたまれなくてね」

「プレゼントしたのが私で良かった。だから直ぐに気が付けたのよ!仕方ないから私が持って来たの、無いと帰れないでしょう」

 祐樹は明子からキーケースを受け取る、渡した後で明子は祐樹のおでこを小突いてみせる。

「痛、あ!これは一つ貸しが出来ましたね、

次回にお返ししますよ」

 明子に小突かれたおでこを摩って、笑顔をかえす、傍目から見ると恋仲の二人その物だった。

「良いから、それより娘の演奏どうだった?

感想は?」

「それは、又今度、話しだすと長くなります。ご家族が待って居るでしょう」

「そうか、そうね」

 二人は笑顔を交わして別れた、誰にも見られては居ないと確信して。


 翌週の月曜日。仕事終わりに日記を読む明子の顔が躍っていた、内容が明子の心を明るくさせていた。

 娘さんの演奏、大変楽しく聴かせて頂きました。特に印象に残ったのは最後の辺りの演奏です、力強く生きいきとしていて、素人の私でも引き込まれてしまいました。

あれは何と言うのですかね、情熱的な演奏と言うのが正しいのか、正規の呼び方とかしりませんが、将来はそういう奏者を目指しているのですか、兎に角、素晴らしいの一言です。  

又、お顔も明子さんに似て大変美人でいらっしゃる、写真の数倍お綺麗だ、将来が楽しみですね。

浩二君も又、明子さんに似て、何て言えば良いのか、明子さんの顔を男にすると、可愛くなるのですね、あれはあれで期待が持てると思います。今の時代、男らしい顔付きよりも、ジャニーズ系と言うのですか?可愛い顔の男の子が人気ですから、奏者になるなら有利でしょう、きっとそうです。

旦那さん、少し小太りで愛嬌が有って、大変優しそうな顔ですね、明子さんの事を凄く愛しているのを感じました。

明子さんが心惹かれるの、解ります、見ているだけでその事が解りました。良い家族ですね、あんなに幸せそうなご家族の姿を拝見できた事、有難いと思います。自分の事にあてはめて考えるだけで、私も幸せを感じます。明子さんに出会えて本当に良かった。私にもお手伝いさせて貰えて感無量です。

                  以上

               祐樹より

 明子は祐樹の日記を読んで、自分も同じに幸せに浸った。

「良かった、祐樹さんがこんなにも喜んで下さる、本当に良かった」

 明子と祐樹はこんなやり取りを続けて行く。週に一回だけ体を合わせ、後の殆どは綴られた文をお互いに読むだけの関係だった。

そして半年が過ぎた。この頃に成ると、明子の体に変化が起きていた。でもその事に明子自身は全く気付いて居なかった。


 その日半年ぶりに文彦に体を求められた。元々が単なる受精行為位に思っていた二人、半年処か一年開く事も過去には有ったので、間が開く事は珍しくも無い事だった。

明子は当然躊躇する事無く受け入れた、しかし、この時は以前と違い明らかに文彦の行為が鬱陶しく感じられた。どの動きも、祐樹の優しい行為とは著しく違うからだ。

祐樹の手は優しく絹を触る様に肌を撫で、その舌はソフトクリームを舐める様に滑らかにすべる。

それに引き換えて文彦の手は犬を撫でる様に雑に感じられ、その舌は猫の舌を思わせた。駄目だ!この感覚、明子の体は半年の間に、祐樹の優しく、極上の行為にすっかり慣れてしまい、文彦の行為を受け付け無く成っていたのだ。

それでも明子は必死に耐えて、文彦に悟られる事無く、演じて見せた。事後に明子は一人天井を見上げていた。

{どうしたのだろう、いったい?私の体は?私に何が起こったの?こんなにも文彦の行為を不快に感じるなんて・・・そうだ、明日は水曜日だ、サクラに相談してみよう}明子はゆっくりと瞳を閉じた。


 翌日の昼に明子はサクラを事務所の近くのカフェに呼び出した。居ても立っても居られない状況だと、電話で捲し立てた御かげで、サクラも渋々出張ってくれた。

「何よ、相談って」

 明子が思っていた以上に深刻そうな顔をしていたので、何時も能天気なサクラの顔も真剣になる。

「あらら、相当悩んでいるようね、よし、話して」

 サクラは胸に手を宛て、切符良く話しを聞いてくる。話の内容がセックスに関する事なので、明子は隠語を使い気遣って昨夜の事を打ち明けた。

「そうか、不快ね、うん、そうだな、それって普通はね、旦那さんの事が嫌いとかに成ると出る症状ね」

「嫌いに?」

「そう、女が不倫する原因の多くは、夫への不平不満からなのだけど、汚いとか、ウザイとか、干渉し過ぎるとか、そういう事が嫌いに成る原因なの。

それで嫌いになると、触られるのも嫌になる、酷い時は一緒に部屋で同じ空気を吸っても嫌だし、勿論夫の持ち物にも触りたくないのよ。だから性行為なんて苦痛この上無く成るのよ。と、言う事は、明子旦那の事嫌いになったの?」

 サクラの問いが全く意に反する事だったので、明子は力強く否定した。

「とんでも無い!愛しているよ、自信もって言えるよ。今サクラが話した事、一切無いよ。嫌いだなんて、思ってもないよ」

「そうか、変だな、それより、原因ないのだよな。それとも、誰か他の人を好きに成るとか?あ!もしかして、近藤さんの事好きに成ってしまったの?」

 サクラに突っ込まれドキっとした、自分でもそれは最近薄々感じていた、祐樹に抱かれる事が楽しみで仕方ない事。それに釣られて心も少しだが影響を受け初めていたから。

「そうなの明子?」

 明子はサクラの目を真面に見られない。

「明子の報告を聞くと、相当床上手らしいけど、体は売っても、心は売らないのでは無かったの?どうなのよ」

「其処なのだけど、正直に言うと、私祐樹さんに抱かれている間の記憶が殆ど無くて。

有る一線を越えると、何時も意識が飛んじゃうのよ、でも事後の快感と満足感は堪らないの、旦那とは比べられないのよ。

後で聞くと、自分でも信じられない位に、乱れているみたいなの、本当に恥ずかしい位に」

 明子の話を聞いて、サクラは成程と頷いた。何か思い当たる事が有りそうだった。

「そうか・・・だとしたら、普通は気持ちが離れたら、不快とか苦痛とか感じる事が、明子の場合は体が反応しているみたいね、余りに差が有り過ぎて、明子が意識の無い内に体が覚えてしまって、それに心が惹かれているのね」

「そんな事って有るの?」

「そうね・・・余り聞かないけど・・・そうだ以前うちで働いていた子で、似た様な事を話していたな」

「どんな事?」

「うん、その子はまあいうなれば、気の多いい、エッチも大好きな子でね。婚約者は居るくせにその彼よりも、逞しくて、まあ、あれが大きくて立派な人に抱かれている内に、だんだん婚約者の事どうでも良く成ってしまったの。私の体はあの人でないと満足しないと、その子はサッサと乗り換えていたな。

まあ理想の事を言えば婚約者の方が、安定しているし、その方を選んだ方が絶対幸せになるのだけど、女の性に負けたのね。体が求めている人に行っちゃったのよ。

それで、その後は、その男で苦労しているみたいだけど。昔で言うジゴロだよね、要は紐よ、その男は」

「止めて紐だなんて、祐樹さんは紐では無いよ、私の方が紐じゃない」

「例えよ、明子の場合は相手が金を持っているけど。大概はね、女が体で虜になる時は、最後は、男が紐に成る場合が多いの」

「では、つまり、サクラは私が祐樹さんの体の虜になっていると言いたいのね」

「そうだよ、そうとしか考えられないよ、明子の体は無条件に近藤さんを求めているのよ、

抱かれるのは近藤さんだと、体が反応しているの。それを心が感じ取って不快を知らせているんだよ、そうとしか思えないよ」

「そんな、じゃあいったい如何したら良いのよ」

 能天気な何時ものサクラとは違い、今日のサクラは頼りに成る、明子はそのサクラにお願いと、両手を合わせた。

「先ずは、そうね、そんなに真剣に抱かれない事だよ、仕事と思ってもっと冷めないと、

意識が飛ぶほど入れ込むからいけないのよ。

私達は体を売ってなんぼよ、心まで虜にされたらお終いよ、それこそ目も当てられない。

体を売っている相手に心惹かれるなんて、

偉そうな事を言わせて貰うけど、プロ失格だよ。

明子はさ、お水の時にはもっとドライだったじゃない、あの頃は何とも無かったよね?どうしたのよ、だいたい近藤さんだって、その辺は了承しているのでしょう?まさかアンタと一緒に成りたいとか、話しているの?」

 明子は大きく頭を振った。

「それは無い、祐樹さんその点は良くわきまえている。私の家庭を壊す気持ちはさらさら無い。第一旦那の事尊重してくれているし、

子供達をとても応援してくれる」

「そうなんだ、じゃあ問題は明子だね。明子の体が勝手にどんどん近藤さんを求めて、心まで影響をしているなら、何か対策を取らないといけないかな」

「対策?」

「そうでしょう、このままずっと抱かれていたら何れ自制出来無くなるかもよ。だったら

早いうちに離れた方がいいんじゃない?」

 行き成りの提案に明子は慌ててしまう。

「ちょっと待って、それは、それだけは、勝手に出来ないの。祐樹さんの事、話した通りに、子供達を応援してくれていて、その事をとても楽しみにしているの、私の都合だけで勝手に契約解除とか出来ないは」

