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「サイラス、大丈夫よ。ただの水だしどうってことないわ」
「しかし……!」
「本当よ。ねぇ、ミリウス様」
私はサイラスを制して、ミリウスに向き直る。
「なんだ」
「私も自分がかわいそうだと思っていました。誰も彼も憎くて、どうして私がこんな目に遭わなければならないのかわからなくて、喚き散らしたくなったこともあります」
一度目の人生では、実際にそうしたのだ。王子に何度も納得がいかないと喚き散らし、果てはカミリアの暗殺まで依頼した。私にはその権利があると思った。
私は自分を哀れんでばかりいた。私を捨てたジャレッド王子が憎くて、私を陥れたカミリアが憎くて。
「でも、そうしたところで何も手に入りませんでした。もがいているうちに、本当に大切なものまで失ってしまったんです。とても後悔しました」
王子とカミリアへの恨みを忘れられなかった結果、私はサイラスを死なせてしまった。彼が生きているうちはその優しさに気づくことすらなかった。
そうなって初めて自分が本当に大切にするべきものはなんだったのかを知ったのだ。
「だから、もう気にしないことにしたんです。自分を哀れむのはやめました。公爵に見捨てられたと言っても私は衣食住足りた生活をさせてもらっていますし、命を脅かされることはありませんもの。
それに、婚約破棄以降色んな人が私から離れていきましたけれど……でも、王子を敵に回した令嬢から距離を取るのは仕方ありませんわ。それより、変わらない態度で接してくれる人を大切にしようと思うんです」
婚約者に裏切られたことも、聖女を陥れようとした嫉妬深い令嬢だと汚名を着せられたことも、今となってはどうでもいい。それで離れていく人がいても構わない。
だって本当に大切な人は、ちゃんとここにいてくれるんですもの。
言いきって顔を上げたら、ミリウスはぽかんとした顔で私を見ていた。サイラスもミリウスの従者たちも呆気に取られたように私を見つめている。
「お前、本当にエヴェリーナか?」
ミリウスが上擦った声で言った。
「エヴェリーナでなかったら誰だと言うんです?」
「いや、その……」
ミリウスはさっきまでの威勢はどこへやら、途端に歯切れが悪くなる。従者たちはミリウスの勢いが削がれたと見ると、慌てた様子で彼をテーブルから引き離す。従者の一人がこちらに頭を下げてきた。
「エヴェリーナ様、大変なご無礼をお許しください! 後日必ずお詫びに伺います!」
「行きますよ、ミリウス様!」
「あ、おい、離せ!!」
ミリウスは従者に引っ張られ、部屋の向こうに消えていく。ほっと息を吐くと、サイラスが駆け寄って来た。
「お嬢様、大丈夫ですか。冷たいでしょう。私がそばについていながら申し訳ありません……!」
「ああ、いいのよ。水くらい。サイラスのせいじゃないし」
「早く着替えましょう。風邪を引いてしまいます」
「そうね。さっきまで着ていた服があってよかったわ。……ちょっと、なんて顔をしているの?」
平気だと言っているのに、サイラスは泣きそうな顔をしていた。何度大丈夫だと言っても表情を緩めてくれない。
サイラスはすっかり落ち込んでいる様子だったが、それでも手早く店員に頼んで部屋を借りると、馬車から服を持ってきてくれた。
さすがにあの場に戻るのも気まずいので、着替えるとそのまま馬車に乗り込む。
馬車の中でもサイラスはずっと悲しそうな顔をしていた。
「ごめんなさい。せっかく楽しい日だったのに、最後で台無しにしちゃったわね」
「お嬢様は何も悪くありません! すべてあの愚かで短慮なミリウス王子が悪いのです!」
謝ると、サイラスはすぐさま否定する。それから、顔を曇らせて消え入りそうな声で言った。
「……何もできず、申し訳ありませんでした」
どうしてサイラスが謝るのだろう。王子の横暴に対処なんてそうそうできるはずがないのだから、落ち込むことはないのに。そもそもサイラスは王子相手に止めに入ってくれたではないか。
「そんなことないわ。サイラスは止めてくれたじゃない」
「しかし」
「私は気にしてないから、サイラスももう気にしないで」
そう言って笑ったら、サイラスは何か言いたげに口を開いた後、黙ってうなずいた。
「ねぇ、サイラス。私がどうして気にしないでいられるかわかる?」
「……わかりません。お嬢様はもっと怒ってもいいと思います」
サイラスは真面目な顔で、そうきっぱり言う。
「サイラスがそうやって私の味方をしてくれるからよ。ほかの人がどう言おうがどうでもいいって思えるの」
そう言ったらサイラスは目を見開いた。
「……私はいつだってお嬢様の味方です」
「ふふ、知ってるわ」
そう言って笑ったら、ミリウスに絡まれて水までかけられた直後だというのに、なんだかまた楽しくなってきた。
サイラスは心配そうな顔をしていたけれど、私は屋敷に着くまでずっとにこにこ笑っていた。





