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少しずつ旦那様の部下が増えて様々な負担や心労が軽くなると、旦那様の人相もさらに改善されていった。何より、最初に微笑みを見せてくれたあの日以降もたまにあの表情を見せてくれるようになったのだ。雰囲気が柔らかくなったというか、初めて会った時は本当にピリピリしていたんだなあと思い返す。
「いやあ、奥様のおかげですよお。僕も最近肌の調子がいいんです」
「よく寝られているからでしょうか?それともストレスが減ったから?」
「両方ですね!やっぱ旦那様のプレッシャーがすごいとそれだけで胃が痛いんで」
クリフも旦那様をずっと支えてきて大変だったのだろう。二人は乳兄弟なので生まれた時から一緒だと言っていた。
「私よりもクリフの功績の方がきっと大きいですよ。旦那様もクリフのことをとても信頼されていますもの」
「そう言ってもですね、旦那様のきっかけになったのは奥様ですよ」
「きっかけ?」
それ以上クリフは教えてくれなかった。しかし気になる。
ところで、ここのところ私は寝る前に旦那様と少しの時間を共にしていた。
きっかけはうっかり部屋の花瓶を落として割ってしまったことだった。すると部屋の入口とはまた別のドア――つまり、主寝室からつながっているほうのドアが開いて旦那様が入ってきたのだ。
「大丈夫か!?」
「……は、はい」
そのドアの存在をすっかり忘れ去っていた私は何より旦那様が部屋に入ってきたことに驚いた。何せ寝間着だったし、人前に出られる格好ではなかったのだ。それから慌てて謝った。
「申し訳ございません。お屋敷のものを壊してしまい。どう弁償すればよいでしょうか」
何せ私は嫁いできた身であるので、文官として働いていたところで給料なんてものはもらっていないのだ。実家に請求するわけにもいかないので、どうすればいいのかと困ってしまった。借金をするにしてもこのままでは返済する当てがない。
しかし旦那様はどこか怒ったようにこう言った。
「弁償などする必要はない。それより怪我はしていないか」
「はい。怪我はしていません」
「ならいい。君も疲れているのだろう、責めるつもりはない。むしろ仕事の管理ができていない私の責任だ」
それから旦那様は使用人を呼んで割れた花瓶を片付けるように命じた。一方で私は、掃除の邪魔にならないようにと旦那様が入ってきたドアを通って主寝室に連れてこられてしまった。
「あの……?」
夜に男性の部屋に招かれるとは思わず――まあ昼に招かれたこともないのだけど――私は困惑した。妻としての役割を求められていないので、そういうことはないと思う。私を責めないと言ったため折檻するつもりもないのだろう。所在なく佇んでいるとソファに座るように言われて慌てて腰を下ろした。
ソファの前の机には書類が散らばっていた。まだ仕事をしていたのだろうか。もしかして、私に何か仕事の話があるのかもしれない。
「すまない。散らかしていたな」
私の視線に気がついたのか、旦那様は書類をまとめて端に寄せた。……あれ?仕事の話をするんじゃないの?
「カーペットを取り換えるので少々時間がかかるようだ。茶でも飲んで待っていてくれないか」
「旦那様がよろしいのでしたら……」
「ではそうしよう」
すぐにお茶の準備がされて、こんな夜分に申し訳なくなった。淹れてもらった紅茶には蜂蜜が入っていて寝る支度を終えていた体がぽかぽかと温まる。旦那様との話題はここ最近の気候の話から結局仕事に関係ある話につながっていったが、私はだんだんと眠気に抗えなくなっていた。会話が途切れたタイミングで瞼が重く落ちる。
「……ベリンダ嬢?」
旦那様の声で呼ばれてもうまく反応できない。私はそのまますとんと意識を失った。
その翌朝は自分の寝台で目が覚めたので、夜の出来事を思い出して私は頭を抱えた。戦々恐々と尋ねてみるとやはり旦那様が私を部屋に運んだらしかった。
「ご迷惑をおかけしました……」
「いいや、疲れていたのだろう。今日は休むといい」
「そんなわけには参りません。どうか仕事をさせてください」
失態を挽回するためにその日の私は一心不乱に仕事にのめり込んだ。
そしてその夜、あのドアが今度はノックされたのだ。
「旦那様?」
ドア越しに呼びかけると、くぐもった声で「ああ」と聞こえる。
「開けても構わないか?」
「はい、どうぞ」
寝間着の上にガウンを羽織って答える。部屋に入ってきた旦那様が手にしていたのは数冊の本だった。
「どうなさいましたか?」
「以前君が郷土史を知りたいと言っていたことを思い出してな。これは祖母の日記なのだが」
「まあ」
私は日記をつけるマメな人間ではないが、旦那様のお祖母様は違ったらしい。そのお祖母様は私のように辺境の外から嫁いできたので苦労したらしい、と旦那様が説明してくれた。
「外から来た人の意見も面白いと思ったんだ。よければ読んでみるといい」
「ありがとうございます」
二言三言交わして旦那様は戻っていった。立ったまま会話をしていたので、お茶を準備すればよかったかと気づいても後の祭りだった。