「じゃあ如何するのよ、明子がこのまま抱かれても、私は別に良いけど。体が反応して心まで引っ張られて、近藤さんの事を本気で好きに成らずに居られるの?その自信が有るなら今のままで行くけど、どうする?」

 サクラの問いに明子は明確な返答が出来ないでいた。今のままずっと祐樹に抱かれていたら何れ本気で愛してしまうかもしれない、

そう成らない自信は正直無いのだ。

「如何するのよ、明子、ねえ」

「サクラ御免少し時間を頂戴、私も色々出来る事無いか考えるから」


 翌日の仕事終わりに明子は日記に何を書くか悩んでいた。今の自分の状況を素直に書くべきか、それとも何か他の言い訳を書こうかと、あれこれと様々な事が頭を過る。悩んだ末に、取り合えず、少しの間時間稼ぎをして、自分の体の様子を見る事にする。

{祐樹さん、夕食と朝食は何時もと同じにご用意しています。子供達の事、浩二がバイオリン専攻の中で一番の評価をされて喜んでいました、そうしたら、何か褒美が欲しいと頼まれまして、次に又一番に成れたらと今回は誤魔化しました。

欲しい物が最新のスマホなのです、高校生にも成ると、性能の良いスマホが欲しいらしく、金額も高いのでそう簡単には買えませんと、今回は逃げました。

春奈が夏休みに大学の奉仕活動で、何やら老人ホームの慰問演奏に参加するそうです、あの子にもそういう気持ちが芽生えて来た事、嬉しい限りです。

それと私事ですが、今週になり、何やら体調が優れず、明日の事ですが、体のご奉仕は今週お休みさせて下さい。勝手言って申し訳ございません。仕事には参りますので、祐樹さんはお仕事を頑張って下さい。

                  以上

                明子より

 記した内容を確認した、明日来た時に祐樹から何と書いて有るか?きっと祐樹の事だから体を気遣う言葉に溢れている事だろう。嘘をついてしまって、明子は気持ちが重くなる。


 翌日に成り明子は出勤して日記を開いた。

そこには何時もより多くの文章が書かれているのが一目で解った。

{明子さん、体調どうですか、無理なさらずに、休みたい時は休んで構いません。もし明子さんが来なかったら、そういう事だと判断しますから、心配なさらずに休んで下さい。   

そう言えば急な事で出勤出来無く成る事も有りますよね、この連絡方法だけでは、急変には対応出来ませんね、何か方法考えましょう。

明子さんの体が大切です。貴方が倒れたら誰が子供達の面倒を見るのですか、それが一番です。私の事は良いですから貴方の体調が戻るまで、休みにして構いません。

土曜日は必ず病院へ行って診て貰って下さい、約束です。その報告も出来る時で構いませんのでして下さい。来週は来なくても良いから、その分体調を万全にして下さい。

 子供達の事、報告有難うございます。浩二君の件ですが、良ければスマホ私に任せて頂けませんか。知り合いに安く仕入れさせますから。

春奈ちゃんの件大人の女性に成りましたね、慈善事業は大事な事、社会に出る前にその尊さに触れられる事、大切ですから。

                  以上

                祐樹より


 読んでいて祐樹の優しさを感じた。夫でも無い人から、こんな優しさを感じるなんて、

私は悪い女なのかもと思う。そう思うと余計な不安に駆られる。体が反応している今でさえ、心が引っ張られているのに、この様な優しさも、祐樹に心惹かれる要因だからだ。

いけない、この優しさが私を取り込んで行く、でも無下にしてとも言えない、困った、本当に困った。明子は今週これで何とか乗り切った、問題は来週以降だ、暫くの間、時間稼ぎの言い訳を、考えないといけない。


 この日仕事を早めに終えて、明子は駅前の喫茶店に入るなり、スマホを取り出してサクラに電話をかけた。

「あ、サクラ御免今良い?」

「あれ、明子?ちょうど良い。私も電話しようと思っていたのよ」

「え?何?」

「先程ね、近藤さんから連絡が有ってね、私も顧客様と話すの、久しぶりだから驚いたのだけど。それでね、希求の連絡、急用の時か、

その時に私を介して連絡し合いたいと申し出が有ってね。用心してお互いの連絡先を教えてないのでしょうアンタ達」

「そうなのよ、保険を掛けるのに越した事は無いと。だから交換日記をしていてね、それで連絡し合っていたの」

「交換日記!アンタ達幾つよ、今時流行らない事やっているのね、ははは。それとさ、心配していたよ、明子の嘘の体調も・・あんなに良い人中々居ないよ、本当に羨ましいよ」

 サクラの声が電話口から大きく聞こえた。

「そんなに大きな声で!他の人に聞かれるでしょ、で、私のお願いなのだけど」

と、明子はサクラに何か行為を休む良い言い訳は無いかと相談した。

「そうね、明日は病院へ行くことに成っているのでしょう。そうか、それなら診断結果が出る迄は先ずは駄目って事で。それも一週間かな、で、その後はそうだな、子宮筋腫って事でどう?それなら具合が良く成る迄は、暫くお預けと言っても、おかしくないよ、どう?」

「子宮筋腫か、そうね、それなら言い訳に成るね、有難う」

「明子の考えで、時間を稼ぎたいと思っての事だと思ったよ。先日の相談の後だからね」

「そうなの、少しの間、時間を取れば、体も何とか収まるかと」

「でも、正直賛成出来無いな、付け焼き刃の対処だと思うよ。又ご奉仕始めれば、同じ事に成ると思うけどな」

「そうだと思うけど、やってみないと分からないでしょ、兎に角少し間を開けたいの」

「まあ明子がしたいならそうしなよ、でもその間は如何するの?仕事休みにするの?それとも出勤して体の奉仕だけ無に成るの?」

「それは、そうか。そうだ、その事も祐樹さんに相談してみる」

「解った、来週連絡してね、待っているよ」


 翌月曜日に成り、明子は日記に自分の考えを記した、嘘を付くのは心苦しいが、これが最善策と思えたからだ。


 夜に成り、祐樹が帰宅すると、目立つ置き方をした日記に目が行く

「うん?何時もと違う置き方だな」

わざとその様に置いたと思われた、テーブルの端の方に、今にも落ちそうな感じで、取ってくれと訴えていた。

「何だ?さては早く知らせたい事でも書いて有るな」

 祐樹は着替えも後にして、日記を開く。

{おかえりなさい、祐樹さん、先週は急な事で申し訳ありませんでした。翌日早々に病院へ行き診断した処、更年期障害と、後、子宮筋腫を疑われました。

検査が今週水曜に成ります、結果が出る迄は、性行為は禁止と言われました。又もし検査結果で筋腫が見つかった場合は、容体が回復する迄、暫く性行為は出来無いと思います。恐らく普段の生活には支障は無いと思います、ですが、体のご奉仕は控えねばならないかと思います。

私事で申し訳ありませんが、少しの間だけお休みを頂けないでしょうか。

体のご奉仕が無くて、普通の家政婦の仕事のみで良いのでしたら、その旨お伝えください、その場合は当然体のご奉仕料金は頂きません。ご返答お願いします。

                  以上

               明子より

「そうか、大事で無くて良かった」

 祐樹は安堵した、でも気に成る事が有った、休むにしてもその間生活費は如何するのか、そこが大事だ、まさか借金でもする気か?

そんな事絶対にさせない。普段の生活に支障が無いのなら、来てもらおう、でもその時は

今までと同じ料金を払おうと心に決めた。


 祐樹は風呂につかり、明子の事を考えていた。

「そう言えば、俺と関係を持つまでは、あまりあっちの方は得意では無いと話していたな、旦那さんも淡泊で、淡々と行為をして、おおよそ激しい行為とは、正反対と話していたな、回数も確か半年に一度位だった筈。だとしたら、今回の事、ここ半年に亘、週一に俺が激しく攻めた事が原因か」

祐樹はそう思うともしかすると自分が悪いのではと、反省の気持ちが心を支配した。

「俺は知らずの内に、明子さんの体を疲弊させていたのか」

真実を知らない祐樹は自省していた。

風呂から上がり、少し落ち着いた頃合いで、

祐樹は日記の返信を書いていた。

{明子さん、お体大事で無くて安心しました。

休みの事、もし休まなければいけない時は、

遠慮無く休んで下さい。でももし支障が無い時は仕事に来て下さい。

勿論何れにしろ、たとえお休みしたとしても、通常の料金はお払いしますのでご安心下さい。そちらの会社の基準が如何なっているか知り得ませんが、私は貴方と専属契約を結んでいます、これは私の見解ですが、専属契約を結んでいる以上、何があっても料金は発生する物と考えています、後は明子さんの判断に任せます。

体調が良くて仕事が可能なら、せめて食事位は作って欲しいです。明子さんのお料理が無いと寂しいですよ。又金曜日はせめてお顔だけでも見たいので、ご奉仕無くても帰宅します。元気な顔が見られること望んでいます。

                  以上

               祐樹より 

 こう書けば、恩を売ったとは取られないだろう、押しつけも無い、きっと家政婦の仕事には来てくれるだろう。淡い期待を込めて祐樹は日記を置いた。

 

 明子は祐樹の返信を読み、祐樹の提案に感謝の気持ちでいっぱいだった。やはり、祐樹らしい返答だ。ご奉仕が無くても普段の仕事だけで通常の金額を払ってくれる、明子は贖罪の念に駆られた。

「少しの間、期間を開けて自分の心が体に影響されず、元に戻ったら。その時は誠心誠意ご奉仕して、お返ししよう」

明子は日記を抱き寄せて、キャビネットの祐樹の写真を見つめていた。


 金曜日に成り、明子が出勤して来た。祐樹はリビングで待ち構えていた。

「心配しましたよ、お顔を見られて安心しました。意外と元気そうで何よりです」

 元気も何も、別段体に不調は無い明子は、

少々気まずかった、その事が表情にでてしまう。

「おや、気分を害しましたか?私が何か気に障る事でも言いましたか」

「いいえ、何だか申し訳無くて、それで、すこし気が引けました、気に障る事など有りません」

「そうですか、気にする事など有りません、

私が良いと言っているのです、何も心配なさらずに、体を早く元にして下さい」

「はい、お気遣い本当に感謝します」

「それで、検査はどうでしたか、結果は何時出るのですか?」

 検査など受けて居ない明子は前日に、子宮筋腫の経験の有るサクラに色々レクチャーを受けていた。そのお陰で祐樹の質問に難なく答えて、結果次第には成るが少なくとも、2ヶ月位は回復にかかると告げる。

「2ヶ月ですか、そんなのあっとゆう間ですよ、その間はせいぜい体の回復に専念して下さい」

「すいません、祐樹さんは大丈夫ですか、その、ご奉仕の方は、それだけは他の人を派遣して貰いましょうか?私の責任でもありますから、その分の費用は格安にして貰います、如何します?」

「そんな事、私はそれ程飢えた狼では有りません、2ヶ月しなくても、何の問題も有りません、でも」

「でも」

「明子さんの料理、2ヶ月も無く成ると、その方が不安です、何せ、栄養管理もバッチリの内容ですからね。だから、家政婦の仕事でも来てくれるだけで満足です、性欲もそれで満たされますよ」

 祐樹は笑って明子の頭を抱き寄せた、何時もの良い匂いがした。

不思議だ、こうしているだけで、安心する、昨日夜は、暫くの間は明子が来なく成ると思うと、不安の気持ちに成った。でもこうして来てくれて、継続して又仕事をしに通ってくれる、そう思うだけで安心なのだ。

{あれ?これってもしかして、俺はこの人に惹かれているのか?}

祐樹の心に微かに何かが芽生えかけていた、只、その事に祐樹自身はこの時は、未だ本気で気づいていない。


 2ヶ月の間、明子はひたすら仕事に没頭した、余計な事を考えずに淡々と諸事をこなす。  

心の事が気には成るが、行為を控えている身だ、今の自分の体が如何反応するかは、その日に成って見ないと分からない。でも時間が経ってみたら、何か変化が有るかもしれないのだ。明子はそこに期待した、何が有っても次の奉仕の時は、決して意識を飛ばさない、

その為の禁欲生活だ。仕事と割り切り、ドライな心を保つのだと。

何かヒントが無いかと書店にも行き、それと思われる本も読破した、これだけして置けば安心だ。明子は少しばかり雲が晴れた気分に成れた。


 祐樹の方は事情が少し違っていた。日を追う事に、明子の事が段々と愛おしく成っていったのだ。

毎週金曜日に会うだけで、心がウキウキするのだ。

{この感覚、そうだ高校生の時に初恋をした感覚に似ている}

何もしないで、只その好きな対象の子を見ているだけで、何とも言えない幸福感に包まれたあの感覚だった。

この年に成ってこの感覚を味わう?それは美鈴と結婚した時とは又違う感じだ。まさか、もう恋愛はこりごりと思っていた俺が?今更一から誰かを本気で好きに成る?愛するのか?そんな事想像すらして居なかった。

でもこの感覚は紛れも無いあの初恋の時と同じ心の痛みをもたらした。そう、夫文彦への嫉妬心だ。

高校の時も好きな対象の子に彼氏が既に居て、祐樹はその彼氏にたいして、無償に腹が立った、対抗心を燃やした、出来れば奪いたいと思ったのだ。若い時と同じ心に成りかけていたのだ。

{俺は何を考えている、今更何を!明子さんは人妻だ、それを知ってこの関係を構築したのだ、それはお前自身が一番理解しているだろう、まして、あの幸せそうな家族の事、子供達の事、お前は守ると約束したな、それなのに今更、今に成って何を考えているのだ}  

祐樹は自分に言い聞かせた。間違っても自分が明子さんを奪うような事をするなと。祐樹にとっては辛い日々の始まりだ。


 祐樹の心の変化には気づかずに明子は2ヶ月を過ぎるのを待ち焦がれていた。

祐樹に迷惑をかけた分、存分に奉仕しようと決めていたから尚更だった。正直明子自身も祐樹との行為が欲しくて堪らないでいた。 

この2ヶ月間は必死で我慢していた。書物を読みその事を考えない方法まで学んだが、明子の体は意に反して祐樹を求めていたのだ、それが答えだった。 


 雨の降る寒い12月の金曜日に解禁の日がやって来た。まるで喪が明けたような雰囲気だった。

二人は会うなり一目散に寝室へ向かいお互いの服を引きはがし、燃えるような行為をした、それは例えるならライオンとトラの絡みの様だった。

溜まっていた思いと、欲望がダムの決壊した様に、一気に吐き出されていたのだ。

明子は何時もの様に意識が飛ぶ、飛んだ明子の要求は、以前の時とは違いすぎる程激しい。祐樹も明子が飛んだサインと心得、前よりも更に激しく攻め立てた。

祐樹も自分を失っていた、そこには明らかに愛する人への思いが込められていた、その気持ちが祐樹の攻めを激しくさせていたのだ。

 行為が終わり、二人はベッドで仰向けになり、天井を見つめ、まったりとした一時を過ごしていた。

祐樹は幸せで満たされていた、愛する人を抱くのがこんなにも楽しくて、快感なのは久しぶりの事だった。明子も又、以前よりも深い満足感に浸っていた、何も考えない、何もしたく無い、体が自由に動かない、でも、何とも表現しがたい恍惚な気持ちでいた。まるで体が溶けて、このままベッドに吸い込まれてしまいそうだった。

「大丈夫かい?ちょっと激し過ぎました」

 祐樹は天井を見つめじっと微動しない明子を気遣う。

「凄かったのね、又意識が飛んでしまった」

「そうだね、久しぶりに私も我を忘れました、自分でも自制が効かなくて、反省します」

「何も悪い事して無いでしょ、何に反省するの?」

「子宮筋腫、もしかしたら私が激しく攻めたのが原因かと思って、それで」

「その事なら、もう心配しないで、これが原因だとは思わないから」

「じゃあ、でも、もっといたわりの有る攻め方をしないといけませんね、明子さんが意識飛ぶ瞬間はもっと優しくしないと」

「優しくされたら飛ばないかな?」

 明子は自分の体に聞いてみた{貴方はどうだったの?私の心を引っ張るの?それとも前よりは耐えたの?}そう聞いてみるが、体は何も答えてくれない。あぁ、もしかしたら、又元に戻って居るのかも、そうかもしれない、

以前よりも、深い快感がそれを物がたっていた。


 翌日に明子はサクラに早速報告した。再開したら必ず報告してと、言われていたので、何時ものコーヒーショップで待ち合わせした。

「明子どうだったの!」

相変わらずテンション高めで聞いて来た。

「うん、又飛んだの」

「又飛んだの!そうか。で、如何なのよ、明子の気持ちは」

「正直言うと自信無い、このまま関係続けたら私は絶対に祐樹さんの事、本気で好きに成ってしまいそう。昨日抱かれてその事が解ったの」

 予想していたのか、サクラの表情は(あーあぁ)と成っていた。

「自信無い?随分はっきりと言うね、あれ程ヤレ書物だの、ネットで調べてみるだの言っていたのに、何も効果は無しって事?」

「そう、駄目、抱かれると、本当に如何にか成りそうよ」

「そんなに良いんだ、近藤さんの行為」

 明子は如何にもと頷く。その目は昨日の事を思うだけで焦点が定まらない。

「最高なの、私の体の事良く解っている。それも昨日は以前より更に激しくてね、もう終わったらこのまま溶けて無くなりそうだった」

 明子は(はーぁ)と思いっきり息を突く。

「そりゃ、2ヶ月ご無沙汰したら、男は野生の動物だよ、例えるなら消防士が手を離した消火中のホースだよ」

 サクラはその仕草を真似する、余りに表現が、的確なので明子も噴き出す・

「その表現止めて、可笑し過ぎるよ」

 動かすその手を明子は止めさせる。

「上手いでしょう、色々見ているからね私は」

「でもどうしよう、又暫く様子見ようかな」

「私は反対だよ、プロとして言わせてもらうけど、本気で好きに成ったらお終いだよ。

近藤さんには、私から話すから、事情が有って担当を代わりたいと。でもそうしたら、大魚を逃がす事に成るのか、近藤さんのお気に入りは明子だもんね、他の子では指名は入らないかな」

「そう思う、祐樹さんは私の子供達の面倒を見たいのが第一だから、その他の子では多分誰も指名しないと思う」

 サクラは深い溜息を点く、諦め切れないと言った顔つきだ。

「そうか、まあしょうがないか。だとしたら

明子には他の顧客探さないとね。仕事は続けるのでしょう、そうしないと困るのよね、今でも」

「うん、勿論、お願いする。お姉さんお薬が効いて大分状態が快方に向かっているの、変な言い方だけど、寿命が延びたって事だから、まだまだお金必要だから」

「そう!解ったよ、じゃあ諸々今決めた内容で行くか」

 落ちかけていたテンションを上げる様に、サクラはテーブルに(パン!) と手を付いて立ち上がる。

「うん、それとやっぱり祐樹さんには私が直接言うから。大事にされた分恩が有る、人任せにしたら失礼だから」

「明子が大丈夫ならいいけど、出来るの?」

「うん、やる、これだけは、約束したから、

だから任せて」

「うん、解ったよ」


 翌週の月曜日、明子は祐樹に話しが有る件を日記に記した、内容については何も触れずにして置いた。

ただ一言、金曜日、奉仕の後に少しだけお話ししたいので、時間が欲しいだけとした。


 金曜日、今日の祐樹は先週よりはソフトに攻めて来た、それはきっと明子の体を労わっての事だろう。その分明子も普段より冷静で居られた。又、今日が最後に成るからとの思いが、興奮する事にブレーキを掛けている様だった。そのお陰で、明子はこの日初めての体験をする。