それから旦那様はたびたびあのドアをノックして私の部屋に来るようになった。最初はお祖母様の日記の話をしていたが、少しずつプライベートの話もするようになっている。例えば旦那様が幼い頃に亡くなられたお祖母様は穏やかな人柄だったが、怒ると恐ろしい人だったとか、そんな感じだ。
私も家族の話をしたが、アンジェリーナのことは有名だし、特に面白い思い出はない。ただ旦那様は婚約破棄を突きつけられたアンジェリーナの話を聞いて「あの王子はダメだな」と嘆息していた。
さて、そんなわけで私は旦那様と以前よりは雇用主と従業員、上司と部下の関係性から一歩仲を深めていた。友人と言うのは烏滸がましいが、それに少しだけ近づいていると思う。
なので、クリフが口をつぐんだ「きっかけ」についても尋ねてみようと思ったのだ。
「旦那様、最近雰囲気が柔らかくなったと思います。クリフは私がきっかけだと言っていたのですが、どういうことなのでしょう?」
「クリフは相変わらずよく喋る」
訊いてみると旦那様は顔をしかめた。それが怒っているのではないというのはわかる。旦那様はクリフにすぐ苦い顔をするが、本当のところは弟のようにクリフを可愛がっていた。まあ、乳兄弟なので実際はクリフの方が生まれは早いのだけど。
「訊いてはいけないことでしたか?」
わざとそう言うと旦那様はまた眉間のしわを増やした。
「いいや、クリフには助かっている。あれのように他者の懐に潜りこむことは私にはできん」
「旦那様は表情が怖いのです。だからではないですか?」
「……見た目で舐められるよりはいいだろう」
なんと。旦那様の人相が悪い理由がそうだったとは。言われてみれば若くして爵位を継いだ旦那様はその若さで侮られることもあったのかもしれない。人相の悪さの原因は半分くらい過労によるものな気がするが。
「前よりはマシになったと自分でも思っているんだが。ああ、そうだな、確かに君がきっかけだ」
旦那様は頷いて私をじっと見た。それからおもむろに口を開く。
「君が来るまで、なんというか、あまり他人を信じることができなかったんだ」
「お家のことで大変だったのでしょう。他人をすぐに信じる、というよりはよいかと思いますけれど」
その例があの王子だ。男爵令嬢の嘘を信じきっている姿は見るに耐えなかった。責任ある立場のひとは疑り深いくらいがいいと思う。
「それにしても、だ。人手が足りないのに他人を雇うことができないせいで仕事が回らなくなっていた。全て自分でこなせばいいとも思ったが、私は過労で倒れかけたこともたまにあったしな」
そういえば。私が屋敷に来たばかりの頃、旦那様が倒れたと騒いでいたことを思い出した。本人は「仮眠をとっていただけだ」と言い訳をしてまたすぐ仕事をこなしていたので追求はしなかったけれど、やはり倒れてしまうくらい追い詰められていたのだろう。
「君を信用したのは君が他に行く場所がないと分かっていたからだ。それを差し引いても君はよく働いてくれてた」
「お役に立てたのならよかったです」
「ああ」
実際私はこの稼業にかなり向いていると思う。妻としての役割を求められていない以上領政が落ち着いたら適当なところで離縁されるのだろうけれど、できればその後も雇ってはくれないだろうか。この屋敷に置いておくのが嫌とかならさらに地方の都市に派遣してくれればいい。
まあ、その都市でも女性を文官としてこき使う旦那様のような上司に恵まれることはないのだろうけれど。
「君が信用にたる人だったおかげで、他の人間も信じてみようという気になったんだ。だから君がきっかけで、私の仕事量が減ったというのはクリフの言う通りだ」
「そうでしたか……」
私の今の身の上を差し引いて信用されていると言われるのは単純に嬉しい。私も旦那様のことは信用のおける人だと思っていて――少なくとも妹や両親、元婚約者よりははるかに好ましかった。
「冬の間はあまり動かせる仕事がないが、暖かくなると急に忙しくなる。その前にもういくらか人員を増やすつもりだ。君にも教育を担当してもらう」
「私にですか?私はまだここに来て一年も経っていないのですが」
「なに、そう難しいことではない。君は優秀だしな」
かすかに口角を上げた旦那様に「信用している者にしか頼めないのだ」と言われてしまうと断る気も失せてしまう。むしろ頑張ろうと思えるので、旦那様はなかなか人たらしじゃないだろうか。人相で損しているような、そうでないような。
「それに君の肩書きがあれば心配もいるまい」
「肩書き、ですか?」
何かあっただろうかと首を傾げると、旦那様は一瞬目を見開いてからおそるおそる口を開いた。
「君は伯爵夫人だろう」
「…………、ああ!そういうことですか。はい、そうですね」
すっかり部下気分だったので咄嗟に出てこなかった。危ない危ない。旦那様と呼んではいるものの、クリフや他の使用人だってそうなのでそういう意味では全くなかった。
旦那様はきっと私のような小娘では相手が言うことを聞くかというところを危惧していたのだろう。そこで伯爵夫人という肩書があれば舐められることは多分ない、と。そういうふうに振舞ってこなかったので威厳とかはさっぱりないのだけど。
「そういうことか……」
「はい?何かおっしゃいました?」
「いや。暖かくなってひと段落着いたら海にでも行こうと思ってな」
「旦那様は海がお好きですものね」
急な話題転換にとりあえず頷くと、旦那様はなんとも言い難い表情をしていた。