何時も通りに一線を越えて、記憶が飛びそうな頃に意識に変化が有ったのだ。それは不思議な感覚だった、まるでもう一人の自分が冷静に乱れる自分を見ている様だったのだ。 

そう、もう一つの意識が体の中で存在して、激しく行為する自分の事を感じとっていたのだ。明子は初めて乱れた自分を確認した。

{恥ずかしい、こんなにも私は淫らだったのか}そう思える位に明子は激しかった。

それに呼応して祐樹も激しさを増して行く。{祐樹さんが激しいのは、自分に原因が有ったのね、祐樹さんは私の求めに答えてくれたのね}

それが解っただけでも収穫だった。明子はそう思うともしかしたら、この感覚を維持出来たら、心まで引っ張られている自分を自制出来るのではと思えて来た。

次はもっと冷静になれる、この感覚忘れないでいよう、そうだ、そうすれば何とか成りそうだ。だとしたら今日話そうとした事、祐樹から担当を外れる事は暫く様子を見てからにしてみよう、そう決めた。


 事後の後に何時もの静寂を楽しんでいた、

祐樹は時計を見る、時間を気にして明子の方を向いた。

「お話しが有るそうだけど、何かな?」

 明子は咄嗟に他の話題を考えた。例の件、今日は無しにしたからだ、何を話して誤魔化そうか考えた。

「そう、あの、実はお話しの件、春奈の事なのだけど。以前浩二にスマホ手配して頂いたでしょ、あれを春奈も欲しいと言っていて、ぶしつけなお願いだけど、もう一台手配して貰ってもいいかな」

「何だ、そんな事かい、態々お話しと書いて有るから、もっと大切な事かと思ったよ。

それなら日記に書いてくれれば良いじゃないか。お安い御用です、アレと同じ機種でいいのかな」

「はい、お願いします」

 何とか誤魔化せて安堵した。ところが次は祐樹に話が有るとの事、その顔が真剣な面持ちなので、それなりに重要案件と思われた。

「そう、何から話せば良いかな。そうだな・・・・」

 祐樹は何かを順序立てている様子だ。

「・・・昔猫を飼っていました」

 突拍子も無い話題に明子は(へ?)となる。

「猫ですか?」

「まあ聞いて下さい、その猫は軒下で母親の野良猫が生んで、一匹だけ置き去りにされていました。余りに可愛くて、可哀そうだからと、両親にお願いして、飼う事になりました。私が幼稚園児の頃です。帰宅すると真っ先に駆け寄って来て、頭を足にスリスリするのです、よく懐いてくれていました」

「まあ、可愛いですね」 

 祐樹の顔がほころんでいた、その顔を見るだけで、その愛らしさが想像できた。

「本当に可愛くて、愛おしくて、風呂にも一緒に入り、毎晩一緒に寝ていました。寝顔が大層キュートで、世の中にこんなに可愛い動物が居るのかと、毎日が楽しくて堪りませんでした」

 優しさが解る逸話だ、その頃からなのだろう、祐樹のこの性格が培われたのは。

「有る時、堪らない感情を抑えられなくて、

猫の耳から顔にかけて、ガッブと噛んでしまいましてね。そしたらビックリした猫に顔を引っ掛かれました、痛かったな、あれは」

「まあ、噛んだのですか」

「はい、我慢出来ずにね」

「でも、それ解ります、その行動、私にも似たような事、有りました、私の場合は好きな男の子の気を引こうと、ワザと叩いたり、蹴ったりしていました」

「似た行動ですよね。でも、それ以来私が度々猫を噛むものですから、母が心配して、病院へ連れて行かれました。まあ、医者の見解は知れていますけどね」

「何て?そのお医者さんは」

「愛情表現だと、それがこの子は噛む事ですね、と」

「まあ、何も忖度無い意見ですね」

「その診断結果を受け、母はそれ以来私に、

{猫ちゃん噛むの駄目!}とキツク言いつけられました」

「微笑ましい事ですね」

「でもね、それ以来、その癖は治りませんでした。だから、私は嫁が、美鈴が生きている頃は、美鈴との行為の時に良くアイツの乳房を噛みましてね、その度に叱られました{痛いじゃないの!}当たり前ですね」

「それは、美鈴さんも痛かったですね。でも、その癖が解っていたら、噛まれた美鈴さんきっと喜んでいたのでは無いかな」

「そんな事有りません、真剣に怒っていましたよ、{私は食べ物では有りませんよ}と言って噛む度に御立腹でした」

「そうかな、私なら旦那がそういう癖が有ると解っていたら、痛くても嬉しいと思いますよ、心底そう思います」

「そうですか、明子さんはそう捉えてくれますか」

 祐樹は何かを思い詰めだす。

「それでね、実は今日と先週に明子さんを抱いていて。その・・・・噛みたくて仕方なくなりました」

「え?それって」

 祐樹は暫く黙っていた、何かを話そうとしているのが解った。明子は期待も有り、不安も有り、複雑な心持になった。

「そう、貴方に惹かれだしています、ここ2ヶ月の間に、その思いに悩んでいました。先週も今日も貴方の乳房を噛みたくて堪りませんでした」

 何とした事だ、祐樹が私に惹かれているとの告白だ、明子の心は乱れた。

「では、それはつまり」

「愛しています、堪らなく、明子さんを愛してしまいました。申し訳ない事です」

 祐樹はベッドのそばに立ち上がり頭を下げて

謝った。

「止めて、謝るなんて」

「いいえ、実はこの2ヶ月間、貴方の存在が愛おしくて、恋しくて、溜まりませんでした。

何より、私は最低な事に貴方の旦那さんに嫉妬していました、出来るなら奪いたいと」

 明子は困惑した、まさかの祐樹からの告白だ、自分も惹かれていた様に、祐樹も自分を好いていたのだから。

「今日も奪いたいと思いました、そうしたら旦那さんを気にする事無く、貴方の乳房に歯を立てられる、そう思うと心が苦しくて、耐えられないでいました」

 祐樹はすまなそうな顔をした。

「でも私は貴方の家庭を壊す気は有りません、

あんなに幸せそうな家庭を。

あの子供達の笑顔をみたら、そんな事出来る訳が無い。貴方をあの子達から引きはがす事など出来る筈が有りません」

「祐樹さん、御免、気づかずに居た私も悪い」

 明子は立ち上がり祐樹を抱き寄せた。

「明子さんは悪く無い、私が悪いのです、勝手に貴方に惹かれてしまい、自分の心を統制出来ない私が悪いのです。それで相談があります」

 何か、どんな相談なのか?祐樹の言葉に注目した。

「今日で最後にしましょう、この関係、もう終わりにしたいのです」

 祐樹の申し立てに明子は動揺した、先程迄は自分が言おうと思っていた案件だが、一旦撤回した自分が、まさか祐樹から言われるとは予想外の事だったからだ。

「終わりですか」

「はい、もう我慢出来無いのです、これ以上明子さんを抱いたら、いずれ私は貴方を奪いたくてしょうがなく成る、でもそれは出来ない事だから、耐えねば成らない、私はそんなに強く無い。きっと耐えられない。だから、

早いうちに別れた方が得策なのです、申し訳ない、情けない私を許して下さい」

 強い意思を感じた、明子は黙って小さく頷いた。

祐樹と離れるのは明子にも辛い事だ、

でも諸々考えると、この判断は受け入れた方が良いと思った。自分の事を考えると尚更だった。いくら今日新たな感覚を知ったとは言え、明子もこれ以上抱かれ続けたら、好きに成らないと言う保証は無いのだ。

明子もその事を思うと、祐樹の申し出を受ける事にする。

「解りました、その様にしましょう。私に依存は有りません」

「本当にすまない、勝手を言って」

「では、今日でお暇を頂きます、二度と此方へは伺う事は有りませんね」

 明子の言葉を受け、祐樹はもう一つ提案が有ると申し出る。

「実は、その、家政婦の仕事はこのまま続けて欲しいのです。

でもその間、此処へ貴方が来ている時は、私は決して帰宅しません、貴方に触れたり、直接お会いもしません。ですが、料金は今まで通りに支払います。駄目でしょうか」

 思いもよらない祐樹の提案だった。

「でもそれでは、祐樹さんは何も得をしません」

「良いのです、最初に言いましたね、私の一番の目的の事、貴方の子供達の事、それがメインです、貴方のご奉仕はオマケです、オマケは無いのが当然です。

何より私の家族が生きて居たら、普通に出て行くお金です、それを明子さんの子供達に使うだけです、同じ事なのです、結果誰かを育てている、そういう事です。

ですから、お願いです、私の提案飲んで下さい。但し今まで以上に子供達の事、色々日記で報告お願いします」

「祐樹さん、良いの、それで、本当に良いの?」

「はい、お願いします、私に生きる楽しみを分けて下さい」

 明子は祐樹に縋り着いた、何て優しい人なのだろう、こんなにも愛情に溢れて子供思いの人は滅多に居ない、明子は別の意味で祐樹に惹かれ始めていた。


 翌日午後、立川駅近くの公園にて、明子とサクラがラテを片手に会話していた。

「明子本当にラッキーだよ、あんなに良い人いないよ」

「本当にそう思う」

「それに、恋愛関係は実現出来ないけど、告白までされて、何て羨ましい。いい男に出会う運でも有るのかな、私にも少し分けて欲しいよ」

 溜息交じりに話すサクラは明子に視線を向けて、手の平を出して物乞いの真似をする。その手に明子は空の合いの手を乗せる、

何も無い事を確認して言葉を続けた。

「こればかりはね、分ける事は出来ないの、だから諦めて」

「まあそのお陰で上客逃さないですんだから良いか」

「上客?その言い方よしてよ」

「そうね、お得意様ね」

「それ」

 二人は手にしたラテを飲みながら、話しを続けた。

「でもさ、本当に奇特な人だよね、ご奉仕無で子供達の為にでしょ。まあ事故でご家族を亡くして寂しいのも有るとは思うけど。そうか人生の楽しみね、他人の子の成長でも、そう思えるのって凄いよね」

「そうなの、私も昨日はその事で心を掴まれたの、グッと来たって感じで」

 握りこぶしを自分の胸に当てる、その顔は明らかに惚れた女の顔だった。

「あれ、その顔!もしかして明子それヤバいのじゃない、グッと来たのでしょう、そういう事から恋心とかって始まるよ、気を付けなよ」

「うん、解っている。だからあの人も会わないでいようと言い出したのだから。私も用心して行く」

「そうしてね、好きに成って会いたいとか思わないでね」

「うん」

 二人の会話は更に続いた、アレコレ話している内に、サクラが又溜息を点いた。

「はーあ、私にも良い人いないかな、何でも文句言わずにお金を恵んでくれる人がいたらな。会社畳んで、その人の愛人でも良いよ」

「あんたはその考えがいけないの。それに金蔓ならもう沢山居るでしょ」

「まあね、金蔓では無いけど、居るにはいるか、お得意様が」

 サクラはおもむろに肩を揉む仕草をして、明子に何か無い?と見つめていた。

「あれ?その仕草って、マッサージ?て?まさか、それって」

「そう、祐樹さんの弟の祐二さんの所へ派遣で行っているの、ワ・タ・シ」

「ちょっと待ってサクラが何で、経営者でしょう?サクラ体は売ってないと話したよね、なのに如何して?」

「そうだけど。あの時丁度マッサージの資格持っているの、私しか居なくてね。

しょうがなく一回切のつもりで行ったのよ。そうしたらさ、まあ、祐二さんイイ男でね、祐樹さんはそれなりにイイ男だろうけど、祐二さんは正真正銘のイケメンなの。

それにお兄さんに劣らず床上手でね、私我を忘れてついつい本気に成ってご奉仕したら、それ以来ずっと指名が入ってね、気に入られたのよ」

 サクラの話を聞いて明子は立ち上がる。

「何なのよ、この関係!教えてよ、最初に」

「御免、いずれ話そうと思っていたの、だから今話したの、秘密にしなかったでしょ」

 何時もの能天気な顔で、しれっ、と言う。

「でもね!」

「良いじゃないの、でね、お願いが有るの」

「何よ、変なお願いならお断りよ」

「別に変なお願いじゃないよ。・・・あのね、明子から祐樹さん経由で私の事、祐二さんに売り込んでくれないかな。あの子なら良い奥さんに成れるとかさ、最悪愛人でも良いから、お願い!」

 サクラの自分勝手なお願いに明子は無碍も無く断る。

「駄目!絶対に!サクラはお金でしょ、幾ら祐二さんの御気に入りでも、それとこれとは別問題!絶対にお断り」

「なんだ、ツレナイな、明子、そこを何とか、

駄目?」

「駄目!」

 明子はそう言い残して、サクラを置いて立ち去った。


 二人の新たな関係が始まった。明子は最初すまない気持ちも有ったが、日記に残す子供達の事に一喜一憂する祐樹の返事を読み、

その気持ちも無用だと気づいた。

本当に祐樹は私の子供達の事を好いてくれている。それを思うだけで嬉しかった。

 祐樹からの返事で明子の心を掴んだ事は、子供達の演奏会についてだった。

何か有れば必ず行くと申し出が有り、小さな会場での催しでも、観る事が出来るなら教えて欲しいと懇願された。

明子は何か有る度に必ず知らせた、祐樹も知らせが有る催しには必ず来てくれた。その際も祐樹は会場で明子と鉢合わせのない様に変装までして、明子に気づかれない様に細心の注意を払った。

そのお陰で明子は会場にて祐樹の姿を認める事が殆ど無かった。仮に認めても以前にした約束通りにお互い無視を貫いた。

しかし余りに姿が見えないので、それが不思議で祐樹に質問しても、祐樹からの返事は{私は影の存在ですから気になさらずに}だった。


 そんなやり取りを続けて行き一年が過ぎた。

明子の下の子の浩二も高校2年の冬を迎え

ていた、その浩二の催しが有ると聞き、祐樹

はこの日も演奏会に来ていた。

会場は比較的大きなホールだ。何時もの様に変装をして、祐樹は会場内を散策していた。 

その目先に明子達親子を認めた、いつか見た通りの幸せそうな姿だった。

「あぁ、良かった、あの姿、いつ見てもほのぼのする」

 祐樹は柱に体を隠して、まるで探偵の様に明子達を見ていた。

「浩二君この間よりも随分背が伸びたな、高校生だから今が成長期だから当たり前か。

春奈ちゃん又一層美人に成っている、実の親なら悪い虫がつくかと心配に成るな、自分の子でなくても、何か有ったらと不安に成るのだ、文彦さんの心中を察するに相当心配だろう」

などと、祐樹は一人呟ブツブツ言っていた。これだけでも祐樹は心の隙間が満たされた。  

他人の子とは言え、子供の成長を見られる事が、そしてその手助けを出来ている事、それが無上の喜びだったのだ。

だから祐樹はどんなに仕事が忙しくとも、その仕事をキャンセルして、催し事には来ていたのだ。そしてこの日は知り合いを誘っていた、馴染の銀座の楽器屋の主人と待ち合わせをしていたのだ。

その主人が現れた、背中越しに声を掛けて来た。

「近藤様、お久しぶりです。ん?何ですかそのお姿は」

 見慣れない恰好の祐樹を見て、眼鏡に手を掛け上から下へ視線を移す。

「あれ?変装しているのに解りましたか」

「はい、背中のお姿は変装でも隠せません、

一目で解りましたよ」

 祐樹は自分では自信が有った変装に少々落胆した。

「で、今日は楽しみにしておりました、若い子の中で将来有望な方が居られるとの事ですが」

「ああ、それなのだけど、私は素人ですからね、貴方の耳で判断して欲しくて。

上手いのは私も解るのですが、その先は、そう将来性はどうなのかが問題ですから。  

是非貴方のご判断を仰ぎたくてね、死んだ私の息子の代わりと思って頂いて構いません、良く聴いて判断して下さい」

「お知り合いの方のご子息と伺いましたが」

「そう、あれです、あそこの家族の男の子です、見えるでしょう」

 柱から微かに頭を出してその先を指し示す祐樹を、店主は明らかに不審がる。

「はい、処で何故隠れていますか」

「それは色々と事情が有ってね、後で説明しますから、そっと覗いて下さい」

 言われるがまま、店主も柱越しに覗いてみる。

「かしこまりました。で、あの子ですか、ははあ、成程、可愛いお顔の方ですな、あの隣に居るのがお母さまですね?・・・おや、・・・あれは確か」

「え?知り合いですか」

 店主は明らかに何か心当たりが有る表情だった、何かを必死で思い出している。

「ええと、確か・・・そうだ!白石さん白石明子さんですね。あのお顔、面影が有りますね、美人でしたから、思い出しました。

あの隣に居るのが娘さんですね、ははあ!成程そうですね、そう間違い無い。あの娘さん、若い頃の白石さんに瓜二つだ」

「白石?それは旧姓ですね。そう下の名は明子です、知っているのですか」

 切っ掛けを掴んでから、店主は過去の記憶が蘇って来たようで、すらすらと明子の過去を語りだした。

「勿論です、あれは確か25年程前になります。あの時も私はこうして高校生のコンクールに来ておりましてね、あの頃の楽しみは、才能有る若い子を発掘する事でした。白石さんは、それはもう大変な才能の持ち主でしてね、あの頃の賞は総なめでしたよ」

「そんなに凄い人だったのですか」

「はい、将来を嘱望されていました。ですが

有る時を境にパッタリと姿を消しましてね、

それ以来表舞台では、二度とお目にかかれませんでした」

「有る時、何時頃ですか」

「大学に入学して直ぐでしたね。気に成って私も色々知り合いの伝手を頼りに、その後の動向を調べたのですが。何でも手首に炎症を抱えて、完治せずに奏者を諦めたそうです」

「そうでしたか、そんな事が有ったのか、それは無念な事だったでしょうね」

 店主は顎を撫でながら、当時の明子の心情を察していた。

「ええ、奏者が怪我や病気で演奏出来無いと成ると、死の宣告に値します。その後彼女がどんな人生を送って来たか迄は知りませんが。

暫くの間は気には成っていましたよ、あの子は今どうしているのかとね。・・・・そうですか、あの白石さんのご子息ですか、それは大変楽しみです、今日お招き頂き感謝です」

 二人は一通りの会話を済ませて会場に入った。

 浩二の演奏が始まった、祐樹は普段通りに黙って聴き入った。楽器屋の主人は目を瞑り瞑想している様に聞耳を立てていた。時に頭を振り、耳に手を宛てる。余程気に入ったのか、最後の方は一人頷いて、納得の表情を浮かべていた。

演奏が終わり、会場を後にして二人は近くのバーで談笑していた。

「どうでしたか、あの子の演奏は、早く感想をお聞かせ願いたい」

 祐樹にせがまれ楽器屋の主人は{うーん}

と何とも表現し難い唸りを絞り出す。

「正直に言います」

「はい」

「腕は最高です、あの御年であれだけ表現力が有るのも凄いですが、やはり血なのですかね、母上の影を感じました」

「そうですか、それでその将来は?何か意見は有りますか」

「申し上げにくい事を言っても良いですか」

「ええ、良いとも、お願いします」

「亡くなった近藤様のご子息との比較です」

「友則との比較ですか?」

「はい、友則様も大変将来有望でした、ですが、今日の子はその比では有りません」

「それはつまり、それ程では無いと」

「いいえ、逆です、友則様が敵に成らない程、今日の子は将来有望です、こんな比べ方をして友則様に申し訳ないですが、対象として解り易いと思いまして、失礼を承知で比較させて頂きました」

「何ともないよ、そんな事、では、あの子は楽しみなのですね」

「はい、応援なさるなら、大変宜しいかと思いますよ、ですが」

「ですが?何か気になる事でも有りますか」

「はい、気に成りましたのは、今お使いのバイオリンです。あの品では何れ限界が来ます。腕が同レベルなら、良い楽器をお持ちの方に分がありますから。アレは多分練習用かと思います。腕が良くても戦うにはこの先不安ですね。楽器が見合っていないと、台無しですから」

「そうか楽器か、ではこの先何か手を打たなくては成らないか」

「そうですね、あのお品は恐らくですが、50万もしないでしょう、高校生のうちはあれでも良いですが、あれ程の腕です、大学では少なくとも、プロ用とまでは言わないでも、セミプロ用の品をお持ちに成っても良いと思います、充分それに見合う腕前です」

「それはあれかい?私が以前息子にしたためた位の品かい?」

「そうですね、あれ位欲しいですね。直ぐにプロに匹敵する腕に、御成りに成りそうですから、それ以上でも問題無いと思います。まあその時は私にご相談下さい、きっと良い品をご用意します」

 店主は如何にも任せて下さいと言わんばかりに、大きく胸を張って見せた。

「はい、解りました、その時はお願いしますよ、ご主人!」

「はい、了解いたしました」

 二人は持っていたグラスを掲げた。


 明子は昨日の演奏会の事で、祐樹が何を記しているのが楽しみだった。昨日の浩二の出来が良かったので、明子はきっとお褒めの言葉に溢れている事と想像していた。仕事に取り掛かる前に先に日記を手にした。

{明子さん、昨日の演奏会、大変有意義に過ごせました。

実は贔屓にしている銀座の楽器屋のご主人に御同行を願いまして、プロの耳で浩二君の腕、判断して貰いました。

評価は満点です、亡くなった友則も足元にも及ばない位に将来有望だそうです。凄い事です。あの主人は辛口です、あの人の評価ですから太鼓判です。

そして実は明子さんの事も聞きました。白石明子、これが貴方の旧姓ですね、高校生の頃の事お聞きしました。そして将来を嘱望されていたにも関わらず、その道を断念した事も。

貴方が子供達の事、夢を追いかける事を大事にしているのも、頷けます。当時の明子さんの心中を察すると、心が痛みますね。

又浩二君演奏も凄かったけど、身長伸びましたね、以前は確かお父さんと同じ位でしたが、昨日は確実にお父さんより大きかったですね、雨後の竹と子供の成長は早いと言いますが、本当ですね。

それと春奈ちゃん、高校生の時の明子さんに瓜二つとご主人が話してくれました。春奈ちゃんがいたのが、白石明子の決め手になりましたよ。

春奈ちゃんの髪型は、あれは明子さんがお手本ですね、似合っていました。本当に将来が楽しみな子達です、夢実現する為にも、大切にして行きましょう。

                  以上

祐樹より

 相変わらず愛情あふれた内容だった、祐樹の本音が詰まっていた。子供達の細かな変化迄ちゃんと観察してくれている。明子は読むだけで祐樹が日記を書いている姿が想像出来た。

「祐樹さん、本当に自分の子供の様に思ってくれているな」

 明子は衷心より感激していた。それに引き換えて、明子は最近の文彦に不満が有った。

お姉さん思いなのはしょうがない事、何しろ余命は短いのだから、その為に時間を割くのは許していた。

でもお姉さんの為に仕事は休んでも、この頃は子供達の為には殆ど休みを取らずにいたのだ。何も全ての催しに来てくれと依頼してはいない、でもせめてもう少しは時間を作って欲しかった。

昨日も説得してどうにか連れて行った位だった。祐樹と立場が違う事は解る、祐樹は社長だから仕事を抜けたり調整したりは自由だろう。文彦は雇われている身、時間に制約が有る事は重々承知してはいる、でも余りにその差が有り過ぎる。

祐樹は自分の子でも無いのに、あんなに気に留めてくれている。それなのにと思うと遣る瀬無い気持ちでいた。

「あの人自分の子供の事なのに、私任せで何もしない、もっともっと構って欲しいのに、

どうしてなの」

 明子は文彦に対する不満で溢れていた、以前はあんなに大切に思っていたが、最近の子供達への対応で、文彦に対する気持ちが少し薄く成っていた。別に嫌いに成った訳では無いが、どうしても祐樹の振る舞いと比べてしまう。

そのせいもあり、この頃は祐樹に対する思いが確実に増して来ているのが自分でも理解出来た。

「会いたいな、少しだけでも良いから」

 明子が想いに耽っていると、突然スマホの呼び出し音が鳴る。

電話の主は文彦からだった。こんな時間に何?と怪訝に思いながら、明子はスマホに出る。

「はい、私です、何か有りましたか」

「御免仕事中なのは解っている。今病院から電話が有ってね、姉さん容態が急変したらしくて、至急に来てくれと。俺も向かうから、明子も来てくれ」

「本当に!解った、今日の仕事は勘弁して頂くから、私も直ぐに行きます」

「悪い、頼む」

 明子は電話を切ると直ぐに、サクラに電話を入れ、要件を祐樹に伝えてくれるようにお願いした。ついでに暫くは様子を見る為に、休みが欲しい事もお願いする。祐樹宅を出る前に日記にも、姉の件でご迷惑をおかけしますと簡単に記した。


 病院へ着くと、既に文彦は到着していた。

「お姉さんの容態は?」

「何だか、合併症らしくて、腎臓とかその辺が危ないらしい」

「腎臓?それで今は」

「緊急の手術中だ、でも、さっき主治医に言われたよ、覚悟して下さいと」

 文彦の顔色が急に暗くなる、不安の心が一目で伺えた。

「それで?お姉さんは?」

「あぁ多分持たないだろうと、手術の負担に体が持つかどうかなのだけど、姉さん、大分弱っていたからね」

 文彦は項垂れていた、覚悟はしていた事と言え、最愛の姉さんを失う事が、相当ダメージを与えているようだ。

「貴方、しっかりして、お姉さん良く此処迄頑張って来たじゃない。今度も又頑張ってくれるよ、きっと大丈夫だよ」

「そうなら良いが・・・そう願いたいよ」


 後日姉咲子の葬儀が執り行なわれていた。

文彦の願いも空しく、咲子は天に召された。

来場の弔問客に文彦は泣きながら対応していた。

人付き合いが少なかったお姉さんらしく、

弔問客は僅かだった。この点に明子が気に成る事が有った、文彦との披露宴の時と同じで、

来客に殆ど親戚筋が居ない事だ。何かの事情が有るにせよ、幾ら何でも少なすぎる、冠婚葬祭と言えば大事な集まり事だ、余程敵対する事とか、嫌がらせでも受けない限り、片手で収まる訳が無い。式の後で明子は落胆する文彦にそれと無く聞こうと思った。


 お清めの会食が終わり、式場で文彦が咲子の亡骸を見つめていた、その後ろから、明子は気を使い近づいた。

「貴方、大丈夫?」

「あぁ、うん、見てみろ、良い顔している、本当に安らかに寝ているようだ」

 花に埋もれている咲子の顔は、例えようが無い穏やかさを持っていた。

「そうね、最後の死に顔にその人の生き様が出ると言う人もいるけど、姉さん良い顔ね」

「そうだな、姉さんの人生は本当に大変な人生だったからな。俺の為に自分を捨てた人生だから、最後位は良い顔でないとな」

「貴方、そこは、自分を責めないで。最後は貴方がこうして看取って上げているじゃない。

それでお姉さんもこの顔に成れたと思うよ、

だから、そんなに・・・ね、貴方」

 明子は文彦の肩に手を宛てて、その肩を撫でる。文彦もその上に手を乗せる。

「あんなに泣いたら、流石にもう涙も打ち止めだな、もう大丈夫だ、すっきりしたよ、諦めも付いた」

「そう、それなら良かった」

 明子は今聞くべきか、後にするべきか迷いだす。こんな場面で聞く内容では無いか、また今度にしようかと悩んでいた。

すると、明子の雰囲気から何かを察した文彦が聞き返して来た。

「何か有るのか?聞きた気な顔しているぞ」

「うん、でも今は良い」

「何だよその言い方、気に成るじゃないか、

良いから聞いてくれ」

 文彦の顔が先程よりも落ち込んで無い事を

確認した明子は、思い切って聞いてみた。

「あの、実は、親戚筋の方、私達の披露宴の時もそうだったけど、少な過ぎない。私達の時は良いとして、お姉さんの葬儀だよ、幾ら何でも失礼だよ、伯父さんとか伯母さんとか従姉妹とか居るでしょう。その人達が来ないから、私来てない親戚の方々に一言文句を言いたいの」

「その事か、良いのだよ、来なくて」

「どうして?私達の式の時はあれでしょう、実母さんが義父さんの作った借金が原因で、お亡くなりになったから、親戚同士が一悶着有って、顔を合わせづらいからだったけど。今回は別でしょう、責めてご焼香位は上げに来るのが礼儀じゃないの、私の言う事間違っている?」

 明子は自分のいう事が道理に合っていると自信が有ってなのか、かなり怒り心頭なのが伺えた。文彦は気持ちを察して明子の手を握りしめた。

「そうだな、お前の言う通りだ。でもな、解ってくれ、それも姉さんの希望なのだ、誰にも知らせるなと。だから俺は良いのだ、姉さんの遺言だから」

 文彦はそれっきりこの事に関しては、何も言いたく無いと口を閉じてしまった。明子の心は雲が張ったモヤモヤ感だけが残った。


 火葬が終わり、明子家族はタクシーに乗り、自宅へ戻って来ていた。ここまで来れば、

葬儀の一通りは終了だ。落ち着いた処で、今後の事について話合いをしていた。

「此処迄済めば、諸々終わったね、後は細かい事有るけど、これからは少し落ち着けるわね」

「あぁ、そうだな、本当に色々面倒かけた、

お前達も伯母さんの事、面会に行ってくれて有りがとう」

 祐樹は子供達に相対してお辞儀をした。

「お父さん、それをするのは私達にでは無いよ、お母さんにしてよ!」

「そうだよ、母さんが一番大変だったのだから」

「ああ、そうか、明子、本当に有難う、お前がいなかったらと思うと、俺は本当に感謝の言葉しか無い」

 改めて向かい直して明子に頭を下げる、下げられて普段は直ぐに止る明子が、この時は何故か止める気に成れずにいた。それは最近子供達に対して、文彦の無頓着振りに、少々不満が有ったからだ。 

「貴方、これからはもっと、子供達に時間を作って下さいね。お姉さんの為に休みを取るからと、控えていたのだから。これからはもっと子供達の事真剣に考えてね」

 明子のこの言葉が心外だったのか、文彦は憤慨した顔で明子に言い返して来た。

「何だよ、それ、俺は何時も子供達の事真剣に思っているぞ」

 文彦の反論に明子は沸々と怒りが湧いて来た、我慢成らずに言い返した。

「真剣?それ本気?それなら、そうだ、浩二この間の事、母さんに不満漏らしていた事を言って上げなさい」

 浩二はモジモジしている。

「何だ?俺が何かしたか?浩二、父さんに言いたい事が有るのならハッキリ言いなさい、怒ったりしないから、さあ早く!」

 浩二は目線を逸らしてボソリと呟く。

「あの、この間の演奏会の時だけど」

「何だ、良かったぞ、とても上手く弾けていたと思ったぞ。良く練習していたからな、父さんだってチャンと聴いていたから、演奏の出来不出来位は解るぞ」

「それ、今初めて聞いたよ。演奏の後、電車でもずっと寝ていて、父さん疲れてるのかなと思ったけど。家に着いても何も感想話してくれなかったよ」

「そうだったか?それは悪い事をした。父さんも悪かったよ。でもそれ位だろう」

 明子は未だ有るのと今度は春奈に声を掛けた。春奈は言いたい気持ちが有り有りの顔だ。

「お父さん、この間の私の髪型覚えている」

「髪型が如何した、似合っていたぞ」

「似合っている、それだけ?」

「それ以外に何を言われたいのだ?・・・そうか、御免、流行りの髪型だったよな、あれは本当に似合っていたよ」

春奈は憤懣遣る瀬無い顔に成る・

「やっぱり!何も解って無いよ!・・あの髪型、お母さんにセットして貰ったのよ。あれ若い時にお母さんがしていた髪型で、お父さんの御気に入りだったのよ。それで、あの日久しぶりに家族4人で出かけるから、お父さんが好きな髪型を私にしたいとお母さんが言ってくれて・・・それなのに家を出る時から帰るまで、全然気づかないじゃない。お父さん、最近仕事大変なの解るし、伯母さんの事とか有って気苦労していたと思うけど、昔のお父さんはもっと気づいてくれていたよ。私の事、浩二の事、お母さんの事」

 文彦は3人に言い寄られ、返す言葉が無かった、下を向いて黙ってしまった。

 明子は春奈が話している間、そうだ、そうだと頷いていた。他人の子供の事でも大事にしてくれる祐樹と比べ、文彦は何て不甲斐ない親なのかと、祐樹はちゃんと感想を述べてくれる、春奈の髪型の変化にも意識がちゃんと向いている、それなのにと思うと、どうしても我慢成らなかった。

「貴方、ねえ解るでしょう、気づく人には解るのよ、細かな変化を見逃さないのよ」

 明子は無意識に祐樹を例えの引き合いに出してしまう、おかしな言い方が文彦を捉えてしまう。

「気づく人?誰の事だ」

 明子は一瞬心の中で{あ!}と叫んでしまう、ここは何時もの機転を利かせた。

「私よ、私は子供達の細かい変化を見逃さない、それを言いたいの」

 上手く逃げられた、明子は少しトーンを落として文彦に言いよる。

「貴方の事が心配なのよ、だから私と同じ位は気づいて欲しいの、ね、お願い」

「そうか、悪かった、父さん駄目だな、これからはもっと真剣にお前達を見るよ、約束するから、どうかこれからを見ていて欲しい」


 その夜ベッドで文彦が横たわり、背中をむけて寝ていた。明子は寝ている者と認識して黙って布団に潜り込んだ。

「明子」

 文彦は起きていた。

「どうしたの、起きていたの」

「子供達の事すまん、改めて謝るよ」

「良いのよ、もう、さっき言いたい事は言ったし、謝ってくれたでしょう」

 謝る文彦の背中に手を宛て(トントン)と軽く叩く。

「そうか、そう言ってくれて有難い」

 明子の視界にベッドの先にかけて有るカレンダーが入る。

「そうだ、私も来週から仕事に行かなきゃ、

大分休んだからな」

「その事だけど、何時までやるのだ」

「何時まで?」

「だってそうだろう、姉さんもう亡くなったのだぞ。お前が仕事行かなくても、大丈夫になるのだぞ」

 そうか、そうだった、もう仕事を続ける意味は無い。それはつまり祐樹との事は終わりと言う事に成る。明子はこの事実に初めて気づいた。

「そうか、そうだよね、仕事止めて良いんだよね」

 明子は布団をかぶりこの先如何にするかを考えていた。如何しよう、今私はあの人に確実に惹かれている、体以外に、あの人の心根の優しさに。文彦の事は愛している、それも間違い無い事だが、最近の文彦に不満が溜まっていた明子の気持ちは自分でも統制が効かない。祐樹と離れたくない、細い道でも良いから何か関係を持っていたかった。


 明子はサクラと何時ものコーヒーショップにて、今後の事を相談していた。顔は暗く落ち込んでいる様子が伺えた。

「そうか、どうしたもんかね、旦那の稼ぎそんなに良いの?」

「うん、家族4人なら私が働かなくても充分暮らしていけるの」

「お姉さんの治療費の為だったからな、明子が働く理由は。そうか、続ける理由ね、それなら先方から請われているとか言ったら?」

「それは、誰か代わりを宛てれば良いだろうと一蹴されてお終いよ。あの人は私が子供第一なの一番解っているから。その私が子供達の為に時間を造れる様に成るのに、仕事を望んだら不審に思われるよ」

「そうかー、でもさ、明子、祐樹さんの事、本気で好きに成ったの?」

「うん、旦那には悪いと思うけど、旦那も好きよ、不満は有るけど、愛している。でもね、子供達の事で、祐樹さんと旦那の事を比べている内に、体以外の部分で凄く惹かれて、自分でもどうしようも無いの、正直今すぐ会いたい位」

 サクラは諸手を上げて(あーあ!) と、リアクションする。

「それは、祐樹さんから駄目だしされているじゃん、会えないでしょ」

「でも、仕事に行けば、あの人が居た空間に居ると思うと、それだけでも心が安心するの、それに日記が有る、あれが今の私の心の栄養なのよ」

「あのさあ、それでだよ、仮に会ったとしたら、その先は?一緒に成れないよ、祐樹さんだってそれ解っての今の関係でしょう」

「そうだよね」

 明子は大きくため息をつく、

「厳しい事を言うけど、策は無いよ。それに

二人共に家庭を壊したく無いのでしょう、だったら、きっぱり今回で最後にするのが、良策じゃないかな、何度も言うけどさ、心まで奪われたらプロ失格だよ!」

 冷たく言い放つサクラ。流石に仕事に関しては明子より冷静だ。

「そんな、サクラ、何か考えてよ。都合の良い話だと思うけど、私・・・二人共失いたくないの、両方とも愛している。勝手な事だけど、それが本音なの」

 明子の身勝手な言い分に、流石にサクラも

呆れてしまう。呆れついでに冗談半分に大胆な事を言って、諦めさせようとする。

「だったら何か言い訳して仕事続けて、割り切って、二重生活するしか無いよ。旦那も好き、でも祐樹さんも好きって。その場合は旦那には嘘ついて。祐樹さんがそれで納得したらだけど。まあ、話を聞く限りそんな事を了解するような人とは思えないけどね」

 サクラが話した事を明子は真剣に考える。

「二重生活か、悪くない、でもその為には言い訳が必要か、仕事を続ける言い訳か」

 真剣に受け止める明子を見て、サクラは飲んでいた物を噴出した。

「ちょお!ちょっと、明子!冗談で言ったのよ。何真剣に受けているのよ」

「冗談なの?」

「当たり前でしょ!幾ら私でもそんな事提案しないよ。まさか明子が真に受けるとは思わなかったよ」

 サクラが横で話をしている間も明子の頭の中で、二重生活の事が引っかかっていた。もしかしたらと。 

 結局帰り際にサクラからは、次のシフトで終わりにしようと言われた、諦めが付かないでいたが、解決策が無い現状、サクラに従うしか無かった。


帰宅した明子は夕食の支度にとりかかる。

支度中も何か手は無いかと思っていた。

明子は台所から家の中を見回して、あれこれ考える

「もし、この家庭を壊さずに祐樹との関係を今より先に進められたら、家族にバレずに祐樹とも関係を持てたら」

そんな勝手な事を思っていた。でも、その考えが頭を過る度に明子は頭を振った。

「駄目、そんな事、例えバレなくても、祐樹さんが許してくれない、祐樹さん自身が話していた、自分の物にしたのなら、私の体に歯を立てると。でも旦那がいたらそれは出来ない、出来ないのなら自分の物にはしない」

明子は自分の中で答えに行き詰まる。 


 祐樹が自宅でパソコンに向かい、趣味の動画を鑑賞していた。その時、スマホが鳴る、サクラからだった。

「はい、あぁサクラさんか」

「あの、明子の件でご報告が有りまして、メールでは何かと思い、お電話しました」

 覚悟は出来ていた、明子の義理の姉が死んだのだ、もう働きに出る理由は無い。きっとその事だろう。祐樹は遂に別れの時かと落胆した。

「明子さんの件ですね、解ります。終わりと言う事ですね」

「はい、次のシフトで、それでお終にしようかと」

「次ですか!そんなに急に」

 そうか、そんなに早くか、一気に落胆した。

「はい、明子とも相談しましたが、働く理由が無いのです。実は明子は本心では、未だ働きたいそうです、その理由は祐樹さんです。

明子本気で祐樹さんの事を好きに成っています」

 サクラからまさかの報告だ。何だって?明子さんが私の事を好きに成っているだと。祐樹の心は震えていた。

「え?まさか、私を好きに?でも旦那さんは?旦那さんの事は何と?」

「勝手な事と思います、旦那さんの事、勿論愛しています。でも祐樹さんの事も愛していると。二人共失いたくないそうです。本当に自分の我が儘だと明子も悩んでいました。祐樹さんの優しさが、特に子供達に対する愛情が、他人の子で有るのに、まるで自分の子の様に一喜一憂する祐樹さんの事が、その姿勢に明子はすっかり心を魅了されたみたいです」

 そうだったのか、明子さんは俺の事を本気で愛してくれていたのか。祐樹は嬉しさが有ったが、複雑な気持ちでいた。

何れ別れなければいけない関係、それは解っていた、でも自分が愛して堪らなくなり、二人の距離を取った、それなのに今はお互いが惹かれている。

でもそれは成ってはいけない関係だ、あの旦那さんから明子さんを奪う事は、イコール家庭崩壊だ。そんな事をしたら、子供達はどうなる、不幸になるのは明白だ。出来無い、やはりそんな事。祐樹はこれで最後にしようと、心に決めた。

「サクラさん、事情は分かりました。私と明子さんが恋仲に成るなんて、出来ません。それは私が一番解っています。でも最後に明子さんの気持ちを聴けて幾許か、心が慰められました。・・・サクラさんの言う通り次回のシフトで最後にしましょう」

「はい、申し訳ございません。ご希望が有れば他の子を手配いたしますが」

「それは、お気持ちだけで、ご遠慮します」

「はい、そうですか、了承しました」

 電話を切り祐樹は来るべき時が来たと、諦めた。

リビングへ行き、日記を開き、明子にサクラからの電話の件を記す。最後に、色々有難うとして〆た。


 月曜日、祐樹は帰宅するなり日記を開いた、

昨日記した事に対しての、明子の返事をいち早く確認したかったのだ。

{祐樹さんサクラから私の事、お聞きになったのですね。本当に勝手な事で申し訳ありません。祐樹さんの事真剣に愛してしまいました。家庭が有る身で本当に不潔な女ですね、

きっと祐樹さんは軽蔑している事でしょう。

「軽蔑?まさか、そんな事」

 仕事の事、今回にてお暇させて頂きます。

ですが、最後に一度だけ、直接お会いして、

お別れを言いたいのです。どうか不憫な女の最後の願いと思い、今週の金曜日お時間を下さい。潔くお別れをさせて頂きます。

                 以上

                明子より

 祐樹は日記を読み終わり、ソファーにドカッと座り込む。

「はー、そうか終わりか、仕方ない。お互いが惹かれてしまったら、これ以上この関係は続けていけないだろう。最初から解っていた事なのに、俺は諦めがついていない。女々しい男だな」

 踏ん切りがつかない祐樹は、何か遣り方は無いかと考えた。

お互い顔を合わせないでいてこの状態だ。だとしたらいっそ顔を合わせても良いのでは?お互い好いているのなら、割り切って関係を続けても、やって行けるかもしれない。

旦那さんの事は解かっているのだ、自分が納得して関係を続ければ、それで良いのでは?でも、やはり駄目だ。それは元の木阿弥だ、一層深く入り込んでしまう。

元より、働く理由が無いのだ。雇用関係が有るからこその関係だ、それが無い関係は正真正銘たんなる不倫でしかない。

駄目だ、断念しよう、そうするしか無いのだ。祐樹は断腸の思いで決断した。

 祐樹は日記に金曜日の件、了解したと記した後、大して何も書く気に成れず、それだけ残して日記を閉じた。


 最後の金曜日、明子は気持ちを抑えられずに、早々に祐樹宅に到着していた。時間迄未だ一時間も有る、明子は家の中の祐樹の痕跡を隈なく見届け、その度に頬を涙が流れた。

「勝手な事なのに、私が自分の都合で好きに成ってしまったのに、何で泣くのよ、このバカ女!」

 明子は鏡に映る自分の顔を引っ叩く、そんな事をしても、何も感情は収まらなかった。

 最後に寝室にやって来た、祐樹との熱い思い出の詰まったベッドに横たわると、祐樹の匂いがした。忘れられないあの香りだ。明子は自分の体が段々熱く成るのを感じた。

「あ、この感覚、何だろう?」

 こんなにも自分の体が火照るのを経験した事が無い、何が起きているかと困惑するが、その火照りはジリジリと体の中心、そう子宮の辺りへ集中して来た。

「待って?何?これ、何なの?」

 困惑する明子の意識を無視して、それは、

子宮を刺激した、中から熱い物が流れ出た。

既に明子の股間は愛液でビショビショになっていた。

「あぁ、如何しよう、止まらない、それに、

熱い、あそこが。祐樹さんが欲しい」

 あそこの感覚がウズウズして、居ても立っても居られなかった、明子は狂いそうだった。

そして明子の脳裏を思いが過る{今日が最後、最後なのだから、今日だけ、今日だけは抱いて欲しい}と、明子はベッドで蹲る。


 祐樹が帰宅すると、既に明子の靴が有った。到着済みを確認したら、リビングへ向かう。だが其処には明子の姿は無かった。

「あれ?トイレかな」

 祐樹はソロリソロリとトイレを覗くが、そこも人の気配は無い、書斎も、庭も見てみたが、何処にも姿を認める事は無かった。

「どこだ、どの部屋に居る?」

 吹き抜けに出ると、2階に微かに人の気配を感じた。

「2階の寝室か。

 祐樹は階段を登り、ドアノブを取る、開ける前に一言{入るよ}と声を掛けると中から小さな声で{はい}と返事が有った。何だ、此処に居たのかと、祐樹はドアを開けた。

すると其処には、一糸まとわぬ姿の明子が立ち竦んでいた。

「明子さん、その恰好は?」

 明子は俯いていた顔を上げた、頬には涙が確認出来た。

「御免なさい、何も聞かずに今日は抱いて下さい、お願い!」

 明子は抱き着き、祐樹の口に舌を入れた。祐樹は無言でそれに答えた。その後二人の時間が過ぎて行った、以前の頃と違うのは、互いに愛していると連呼している事だった。

そして祐樹は興奮のあまり、明子の乳房を噛もうとしてしまう、だが、直前になって止めた、すると明子は。

「噛んで、今日だけは噛んで良いの、思いっきり噛んで」

「良いのかい、旦那さんにバレたら」

「大丈夫、今日だけならバレやしない、だから噛んで!」

 明子に請われて祐樹は遠慮なく自分の愛の記を明子に着ける{痛い!}小さく声が出るが、その反面、明子は確かに愛を感じた、それは文彦では経験出来ない感覚の物だった。痛みと背中合わせで一体となり、痛点から明子の体を駆け巡る。明子は迷わず。

「もう一度、お願い!噛んで!」

 と叫んでいた。


事実はそれを受け取る人の立場によって、大きく変わるものだ。例えば大切な家族を失えば、それは失った家族には悲しむべき事柄だが、それが敵対するグループには喜ばしい出来事になるのだからだ。

一般常識では悪く言われる行為でも、それによって生きて行く糧を得る人にとっては、良い行為にさえ成り得るのだ。


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